練習試合
日曜日──
迎えた海鹿内オーシャンズ対大和アントラーズの練習試合。場所は海鹿内市民球場。
空はどこまでも青く晴れ渡っていて、絶好のデーゲーム日和だった。
試合開始の1時間前。今はオーシャンズの守備練習の時間。誠もファウルグラウンド内にあるブルペンで肩を作っているところだった。
「まこと~」
内野スタンドからおっとりとした関西弁が響く。金網の向こう側には西本屋の女将さんに連れられて応援に来ている湖万里の姿があった。その頭には、かわいらしくオーシャンズの帽子をかぶっているのだった。湖万里だけじゃない。この日は公式戦ではないとはいえ、誠のオーシャンズでのデビュー戦なのだ。西本屋でおこなわれた宴会にいた人たちを始め、多くのオーシャンズのファンが横断幕や大漁旗などを持って内野席を陣取っている。
「あんな~、今日は誠がノーヒットノーランできるようにママと一緒にお守り作ってん。あげる~」
金網越しに誠にお守りを手渡そうとする湖万里。しかし、そのお守りは白地のフェルトにおそらく湖万里がサインペンで絵を描いたもののだが、その絵はなぜか不吉なドクロで口元からは赤い血を垂れ流していた。しかも、右ヒジがありえない方向に曲がっているなど、正直に言って投手としては、とても縁起がいいものとは思えなかった。
衝撃と戸惑いで誠は言葉を失う。
「まこと~、うちが作ったお守りいらんの?」
寂しそうな顔を見せる湖万里。誠は慌ててお守りをポケットに入れる。
「ううん。物凄く嬉しいよ、湖万里ちゃん」
もしかして湖万里ちゃんは人とは違うぶっ飛んだセンスの持ち主かもしれないと思ったが、誠はその考えを振り払う。誠をイケメンだと褒め称える穢れのない素直な心を持った少女が湖万里ちゃんなのだ。彼女の価値観が、他人と違う独特なものなわけがない。世の中の王道。正統派に決まっている。
そして、誠は湖万里に手をふり笑顔をつくるが、すぐに表情を引き締めて投球練習を続ける。
左足を高くあげて、投球動作を開始する誠。腕を振り、ボールを潰すようなリリースで全ての運動エネルギーを込めて、鹿村のミットめがけて誠は全力投球するのだった。
〝よし!〟
誠は心の中で快哉をあげる。
この日を目標に調整しただけあって今日の誠は絶好調だった。
調子の悪い日は、わずか18,44・メートル先で構えている捕手の姿が何百メートルも先にいるような錯覚に陥るが、今は手を伸ばせば届きそうな距離に座っているように感じられるのだった。ボールを正確にコントロールするためには、五本の指の中で最も神経を使わなければならないのは、じかに縫い目にかける人差し指でもなければ中指でもない。薬指の安定こそが制球の安定だと誠は確信していた。それが、高森学園時代に来る日も来る日もバッティングピッチャーを続けたことによって、辿り着いた真理である。
その薬指の微妙な感覚、体調も万全で、9イニングだけではなくその倍の18イニングも完投できそうなほど気力と体力は有り余っている。
だが、その絶好調の誠を前にして──
「あいかわらずのヘナチョコ球やのう。まあ、オマエはピッチャーとして決定的な欠陥があるから持って7回、普通にいけば5回にKOされるやろ」
鹿村はいつもと変わらない悪態をつくのだった。
〝無視。無視〟
鹿村の言葉など意に介せず、誠は淡々と投球練習を続けるのだった。
やがて試合が近づき、グラウンド、スタンド共に緊張感が高まってくる。だが、誠の心には緊張も気負いもなかった。誠も早く投げたいと気もちは高ぶっているのだが、頭の中は驚くほど冷静だった。この程度の舞台で緊張していては五万の大観衆の前で投げなければならない甲子園のマウンドに立てるはずがない。誠は投球練習を続けて、静かにプレイボールの時を待つ。
「ス、ス、ス、スギ……。モ、も、も、もうすぐ試合が始まるけど、だ、大丈夫?」
そこに、監督としてユニフォームを着た千早が現れる。
誠や鹿村が着ているものと同じものなのに、腰の位置が高くスタイルのいい千早が着ると恐ろしくスタイリッシュに見えてしまう。胸には「OCEANS」と書かれているが、バストが大きいせいで文字が大きく波打ち、まともに読むことが出来ない。正直、下手な女性服を着ている時よりも健康的なエロスを感じるのだった。
しかし、その顔はひと目で分かるほどいつもの千早と違っていた。目の下は、まるで墨を塗ったような濃いクマがびっちりと埋め尽くしており、その顔色はひからびた白菜のほうがまだ健康的だと思えるほど色艶を失っていた。
「あ、あんた、大丈夫? 初先発だかって緊張していない?」
「いや、どう考えても緊張してるのはオマエだろ!」
今日は誠のオーシャンズでの初登板の日だが、実は千早にとっても監督として指揮を振るう初めての日でもある。そして、メンタルが弱い千早のことだ。おそらく昨晩は緊張で眠ることができずに体調が最悪なのだろう。
「あ、あたしは緊張なんかしてないわよ。スギが心配だから、見に来ただけよ」
「ウソつけ! あのなあ、たしかにこの試合はオマエの監督としてのデビュー戦かもしれないが、今日は公式戦じゃなくて練習試合だろ? 負けたったって、プロ野球の試合みたいに誰もオマエを罵倒したり物を投げつけたりなんかしねーよ。それに監督っていったって、実際に試合の時に指揮を取るのは鹿村さんだろ? オマエが緊張してどうするんだよ?」
「そ、そんなの……言われなくたって分かってるわよ……」
それまで虚勢を張っていた千早が一変、今度は蚊の泣くような声を絞り出す。そして、瞳にうるうると涙を溜める。
「でも、どうしようもないじゃない。気にしないようにって考えれば余計に気にしちゃうし、緊張しないようにって意識すればするほど緊張しちゃうんだもん。……うぇ!」
そして、千早はあまりの緊張と精神的苦痛の耐え切れず、吐き気までも催してしまう。あーもう、こいつはどこまで豆腐メンタルで、情緒不安定なんだ。
「いいか。こういう時は深呼吸しろ! 深呼吸!」
「う、うん……」
「ほら、腹にチカラ込めて、大きく吸って、吐いて。また大きく吸って、吐いて~」
誠と千早はブルペンで深呼吸を繰り返す。しかし、なぜこれから試合で投げなければならない選手が監督を落ち着かせなければならないのだ? 普通、こういう時は監督が選手を落ち着かせるもものだ。立場が逆だろ? と誠は思ったのだった。
「落ち着いたか?」
「うん、もう大丈夫……ううううぅおおえぇぇえええええ!!!!!」
いったんは落ち着きを取り戻したかに見えた千早。しかし、たかが深呼吸をした程度ではやはりプレッシャーを取り除けるはずがない。重圧に耐え切れなくなった千早の喉と口腔は、逆流してきた胃液と共に嘔吐物を誠のユニフォームに盛大に撒き散らすのだった。
衝撃で棒立ちとなった誠は、餌をもらう時の金魚のように無言で口をぱくぱくと開閉させる。
そして、そのあいだも千早は吐き続け、液体と固体の中間の物体が滴り落ちる時独特の、粘っこい嫌な音を延々と響かせるのだった。
こうして、誠の新品のユニフォームは、グラウンドの土で汚れるより先に千早の嘔吐物によって汚されてしまうのだった。