28:船の上で……
ゆっくりとエヴァルトが顔を寄せてくる。
間近に迫ると彼の顔以外に何も見えなくなり、マーゴットの視界にエヴァルトの瞳がまるで覆うように近くに映り込んだ。美しい色合いの瞳。普段は優しく見つめてくる彼の瞳が今だけは熱い。
その目が細められたのに気付くと、マーゴットは小さく息を呑んで身体を強張らせ、これ以上の緊張には耐えられないと目を瞑った。頬に添えられたエヴァルトの手が小さく震えた気がする。
もしかして、このまま……。
そんな考えが頭の中でぐるぐると回る。
だが次の瞬間、船体がぐらりと揺れ、突然の事にバランスを崩して「きゃっ」と小さく声をあげてよろめいた。
「マーゴット!」
エヴァルトに名前を呼ばれ、次いで転びかけていたマーゴットの体は彼の腕に抱き留められた。
まるで己の胸に閉じ込めるかのように、きつく抱きしめてくる。
転びかけたマーゴットも咄嗟ながらにエヴァルトにしがみついた。
……まるで、彼の抱擁に応えるように。
しん、と周囲が静まった気がする。
実際には船の稼働音、波の音、それに甲板に出てきている他の乗船客の話し声があるのだが、それらがすべて消え去ってしまったかのような錯覚がした。
逞しい腕が自分の背中にまわり、先程まで頭を撫でてくれていた手が放すまいと強く肩を掴んでいる。
その感覚にマーゴットは何も言えなくなり、自分の心臓が早鐘を打ち、体中に熱が巡るのを感じていた。
鼓動が早すぎて心臓が痛い。苦しい。
熱を伴った緊張が再び舞い戻ってくる。
「……お師匠様」
「あっ! す、すまないマーゴット!」
マーゴットが囁くような小さな声でエヴァルトを呼べば、抱きしめていた彼は慌てて腕を放した。
ようやく二人の間に距離が出来る。
……それと同時に何とも言えない空気が漂い、マーゴットは言葉を紡げずにただエヴァルトを見上げた。
彼の顔が赤い。だがきっと今の自分も真っ赤になっているだろう。
「だ、大丈夫だったか? 強く掴んでしまったけど、どこか痛めたりは……」
「いえ、そ、そんな……。私の方こそ、転んじゃうところでした」
我に返るや途端に恥ずかしさが込み上げ、動揺を隠せない。
だがエヴァルトも同じくらいに落ち着きを無くしており、マーゴットを案じ、かと思えば揺れがどうのと海を眺め、またマーゴットを心配する。その様子に普段の師匠らしい余裕は無い。
そんな余裕の無さがマーゴットにも伝わってしまい、余計に動揺してしまう。
真っ赤になった男女二人が、落ち着きを無くした様子で船の揺れについてを話し合う。
事情を知らぬ者の目には不思議な光景に写るだろう。……そして事情を知った者はきっと、二人が恥ずかしさからなんとか話題を変えようと必死になっていると理解するはずだ。
事情どころか二人の事を知っている者が居たなら、「あと少しだったのに」と肩を竦めたかもしれない。
「揺れはたいしたこと無さそうだな。船の動きも順調そうだし、大事無いようで良かった」
「そ、そうですね。でもやっぱり船の揺れってなんだか慣れなくて、びっくりしちゃいました。馬車の揺れとは違いますね」
「やっぱり陸地とは勝手が違うな。だが海の上だし多少揺れるのも仕方ない、船酔いしないだけマシだ」
先程の揺れは激しいものでもなかった。慣れている者ならば平然と歩けただろう。
現に他の乗船客は気にする様子もなく、通りがかった船員も声掛けすらしていない。仮に問題のある揺れならば騒ぎが起こったり、船員が客を案じたり説明したりと慌ただしくしていたはず。
立派な造りの客船とはいえ今は海上を走っているのだから、多少の揺れはあって当然の事。
そう結論付け、しばし妙な沈黙が流れ……、マーゴットは上擦った声で「あ、あの!」とやたらと大きな声量で話を切り出した。
「わっ、私、もう部屋に戻ります。く、暗いし、また揺れたら危ないので……!」
「そう、だな。うん、そうした方が良い。俺も部屋に戻ろう」
「は、はい」
「そうだ、夕飯におかわりをしなかっただろ。だから夜になってお腹が空くかもと思って船員にサンドイッチを用意してもらったんだ。ルリアとロゼリアに渡しておいたから、お腹が空いたら食べると良い」
「はい、あ、あの、ありがとうございます」
「それを伝えようとしたんだが、長居しすぎたな。直ぐに戻るとアーサーとドニに伝えて出てきたから心配……、してない気もするが、してるかもしれないな」
会話はまさにしどろもどろで、ぎこちなさが漂っている。
だがそれが分かってもマーゴットには普段のように話す事が出来ずにいた。
顔が熱い。エヴァルトの顔が赤い。それを意識すると更に自分の顔に熱が溜まる。心臓の音が大きすぎて、自分の声も碌に聞こえなくなりそうだ。
そんな状態ながらになんとか「おやすみ」「おやすみなさい」と就寝の言葉を交わした。
もっとも、マーゴットの声は随分と上擦っているのだが、それはエヴァルトも同じだ。なのでどちらも指摘はせず、彼が甲板から去っていくのを見届け、マーゴットは熱がこもる頬を押さえながらふらふらと自室へと戻っていった。
◆◆◆
「なにかあったわね」
とは、女性用に割り振った客室でのロゼリアの言葉。
広い部屋にはベッドが二つ、合間にエキストラベッドが一つ。そして簡易的なテーブルセットが用意されている。
ロゼリアとルリアはテーブルセットに着いて就寝前の一時を過ごしていた。そんな二人の視線が向かうのは……、
ベッドに腰掛けるマーゴット。
その頬は随分と赤く、ポッポッと音がしそうな程だ。
部屋に戻って来てからマーゴットは終始この調子だ。
ルリア達に何があったのか問われても「別に……何も……」と上擦った声で答え、頬を赤くさせながら就寝の準備を始め、パジャマに着替え、そしてベッドの縁に腰掛けている。
「熱が出てるってわけでもなさそうね。どう思う? ルリア」
「これは……、エヴァルト様と何かあったんでしょうね。見てください先生、エヴァルト様の名前を出すとマーゴットがそわそわし始めました」
「本当だわ。でもそれなら放っておいても良さそうね」
ひとまず心配する必要は無さそうだ。
そう結論付け、ロゼリアとルリアは穏やかに微笑み合って手元にあるカップの紅茶に口をつけた。
その間も、マーゴットはポッポッと湯気が出そうなほどに顔を赤くさせていた。
◆◆◆
「これは何かあったな」
とは、男性用に割り振った客室でのアーサーの言葉。
客室は多少の配置は違えどもどの部屋も似たような造りをしており、アーサーとドニもまたテーブルセットに着いていた。
もっとも、就寝用のハーブティーを片手にこれからの事を話し合っている女性陣と違い、こちらは酒を飲みながらの雑談である。
そんな二人の視線が向かうのはベッド……、ではなく、自分達が着くテーブルの一角。三人が使うには些か小さめなテーブルを、一人の男が突っ伏すことで三分の一近くを占拠してしまっている。はっきり言って邪魔だ。
言わずもがなエヴァルトである。
部屋に戻ってくるなりこの様子で、ドニがどうしたのかと尋ねても、アーサーが邪魔だからと頭に物を置いても微動だにしない。たまに呻くだけだ。
「エヴァルト様、何かあったんですか?」
「こいつがこんな状態になるのはマーゴットの嬢ちゃん絡みだけだ」
「マーゴットの……、まさか、ついに手を出したんじゃ!」
「落ち着けドニ坊。エヴァルトのことだ、手を出したって言っても抱きしめるのが関の山だからな」
案じるドニを他所に、アーサーは随分とあっさりとしている。
これに対して突っ伏していたエヴァルトがもぞと顔を上げ「好き勝手言ってくれるな……」と恨みがましい声をあげた。
もっとも、ならば何があったのかと問われてしまい、再びテーブルに突っ伏したのだが。




