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人体のスペシャリスト

「腰、痛いんでしょ?」


 構わず歩き出そうとした矢先に耳に飛び込んでくる、エスパーのように誠の考えを見透かした声。


「さっきの体育の時も痛そうにしてたでしょ? 駄目だよ、痛いのに無理したら。すぐに治さなきゃ」


 ふりむくと、そこにはひとりの少女が立っていた。明るい色で、わざと髪先が散って尖るようにしている段のついた髪型。くりくりの大きな瞳に口元の八重歯。活発な雰囲気があるものの、どこか全体的に幼い印象が残る少女だ。海鹿内高校指定のセーラー服を着ており、学年別で分けられている胸元のリボンの色から察するに誠と同じ一年生だろう。


「『誰だ?』って言いたそうな顔をしてるから、早めに自己紹介しておくね。あたしの名前は立花(たちばな)(ゆう)()。これでも人体のスペシャリストを目指してる女だよ」


 そう宣言する少女は誠を見ながら不敵な笑みを浮かべている。そして、誠は驚く。腰痛を言い当てられた事もそうだが、それ以上に自己紹介だ。少なくとも今までの誠の人生で、名前を言った直後に自らの夢や目標を語る女など同級生では誰ひとりいなかった。しかも、それは憧れの職業とかではなく『人体のスペシャリスト』などというおよそ女子高生らしくない目標だったのだから。


「どう、その体、あたしに任せてみせる気ない? あたしならこの昼休みのあいだに治してみせるよ」


 優輝は自信ありげに大きく胸をそらす。


 俄然、この優輝という女子生徒に興味が湧いた誠は、彼女に案内されるがままに廊下を歩いていく。


 優輝は食堂へと向かう人の流れに逆走して歩いているので、あっというまに誠たちの周囲は閑散とした雰囲気となる。そして昇降口付近にある保健室に入るのだった。


「先生、ちわー!」


 小学生のような元気一杯の挨拶で優輝は保健室に突入する。


 まず誠の5感を刺激したのは、アルコールなどの薬品の臭い。


 教室の半分ほどの広さの部屋の端にはパイプベッドがふたつ置かれており、その周りは白いカーテンで間取りが仕切られている。窓際の陽が当たる場所には机がひとつ置いてある。そして、その机の前には眼鏡をかけた白衣の男が佇んでいた。おそらく彼が養護教諭だろう、年齢は30台後半くらいで温厚そうなまなざしが特徴的だった。


「また、立花か。今日は誰を連れてきたんだい?」


「あたしの隣にいる彼だよん」


 優輝は誠を紹介。


「はじめまして」


 誠は養護教諭に会釈をする。


「彼は……杉浦誠くんだよね」


 すこし驚いた表情で養護教諭は誠の名を呼ぶ。


「あれ? 先生、まこっちゃんの事、知ってんの?」


「知ってるも何も……甲子園優勝校の投手が転校してきたんだ。うちの教師たちの間で彼のことを知らない人間はいないよ。それに、立花のような若い子は知らないだろうけど、杉浦忠治といえば、先生の世代の野球少年にとってスーパースターだったんだ。あの頃は杉浦忠治のバッティングフォームを真似して左足を大きく上げる野球少年が大勢いたもんだ。日本シリーズといえば、秋の夕暮れの北口スタジアムでサードを守る杉浦忠治の姿がまっさきに脳裏に蘇るよ。あの頃の日本シリーズはナイターではなくデーゲームでおこなわれていたから、平日なんか学校が終わったあとに家まで帰るのを待ちきれずに、野球ファンの先生や友達と一緒に教室のテレビで観戦していたなあ……」


 遠い目で自らの少年時代に思い出を語る養護教諭だったが、誠はそんなことよりも優輝に「まこっちゃん」などというセンスの欠片も感じられないあだ名をいつの間にかつけられていた事のほうが気になる。少なくとも出会い五分以内で呼ばれて、あっさりスルーできるあだ名ではない。


「それでまこっちゃん、腰が痛いみたいだから、ちょっとベッド借りていい?」


「ああ。いつものように自由に使っていいよ」


「それじゃあ、まこっちゃん。そこのベッドにうつ伏せになって」


 そう促されて、誠は詰襟とカッターシャツを脱ぎ、ベルトを緩めてベッドにうつ伏せになる。


「立花っていったな。ひとつ訊いていいか?」


 枕に顔を埋もれさせた状態で誠が優輝に尋ねる。


「なに?」


「おまえは『人体のスペシャリスト』を目指しているっていったけど、こういう治療は慣れているのか?」


「そうだよ。あたしの実家は整骨院で父親は柔道整復師をやってるの。あたしも趣味で父さんの仕事を手伝ってるから、この手の事は慣れたもんよ」


「そうか」


 整骨院とは、脱臼や骨折などの怪我や、慢性的な肩こりや関節痛などの治療を専門におこなう施術所のことだ。ただ整骨院を開く事ができる国家資格、柔道整復師は医者ではないので、投薬や外科手術など医療行為を法律上はおこなう事ができない。だから整形外科医とは違い柔道整復師はマッサージなど自然治癒力を高める治療を得意としている。


「あたし、小さい頃から人の体を触ったり人体の解剖図や骨格標本を描いたりするのが大好きでさあ、気がついたら父さんの整骨院で仕事を手伝ってたから、見よう見まねでだいたいの治療はできるようになってたの」


 優輝は軽く誠の背筋を指で押しながら自らの境遇を語る。


「そ、そりゃあ、すごいな……」


 などと、相槌を打ちながらも人体解剖図や骨格標本の絵を趣味で描く小学生を想像して、誠は若干、心の中でヒいていた。誠がもし優輝の小学校時代の担任教師なら、間違いなく親に精神鑑定を依頼する。


「でも、あたしは柔道整復師の免許を持っているわけじゃないからさ。いくら技術があっても骨折や脱臼の治療はやっちゃ駄目なのよ。出来るのにやらせてもらえない──それって結構ストレスが溜まるんだよね。でもね、三ヶ月前の放課後、練習中に脱臼したラグビー部員がいたんだけど、ちょうど先生がいなかったから緊急措置ってことであたしが肩の関節を入れ直したの。あれは気持ちよかったなあ……。今でもあたしの手が、腕が、全身の筋肉が一度はずれた関節を元に戻した瞬間の快感を覚えてるもん。また、誰か脱臼しないかなあ……。今度はヒジ関節でやりたいなあ……。あ、やばい。思い出したら両方の口からよだれが出てきちゃった」


 怖いよ、絶対イっちゃってるよ。この女。でも、ここで逃げたら、去り際に肩関節のひとつでも簡単に外されそうだし……。


 誠はこんな女に施術を頼んだ事を激しく後悔するのだった。


 だが、そんな誠の心情などお構いなく優輝は施術を続ける。


「あ~こりゃあ、だいぶ疲れが溜まってるね」


 優輝は誠の臀部を指でゴリゴリと押す。その圧力は、優輝の小さな体にどこにそんなパワーが隠されているのかと思うほどの力強さだ。


「立花、そこ違う。俺が痛いのは腰だ!」


「分かってるって。でもね、腰の疲労っていうのは、腰だけじゃなくてお尻の筋肉も硬くするから、ここもちゃんとマッサージしなきゃ駄目なのよ」


 優輝は誠の抗議など想定済みだったらしく、誠の臀部の筋張ったところをさらに強い力でもみほぐす。もう、まさに誠にわざと痛みを感じさせるためにおこなっているとしか思えない所業だ。


 そして、臀部のマッサージを終えると、腰の最も敏感に痛みを感じる箇所の筋肉を鷲掴みにして、ゴリラのような握力で握りつぶす。


「~~~!!」


 まるで予告もなしに五寸釘を刺されたような痛みに、誠は肺の中の空気が真空になったような錯覚に陥る。そして、喉から声にもならない声を絞り出すのだった。


「なにしやがる!」


 誠は思わずベッドから立ち上がって、声を張り上げて優輝に抗議する。


 だが、優輝はそんな誠の剣幕にまったく怯まない。それどころか不敵な笑みすら見せているのだった。


「腰、どう? まったく痛くないでしょ?」


 言われてからその事実に気づき、誠は腰を触る。そして、2、3度ほど左右に腰をひねってからその後に屈伸をしてみる。


「ぜんぜん痛くない……」


「そうでしょ?」


「すごいな。さすがは『人体のスペシャリストを目指している女』だけはあるな。改めて礼を言うよ。ありがとう」


 誠は感謝の言葉を述べながら右手を差し出すと、優輝は笑顔でその手を握り返す。


「いや~。礼には及ばないよ。選手の体のケアはコンディショニングコーチの役目だからね」


「コンディショニングコーチ?」


「そう。今まで言わなかったけど、あたしはオーシャンズのコンディショニングコーチなの。今の施術はいわゆる名紙代わりってやつだから」


「そうなのか……」


 コンディショニングコーチとは、普通の打撃コーチや投手コーチなどとは違い、野球の技術を教えるコーチではない。選手の年齢や体格などの個性を把握して練習内容や食事内容をアドバイスしたり、怪我をした時などの適切なリハビリメニューを考えたりするコーチで、時にはメンタルケアなどもおこなったりもする。


 一般的な打撃コーチや投手コーチが、グラウンド内で高いレベルのプレーをおこなうための技術を選手に教えるコーチだとするならば、コンディショニングコーチは、選手が心身ともに最高の状態でグラウンドに立てるように手助けするためのコーチだ。選手がグラウンドに立つまでがコンディショニングコーチの腕の見せ所で、グラウンドに立ってからが技術を教えるコーチの腕の見せ所とも言える。


 そして、オーシャンズに移籍して色々な不安を感じていた誠が、環境面で最も懸念していたのはコンディショニングのことだった。


 誠がいた野球の名門校である高森学園では、監督やコーチの他に日本の大学とアメリカでスポーツ医学を学んだ人物が専属のトレーナーとして、選手の体調管理や練習メニューの作成をしていたので、誠もその恩恵に預かることができた。


 しかし、オーシャンズにはチーム専属のトレーナーやコンディショニングコーチは存在しないと聞いていたので、今後は独学でスポーツ医学やトレーニング方法などを学ばなければならないと考えていたほどだ。


「オーシャンズは、親分の他に投手コーチが一人いるだけと聞いていたが……」


「うん。あたしもまこっちゃんと同じ今年のシーズンが終わってから加入だからね。知らないのも無理はないよ。これからもよろしくね」


 誠の問いに、優輝は八重歯を見せて人懐っこい笑みを見せる。


 優輝のような人体を知り尽くした人物がオーシャンズのスタッフとしてチームを支えてくれる。その事実は誠にとってなにものにも代えがたい喜びであり、光明だった。誠は百万の援軍を得た指揮官のような気持ちになる。


「そうだ、まこっちゃん。お昼ごはんはどうするつもり?」


 優輝が誠に問う。


「これから、食堂へ行くつもりだが……」


「駄目だよ。まこっちゃんはスポーツ選手なんだから、ちゃんとした物を食べなきゃ。ここにまこっちゃんの分のお弁当もあるから一緒に食べようよ」


 優輝は、あきらかに女子高生が普段使いしないようなエナメルのごついショルダーバッグから茶巾袋に入った弁当箱をふたつ取り出す。


「わざわざ作ってくれたのか?」


「うん。言ったでしょ。食生活を含む選手の体調管理はコンディショニングコーチの役目だって。もう先生の許可は取ってあるからここで食べようよ」


 誠は優輝から受け取った弁当箱のフタを開ける。


 シソの葉とちりめんじゃこと細かく刻んだ梅干の入った混ぜご飯。インゲンとニンジンに豚肉を巻いて甘辛くソテーにした物。ふたつに切ったゆでたまご。タコさんウインナー。たまねぎの入ったポテトサラダ。それにプチトマトが3つ。


 優輝が作ってくれた弁当は、野球選手である誠のために作ってくれただけあって、ボリューム満点で野菜も豊富。しかも女の子が作った物らしく、彩りも実に鮮やかだ。


「うわっ! 凄っ!」


 自分が作った弁当のはずなのに、やたら大仰に驚き、目を丸くさせる優輝。


「なんで、自分の弁当なのに、おまえのほうが俺より驚いてるんだよ」


「いや~、あはははははっ」


 なぜか乾いた笑いで誤魔化そうとする優輝。


 だが、平静を装っている誠もまさかここまで豪華な弁当が出てくるとは思っていなかった。


 誠は優輝に心の中で感謝しつつ、混ぜご飯に箸を伸ばすのだった。


 シソの葉と梅干のさわやかな酸味、ちりめんじゃこの素朴な磯の香りが口にいっぱいに広がって誠は舌鼓を打つ。


「うまい。本当にありがとう、立花」


 それから誠は他のおかずにも箸を伸ばす。どれも本当においしくて、誠の心は幸せなぬくもりに満ち溢れるのだった。


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