同居人
結局、再び宴もたけなわとなったところで誠の歓迎会は打ち切られたのだった。
誠は風呂に入るため、館内の廊下を歩いていた。
全室オーシャンビューである事が売りの西本屋は、親分の生家で海鹿内市に古くから続く老舗旅館なので、たしかに年季が入っているが隅々まで清掃が行き届いており清潔感に溢れている。
宴会場の近くに大浴場が存在するものの、誠は居候の身。住む部屋は従業員専用の離れの部屋を使用し、風呂も従業員用の風呂を使うことにしているのだった。
〝なんか腰が痛い〟
今日は長時間、列車の座席で座りっぱなしだったせいだろうか、腰に張りというか妙な違和感がある。ゆっくり風呂に入ってたっぷり睡眠を取って、早く今日の疲れを癒すとしよう。
だが、そのとき、廊下の向こう側から千早がゆっくりとした足取りで誠のほうに向かってくる。歓迎会のあいだ、ずっと無視し続けていたのにいったい何のようだと誠は思ったが、変に波風を立てるのは嫌なので、そのまま無言ですれ違おうとする。
「スギ……」
千早が誠の名を呼ぶ。驚いたことに千早のほうから誠に話しかけてくる。だが、それ以上に誠が驚いたのは「スギ」という呼び方だ。杉浦の省略形であるこの呼び方は、親分が誠の父である杉浦忠治に対して使っていた愛称なのだから。そして、誠には千早と親分の声が重なるのだ。親分のだみ声と千早の女性にしてはハスキーな部類に入る透き通った声という声質の違いはあるものの、発音や口調、その言葉を口にする時の表情まで今の千早は親分の完璧なコピーとしか感じられなかった。いくら血の繋がりがあるとはいえ、ここまで似ることがあるのだろうか。
「あんた、あのとき××××──」
だが、すれ違いにざまに千早が耳元のささやいたひとことは、それまで驚きを一瞬で吹き飛ばすほどの衝撃を孕んでいた。誠は一瞬で思考の全てを根こそぎ刈り取られたような気分になる。
千早のささやいたひとことは、今まで所属していたチームのナイン、監督やコーチはおろか親にさえ知られていない投手・杉浦誠に関する重要な秘密であった。
〝あの女、いったい何者なんだ〟
ひとことだけささやくと、そのまま悠然と歩いて去っていく千早の後姿を誠は鬼のような形相でみつめる。
そして、誠は胸に重い石を埋め込められたような煮え切らない心境で、風呂場の脱衣所の扉をスライドさせる。
西本屋の宿泊客用の大浴場の脱衣所は、全体的に「和」の趣を残しつつも設備は最新のものを取り入れていたが、従業員用の風呂場の脱衣所もほぼ同じつくりだ。
誠は着ていた服をさっさと籐で編みこまれた籠の中に入れて、風呂場に入るのだった。
そのときだった。檜と御影石で作られ、白い湯気が漂う夢の中のように淡い空間の中、突如現れる肌色の何かが誠の目を釘づけにする。
それは忍だった。
まるで手折られる寸前の花の茎のようなほっそりとした肢体。首筋と頬には湯の雫を滴らせた髪が貼りついていて、肌はほんの少し桜色に上気している。誠の目の前には一糸も纏っていない状態の忍が存在している。その立ち姿は、そのまま一葉の絵画として美術館に飾られていたとしても何の違和感もない美しさだった。
「うわぁああ!」
心臓が口から飛び出してしまいかねないほど驚いた誠は、ほとんど叩きつけるような勢いでスライド式の扉を閉めるのだった。
従業員用の風呂場は男女別で別れていない。その代わり聞いた話では時間帯によって区別していて、今は男の時間帯のはずなのだが……
「もしかして、誠?」
「ごめん! 本当にごめん! 時間帯、間違えた! 今すぐ出て行くから気にしないでくれ!」
「なに言ってるの、誠」
「ごめん、本当にわざとじゃないんだ。不可抗力なんだ。許してくれ!」
「いや、そうじゃなくて一緒に入ろうよ」
「へっ……?」
「なにか勘違いしているようだから言ってとおくけど、ボクは男だよ」
「ウソ……」
それは波乱に満ちた1日を締めくくる、今日いちばんの衝撃だった。
「それじゃあ、改めて自己紹介するね。ボクのフルネームは忍善功。よく間違われるけど、忍はファーストネームじゃなくて苗字なんだ。今年のシーズン途中に海鹿内オーシャンズに加入をして、野球をやりながら高校に通っているんだ。オーシャンズに来る前は奈良の栄進大付属で野球をやっていたんだ。ちなみにポジションは遊撃手だよ」
風呂あがり、濡れた髪をタオルで拭きながら忍はそう語るのだった。いちいちその仕草の女のように色っぽい。風呂場でこいつのきちんと股間を確認したものの、未だに誠は目に前の人物が男性だとは信じられなかった。
「おまえ、本当に男なのか」
「そうだよ」
「でも、オマエ、男だなんてひとことを言わなかったじゃないか」
「やだなぁ。誠は自己紹介の時にわざわざ性別まで言う人を見たことある?」
「ぐっ……」
くそぅ……。とんでもなく非常識な容姿をしているくせして、こんなときだけはサラッと正論を吐きやがって。あと、両手でタオルを使い髪の毛を労わるように挟み込むバスタオルでの拭き方はやめろ。男でそんな拭き方をしている奴、今まで見た事がないぞ。
しかも、その容姿で性別が男だということだけでも驚きなのに、忍は野球選手なのだというのだ。そのうえ奈良の栄進大付属の野球部といえば全寮制で甲子園に何度も出場している名門中の名門で、一般の生徒の入部は許されず、全てスカウトによって獲得してきた人材によって構成されているのだ。その野球部に在籍していたとなると、実力は相当なものになる。
ちなみに、いま誠と忍がいる10畳ほどの和室。この空間が誠と忍の共同部屋で、ふたりはこの部屋で生活を共にしなければならない。
明日の朝は早く起きたかったので、ふたりは会話を終えると、さっさと布団を敷いて蛍光灯の明かりを消す。
だが、新しい環境のせいだろうか、いつもは寝付きのいい誠だったが、この日の夜はなかなか意識を眠りに落とすことはできなかった。
「忍……」
窓から差し込む月明かりだけが光明の暗闇のなか、誠は天井の木目をぼんやりと見つめながら、隣で寝ている忍の名前を小さな声で呼ぶ。
「起きてるか?」
「うん。まだ寝てないよ」
「おまえは栄進大付属にいてたっていうけど何でやめたんだ? 大学に行くにしろ社会人野球の企業チームに進むにしろ、栄進大付属にいたほうがこんな田舎町……しかも今年リーグが発足したばかりの独立リーグのチームにいるよりも選択肢は多かったはずだろ?」
「簡単に言えば、『いじめ』ってやつかな。ほらボク、こんな見た目してるだろ? だからよく標的になったんだ。肉体的な暴力や理不尽なしごきだけならまだなんとか耐えられたんだけど、オナニーの手伝いとか性的な事はさすがに精神が持たなくて……」
自分から話題を振っておきながら、誠は激しく後悔する。野球部の寮という男だけの、しかも上下関係が絶対的な閉鎖空間では、女っ気がなさすぎて、ときどき『そっちの方向』に目覚めてしまう人間がいる事は知っているが、忍の過去は想像以上にヘビーだった。オナニーの手伝いとは具体的にどんな事をやらされていたのかは気になるが、聞けば確実に胸クソが悪くなりそうなので誠は聞くのをやめる。
「誠は甲子園で優勝した高森学園で投手だったんだろ。凄いな。やっぱり父親がプロ野球だけあって、誠は才能あるんだ」
今度は逆に忍が誠に話題を振るのだった。
「たしかに俺は甲子園で優勝したチームで投手をやっていた。でも、ただそれだけだ。俺は2年や3年の凄い先輩たちに甲子園に連れてってもらって、優勝させてもらったに過ぎない。それに、俺は親父とは違う。親父は正真正銘の天才だったが、俺には野球の才能は1ミリもなかった。そんな才能のない俺を甲子園優勝投手にしてくれた高森学園の監督、コーチ、ナインには今でも感謝している」
「だったら、なんで高森学園をやめてオーシャンズに来たの?」
「親分がいたからだ」
それは、誠の唯一にして最大、そして絶対的な動機だった。そう断じる誠の口調には1点の曇りもない。
「親分は、俺に野球の楽しさも厳しさも難しさも全て教えてくれた恩人だ。親分がいなければ間違いなく野球人としての俺は存在していなかった。だから今シーズン、オーシャンズが最下位に沈んで、親父から『親分を助けてやってくれ』と言われても、俺には何も迷いはなかった。だから、俺は今、ここにいる」
「そう……なんだ」
そう呟いたきり、忍は黙り込んでしまう。だが、忍の口調には隠しきれない憂いが滲み出ていた。しかし、誠はその事実に気づかない。会話がなくなり、やがてふたりは意識を深い闇へと落としていくのだった。