10. scopo
三上先生が去ってから、誰もいない教室に移動した千鶴はゆっくりとヴァイオリンを構えた。まだいまいち安定しない。ヴァイオリンを構えるためにつける肩当ての角度や高さは人それぞれ、千鶴はまだ自分がどのようにすればいいのか把握できていなかった。
とりあえず音階を弾いてみる。
(ド、レ、ミ……だめだ……!)
G線からD線への移弦の次のミの音程がうまくとれず、そのままファも外してしまう。
――まだまだだった。
千鶴のヴァイオリンは人に聴いてもらう以前に、曲にすら入れるレベルではない。メヌエットを弾いても音程はそこまで良かったとは言えないし、第一親の前で弾くのと見知らぬ人の前で弾くのは違う。親なら音程が外れても、音が悪くても大目に見てくれるが、それ以外の人にはそんな甘い考えは通用しない。
「何、期待してたんだろう……」
メヌエットで先輩に上達が速いとほめられたから?それとも漫画とかみたいにあっという間に上達すると思い込んでいたから?
いずれにせよ、静かな教室でじっくり聞いた自分の音色はとても人様に聴かせられるようなレベルではなかった。
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「ちーちゃん、落ち込んでたね」
千鶴が別の教室でひとり音階を弾いているのを聞きながら、湊太がぽつりと言った。
「まあ、三上が言っていたのもわからなくはないんだけどねえ……」
夏がため息半分に言う。
確かに初心者に一人一パートの合奏は厳しいものがある。まず曲以前の問題で、実力の7割程度が発揮できればいいほう、ほとんどは緊張のあまり実力の半分も出し切らずに終わってしまう。音楽教室の発表会のように、周りがみんな楽器を勉強している途中で聴衆もそれを承知の上で来ているわけでもない。
「でももったいないと思うんだよねー」
「え?」
湊太の言葉に香が首をかしげた。
「だってどう見たってちーちゃん、素質あるのに」
ここで立ち止まらせたらおしまい、と湊太は続ける。
「うちの親も言ってたんだけど、ちーちゃんって基礎練習をコツコツ続けるタイプではなくて、まずあの曲を弾きたい!っていう強い気持ちが先行して、その曲を弾くために技術を身に着けるっていうタイプだと思うんだよね」
楽譜を読むのが苦手な千鶴ではあるが、その代わりに耳がよく記憶力もあるので、聴いた曲を記憶し、楽譜を見ながら正しい音を出すのが得意。小さいころから音楽をやっていたわけではないので絶対音感はないが、相対音感はあるらしく、始めの音が正しければそれ以後の音も正しく弾くことができる。
「でも問題はあがり症のほうだから、早いうちに簡単な曲で舞台度胸を付けてくれればと思って」
湊太の言葉に夏もうなずく。
「で、まさか三上にあんなこと言われちゃうとはねー」
ちーちゃんのヴァイオリンを知らないからなんだよ、と夏。
「あの子自分が音外したとか、結構細かく気が付くからすぐに伸びると思うんだけど」
どうしたものか。
実際に解決策は誰もがわかっていたが、あえてそれを誰も口にしない。押し付けでは意味がない。千鶴本人がその気になって、自分から言い出さないことには――
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キャッツのメモリー。
やってみたかった。
千鶴はまだ曲を聴いていなかったが、とにかく曲を弾きたかった。基礎もできていないのに曲なんて、と思うがそれでも合奏の楽しさを忘れられるはずがない。音が重なり合って、きれいに混ざり合った瞬間の感動。一人では絶対に味わえない幸せがあった。
「うまく、なりたい……!」
そのためにはどうすればいい?
まだまともに音程もとれないのに文化祭まで時間はそんなに残っていない。できるかはわからない。でも、どうしてもやりたかった。今までこんなに強く何かをやりたいと思ったことはあっただろうか。
そう思っていると、千鶴は自然に自分が今何をすべきかわかってきた。何かを考える前に体が勝手に動き出す。
「先輩!」
片手にヴァイオリンを持ったまま、ほかの部員たちがいる部屋へ駆け込んだ。
「私に、メモリー弾かせてください!」
自分でも驚くほどはっきりと言えた。
「先生が言うとおり、私はまだまだだけど、どうにかうまくなって演奏できるようになりたいんです!がんばりますから、教えてください!」
がばっと頭を下げる。
――言ってしまった。
「あー、それいつ言い出してくれるかなっておもってたんだよ」
湊太がうれしそうに言ったのを引き金に、ほかの部員たちのほっとしたような声が聞こえ始める。
「意外と行動はやかったねえ、ちーちゃん」
笑いが止まらない様子の夏に、頭をぐちゃぐちゃーと乱暴に撫でられる。
「当たり前でしょ、文化祭までに上達して、三上を見返してやろうじゃないの!」
覚悟してよね、と目を光らせる夏に、千鶴は大きくうなずいた。