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学校へ

その日、誠は夢を見た。


東京都内にある、成功者の証ともいうべき豪奢なデザイナーズ住宅の片隅、防犯とプライバシー保護が揃えられた都会型の中庭で少年がひとりでつまらなさそうな顔をして佇んでいる。


 そのデザイナーズ住宅は誠の実家であり、佇んでいる少年は誠である。


それは今まで何度も見た事がある、誠の過去の夢だった。


 そして、そんなふうにふて腐れている誠に、長身の老人が笑顔で話しかけるのだった。


「なんや、誠は野球が嫌いなんか?」


「嫌い。みんな父さんと俺の事を比べるし。それに俺、ヘタクソだし……」


「なに言うてるんや。野球はな、ヘタクソのほうがうまくなるようにできてんね」


「嘘だぁ」


「ホンマや、サッカーやバスケットみたいに息つくヒマもなく展開する球技と違って、野球は『|

』っちゅうもんが存在する。そこが野球の面白いところや。けど、その『間』っちゅうもんがクセモノで、ワンプレー、1球ごとに邪念も入るし緊張もする。けど何よりも『間』があったら、考えなあかん。けど、うまい奴や運動神経がええ奴ってのは考えるんが苦手な奴が多い。そんなんせんでも、普通に勝てるからな。けど、最終的には野球は考える奴が勝って、考えへん奴が負けるスポーツやねん。そやから、誠も今はヘタクソでも最終的には他のうまい奴よりも上になってる可能性のほうが高いねん」


「本当?」


「ああ、ホンマや。疑うんやったら、わしと一緒に練習したらええ。誠やったら親父よりも凄い野球選手になれるで」


 長身の老人は、精悍に笑う。それは現役時代同様にさわやかでどこか人の心を惹きつける笑み。


 それが、誠と『親分』こと西本一人との出会いだった。




 そこで、誠の意識は覚醒する。


 目を開けると、そこには西本屋の見知らぬ天井の木目があった。


〝久しぶりに見たな。あの時の夢を〟 


 今でこそ、青春の全てを野球に捧げる事に対して何の躊躇もない誠だったが、子供の頃はそれほど野球が好きではなかった。いや、それどころかはっきり言って野球というスポーツを嫌悪さえしていた。


 父親はプロ野球のスーパースター、当然、周囲の大人たちは誠に対して父と同じような野球の能力を期待したが、あいにく誠の体格は母親似で線が細く、運動神経も悪かった。そんな周囲に大人の期待が失望に変わる様子に耐えることができず、誠は当時、父によって半強制的に所属させられていた少年野球チームをやめて、自らの境遇を呪っていたのだった。


 そんな時だった。父のプロ野球選手時代の恩師だった、親分こと西本一人が誠の自宅に訪れ、ひとりでふて腐れている誠に声をかけたのは。


 誠は7年が経った今でも、あの時の親分の笑顔と言葉を忘れた事は一度もない。


 当時すでに野球の仕事から身を引いて、故郷である海鹿内市で隠居していたにもかかわらず、親分は誠との約束を守ってほぼ毎週、週末になると誠の自宅のある東京まで来てくれて野球を教えてくれた。


 親分との練習は、かつて闘将と呼ばれたその名に恥じない厳しいものだった。


 強烈な意志と目的意識を持ち、妥協という言葉を最も嫌う親分は、たとえ目の前の教え子がまだ小学校の低学年だからといって、甘えた態度を許さなかった。


 出来ると信じてやらせた事ができなかった時には容赦のない怒声を浴びせ、誠が練習中に手を抜いたり弱気な態度を見せた時は、烈火のように怒りその頬を平手打ちした。


 親分の指導方法が前時代的なのは分かっている。体罰に関しては誠もどちらかと言えば、否定派に入る。


 だが、誠は嬉しかった。


 今まで杉浦忠治の息子としてしか誠を認識していなかった大勢の大人の中で、親分だけが誠をひとりの野球人として初めて扱ってくれたのだ。


 その証拠に、リーグ優勝8回、日本一5回とプロの指導者としてはこれ以上ないくらいの栄誉を手に入れた人物にもかかわらず、親分は誠が昨日まで出来なかった一つのプレーができるようになっただけで、全身で喜びを露にして抱擁までしてくれたのだ。


 野球こそが今の誠の人生の全てだ。だからこそ誠の人生は、あの親分との特訓の日々から始まったと言っても過言ではない。


 それから、誠は親分の教えをどんな物より大切な宝物として練習に励み、投手として名門・高森学園の野球部に入部できるようになるまでの上達を果たすのだった。


 そして、目覚めた誠はすぐに練習用のジャージに着替える。隣の布団ではまだ忍は穏やかな寝息を立てている。


 誠が西本屋の外に出ると、東の地平から太陽が顔をのぞかせ、海鹿内市の空が徐々に明るい金色を増していく。どんな宝石よりも鮮やかに砂浜が輝く美しい鳩色の夜明けの中、誠は太平洋を一望できる海岸でランニングをするのだった。


 投手にとっては下半身の筋力と持久力は必要不可欠。昨日は列車による長距離移動のためにほとんど体を動かしていない。その分を補うために誠は登校前の時間を利用してランニングをしていたのだった。走り込み、投げ込みといった『込み』という名がつく二つの練習方法は、肩は消耗品という考え方のスポーツ医学やウェイトトレーニングなどの発展によって昔よりも重要視されていない。誠もそういったトレーニング方法などは否定しないが、それでも誠は、幼い頃から誰よりも投げ込みと走り込みを続けているのだった。


 だが、走り込みを続ける誠の腰に鈍痛が走る。


 寝れば治ると思っていた昨晩からの腰の痛み。しかしその痛みは慣れない布団で寝たせいだろうか、一晩経った今もひくことはなかった。それどころか少しずつ痛みを増していっている。 

誠は走り込みを早めに切り上げて西本屋の敷地に戻る。すると、やはり忍も登校前の時間を利用していて素振りをおこなっていたのだった。


「ずいぶんと早いな」


「うん。独立リーグは高校野球と違って、木製バットだからね。慣れるのは時間がかかるから、少しでも多くバットを振っておきたいんだ」


 そう答える忍の額にはすで玉のような汗が滲んでいる。 


 起床したのは誠のほうが早かったのだが、この様子ならその後にすぐ忍も起床したようだ。チームメイトが練習熱心なのは、投手としても仲間としても嬉しいかぎりである。


 そして、誠はシャワーを浴びた後に誠と共に朝食を取って、真新しい詰襟の制服に袖を通す。オーシャンズに入団するために海鹿内市にやってきた誠だったが、それは同時に今までいた高校から転校することを意味する。これから誠が通う県立海鹿内高校は、忍や千早も通っている海鹿内市唯一の高校である。


「誠、準備はできた?」


 誠と同じ詰襟の制服に袖を通した忍が問いかける。だが、その姿はどこをどう見てもただの男装女子にしか見えない。


「ああ。そういえば、西本も同じ高校に通っているんだよな。今日は朝からあいつの姿が見えないんだけど、もしかしてまだ寝てるのか?」


「違うよ。千早ちゃんは文化祭の実行委員だから、誠がランニングしているあいだにもう学校に行ったんだ」


「そんなにも早く行ったのか?」


「うん。千早ちゃんは親分と同じでリーダーシップがあるし面倒見もよくて気が利くから、何かイベントがあるたびに実行委員みたいなのをやってるよ。現にボクと同じクラスだけど、クラスの委員長もやってるし」


 千早の祖父である西本一人のふたつ名『親分』は、プロ野球選手や監督としてはありがちな、マスコミによって名づけられた作られた愛称ではない。その統率力の高さと義理人情に厚い性格から選手たちが自然に『監督』ではなく『親分』と呼び始め、それがいつのまにかファンやマスコミのあいだで定着しただけに過ぎない。


 そのカリスマ性、人望を集める親分肌の性格は孫の千早にも、どうやら受け継がれているようだ。誠はそういえば昨日の宴会の席でいつのまにか千早が場を仕切っていたことを思い出す。


「それじゃあ、学校に行こうか」


「ああ」


 そして、ふたりは並んで西本屋を出るのだったが……


 なぜか、忍は誠の腕をしっかりと組んで歩き出すのだった。


「あの、忍さん。ひとつ訊いてよろしいですか?」


「なに?」


「なんで一緒に学校にいくのに、腕を組んで歩かないといけないんでしょうか?」


「いいじゃん。ボクたち友達同士なんだし」


 まるで太陽が東から昇るという事実を告げるかのように、さらっと当たり前に答える忍。


 いやいや、どんなに仲のよい親友でも、男同士では決して腕を組んで登校はしない。しかし、反論する気力もなくした誠はただ黙って海岸沿いの国道を歩くのだった。


 忍は性的ないじめが原因で前にいた高校を辞めたと言っていたが、その原因はその容姿よりも普段の性格や行動のほうが大きい気がする。なにせ昨晩、寝ている時の忍はしょっちゅう「あん……」「やぁ……」だとかやたら艶かしい寝言や寝息を立てるのだ。ただでさえ性欲を持て余す男が多い寮生活であんな行動を取られたら、権力を笠に立てて暴走してしまう先輩がいても不思議ではない。


 だが、そうやって忍と並んで海鹿内高校を目指す誠だったが、学校が近づくにつれて別の不安が次第に大きくなっていく。


 誠は今まで野球名門校で寮生活をしていた。高校に入学して半年間、世間一般でいう学生らしいことはせずにほとんど野球に明け暮れた生活をしていた。果たしてそんな自分が前にいた学校とは180度違う地方の公立高校である海鹿内高校に馴染めるのだろうか。


 たしかに誠はオーシャンズで野球をやるために海鹿内市にやってきたのであって、学校生活は2の次のつもりだ。しかし、それでもやはりそこは年頃の高校生、新しい学校生活に馴染めるかは気にはなるのだった。


 しかし、海鹿内高校の校門付近まで辿り着いた誠は驚くべき光景を目の当たりにする。


 なんと多くの登校中の生徒で賑わう海鹿内高校の校門で、熊が暴れていたのだ。


 いや、正確には熊のような大きな体躯の、上下ジャージ姿の男が校門で怒声を発していたのだった。


「くぅおぉらららら!! 田中! キサマそのふざけた髪はなんだ? てめぇ、いい度胸してるじゃねえか! このままコメカミから脳漿、垂れ流したくなかったら、今すぐ家に帰ってそのいかれた髪を染め直してこい。いいな、分かったな?」


 あきらかに身長190センチ以上はあるであろう、熊のような大男が、髪を金色に染めている男子生徒を片手だけのアイアンクローで完全に宙に浮かせているのだ。


「すびばせん。ごべんなざい……」


「謝るくらいだったら、最初からやってくるんじゃねえ! このクソッタレが!」


 男子生徒は痛みに耐えかねて泣き叫びながら足をバタバタと激しく動かしているが、一向にやめる気配はない。いったいどんな握力と腕力をしていたら、あんな芸当をできるのだろうか?


「忍、あの校門付近で餓えた野獣のような怒声を上げながら、人間ひとりをアイアンクローで持ち上げている筋肉熊はなんなんだ? あれは俺たちと同じヒト科のオスなのかすらも疑わしいぞ」


「あの人は生活指導の中根先生だよ。でも、おかしいな。今週は生活指導週間でもないのに、なんで校門で風紀検査してるんだろ? でも、ボクたちはとくに校則違反をしていないし、大丈夫だと思うよ」


 だが、すでに誠は心の警告音を最大にして鳴り響かせていた。


 この手の脳筋系の男性教師が、初対面で誠の顔を見たときの反応は9分9厘決まっている。「なんだ、その反抗的な目つきは」とか「教師に歯向かうのか?」などと因縁をつけられるのだ。そして、否定しようものなら「嘘をつくな!」「その曲がった性根を叩き直してやる」などと、さらに興奮させてしまう結果となってしまう。


 しかし、それでも誠はその手の直情型の教師には慣れているので、大抵は無難な対応であしらう事ができる。だが、あの熊みたいに大柄な男性教師が相手では上手くあしらえる自信はない。それどころか命の危機さえ感じるのだった。


 誠はできるだけ視線を合わさないようにして、校門を通り過ぎようとする。


 しかし、その瞬間、まるで松の根のように太く大きな指が誠の肩に食い込む。


「待てよ」


 筋肉熊が誠の肩をがっちりとロックする。


 終わった──。


 その瞬間、誠の中で時間が凍りつく。


 だが、それは誠だけではない。その様子を遠目で眺めていた他の生徒たちも、その多くが誠を何者か分かっていないにもかかわらず同情のまなざしでみつめるのだった。今日のふたりめの生贄はあいつか──と。


「おまえ、見ない顔だな。名前は?」


「杉浦誠、ですけど」


「そうか」


 筋肉熊は大きく息をついて、黙り込んでしまう。


 それは嵐の前の静けさをという言葉が痛いほどわかる一瞬だった。


 ごくりと誠は生唾を飲む。だが……


「お待ちしていました。ようこそ海鹿内高校へ」


 それまで眼力だけで人を殺せそうなまでにいきりたっていた男が、それまでと180度変わった仏のような柔和な笑みを浮かべるのだった。





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