約束
しかし……
「いやん。誠、すごいイケメンやん」
頬をぽ~っと赤く染めて、くねくねと湖万里は身をくねらす。
「なんで、誠、こんなイケメンやのに顔を隠すん? もったいないやん」
イケメン……
テレビや日常の会話なので何度も聞いた事がある、わずか4文字のカタカナによって構成された単語が、まるで生まれて初めて聞いた言葉であるかのように誠の心に響く。
そして、その言葉は乾ききった大地に一滴の雨が染み渡るかのように、今まで荒みきった誠の心を救済するのだった。冬でもないのに誠は己の体がわずかに震えているのを自覚する。もちろん寒いのではない、その震えは感動から来るものによってだった。
「たいへん! 湖万里ちゃん、今から眼科の先生を呼んでくるわね!」
ダッシュで眼科医を呼びだそうとする千早。
「いい。湖万里ちゃん、あたしの指を見て。何本に見える?」
Vサインを作る千早。
「2本……」
「ちゃんと見えているわね。じゃあ、もう一度聞くわよ。この顔は……?」
スマホでジャニーズタレントの画像を見せる千早。
「イケメン……」
「じゃあ、これは?」
今度はコワモテのプロボクサーやプロレスラーの画像を見せる。
「怖い顔……」
「じゃあ、スギの顔は?」
「超イケメン❤」
「どうして? なんで? なんで? 湖万里ちゃん? こんな典型的なこの顔にピンときたら110
番顔の男がイケメンなの?」
「え~? なんで~? 誠はイケメンやん。こんなええ男、海鹿内に今までおらんかったやん。それに誠は、いっぱい野球で努力してるんやろ? それを含めてええ男やん」
「そんな、信じられないわ……きゃあぁぁあああーッ」
跳ね回るピンボールみたいな声で千早は悲鳴をあげる。
「なんで、あんたは泣いてるのよ!」
誠は千早のその声で、頬に流れる熱い涙に初めて気がついた。乱暴に服の袖で涙をぬぐうが、それでもこの熱い液体は次から次へと流れてくるのだった。
今まで、凶悪な目つきとか犯罪者顔とか言われた事はあっても、ただの一度もイケメンだと言われたことはなかった。
女子なんて人を見かけだけで判断して、普段は「えっ? 野球部ってこのクソ暑いなかでも練習やるの? マジ? あいつらマゾじゃね?」などと馬鹿にしてサーティワンのアイスクリームを頬ばりながらとっとと帰宅するくせに、いざ甲子園に出場して敗退でもしようものなら、アルプススタンドの雰囲気に流されて「わたしたち、みんながんばったよね~」などとテレビカメラの前で抱き合いながら、青春を満喫しているわたしたちに酔いしれるクソみたいな思考回路をしている腐った生き物だと思っていた。
それなのに、こんなところに天使がいるとは思わなかった。
今までバレタインデーでチョコを大量にもらうイケメンに対して虫歯が悪化して顎から脳髄にかけて全て腐って死んでしまえ! と毎年思っていた怨念が綺麗さっぱり消えていく。
誠はこれまでの湖万里と出会うまでの人生のすべてに感謝するのだった。
「なあ、誠~。この本、読んでえな~。うち、誠の綺麗な声でこの本、読んでほしいねん」
湖万里は誠に1冊の本を手渡す。誠は最初「絵本かな?」と思ったが、そうではなかった。渡されたのは20年以上も前に少年誌で連載されていた野球漫画の単行本だ。湖万里はおろか、誠だって連載していた頃は生まれていないのでリアルタイムでは読んだことはない代物である。なんで、小学生、しかも女の子である湖万里がこんな漫画を知っているのかが不思議だった。
「ああ、いいよ」
それでも、断る理由などない。たとえ今、誠の喉にコブシ大のポリープができていたとしても、きっと朗読をしてやるだろう。
「グワギャゴワンガギャアーーン! ガバァ。ヌウ。キャァ~~ア。ホームランだあ。抜けろ。ところがこいつの打球はこのままいくんだスタンドへ」
そして、誠はベッドに腰を下ろし、湖万里を膝の上に座らせて野球漫画を朗読してあげるのだった
「はあ~。なんで誠は、そんなに美声なん? イケメンだけやのうて、誠は声もキレイやな~❤」
ぽうっと頬を赤らめて陶酔の表情を見せる湖万里。
それからは、誠にとって湖万里と過ごす時は夢のような時間だった。
しかし、そんな楽しい時間も終わりはやってくる。
「ごめん。湖万里ちゃん。俺はそろそろ練習に行かないと駄目なんだ」
湖万里と過ごす時間が魅力的過ぎて夢中になっていたが、見舞いに予定していた時間をだいぶオーバーしていることに誠は気づき、立ち上がる。
「え~そうなん。うち、もっと誠と遊びたいのに……」
「俺もそうなんだけど……。そうだ来週の日曜日には湖万里ちゃんは退院してるんだろ? だったら、試合に来たらいい。俺が登板するからさ」
独立リーグの公式戦は、すでに9月で全日程を終了しているが、来シーズンを見据えた練習試合は今でもおこなわれている。そして、来週と再来週の日曜日に同じ近畿独立リーグのチームと市民球場で2週続けて練習試合をおこない、誠は来週におこなわれる練習試合で先発登板する予定になっている。
「いやや」
しかし、湖万里はクビを横に振る。
湖万里は病室でスポーツ新聞を読み、野球漫画の朗読を誠にせがむほどの野球好き。誠が登板する試合なら喜んで観にきてくれると思っていただけに誠は驚く。
「なんで?」
「だって、オーシャンズの試合は、負けてばっかりでおもろうないもん」
ふてくされるように口を尖らせて、ぷいっと横を向く湖万里。
すると、横にいた千早が誠に説明してくれる。
「湖万里ちゃんもね、シーズン中はよく応援に来てくれたんだけど、いかんせんオーシャンズは弱すぎたのよ。それで不甲斐ない試合ばっかり続いたから、もうすっかり応援する気をなくしているのよ」
「なんだ。そんなことか」
誠はあっけらかんと答える。
「それだったら心配ないよ、湖万里ちゃん。だって来週の試合は俺が先発するんだから、負けるわけないさ」
「ホンマ?」
「ああ、本当さ。湖万里ちゃんが応援してくるんなら、完封どころかノーヒットノーランだって軽いもんさ」
「それやったら、うち観に行く。誠、約束な。今度の試合、絶対ノーヒットノーランやってえな」
小指を差し出す湖万里。
「ああ、約束な」
誠は湖万里と指きりげんまんするのだった。
そして、誠は海鹿内高校に向かうために総合病院の外に出る。
「ちょっと、スギ!」
その背中を千早が息を切らして追いかけてくる。
「あんた、ノーヒットノーランなんて、あんな約束して大丈夫なの?」
「投手は先発する時は、いつも完全試合をやるつもりで臨むもんだよ。それに、相手は今年の公式戦で5位だった大和アントラーズだろ? 大丈夫さ」
関西独立リーグは2府4県にそれぞれ1チームずつ存在しているので全6チームだ。そこで5位ということは、オーシャンズ以外では最も弱いチームだということだ。
「でも……」
だが、それでも千早は不安を隠せない。そして誠は誠で、千早のその反応自体が自らの実力を過小評価されたようで気に食わないのだった。凄みの利いた声で反論を封殺する。
「いいか。俺は高森学園で死ぬような思いをして1年でレギュラーを掴み、甲子園の猛者たちと極限の状況下で対戦し、投球術を磨いてきたんだ。そこらの高校生とは違う。俺は2年後もドラフトでプロから指名を受けるつもりなんだ。しょせんは独立リーグのチームはプロや企業チームに入れなかった選手の集まり。しかも関西の独立リーグは四国や北信越のリーグよりもレベルが低いんだ。そのリーグのたかが5位のチームなんて簡単に抑えてやるさ」
「あんたがそう言うんなら、もう何も言わないけど……」
千早は誠の迫力に押されて、言葉を失うのだった。