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マドンナ

作者: 柴野弘志

                       ★


『LINEとか電話で告白したほうが緊張しないし、もしフラれた時に気まずくないからいいな、なんて思ってませんか? いえいえ告白するときは直接会って告白しましょう』

 ――何を今さら。

 ユースケは当然とばかりにニヤリと笑みを浮かべた。

 カタツムリのようにこたつに入って、スマホに映る美人ユーチューバーを食い入るように見ている。

 こたつの上には、スープの残ったカップラーメンが数時間前から置いてあり、空になったペットボトルや食べかけのポテトチップスの袋、丸めたティッシュなども散乱している。サラリーマンの怠惰(たいだ)な休日である。

 あとひと月で四十を迎えるこの男の、いかにも不健康な生活を(とが)める者は誰もいない。

 八畳一間の暮らしは、もう十年になる。入居当時は新築だったこの部屋も、すっかり物が増え、雑然としている。悠々(ゆうゆう)自適(じてき)とも言えるし、怠けるに任せた暮しとも言えた。 

 手元の画面に映し出されているのは【サチのモテ()養成講座】というYouTubeチャンネル。元ナンバーワンホステスが、五万人もの男と接客してきた経験談から、モテる男の秘訣を指南するチャンネルである。

 開設されてから二、三年ほど経つが、早い段階でこのチャンネルを見つけ、登録をしてアップされた動画を欠かさずに観ている。

 動画主のサチはタレントと遜色ないレベルのルックスを持っているが、目の保養という目的以上に、動画内で語られる〈女性はコレをされるとキュンとする〉〈モテる男が必ずやっていること〉〈この会話ができれば彼氏候補〉と、モテるための恋愛テクニックを真摯に学ぶ目的の方が強い。

 ユースケには、付き合いたいと想いを寄せる女性がいた。通っている店のキャバ嬢でモナという二十歳の娘である。

 キャバクラを始めてまだ一か月の新米キャバ嬢で、彼女が入ったその日からすぐに気に入り、この短い期間で何度も通い詰めた。そして、その甲斐もあってモナをデートに誘うことに成功した。

 もちろんデートの誘い方も、この【サチのモテ男養成講座】から学んでいる。

 なにしろデートの約束を取りつけるのも一苦労で、その第一関門を突破できたのは、偏にサチの指南のおかげだと思っている。

 〈告白を成功させたい必勝法〉とタイトルのついた動画がアップされたのを見て、他の動画に目もくれず、すぐにタップした。まさに今、学んでおきたいノウハウだった。

 このチャンネルの良いところは、サチの経験則から語られるのみならず、心理学を学び、それに基づいて女心がどのような状態にあるのかを解説してくれている点である。ただの感覚的な話に終始するだけでなく、心理的根拠や裏付けがあるのは非常に心強い。

『目の前で告白されると断りにくくなります。断って関係が悪くなったり気まずくなったりしたらイヤだなと、不安になったり罪悪感が生じたりします。相手が目の前にいることでその心理的負担がかかるので、断りにくくなるわけです』

 ――そんな効果があったのか。

 ユースケが考える直接告白する理由は少し違っていた。

 正面切って「好きだ!」と言えば、女性はその衒いのない言葉に心が揺れて、成功率が高まるものと考えていた。本気で付き合いたいと思うのなら、ちゃんと目を見て言わなきゃ、本気さが伝わらないだろうと。

 いずれにしても、直接告白すること以外に考えていないので、これは問題なかった。

『告白は食事デートの後にしましょう。美味しい食事をしながら話すと相手に好印象を与えやすくなります。美味しい食事は快楽感情を生み出し、その場にいる人と結びつけてしまいがちです。その結果、素敵な話だったな、魅力的な人だなと相手に好感を持たせることができます。そういうわけで、食事した後に告白した方が成功率は高くなるでしょう』

 ――言わずもがなだな。

 告白までの流れで、どれだけ盛り上げていけるかが告白成功のカギになるのは、十分承知している。

 そう考えれば自然と、美味い飯を食って、美味い酒を飲んで、この人と一緒にいて楽しいなと思わせてから告白する流れになるだろう。これも定石である。

『ムードのある場所で告白することが大切です。告白する場所も重要なポイント。周りがざわざわしていたり、明るくていろんなものが目に入ると、相手は意識が散漫になりアナタに集中できなくなります。静かで暗い場所であれば相手はアナタに集中します。それに、暗い場所にいると目の瞳孔が開きます。人は恋をしている相手を見ると瞳孔が開きます。するとそれを見た相手も、脳が勘違いを起こしアナタに恋をしてしまう可能性があります。また瞳孔が開いていると魅力的に見えるという研究結果もあります。ですから、告白するときは静かで暗い場所を選ぶといいでしょう』

 これもユースケは心に決めている場所があった。ズバリお洒落(しゃれ)に整備された港である。

 繁華街の灯りを遠めから望めて、かつ暗すぎないように小さな街灯が散らばっている。ベンチがそこかしこにあり、たゆたう波の音と薄闇に隠れてカップルというカップルがイチャイチャのし放題。これほど女心をくすぐる格好の場所はない。

 ただ、瞳孔が開くと魅力的に見えるというのは新情報だった。これは意識しておく必要があるなと、ユースケは瞳孔を開こうと何度も目をひん()いた。

 サチの心理的解説は、しばしばユースケを誤った解釈へと導く。

 瞳孔の開閉は己の意志でできるようなものではない。だが、ユースケは敬愛するサチが言うのならと誤った形で鵜吞(うの)みにし、デートの最中は瞳孔を開こうと考えているのである。

 これだけではない。

 例えば、『建物に入るときや車に乗るときは、ドアを開けてエスコートしてあげましょう。女性は気遣いをしてもらえていると感じると、アナタを魅力的な人だと思うようになります』とサチが言えば、行く手を(さえぎ)る位置に立ってドアを開けるものだから、女性は狭いところを窮屈(きゅうくつ)そうにすり抜けて入る。

『彼女と二人で歩くときには、男性は車道側を歩いてあげましょう。そうすることで女性は守られていると感じられるようになります』と言えば、守ろうと意識するあまりグイグイ距離を詰めるものだから、女性はどんどん端へ追いやられユースケと板挟み状態になったりするといった具合だ。

 サチのアドバイスを忠実に実行してはいるのだが、ユースケの手にかかると見事なまでにズレが生じる。もちろん、ユースケはアドバイス通りにやっているので、モテ男ポイントは上がっていると思っているのである。

 ここまで語られた告白のポイントだけではどうも物足りないと、ユースケは感じていた。

 そんなことではなく、もっと確実に成功させるための裏テクニックを知りたい。これをやったら付き合いたくなるという極意を教えてくれないと意味がない。

『告白をするときは、相手の左側から告白しましょう。ある研究結果によると、右耳から話しかけられた時と左耳から話しかけられたときでは、左耳の方が感情的に聞こえて内容も記憶に残りやすかったと言います。ですから、公園などで告白するときには相手の左側に座って告白するといいでしょう』

 ――こういうこと! 

 これぞまさに極意というヤツである。こんなことを知っているのは、サチのように心理研究をしている人間か、よっぽど告白の仕方を心得ているヤツだけであろう。

 振り返れば、告白の時はちゃんと気持ちを伝えようと真正面を向いていた。これがいけなかったのか。

 来月で四十になるユースケは、人生で彼女と呼べる女がひとりもいなかった。

 恋愛に奥手というわけではない。

 これまでにも好みの女性には積極的なアプローチを試みてきたが、一度も実を結んだことがないだけなのである。それゆえ、彼女が欲しいという想いは切実だった。

 四十を前にした独身男が、パートナーを求めれば”婚活”になるであろうが、ユースケにとっては”婚活”より”恋活”の方に感覚が近い。

 今でも求めているのは結婚よりも恋愛。結婚を求めていないわけではないが、それはどうしても恋愛の先にあるものにしたいのだ。

 要は、イチャイチャしたいのである。

彼女とどこかへ食事や飲みに行くことはもちろん、遊園地、映画館、海や川といった場所に遊びに行ったり、旅行に行ったりして、イチャつく。たまにケンカなんかもしては仲直りをし、二人の関係を深めて、またイチャつく。同棲して一緒にご飯を作ったり、風呂に入ったり、ゲームをしたり、生活を共にして、いつでもどこでもイチャつくことが最大の夢なのだ。

 しかし、思春期に恋心が芽生えてからこのかた、その夢を叶えてくれる女性がいない。いくら追い求めても儚く散り続けた。散った分だけ、より想いは強くなり、年甲斐もなく彼女が欲しいのである。

 中学・高校時代からモテない自覚はあった。背が低く、肥満体型でおでこは広め。そこに年々毛深さが加わり、コンプレックスとなった。 

 それでも運動はそれなりにできる方で、野球部に所属していたことで体育会系のノリを覚え、コンプレックスを笑いに変えることができた。

 そのおかげで、クラスでも部活でもムードメーカーとして認知され、好感を持ってもらえる活路は見出せた気がした。

 ただ、その頃は恋愛に奥手で、気になる女子はいたものの告白をして付き合うなどという勇気は持てなかった。

 大学生になって、周囲の友達が彼女や彼氏を作るようになると、それに刺激されて積極的に彼女を求め行動するようになり、サークルやバイト、それから合コンなどで出会いの場を広げた。

 ムードメーカーの役割を担うのは、どこであれ、それほど難しいことではなかった。それゆえ、盛り上げ役としては重宝され多くの飲み会に参加していたと思う。

 ただ、グループでは盛り上がるものの、二人きりのデートとなると話は別なのである。

 飲み会の席で話が盛り上がり、勢いで「今度○○行こうよ」と言うと、「いいね! みんなで行こう」と返ってくる。「いや、二人で行こうぜ」と食い下がれば、「予定が合えばね」と言われ、その予定が合うことはない。

 合コンにしても「どんなタイプが好き?」と訊けば、「面白い人」という回答が必ずある。そして自分の持てる力をフルに発揮し、「面白い人」認定を受ける。

 だが、そこまでなのだ。

 数多くの出会いを重ねて、デートまでこぎつけることができたのは、たったひとりだけ。一縷(いちる)の望みを繋いだかのように見えたその女も、結局、告白してフラれた。

 面白いヤツが好きなんじゃねーのかよと、何度心の中で罵ったかしれない。 

 社会人になり、二十代後半に差し掛かると今度はキャバクラに彼女を求めるようになった。

 キャバクラはとてもよかった。これほど素晴らしい場所は他に見当たらない。

 なにしろ、距離が近い。初めて会うのに、いきなり隣に座って、肩が触れんばかりの距離で酒を飲めば簡単に好きになってしまう。

 話せば盛り上がるし、嬢によっては軽いボディタッチまである。「今度はいつ来るの?」と連絡があれば、女の方から求められていると思ってしまう。

 デートの回数も依然に比べて格段に増えた。ただし”同伴”と言って、キャバ嬢の出勤時間前に落ち合って一緒に来店する前提のもと、デートする形が多い。この”同伴”はキャバクラのオプションなので別料金を支払うことになる。

 もちろん、キャバ嬢の休日にプライベートのデートもしたことだってある。

 全て営業利益を上げるための建前だと分かっていても、デートとなれば男の本能が勝って舞い上がってしまうのだ。

 だが残念なことに、デートの度に必ず告白をするのだが、成功したことは一度もない。

 あまりにフラれ続け、女が断ったすぐ側で涙を流したことも一度や二度ではない。特に酒が入っていると涙腺が(もろ)くなりやすい。

 心の傷を増やし、それを癒しにキャバクラへ出掛け、新たな嬢に慰められて、また好きになる。このループにかれこれ十年以上もハマり続けている。




                   ★

 

 明日にデート決行を控えた前の晩。

 ユースケは、二十二時を回ったところで早々に布団に入った。

『告白の前は十分に睡眠を取る』

 これもサチの教えである。

 五時間の睡眠時間と八時間の睡眠時間を取った人では、八時間睡眠を取った人の方が四パーセント魅力が増して見えるという。

 目が活き活きとしている、声にハリが出る、(はだ)(つや)が良くなる、ほんのわずかな差ではあるものの、少しでも印象を良くしようと思うなら決して(あなど)ってはいけない要素だそうだ。

 今回の告白は、これまで以上に気合が入っている。

 なんとしてでも成功させたい。

 どういうわけか四十歳の節目は、人生の転換期のような気がしている。

 それは介護保険を徴収され始めたり、中年期という部類に属したりするせいかもしれない。

 なんにせよ、この節目を華々しく迎えるためにも、明日に向けてでき得る限りの準備を整え、盤石(ばんじゃく)の体制で望むべきなのだ。

 まず、明日の流れを確認して置かなければならない。

 待ち合わせは十五時に()(さき)駅の改札。

 ここで女を待たせるのはご法度。遅くとも三十分前には駅に着いてないとダメである。朝が早いわけでもないし、なんてことない。

 もっとも、どれだけ朝が早い待ち合わせであっても、デートなら三十分前に着くようにするだろうが。

 本音を言えば、朝から丸一日デートが良かった。

 だが、モナが仕事明けだと言うのだから仕方がない。酒飲んで接客をし、その数時間後にデート。こっちにとってはデートだが、向こうにとってはデートなのか――少なくとも完全プライベートというわけではない。

 例え、プライベートであったとしても、ロクに睡眠も取らず、酒が残った身体で遊びに出かけるのはしんどいわけで、向こうの都合を考慮することが正解であろう。

『初めてのデートで長時間のデートはやめましょう』

 サチもそう言っている。待ち合わせ時間はこれで問題ない。

 モナと落ち合ったら(はま)(がわ)美術館へと向かう。

 美術館、これが鬼門なのである――。


 モナは芸術に造詣(ぞうけい)のある娘だった。

 ユースケがそれを知ったのは、デートに誘う直前だった。

『デートに誘うときは相手の予定を聞いて、関心の強い場所を提案する』

 サチはそう言う。

 デートに誘う下準備として、モナのいるキャバクラに行き、どんなことに興味があるのか聞き込んだ。

「もし彼氏がいてデートに行くとしたら、どこに行きたい?」

 もう少し聞き方があるだろうと思う質問の仕方である。

「もし彼氏がいてってどういうことですか? 彼氏いないんですけど」

「仮にだよ、仮に。もしいたとしたら、どこに行きたい?」

「うーん、ルーヴル美術館展に行きたいですかね」

「ルーヴル美術館?」

 ユースケは店内の喧噪(けんそう)の中で、思考が一瞬止まった。

 このキャバクラであまりにも不釣合いな言葉に面食らったのである。

「お高いなぁ。なに? ルーヴル美術館? いきなり海外に行っちゃいます? ルーヴルねぇ、ルーヴル。ねぇ、ルーヴルってどこ?」

「なに言ってるんですか、違いますよー。ルーヴル美術館展。美術館のコレクションが浜側美術館に来てるんです」

「ああ。ああ、そういう感じの美術館ね! オッケー、オッケー」

 無知丸出しである。

 美術館とは想定していた範疇(はんちゅう)を大きく逸脱(いつだつ)した回答だった。

考えていたのはせいぜい、どこかに食事に行く、買い物に出かける、映画を観るなどそんな程度のものだった。過去においてキャバ嬢をデートに誘い出せた経験がそれしかない。

 同じ質問をしてディズニーランドと言う嬢もいたが、いざ誘ってもデートに結びつかなかった。貸切船でクルージングと言うものもいて、それは自ら手を引いた。

 ただ美術館は冗談を言っているのではないかと思うほど、このキャバクラでは馴染みがない言葉で、ユースケにとっても無縁のものだった。

「モナちゃんは美術館、好きなの?」

「はい。そんな頻繁じゃないですけど、たまに行ったりしますよ」

「へぇ、そうなんだ。ちなみに美術館以外で他に行きたいところはあったりする?」

「うーん……クラシックコンサート?」

「ああ。クラシックねぇ。他には?」

「あとは……お能とか」

 ユースケは返す言葉を失った。

 無縁も無縁。芸術の「げ」の字もない人生を歩んできたユースケは、誘う相手を間違えたかもしれないと思った。

「でもどんな彼氏かによりますよ。わたしの趣味に合わない人と行っても、こっちも気を遣いますし。まぁ、合った人なんてひとりもいないですけどねー」

 なんとも人を惑わせる物言いである。

 まるで無縁の趣味に違いないが、これまでに趣味の合う人と出会っていないと言われると、初めて趣味の合う人に出会ったと言わせたいと思えてくる。

「モナちゃんって、そういう芸術鑑賞が好きなんだ。意外だな」

「そうですか? 小さい頃から親によく連れてってもらったんです。教育の一環で」

「すごいね。英才教育ってやつだ」

「そんなんじゃないですよ。親が好きだったんです。特に古典芸能が。でもいろいろ習ったりはしました」

「へぇ。なに習ってたの?」

「ピアノとか日本舞踊とか。絵も習いました」

「そうなんだ。けっこうイイとこのお嬢さんなんだね」

「まぁ、そう言うと、そうかもしれませんが――」

「ふーん。でも、そんなイイとこのお嬢さんがなんでキャバクラを始めたわけ?」

「あぁ。なんていうか、気分転換みたいなもんです。ちょっとした息抜き。こんなこと言ったら水商売なめんなよって店の人に怒られるんで、シーッで」

 とモナは声をひそめ、口に人差し指を当てた。

 ユースケは、その仕草にグラッとした。

 男は「誰にも言わないでね」「他の人には内緒だよ」というフレーズに弱い。特にお気に入りの女性からこんなことを言われては、それはもう天使のささやきである。

 だが、(こと)こういう場所では気をつけなければならない。彼女らは往々にして天使に見せた悪魔でもある。このフレーズを使いこなして男を有頂天にさせ、見事に金を吸い上げる。男もそれは心得ていなければいけないのだ。

 ただモナの素性はまだよく分からない。キャバ歴の浅さから意図せず言っているようにも聞こえる。

 他の派手な装いのキャバ嬢と違って、黒髪で控えめな性格でまだ場慣れしていない印象。それでも若いわりに妙な気品をまとっていて、大和撫子という言葉がよく似合う。そこが魅力だった。その正体が裕福で品格のある家庭で育ったことにあることが分かり、ユースケは得心した。

 店を出てから、どんなデートに誘おうか迷った。

 美術館、クラシックコンサート、お能。どれも楽しむ姿を想像できない。思い浮かぶのは、美術館ではあくびをして歩き、クラシックコンサートでは頭をうつらうつらとさせ、お能ではよだれ垂らして高鼾(たかいびき)。そんな姿を見たらモナはがっかりするにちがいない。

 だがサチのアドバイス通りに、相手の興味に合わせてやるべきなのだろう。非常にハードルは高いが、ここで”共通の趣味を持とうとしてくれている”と思わせれば、感動して付き合ってくれるかもしれない。

 そう都合のいい解釈を見出して、幾ばくかでも予備知識をいれておけそうな絵画鑑賞と心を決め、美術館デートに誘ったのだった。


 ルーヴル美術館展のことをなんとなく調べてはみたが、さっぱり分からなかった。絵を見てなんてどんな感想を言えばいいのだろうか。

 ――いやぁ、印象派だねぇ。

 ――やっぱロマン主義だよなぁ。

 いや、浅い。あまりにも浅すぎる。

 そもそも印象派がなんなのかが分からない。 ウィキペディアで説明を読んでもまるで理解できなかった。だから、なんとなくボヤーッとしたのが印象派だと思うことにした。 

 ロマン主義にしても同じである。絵からロマンを感じたら、それがロマン主義なのである。

 やっぱり、美術館は間違いだったかと、ユースケは思い始めた。

 バッティングセンターにでも行けば、良いところは見せられる。バカスカ打っているところを見せれば、モナはこう言うに違いない。

「えー、すごいですねー。あんな速いのよく打てますね。カッコイイ」

 あと一歩で甲子園だったんだよ、と言うとモナはさらにビックリして「えっ、スゴーイ!」と、こうなるはずである。

 実際はあと四、五歩あったが、多少話を盛ったところで誰に突っ込まれるわけでもあるまい。

 一度そう考えてしまうと、意地でもバッティングセンターへモナを連れて行きたくなった。急に美術館からバッティングセンターに変更したら怒るだろうか。

 いや、なにも変更する必要はない。美術館の後に行けばいい。美術館でどれくらい時間を要するか分からないが、夕飯の予約は十八時だから、それまでにサクッと行けるくらいの時間はあるだろう。

 そこで軽く体を動かしてから、その後に飯を食う。最高の流れである。自分の見せ場も作れるし、ナイスなアイデアだとユースケは思った。

 そして夕飯は浜側港(はまがわこう)のボードウォークにあるイタリアンを予約してある。

 抜群のロケーションと美味い飯のマリアージュ。想像しただけで、至福の時間となることは間違いない。

 だからと言って抜かってはいけない。ここでの振る舞いが大事になる。

『女性の警戒心を解いてやること』

 食事デートにおけるサチの教示だ。

 まだ知り合い程度の関係では、女性は敵ではないかと警戒している。だからさりげなくフォークを取ったり、料理を取り分けたりして優しい男性だなと思わせる。

 特にモナのように普段接待をしている女の子が相手なら、料理の取り分けや酒の気遣いをしてあげれば好感度が上がって親密になるという話だ。

 その上で、「キャバクラの仕事は慣れた?」とか、「どんなことが大変?」と訊いて、モナの心の内に溜まっているものを話してやれるように促す。

『女性が魅力的に感じるのは話を聞いてくれる男性』

 好かれようと思うがあまり、延々と自分語りをする男は多い。特にキャバ嬢は、武勇伝やら自慢話やらをイヤというほど聞かされてきている。

 だから、ここで聞き役に徹して他の男たちと違いを見せることで、チャンスは巡ってくるはずである。

 愚痴からなんから全部聞いて、モナにとって居心地のいい男だと思わせれば、このステージは成功と言えるだろう。

 あと気をつけるべき点と言えば――泣き上戸にならないことか。

 酒を飲むと、どういうわけか異常に涙腺が緩くなる。モナの話に共感して流す涙ならまだしも、くだを巻くようなことはあってはならない。

 もっとも、ちゃんと話を聞くようにすればそんなこともないだろうが。

 いい雰囲気で食事が終わったら、少しだけ散歩してから帰ろうかと言って臨港公園へと向かう。

 大事なのはここでちゃんと帰る意思を示すこと。そうすることで、ホテルへ行くような下心はないよと安心させられるし、上手くいけば楽しい時間を名残惜しくさせることもできる。

 雰囲気のいいボードウォークをテクテクと歩いていく。街の灯りが(きら)めく水面。チャプチャプとたゆたう波の音。ムードを演出するフットライト。そして、優しくひんやりと吹き込む港風が二人の距離を縮める。明日は晴れそうだし、きっと気持ちのいい夜になるだろう。

 そして臨港公園のベンチに座って、いよいよ告白に入る。

 ここで肝心なのは、モナの左側に座ること。左耳の方が感情的に聞こえるというアドバイスを忘れてはならない。

 それで告白のセリフ。

『告白のセリフはできるだけシンプルにすること』

 やはりシンプル・イズ・ベストなのである。

「モナの清楚な雰囲気が良い、人への気遣いを惜しまないのが素敵だ、なんたって黒髪が艶やかで上品、よってこういう理由でモナが好きです」

 こんな理屈っぽくてはロマンがない。

「好きで好きでたまらないんだ。頼む、一生のお願いだから付き合って。この通り」

 こう言って、頭を下げるのもよろしくない。懇願されては告白された女の方もときめきがないだろう。

「もう分かってると思うけど、オレはモナが好きだ。付き合ってくれないか?」

 やはり、これである。一世一代を賭けた決め台詞はシンプルに気持ちを込めたものがいい。

 



                   ★


 津先(つさき)駅の地下改札を抜けたユースケは、待ち合わせ場所を軽く歩き、モナがまだ来ていないことを確認した。

 集合時間の三十分前。予定通りモナより先の到着である。

 ユースケはスマホを取り出し、モナとのLINEの会話を遡る。画面には「あした楽しみ」とか「美術館デートって実は人生で初めて」などの一言に、ニコニコした絵文字やハートマークが踊っている。モナの言葉を見るだけで心が満たされ、顔がだらしなくほころぶ。

 電車を降りた一団が地下からエスカレーターに乗って改札に現れると、その流れにモナがいないか確かめた。一連の集団の中にいないことが分かると、スマホに目を戻し、また顔がにやける。そんなことをずっと繰り返していた。

「もうそろそろかな」

 五分前になったところでスマホの画面を真っ暗にし、反射して映る顔を見て目ヤニやハナクソが付いてないか確かめた。

 さて、ここで大事なのは、待った素振りを見せないことである。女を待たせるのはご法度(はっと)だが、待ちくたびれた様子を見せてもいけない。紳士な男は大変だ。

「オレもいま来たところ」

 口にしてみたが、調子がイマイチだ。喉に(たん)が絡んでいる。

 喉を鳴らして咳払いをし、コートのポケットから携帯用のマウスウォッシュスプレーを口の中に吹きつけて、同じセリフを繰り返す。明るいトーンで言ったり、ちょっと低めでダンディに言ってみたり、ちょうどいい《オレもいま来たところ》を探した。

 時計に目をやると残り一分。

「もうそろそろ来ないと時間になっちゃいますよ」

 誰に言うでもなく呟いたのを合図に、また(ひと)(かたまり)の集団が流れてきた。

 身体を上下左右にしきり振りながらモナの姿を探す。間もなくポツポツと人が尻すぼんでいくと、人が途絶えた。集合時間の十五時が過ぎた。

 モナはまだ現れない。もう一度LINEを開くがメッセージもない。

 ――まさか、ドタキャン?

 ユースケに、一抹(いちまつ)の不安がよぎった。

「いや、うろたえるな。うろたえるな、オレ。まだ十秒過ぎただけだろ」

 思わず口からこぼれる。

 それでも身体はその言い聞かせを無視し、今どの辺りですかと、メッセージを打ち込んでいた。

『せっかちな男は嫌われる』

 送信ボタンをタップしかけて、ユースケはふと動きを止めた。

 サチの言葉が頭を過った。

『ルーズでだらしないのもダメですが、かと言ってキッチリし過ぎて神経質なのも考えものです。あまりアレコレ言われるとプレッシャーや束縛感を感じて女性はストレスを抱えてしまいます。心の器を広く、小さなことを気にしないように振る舞えば好感を抱かれやすくなります』

 ――そうだった。

 こんなことで心を乱しては小さい男と思われる。この状況は男としての価値が試されているのだ。

 ゆとり。

 男としての気構え。

 相手が集合時間に間に合わなかったならば、上手くフォローする言葉をかけてやる。そう考えれば、これはむしろ株を上げるチャンスではないか。

 そうなると第一声のセリフも変更する必要がある。《オレもいま来たところ》でも間違いではないが、やや弱い。

《実はオレも遅れちゃってさ。いま来たところなんだよ》

 これなら、遅れたのはモナだけではないと思わせられる。完璧なフォローではないか。

 今度はちょうどいい《実はオレも遅れちゃってさ。いま来たところなんだよ》を、ユースケは探り始めた。

 すると、LINEの着信音が鳴った。

 モナからである。

〈いまどちらにいますか? 改札で待ってます〉

 ――あれ?

 辺りを見回すが、モナらしき姿が見当たらない。

 文字を打つのが面倒だと電話をかけると、すぐに出た。

「もしもし。オレも改札いるんだけど、どこにいる?」

〈もしかして中央改札ですか?〉

 ふと改札口に目を移すと、中央改札と書いてある。

「うん。中央改札」

〈わたし、北改札にいるんです。浜側(はまがわ)美術館の出口がこっちにあるんで〉

「あ、そうなの? じゃ、すぐそっちに行くから。待ってて」

 電話を切ると、背後にあった構内案内図で浜側(はまがわ)美術館と書かれた出口を確認して、そっちの方へ歩き出した。

 津先(つさき)駅には出口が八つあり、中央改札からいずれの出口へも行けるのだが、浜側美術館を含めた六つの出口は、北改札を抜けた方が近い。ユースケはそのことを知らずに、メインの中央改札で待っていた。もっと、よく確認しておくべきだったと、自責の念に駆られた。

 小走りになりながら駅構内の案内に従い、北改札に到着すると、スマホに目を落としているモナを見つけた。

「ごめん、こっちにも改札あったんだ。待った?」

「ううん。いま来たところです」

 セリフを取られてしまった。

 三十分前に到着し、用意周到にしていたあの時間は何だったのか。

 自分から「待った?」と訊いてしまったら、当然相手はそう答える。しかし、この場面でそう訊かないわけにもいかない。となると、この涙ぐましい努力は水泡に帰してしまうのか。その虚しさに耐えられず、ユースケはどうしようもなく弁解したい気持ちになった。

「あ、あの、遅れたわけじゃないんだよ。二時半には着いてて」

「え? 集合、二時半でしたっけ?」

 モナがビックリして狼狽(うろた)える。

「いや! いや、三時で合ってるの、三時で。ちょっと早く着いちゃって」

「あ、そうだったんですか。ごめんなさい、待たせちゃって」

「全然! 三十分ぐらいは待ったうちにならないから。ほとんど、いま来たところ」

「はい?」

 ムリに「いま来たところ」を言おうとして変な空気になる。 

「いや、なんでもない。行こうか」

 この場を取り繕うようにユースケはモナを促した。

 頭から(つまづ)いてしまったが、それほど大きく影響するものではない。こんなことでいちいち狼狽(うろた)えていては、上手くいくものも上手くいかなくなってしまう。ユースケは心の中でそう言い聞かせた。

 エスカレーターに乗り、モナに気付かれないよう、それとなく深く呼吸をして気持ちを整える。今日という日は、どんな不測の事態が起きようとも乗り越えて見せる。

 ユースケはエスカレーターが進む先にある、光が差し込む出口を見上げた。


 地上へ出ると、すぐ脇にショッピングモールがあり、モナはこっちと指し示して建物の入口へと向かった。

 入ってすぐの大きなスペースでは子供向けのイベントが行われていた。それを横目に通り過ぎて向かいの出口を出ると、広大なプロムナードの向こう側に浜側(はまがわ)美術館はあった。

 ルネサンス建築のような趣で中世ヨーロッパの雰囲気を(かも)しだし、厳かでどっしりと鎮座している。その背後には、高層ビルがニョキニョキと建っており、津先(つさき)タワーがひと際高く冬の青天を突いている。

 プロムナードには葉を落としたけやきの木が整然と並び、そのふもとに様々な形をしたオブジェのようなベンチがいくつも配置され、家族連れやカップルが腰かけている。その区画を抜けると遮るもの一つないパノラマ。荘厳な美術館の端から端まで見通せた。

 多くの人が行き交っているが、空間が抜けているせいか、まるで混雑している感じがしない。やわらかな陽ざしと、ひんやりとしたそよ風が気持ちの良い休日を演出し、穏やかな空気が流れていた。

 隣を歩くモナは、黒のロングシャツワンピースにチャコールグレーのウールコートを羽織り、長い黒髪をまとめ上げて結び目をパールストーンのバレッタで留めている。キャバクラで会うモナの姿とはまた違う、デートコーデされたモナはことさらに魅力的であった。

 ラセットブラウンのショートブーツのコツコツとした音が、久しぶりに女の子と歩いているのを実感する。

 さて、いよいよ最初にして今日一番のヤマ場である美術鑑賞の時間がやってくる。

 重要なのは、ここでポイントを稼ごうとしないこと。ユースケはそう心に決めてきた。

 圧倒的に知識と経験が不足している。そこで妙な背伸びをして、ちょこまかとポイントを取りにいく行為は、(かえ)って印象を悪くすることに繋がりかねない。

 まずこのステージでは、モナと肩を並べようと見栄を張ったりせず、モナのペースに合わせていく。そしてそのペースが乱れないように邪魔をしないこと。つまり、ポイントを失わないことに重点を置くべきだと考えた。

 やった方がいいことをやるのではなく、やってはいけないことを徹底的にやらない。これに尽きる。

 それでは、やってはけないこととは何か。

 鑑賞マナーというものがある。対策としてできることは、これを叩き込んでおくことぐらいだった。

「美術館ってさ、あんま喋んない方がいいんだよね?」

「うーん、基本そうですね。大勢の人が鑑賞してるような所ではヒソヒソ話すのもやめておいた方が無難です。でも、周りに人がいない空いてるエリアだったら、声が響かない程度に話しても大丈夫だし、休憩用にベンチやソファもあったりするんで、そこは話しても大丈夫ですよ」

 モナが優しく答える。

「あとアレでしょ。飲食もNG」

「そうですね。どうしても喉が渇いたら展覧エリアから外れた休憩スペースなら、こっそり水くらいは飲んでもいいかも」

「フーン。あとは写真撮影ね。これもダメでしょ? 著作権保護」

「まぁ。でも美術館に寄っては特定のエリアだけ撮ってもオッケーってところもあります」

 矢継(やつ)(ばや)にユースケが問い続ける。

「あとはー、なんだっけ? 大きい荷物だ。傘とか。作品と接触するといけないから。受付で預かってもらうんだよね?」

「えぇ……持ってないですけどね、わたしたち」

 モナは小さなショルダーバッグ一つで、ユースケに至っては手ぶらである。

「あっ! 作品も直接触っちゃダメなんだよ。コレ一番ダメなヤツだよね? アレって触ったらどうなんの? 通報されるの?」

「……さぁ……そんな人、見たことないから分かんないけど」

「ま、そうだよねぇ。あとは、何があったっけ? あ、メモ書きは鉛筆じゃないとダメなんだ。ボールペンだったらインクが飛ぶし、シャーペンだと芯が折れて飛ぶし。これも作品保護のためなんだよね?」

「そうですね。ハハ」

 モナは苦笑した。

 初めての美術館で予め鑑賞マナーを学んでおくことは多いに歓迎すべき行いなのに、それを図らずも捲し立てるように一つずつ確認するものだから、どこかうっとうしい。

「あとは、やっちゃいけないこと――そんなもんか。 そんなもんだよね?」

「……はい」

「そういうことは徹底的にやらないように気をつけるから、安心して」

 ユースケの言葉は、むしろモナを不安にさせた。


 美術館のエントランスを抜けると、上品に輝く白銀の勾配天井が真っ先に目に飛び込んでくる。途端に行き交う人たち全員が品格を備えているように見え、ユースケは慣れない居心地の悪さを感じた。

 チケット売り場へ行くと、眼鏡をかけた、まだ三十前後と思わしき受付の女性が、(しと)やかな調子で「いらっしゃいませ」と迎えた。

「大人二枚で」

「かしこまりました。大人が二枚ですね。四千二百円でございます」

 財布を取り出し一万円札に手をかけると、横でモナも財布を出した。

「自分の分は払います」

「いいよ、払っちゃうから」

 ユースケは悠然とした態度で言った。こんな所で自分の分だけ払うような、野暮な男ではない。

「こういうのは自分で払いたいんです」

「いやいや、女には払わせられないよ。そんなことさせたら、男がすたる」

「じゃ、すたって下さい」

「え?」

 そこまで意固地になるモナに、ユースケはびっくりした。

 別に損をするわけでもないし、大抵の女性はここで財布をしまう。モナにそんな一面があるとは意外だった。

 だが、ここで女に払わせては男の沽券(こけん)に関わる。受付の女性に、いい歳をした男が若い女に払わせてダサいなんて思われたら最悪である。

「そんなこと言わないで、払わせてくれよ。ね、お願いだから」

「そんなに言うなら、帰ります」

 するとモナが売り場から離れるように歩き出した。 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」

 ユースケが慌てて引き止める。

「じゃ、じゃあ、あの、お支払ってください」

 プチパニックになり言葉がおかしくなった。

「はい、払います」

 そう言ってモナは、ぴったり一人分の料金を手渡してきた。

 どういうことだ。自分で払えないなら帰るなんて、そんなことがあるのか。

 チケットを手に展示室へと向かうと、入口付近で列ができていた。傍に立つスタッフの誘導に従って列の最後尾に並んだ。

「たぶん皆さん順番に観ていく人がほとんどだと思うんですけど、わたし結構飛ばし飛ばしで行ったり来たりするんですよ。だから、わたしに気にせず自由に観ていいですからね」

 自由と言われても、初めて鑑賞に来て何が自由かも分からない。

「あ、そう――でも、付いてくよ。見方だってよく分かんないし」

 一人にされる方が不安で仕方がない。二十近くも離れた女の子に縋りつくように付いていかなければ、迷子になってしまう気がする。

「あんまり難しく考えなくていいんですよ。説明書きや音声ガイドとかあるけど、なにも考えずにいいなと思える絵が見つかればいいんです」

「そうなんだ。じゃ、そうしてみる」

 前方で列を止めていたスタッフが入場を促し、ぞろぞろと動き出した。

 入ると、淡いピンクの壁に「ルーヴル美術館展 ~愛の描出~」とイベントのタイトルが大きく描かれている。主催者やルーヴル美術館の館長の挨拶文のパネルが掲げられ、脇では音声ガイドの貸出をしていた。

 モナは挨拶文の前でしばらく足を止めた後、音声ガイドを借りに行き、ユースケもそれに倣った。

 序章と銘打ったエリアに入ると、照明がぐっと落とされ、それぞれの作品にスポットライトを浴びせている。

 まずは大キャンバスに羽の生えた裸身(らしん)の幼子が戯れている絵画が目に飛び込んできた。

 入ってきた鑑賞者たちがそこで足を止めるので、人だかりができている。入口のスタッフが「作品はお好きな所からお回りくださーい」と人を流そうと呼びかけていた。

 モナは人だかりに混ざらず、遠目から作品を見遣りながらゆっくりと歩いていく。作品に見入る壁際の鑑賞者たちを追い越して次へと歩を進めると、〈アダムとイヴ〉と書かれたタイトルプレートが目に入り、それらしき人物の絵画が掛かっている程度に認識して、また次へと進んで行った。

 序章エリアを抜け、第一章では広く空間を取っている。壁に掛かった作品は大小様々なものに加え、円形のキャンバスもあったりする。それぞれ展示されている絵画の前に見入る人だかりも、これまた大小様々であった。

 モナは相変わらずゆったりとしたペースを貫きどんどん人を追い越していく。借りた音声ガイドのヘッドホンは首にかけたまま聴いている様子もない。

 テーマごとに区画されたエリアをサクサクと進み、最終章である第四章の大目玉の作品まで十分もかからずに辿りついてしまった。最後まで見終えると、今度は流れに逆行するように同じペースで進み、また序章エリアまで戻ってきた。

 入口ではスタッフが相変わらず「お好きな所から――」と呼びかけている。その声に紛らせるようにモナが訊ねてきた。

「なにか目にとまったものありました?」

 絵画よりも、どちらかと言えばモナの動きに注視していたから、パッと思い浮かぶものがない。マズイと喉元から緊張がせりあがってくる。

「うん――いくつかあったかな」

 なぜか、しれっと見栄を張ってしまった。

「そしたら、それから観ていくといいですよ。わたしも観たいのから観ていくので、なにかあったらLINEで。あ、マナーモードにしててくださいね」

 見栄を張った手前、気になるものはないとも言えず言葉をつっかえていると、モナはスーッと離れてしまった。

 モナがいなくなり一気に心細くなった。

 入口付近には、後から次々と鑑賞者たちが入ってきて、順々に観ていく流れを作っている。

 モナのように自由に観て周る勇気はない。仕方ないので、なんとなくその流れに合流して観ていくことにした。

 一枚目の大キャンバスの横に〈アモルの標的〉と作品のタイトルがあり、その下に説明文がある。

 アモルとはキューピッドのことらしい。そのアモルたちが結び付けたい相手を見つけ、中心にハートが描かれた的に矢を放ち、命中して喜んでいる一コマを描いているようだ。

(アモル――オレのアモルは、矢を放ってくれているのだろうか。どうだ、アモルよ? 標的がいない? いや、それは一時的なものなのだ。やはりムリにでも付いていった方がよかったと言うのか。でもそれでまた帰ると言われたらどうするのだ? 元も子もないではないか。アモルよ。まだ、始まったばかりなのだ。時間はある。諦めずに何発も打ち込んで欲しい。頑張ってくれるか? そうか、是非頼むよ。どうしても難しいならマシンガンでも台砲でもなんだって構わないんだ。なんでもいいからそのハートに命中させておくれ。頼むよ)

 ユースケは絵と、やや時代がかった会話を交わし両手を合わせて祈った。

 流れに沿って次へ進むと、〈神話にまつわる愛と欲望〉というテーマで区画されたエリアに入り、広々とした空間は一段と静けさが増している。

 独りで鑑賞している者からカップル、友達、夫婦、親子まで老若男女、誰一人として話をしている者はいない。女性のゆったりと歩くヒールの音と、多くの人が入口で手にしている、作品リストが記された紙の音がわずかに空間に響いている。

 ユースケは、この空気を乱さぬようにと、気遣いながら鑑賞を続けた。

 いくつか観ていると、裸婦(らふ)を描いたものが多いことに気付いた。乳房を露わにし、肉感的な身体に白い肌が輝かしく浮かび上がった絵画がそこかしこに展覧されている。

 ――いい乳してんなぁ。

 ユースケが真っ先に浮かんだ感想である。

 眠るニンフのベールをこっそり捲る粗野な獣人、沐浴(もくよく)中の娘を連れ去る羽の生えたティーターン、騎士を食事に誘う裸身の女。ギリシャ神話・ローマ神話の物語の一コマを描いた絵画だが、ユースケの興味を惹いているのはそこに描写される「人の心」ではなく、「乳」だった。

 目線は乳房から始まり、女の顔、ベールで隠されていたり足に角度をつけて直接的に描かれていない局部へと移ってから、他の背景に向けられる。説明文は気分で目を通したり通さなかったり。そしてまた、背景、局部、顔と、目が移って乳房で終わる。そんな鑑賞法を確立させていた。

 もっぱら感想も、これはいい乳だの、これは好みの形じゃないだのと、なんとも浅はかなものである。

「愛とはつまり裸になることなんだなぁ」

 ユースケはいささか相田みつをのような調子で解釈した。


 第二章と第三章とのエリアの間に休憩室が設けられてあり、ユースケはくたびれてベンチソファに腰を下ろした。この空間だけはガラス張りの壁から外の光が入り、展示室の演出された空間から現実世界に戻る。

 スマホを取り出し、モナにLINEを送った。

「休憩室で休憩してまーす」

 これでモナは来るだろうかと、スマホを握ったまま外の景色をボーッと見つめた。

 二人で来て個々に観てまわるなどとは思いもしなかった。なんとなくこの場はモナがリードしながら絵の説明をしてくれたり、こんな見方をすると面白いとか、そんな雰囲気を想像していた。

 もし野球観戦に誘っていたとして、モナがルールを知らなければ手取り足取り教えるし、勝敗を分けるような見どころも解説するだろう。そうやって楽しむものだと思っていた。

 四十を目前にしたおじさんが、二十歳の娘に美術鑑賞の手ほどきを受けるのはおかしいとも思う。それにしても別行動というのはあんまりではないか。これでは完全に放置である。

 〈キリスト教の慈愛〉をテーマにした今のエリアはもう完全にお手上げである。「(ゆる)し」「犠牲」「受難」縁のない言葉ばかりがやたらと並ぶ説明文に頭が痛くなった。分かったことと言えばマグダラのマリアの乳は推定Bカップということぐらいだ。もう乳にしか目がいかない。

 ユースケはもう一度モナとのLINE画面を開くが既読になっていない。

 モナのペースを尊重した結果、邪魔にはなっていない。ただ猛烈にさみしい。

 カップルで来ている人たちは、みんな二人で観ていた。それが、本来あるべき姿であろう。デートに来て、他人のカップルを見て羨ましくなるなんてのは初めての経験だ。

 だが――考えたら裸の絵をカップルで観て、どんな会話が交わされるのだろうか。「いい絵だな」なんてことが言えるのか。「これは一見して官能的にも見えるが、なによりも裸体を美しく見せる曲線の技巧と(まばゆ)いばかりの白い肌の色彩感覚が、女性の肉体への賛美を表している」と、さっきなにかの説明書きにあったようなことを真面目くさって言うのか。なんだかムッツリスケベのような気がしてならない。

 それならば、逆に「いいおっぱいしてるな。こういうおっぱいが好き」と、言うのか。目の前の彼女に張り倒されそうである。

 裸の芸術の鑑賞法の答えが見つからず、ユースケは(うな)った。

 モナはあえて別行動をしたのだろうかと、ふと思った。はじめに一巡りして、裸の絵の多さに二人で観るのは気まずいと思って。だから、有無も言わさずさっさと行ってしまった。そうだとしたら、この美術鑑賞は最後まで個々で行動するということになる。

 もう一度スマホを見たが相変わらず既読はつかない。

 もうくたびれたので出てしまおうかと、ユースケは思った。まだ一時間も経っていないが、なんだかこの状況に疲れてしまった。先に出て「ラウンジのカフェで待ってる」とLINEを入れておこうか。でも、それだとモナを急かしてしまうような気もする。

 そもそも、このまま出て「どうでした?」と訊かれたら何て答えるつもりなのだ。

 ユースケは、ハッと目が覚めたように自問した。

 このままでは、いい乳をいくつか発見したとしか言えない。今日のデートは終わるだろう。当然、次のデートもない。

 もう少し頑張らないとダメだ。シロートなりに芸術鑑賞を頑張ってみましたという姿が、モナの心を動かすのではないのか。なによりも、今日は告白をするのだ。

 あぶない。危うく(くじ)けるところだった。

 ユースケは気合を入れ直そうと両手で膝をバシッと叩いて立ち上がり、勢い勇んで休憩室を出ようとした。そこでモナがヒョッコリと入ってきてぶつかりそうになった。

「あれ? もう行きます?」

「あれ? あ、LINE見た?」

「……はい」

 どうも確認のタイミングがずれていたようである。

「あ……いや、もうちょっと休んでこうかな」

 モナが怪訝な表情でジッとこっちを見ているのを笑ってごまかし、座っていた所へ(いざな)った。腰かけて一息ついたが、どう会話を切り出せばいいものかと糸口を探すことになってしまった。

 どれそれの絵が良かったと言えればいいのだが、女の裸しか浮かんでこない。女の裸ではない良い絵を探しに行きかけたところにモナが来てしまった。この状況でLINEをするべきでなかったとユースケは少し悔いた。

「……けっこう、若い人がいるもんだね?」

「そうですね」

 とりとめもない話題は一ターンであっさり終わる。

「カップルも、けっこういるもんだね」

「……そうですね」

 会話が続かない。どうしたものかと頭の中をフル回転させながら、手元の作品リストに目を落とす。

「なにか気に入ったのありました?」

 ――マズイ。

 準備が整う前にその質問が来てしまった。そうだなぁとたっぷり思案している風を装いながらリストを追っていく。しかし、タイトルと絵が全く結びつかない。

「『ローマの慈愛』はよかったかな」

 とりあえずタイトルの雰囲気がいいものを選んだ。完全に打ちのめされた〈キリスト教の慈愛〉のエリアに展示されているものらしいが、敬虔(けいけん)そうな感じがする。どんな絵か分からないが、無難なところだろうと考えた。

「ああ――確かに、人目を引きはしますよね」

 モナの反応は肯定とも否定とも取れない微妙なもので、慎重に言葉を選んでいるように感じた。その真意はよく分からないが、少なくともモナの中では絵が浮かんでいるらしい。

「モナちゃんも観た?」

「はい」

「これぞ『愛』って感じがしたんだよね」

「ふーん、――そうですか」

 なんとも曖昧(あいまい)なリアクションである。チョイスが微妙だったか。どんな絵だったのか少し不安になってきた。

「モナちゃん的にはどう思う?」

 質問してさりげなくどんな絵だったか思い出してみることにする。

「どう? うーん、作品の意図は分かるし、そういう愛もあるんだとは思うんですけど――ちょっとわたしにはできないですね」

 ――できない?

 ますます分からなくなってきた。できないとはどういう意味なのだろう。描けないということなのか。なんにせよ、これ以上イメージできていない絵のことで話をするとボロが出そうな気がした。

「モナちゃんは? なんかいいヤツあった?」

「わたしは……」

 モナも手にしたリストに目を通すと〈部屋履き〉と答えた。

「〈部屋履き〉ねぇ……」

 同調するように口にはしてみるものの、絵が分からない。リストをもう一度見て探しても作品が多すぎてすぐに見つけ出せなかった。

「観ました?」

「えーと……〈部屋履き〉ってどこにある?」

 観念し正直に訊ねると、まだ観てないエリアのものだった。

「これはまだだな。結局順番に観て周ることにしたから。これから」

「そうですか」

 ユースケは「一緒に観ない?」と聞こうかどうか迷った。

 モナと一緒にと強く思う一方で、モナが自分のペースで鑑賞できなくなることに不満を感じたりしないかという懸念もあった。もしそんなことになれば、この後の展開を難しくしてしまうことにもなる。

 それでもやはり、二人で観て、もう少しデートっぽいことをしたいと気持ちが勝った。

「モナちゃんは観たいヤツって大体観た?」

「えぇ、粗方は」

「オレがこれから観る後半部分を一緒に観たりなんかしてみたいような……」

 お伺いを立てるように弱腰にリクエストをしてみると、意外にもあっさりいいですよと答えてくれた。

「ホントに? 不満になったりしない?」

「え、なんでですか?」

「いや、自分のペースで観てまわれなくなったりすることに……」

「ああ――でも、大丈夫ですよ」

「そう? それならよかった。やっぱりモナちゃんは通だよね。オレなんか人の流れに合わせないと不安で」

「通というより最初から順番に観ていくと、後半疲れて集中力が落ちるんですよね、わたし。だから、先に気になるものをピックアップして最初にじっくり観ちゃおうって」

「そうだったんだ。確かに、順番にひとつひとつ観ていくと疲れるね」

「そうなんですよ。全部しっかり鑑賞しようとしても結構多いから。説明を読んだり、ガイド聴いたりしてその時は理解しても、あとになってなんだっけってなりますからね」

 心なしか、モナがウキウキしているように見えた。やはり相手の得意分野の話をさせるのは効果的なのかもしれない。ユースケは意外に上手くやれていると手応えを感じた。

 モナはあと一つ二つ前半部分で観ておきたいのがあると言い、それも一緒に付いて行って、それから後半を観ようということになった。前半に戻るなら、さっき自分のお気に入りと言ったものがどんな作品なのか、ついでに確認しておこうと思った。


 〈ローマの慈愛〉の前でユースケは心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。

 大きなキャンバスに白髪の年老いた男が若い娘の乳房に吸い付いている様子が描かれている。

 一人で観て周っているときに強烈なインパクトを受けて、ここだけは思わずきっちりと説明文を読んでいた。

『餓死刑を言い渡された父親のキモンの元へ面会に行った娘のペロが、看守の目を盗んで自らの母乳を与え栄養を摂らせている。子が親に乳を与えるという究極の逆転によって、キリスト教の教義の犠牲的な愛、相手のために自分を顧みないことを示している。親へ寄せる愛情が表れたこの作品は十七世紀のローマで大きな成功を収めた』

 説明を読めばこれは一種の愛情表現であると納得はしたものの、それでもかなり刺激の強い性的な絵画である。

 説明は読んでもタイトルはロクに見なかった。適当に選んだ作品が、まさかコレだとは思いもよらなかった。

 ユースケは頭が真っ白になり、隣にいるモナをこっそりと横目で見る。モナは顔色ひとつ変えずに絵をジッと観ている。

 なにを考えているのか分からない。けれども、この絵をお気に入りとして真っ先に挙げたのはマズい気がする。ユースケがこの絵の父親、モナが娘と重なることも、なくはない年齢差である。それでモナに気持ち悪いと思われたら、それはとんだ誤解だ。

 ユースケはまたもや、どうしようもなく弁解したい気持ちに駆られた。モナの肩をちょんちょんと叩き、ささやき声で耳打ちした。

「コレじゃない」

「――え?」

「さっき言ったお気に入り、コレじゃなかったわ。隣だった」

 隣に展示されている絵を指さし、モナもそれに目を向ける。

「タイトルが一つズレてた。間違い」

「ああ」

 モナの表情に変化はなかった。まるで気にも留めていないようにも見える。それならそれでありがたいが、なんだかヒヤヒヤする。

 ユースケは改めて、美術鑑賞デートのハードルの高さを思い知らされ、一刻も早くこの時間が過ぎて欲しいと思った。




                    ★


 バッティングセンターはボーリング場やスケートリンクの入ったアミューズメント施設の中にあった。エレベーターに乗り屋上階へ上がる。ドアが開くと同時に金属バットでボールを叩く音が飛び込んできた。

 随分と久しぶりに聞く音だった。考えてみると最後にやったのはいつだったのか覚えていない。ゆうに十年を超えるのではないだろうか。

 美術館を出て、晩飯まで少し時間があるからバッティングセンターへと誘うと、モナは意外にもはじけたように賛同した。これまでに縁の無かった場所のようで非常に強い好奇心を示した。

 ところが、調べてみると津先地区にはバッティングセンターが無かった。一番近いところで浜側(はまがわ)駅まで出なければならない。地下鉄に乗ると二駅。どこにでもあると思い込み下調べしなかったのが抜かった。

 なにしろレストランは津先(つさき)で予約しているのである。バッティングセンターのためだけに電車で往復するなど、ひどく非効率的なデートコースであるのは明白だった。

 しかし、自分の良いところを見せたい。その上、モナも乗り気だ。この名誉挽回のチャンスを逃す手はあるまい。

 このことをモナに告げると、やはり面食らったようだった。モナの心が面倒に侵される前にすかさず、駅から近いのでここからでも十分程度といささかサバを読み、手間はかからないことをアピールした。なんとかモナの興味を保ちここまでやってきたわけである。

「すげぇ久しぶりだから、ちゃんと打てるかなー」

 モナに言っているのか独り言なのか、どちらとも取れる声量で呟く。打てなかったときの保険をかけているようだが、自信はあった。

 ユースケは百四十キロのマシンを選び、置いてあるバットを手に取り、腰をひねったり屈伸をしたりして軽く体をほぐす。モナは金網越しにボックスの外で見守っている。

 バシバシと打つイメージしかない。後ろから「スゴーイ!」と黄色い歓声が聞こえてくるようだ。

 バットを数回振って準備が整い、金の投入口に百円玉を転がしていく。フェンス一枚隔てたモナに「まぁ、見てて」と声をかけた。

 エキシビジョンに映ったプロ野球選手が投げるモーションに入り、集中して構える。すると球は一瞬にして目の前から消え、後ろの球受けのマットからドゴォッと鋭い音が立った。モナもびっくりしてキャッと小さく悲鳴をあげる。

 ――こんなに速かったっけ?

 心の準備を整える前に、エキシビジョンの投手は二球目のモーションに入っている。ちゃんと構えていない状態で二球目が投げられ、慌ててバットを振るが大きく空を斬る。またもやマットが大きな音を立てる。

 ちょっと待って。高校の時は全然打てた球なのに。

 三球目、四球目と投手は無情にも一定のペースで投げてくる。懸命にバットを出すがかすりもしない。心を落ち着かせる時間がほしい。けれども投手は容赦なく投げ続ける。

 十球を過ぎたあたりからようやくバットがチンと音を立てるほどにかすり、徐々に球に当たるようになってきたが前には一球も飛んでいない。そのまま見るも無残な形で二十数球の投球が終わった。

 ユースケは軽く肩で息を切らし、ボックスを出た。外にいるモナが呆気に取られている。

「あの――間違えたわ。プロが投げるスピードだからコレ。久しぶりでコレやっちゃダメだ」

「すごいですね……」

 モナの言うすごいは、もちろん投げられたボールに対してである。

「ちょっと速度落としていい? 百三十キロならイケるから」

 速球を打ってくれなんて誰も頼んでいない。しかし、ユースケは経験者のプライドで素人には打てない球速を打って面目(めんぼく)を立てたかった。

 なんとかモナの前で良いところを見せようと速い球速にこだわるのが(あだ)となる。

 百三十キロもバットには当たるもののヒット性の当たりが一本も出ず快音は放たれなかった。

 今度は百二十キロでと速度をちょっとずつ落としても、鈍った体でバットを振っているユースケの体力も一緒になって落ちているので、二、三本のヒットが出ただけで力尽きてしまった。

 モナもそんな様子を見ていてはかける言葉も見当たらない。

「モナちゃんもやってみる?」

「いや。こんな速いの、怖い」

「コレじゃなくても一番遅いヤツあるから。八十キロとか」

「そうですか。でも思ってたより怖いんで、大丈夫です」

 ユースケが前に飛ばせず、後ろで見ているモナの方ばかり球が向かっていったので、すっかり怖気づいてしまっていた。

「じゃ、飯に行こうか」

 いったい何のためにここまで来たのか。はるばる電車に乗り、良いところを見せられず、モナをビビらせ、また電車に乗って戻る。

 バッティングセンターを出るエレベーターの中はこの日一番の気まずい空気が漂った。




                    ★


 予約したピッツェリアは港に面した場所にあった。実際に行ったことはないが、調べる限りオーシャンビューが売りの店であるらしい。これまでに思ったほどの成果が出せていないユースケは、せめてここだけでも思い描くイメージに合うことを願った。

 津先(つさき)駅から地上へ上がると、日はすっかり暮れて、街には明かりが灯っている。通りを吹き抜ける風が強くなり、陽が落ちたことも相まって寒さが増したように感じる。

 けやき通りを歩き、大きなイベントホールの建物を通り抜けて向こう側へ超えると、視界が開け浜側(はまがわ)港が見渡せる。そこからボードウォークを歩いていくと目的のピッツェリアに着いた。

 店に入り予約した旨を告げると、全面ガラス張りの窓際の席へと案内された。ライトアップされた湾上の大橋、フットライトで縁取られたボードウォーク、色とりどりに光を放つ大観覧車、津先(つさき)のシンボルが(きら)びやかな明かりを灯し、うっとりするような夜景が眺望できる。

「すごい、おしゃれですね」

 モナは目を輝かせながら呟いた。ひとまずは、モナを喜ばせることができたようである。まだ挽回のチャンスは残されている。

「とっておきの場所でさ、モナちゃんにこの景色を見せてやりたかったんだよね」

 だいぶ芝居がかっているクサイ台詞だ。それにウソもついている。だがようやくモナにアピールできるこの取っ掛かりを、逃すわけにいかなかった。

 ここからはサチの教えを遺憾なく発揮する場面である。

『女性の警戒心を解いてやること』

『女性が魅力的に感じるのは話を聞いてくれる男性』

 この二つのポイントを忘れてはならない。

 モナが先に座ったのを確認してから、ユースケは着席した。

 一枚のメニュー表に、店の全ての料理が羅列されている。品数はそれほど多くない。ピザが二種類と、アンティパストがサラダや肉料理を含めて十種類ほどだった。

「あれ、メニュー少ないな。こんだけ?」

 メニュー表を裏返しても、なにも書かれていない。

「そうですね」

「他にないのかな。ちょっと聞いてみようか」

 すいませんと言って手を挙げ、厨房の出入り口付近に立っていた女性のホールスタッフを呼んだ。

 あまり大したことではないが、店員をわざわざ呼んだのには訳があった。

 店員とのコミュニケーションで、くだけた雰囲気を作れると、一緒にいる女性は好感を抱くという。ユースケにとっては得意分野であり、モナに安心感を与えるいい機会だと考えていた。

「メニューって、ここに載ってるもの以外はないんですか?」

「そうですね。ここに載ってるものだけになります」

「あ、そうなんだ――ピザも二種類だけ?」

「はい。ただ、本場のナポリで修行をしたピッツァイオーロが作ってますので、伝統的な素材の味を楽しんでいただけると思います」

 何度も質問されているのか、女性スタッフは淀みなく、自信を持った調子でハキハキと答えた。

「へぇ、本場のピザ。どっちがオススメ?」

「んー、どっちもオススメです!」

 本当に悩むようにして、どちらも美味しいという気持ちが伝わってくる。

「どっちも? まいったな、そしたらどっちも食べなきゃダメかぁ」

「食べられるようでしたら、ぜひ」

「これ大きさはどれくらい?」

「約三十五センチなので、デリバリーピザなんかで言うところのLサイズぐらいはありますね」

「いや、デカいな。デカいよ、お姉さん。二枚はムリだ」

「そうしましたら、次にまたお二人でお越しいただければ、どちらも召し上がっていただけますので、ぜひ」

「あら。ここでもう次の予約を取っちゃうの? 商売上手だね、お姉さん」

 別の意味でモナと次に来る機会があるなら、こっちだってそうしたい。

「じゃ、また二人で来れるように頑張るから」

「ありがとうございます」

 こっちの真意は伝わっていないだろうが、向こうもそんなことは気にしていないだろう。

「また、決まったら呼びます」

「かしこまりました」

 女性スタッフは、また厨房の方へと戻っていった。

「本場のナポリピザだって」

「こだわってそうですね。すごい楽しみ」

 二人で再びメニューに目を落とし、ピザはマルゲリータに決めた。アンティパストも種類が少ない分だけ迷うこともなく、すんなりと決まった。

 ドリンクメニューの方が種類が豊富だったが、お互いはじめはビールということで、こっちも決めるのに時間はかからない。

 再び女性スタッフを呼んで注文をすると、また元気で溌溂とした調子で料理名を復唱し、少々お待ちくださいと言って下がっていった。

 食器やおしぼりを渡してあげて食事の準備を整える。

 ほどなくしてお互いの手元にビールが届いた。ジョッキではなくオシャレなビールグラスである。

 乾杯をし、喉に流し込む。

 通常ならビールグラスくらいだとほぼ一気に流し込んで「クーッ」と声を上げるところだが、ここではそんなことはしない。モナの飲むペースに合わせて、少しずつ口にしていく。順調な滑り出しではないだろうか。

 次に前菜の盛り合わせが来た。生ハム、サラミ、海老のマリネ、オムレツ、鯛のカルパッチョ、キノコのソテー、豚ロースのロースト。それぞれ二人前ずつ盛られた品々を取り分けにかかる。

 この取り分け作業はユースケにとって非常に苦手とするものだった。

 なによりも面倒が先立ち、取り分けるスプーンとフォークが上手く扱えない。取り分けてもらうにしても、なんとなく話ができずその様子に見入る時間になる。マナーと言えばそうなのだろうが、ユースケには不毛な時間に思えてならない。

 だが、この場面ではそうも言ってはいられない。普段はモナが接客する立場でやっていること請け負うことで男の株を上げるのだ。

 取り分け用のスプーンとフォークを手に取ると、途端に緊張が込み上げてきた。

 取り分けの上手い人は、これを片手で持ちトングのように扱う。そんな高度なことができるはずもないのに、なぜか片手に収めてしまった。

 右手の握りが上手くいかず、左手で添え直そうとカチャカチャカチャカチャと音が鳴る。サラミを挟もうとするが、なかなか掴ませてくれない。やっと掴んだサラミはUFOキャッチャーでかろうじて引っかかっているぬいぐるみのように危うい。プルプルしながらなんとか小皿へ移った。

 静かに一息つくが、緊張は高まるばかり。次の鯛のカルパッチョを取ろうとしたところで震えが極限に達し、皿にカチカチカチと音を立てたところで、モナが両手で鼻と口を覆うようにして笑った。

「そんな――ムリしなくいいですよ」

 込み上げる笑いを抑えるようにモナは言った。

 どこか自然体の笑顔のように見えた。

 キャバクラにいるときも今日のデートでも何度となく笑顔は見てきているが、それはあくまで仕事上での社交的なもので、この瞬間は友達感覚にも似た、気を許したものに感じた。

 高まる心臓の鼓動がスーッと引いていき、自然と余計な見栄を張るのはやめようという気になった。

「そうだよね。ちょっとレベル高いわ、オレには」

 右手にフォーク、左手にスプーンを持ち直し取り分けに入るが、さしてクオリティは変わらなかった。常に危ない橋を渡っているような有様だ。

 モナはずっと両手を鼻と口に当てたまま笑い続けている。

「わたし、やりましょうか」

 目尻に涙が溜まったのか、軽く拭った。

「いや、大丈夫。ここはオレがやるから」

下手でもなんでもいいから、とりあえずこの場はやり切りたいと思った。

 どうにか前菜を全て分け終え、小皿をモナの前へと置く。

「大変お待たせしました」

「大変お待ち致しました」

 モナが珍しくおどけるように返した。

「大変、失礼致しました」

「いいえ、ありがとうございます」

 そのノリに合わせるようにして応じて互いに一礼を交わし、食事へと移った。

 モナが笑ってくれたのは救いだった。イメージとは違ったが、結果的に『女性の警戒心を解いてやること』はできたような気がする。

 だが、まだまだ油断してはならない。

 食べるとき、飲むときもモナへの気配りを欠かさないこと。ガツガツと食べ進めずにペースを合わせ、グラスが空きそうになったら次の飲み物を訊く。そのことを意識しながら相手の話を聞いてやるのだ。実にやるべきことは多い。

 テーブルにはサラダが載り、チーズの盛り合わせが載り、ピザが載った。酒もそれに合わせてワインへと移っていった。

 モナの食事の所作には品があった。裕福な家庭環境にあり、テーブルマナーはすっかり身体に沁みついている。他のキャバ嬢とは一線を画する部分である。それだけに、なぜキャバクラをやっているのか、ずっと気にかかっていた。以前に息抜きのようなものだと言っていたが、どうも腑に落ちなかった。

「キャバクラの仕事はどう? 慣れた?」

「少しは。ただ、お酒がちょっと大変ですね」

 モナは酒に弱いわけではないが、接客中の飲酒の量には手を焼いているようだった。客に薦められるがままに飲んでしまい、上手くコントロールができないらしい。

「客もいろいろいるからねぇ。相手のことも考えずにやたらと飲ませようとするヤツとかさ」

「はい。ユースケさんはその辺り気遣っていただけるので助かります」

 ユースケは、理解のある客だと認めてもらえ、嬉しくなった。

 もしかしたら客を繋ぎ留めておくための建前かもしれないが、モナが言うと本心のような気がして、喜びを隠せずだらしなく顔がゆるんでしまう。 

 モナは共に働く諸先輩たちの仕事ぶりに舌を巻き、ついていくのに必死であることも打ち明けた。水商売の世界の厳しさにふと挫けてしまいそうにもなるらしい。

 ずっと続けるのかと訊ねると、しばらくはと答えた。なんとしてでも金を貯めたいのだという。

「でも実家は裕福なんでしょ? 金ならあるんじゃないの?」

 ユースケが何の気なしに訊くと、モナは言い淀み、少し考えてから静かに吐露した。

「実は……わたし、家を出てきちゃったんです」

 モナの表情には決意めいたものが浮かんでいた。

 モナは美大に行きたかったのだが、親に大反対されたのだという。

 高校では美術部に在籍し、主に油絵を描いていた。進路を決めるときに、もっと絵を続けて芸術世界に携わりたかったのだが、親は美大に行くことを許さなかった。

 経済界に身を置く父親は、芸術はあくまで趣味や教養の範囲で、仕事としてやるものではないという考えを持っているのだそうだ。就職口の少なさや、不安定さもそれに加味された。

 母親も、将来の暮らしの安定を強調して父親の考えを後押しした。 

 そうして両親に説得され、仕方なく商学部へと進み、芸術の道は諦めようと思い込むようにした。

 しかし、通うキャンパスは一向に肌に馴染まず、授業に全く身が入らない。そのうち大学へ行くのも億劫(おっくう)になり、授業にも出なくなった。試験もボロボロで多くの単位を落とし、留年こそなかったものの次年度でもう一度受け直すことになった。

 当然、親はこの結果に激怒した。

 モナは大学が肌に合わないことを打ち明け、美大を受け直したいと懇願した。すると、父親は「受けたいなら受ければいい。だが金は出さない。この家で生活もさせない。どうしても行きたいと言うならこの家から出ていけ」と言い放った。それで大学を中退して家を飛び出したのだという。

 ユースケは「そうなんだ」と同情するように呟いた。

「……一度普通に大学に入って合わなかったんだから、やらせてみたっていいのにね」

 柔らかく親の無理解を咎め、モナを擁護するように言葉を継いだが、モナはそれには答えず複雑な表情を浮かべ、口元に軽く力を込めた。

 必要最低限のものを持って家を飛び出し、住み込みでできるバイトを始めて一人暮らしをするための資金を貯めた。それからできるだけ安いアパートを借り、美大へ進学するための学費を稼ぐために、キャバクラの仕事を始め今に至るという。

「正直途方もないやり方だと思います。美大に入る試験勉強もやらないといけないのに、仕事をしていればなかなか時間も取れない。

キャバクラにしたって高給ではありますけど、ただやってれば貰えるなんてものではないですからね。努力しなければいつまで経っても

学費は貯まらない。なんか――要領悪いんですよね、わたし」

 モナは悲しく笑った。

 ――要領なのだろうか。

 美大にかかる費用が高額なのは、(ちまた)で聞く程度には知っている。なんとなく裕福な家柄でないと通うことができないイメージだ。

 だが、モナの家では、行かせる経済力があるのに親の一存で行かせない。行くなら住まいすら与えず、全てひとりでやれと言う。ほぼ強制的に美大への道を閉ざされたようなものだ。要領でもなんでもない。

「それはモナちゃんの親のやり方がひどいよ。モナちゃんがどうこうって問題じゃなくない?」

 モナは俯き加減で少し考えた後、再び口を開いた。

「わたし、姉がいるんですけど、姉がなんでもできる人なんです」

 モナの姉は二つ上で日本の三大証券会社と呼ばれる企業に内定が決まっているらしい。

 モナと同じように小さい頃から芸術関連の習い事をさせ、コンクールで受賞するほどの実力があった。

 しかし、その実力を持った姉はその道に進もうとせず、早くに見切りをつけ学業に邁進(まいしん)し東大へ進学。順調に大学生活を過ごし大手企業への内定を勝ち取って、親の望むレールの上を歩み続けている。

 芸術の才能もあったのに現実的な選択をした姉の存在が、親の反対をより強固にしているようだった。

「わたしにも実績があったら、少しは違っていたかもしれません。でも、諦めろと言われても諦められない。姉のように割り切る方が賢いはずなのに、割り切ることができないんですよ」

 モナは窓の夜景に視線を移すと、その目に涙が浮かんだ。

「絵を描くことが好きで……好きなのに実力が伴ってこないのがすごい悔しくて。姉にはなにもかも敵わないけど、せめて絵だけでも姉を超えたいって、そう思ってしまうんです。ときどき、自分がすごいイヤになりますね。全然うまくできなくて、姉に嫉妬ばかりしている自分が」

 モナは涙をこぼすまいと、一点を見つめて堪えていた。

 一見、清楚で華やかな雰囲気を(まと)ったモナの内に、そんな劣等感があるとは思わなかった。そしてその劣等感は、ユースケにとっても散々味わってきた感情で、どうしようもなく熱い気持ちが込み上げてきた。

 気付けば、モナよりも先に涙を流していた。

「どうしてユースケさんが泣いてるの?」

 モナは驚いたように言った。

「いや……ホントさ、悔しいよね」

 言葉にしようとすればするほど、涙が溢れ、喉がひくついた。

「そんなの、嫉妬するよ。するに決まってんじゃん。オレだって散々したよ」

 モナは己のことで号泣するユースケに戸惑っているようだった。

 ユースケにも二つ下の弟がいた。その弟はユースケとは正反対で、学生の頃からモテた。両親のモテ要素が全部そっちに集まっているのではないかと思うぐらいにモテていた。

 ふたつという年の差は同じ中学に在学する期間が一年だけある。弟が入学してからしばらくして、女子の間で注目を浴びているらしいと耳にするようになった。それは学年を超えて三年女子の元まで届き、ミーハーな女子どもは無遠慮に「写真を撮ってきて」とインスタントカメラを押してよこしてきた。腹が立ったので、鼻毛がもっさり出ている女子が揃って毛嫌いしていた数学教師の写真を撮りまくって返した。後に大顰蹙(だいひんしゅく)を買ったのは言うまでもない。

 高校になるとさらに過熱した。

 いくつも選択肢がある中で、弟はなぜか後を追うように同じ高校に入学し、中学以上に周囲を賑やかした。誰それと付き合っただの別れただのと噂が飛び交い、その度に必ずユースケの元にその真相を聞きに来る女子がいた。

一番悔しかったのは、密かに想いを寄せていた同じクラスの佐々木さんから弟あてに手紙を渡してくれと頼まれたことだ。もちろん、弟のことが好きだから付き合って欲しいという内容であり、人知れず涙を流し、その手紙で鼻をかんで捨てた。この時ほど弟を妬んだことはない。

「世の中さ、不公平だって思うよ。同じ親から生まれたのに、なんでこうも違うかなーって。そんなの嫉妬するでしょ。神様じゃねぇんだ」

 弟ばかりでなく、合コンで付き合うことに成功する友人や、結婚していく友人、同じ独身でもコロコロと女を鞍替えする知人。人生でいくら妬んだか知れない。そんな嫉妬まみれの人生を否定などできなかった。

 ワインを胃に流し込み、空いたグラスに注ごうとしたボトルは、底にわずかに残っているだけだった。

「もう一本、なにか飲まない?」

 モナは「飲みましょうか」と言って微笑んだ。ユースケはその表情に、なんとなく分かり合えたような温もりを感じた。

 ワインリストを開き、どれにしようかと言うと、モナは「コレ、飲んでもいいですか?」と指さした。

 女性スタッフを呼んで注文すると、新たなワイングラスに替え、「エロス」とラベリングされたボトルを持ってきた。グラスに注がれたワインは、鮮やかなルビー色に輝きゆらめいている。

「もう一回」

 ユースケがグラスを差し出すように持つと、モナは微笑を浮かべながら頷き、グラスを合わせた。 




                    ★


 二月十四日。

 四十年前の今日この日に、産み落とした親を軽く恨んでいる。いや、親を恨むのはお門違いなのかもしれない。バレンタインデーとう風習を根付かせた社会を恨むべきか。いずれにしても忌々しい日である。

 今となっては、女性が好意を寄せる男性に想いを打ち明けるという意味合いは薄れ、職場や友人へ日頃の感謝の気持ちを表したり、はたまた自分へのご褒美だったり、あれこれ意味が後付けされている。

 ユースケにとってはその方がありがたいと思う一方で、いつまでも元来の意味に囚われてもいた。

 そもそも、元来の意味だって日本がこの文化を輸入するときに偏った解釈で定着したものというのだから、あまり気にする必要はないのだが、上手いこと心の処理ができないのである。

 ユースケが大きく吐いた息は白い(もや)となって夜空へと消えていった。寒風が身体に堪える。例年にない大寒波が日本を襲っているらしい。

 家路につく途中でコンビニに寄ってコーヒーを買った。挽きたてコーヒーが注がれているのを待ちながら、商品が並ぶ棚を見やる。

 世の中は相変わらず熱を上げて商戦を繰り広げている。今や、コンビニであろうがブランドチョコを置くのは当たり前のようだ。パッケージは違うが同じブランドのチョコがビジネスバッグの中に入っている。

 モナからもらったものである。

 あの晩、告白をしたがあっさりフラれた。自分でも引くほど、人生で最も痛々しい告白だった。

 聞き役に徹するはずが、酒が回って泣き上戸に拍車がかかり、散々自分語りを繰り返した。あげくにモナの肩を借りながら千鳥足で臨港公園を歩き、今日と同じくらい冷たい港風が吹きすさぶ中で、酔いに任せて泣きながら告白した。

 みすぼらしいほどの泣き落としだった。

 四十手前のオジサンが二十も離れた娘に泣きながら付き合ってくれと懇願するとは――見苦しいにも程がある。

 翌日、二日酔いと敗れた恋に打ちひしがれ一日を潰した。翌々日に冷静さを取り戻し、己の醜態(しゅうたい)を詫びようとモナにLINEを送った。「二度目はないですよ」と叱るような絵文字をつけた返信だった。

 これまで、恋敗れた相手には未練を残さないようにと、連絡先を消去して強制的に想いを断ち切ってきた。キャバ嬢相手にも、それきりその店には行くことをしなかった。

 だが、モナとはまだ繋がりを持ってしまっている。謝罪をしたかったこともあるが、それだけではない。

 モナの夢を微力ながら応援したい気持ちがあった。

 モナのパトロンとして資金援助ができるほどの財力があればよかったが、残念ながらその力はない。あったとしても、モナは望んだだろうか。できることと言えば、今後も通い続け、モナの売り上げに少しでも貢献することぐらいだった。

 ユースケはそのことを伝え、その後もいちファンとしてモナのいる店へと足繁く通っている。推しのアイドルに入れ上げている人たちの気持ちが、今なら少し分かる。

 モナから今日はイベントデーなので是非来てくださいとLINEがあり、店へ行った。

 自分の誕生日であることは言わなかった。だから、かばんに入っているチョコもただの義理チョコである。

 出来上がったコーヒーに備え付けの蓋をして外へ出る。

 一口すすって吐き出した息は、更に濃い靄となった。 

 ほろ酔い加減の頭にひんやりした空気と舌に残るブラックコーヒーの苦みが心地よく感じる。

 応援とは言っても、いつまでモナの店に通い続けるのだろうか。金が尽きて、借金をして、自分の身を滅ぼしてまで通い続けるのだろうか。普通に考えたらバカバカしい話である。

 だが、モナに対してだけはそれでもいいかとも思った。願わくば、ナンバーワンにまでのし上がって、必要な資金が貯まったらスッパリ辞めるところまで行ってほしい。ナンバーワンともなれば、もう今のモナとは違う風格を纏ったキャバ嬢になっているかもしれない。それで縁が遠くなってしまうのならそれも本望。キャバクラを辞めて縁が切れてしまうのなら、それも本望だ。

 自分にしかできない、愚かなやり方で応援してやろうと思った。

 歩きながら勢い勇んで流し込んだコーヒーはまだ熱く、ユースケは「アチッ」と言ってヤケドした。口の中がヒリヒリとする。

 帰ったらこのヤケドした舌でチョコを味わってやろうと思った。


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