無視・賞賛・批難
翌日、学校が終わってから誠は親分が入院しているという海鹿内市にある総合病院へと足を運ぶのだった。
地元の名士であるにもかかわらず、親分の病室は個室ではなく四人部屋だった。なんでも病気のときにひとりだと逆に気が滅入るから近くに人がいたほうが落ち着くというのだ。
その考えが、実に親分らしかった。
そして、誠はベッドの近くで手を腰の後ろに回した直立不動の体勢を取り、親分と話をする。
「おお、すまんのぅ、誠。わざわざ見舞いに来てくれたんか?」
親分は「そのままでいいですから」という誠の言葉に反して、ベッドから上半身を起こす。
「ワシのことはええんや。最近はカラダの調子もええ。それよりも誠も堅っ苦しく立ってないで、その椅子にでも座ったらええ」
親分は屈託のない口調で、幸せそうに笑み崩れる。
やわらかい関西弁ではあるものの威厳を感じさせるダミ声。すっかり白くなってまるで雪のような頭髪。目元に深く刻まれたやさしげな笑い皺。今ではすっかり好々爺といった感じだが、かつては闘将と呼ばれたほどの激情家で、父や仲根を始め、今でも頭の上がらない野球人は多い。それが、この親分こと西本一人である。
「それで誠、海鹿内の生活には慣れたんか?」
「ええ。旦那さんや女将さんを始め西本屋の人たちも親切にしてくれますし、学校にも仲根先生がいているので安心して通えています」
「そうか、そうか。それを聞いて安心したわい」
最初は、お互いの近況の報告などで始まった2人の会話だが、誠も親分も根っからの野球人。いつのまにか会話はオーシャンズの話題に移るのだった。
「今オーシャンズのヘッドコーチを務めている鹿村さんは、親分が呼び寄せたんですよね?」
「おお。そうや。カムなら監督の千早を指導者としてバックアップしながらも、選手としても戦力になってくれるからのぉ」
「正直、俺はあの鹿村さんのもとでは野球をやっていける自信がないです」
そして、誠はいま自分が抱えている不安を口にしてしまう。それは普段は悩みや葛藤を他人には漏らさず自分ひとりの力で解決しようとする誠が滅多にしない弱気な発言だった。
「それはどういうことや?」
親分が眉を顰める。
「じつは……」
そして、誠は今までの鹿村の言動とやりとりを全て親分に報告するのだった。
親分は腕を組み、ただ黙って誠の言葉に耳を傾ける。
「それは凄い!」
誠の話を聞き終えると、親分は病室であるにもかかわらず、そのダミ声を精一杯張り上げて唸るのだった。
「なにがなんですか? 親分」
誠が疑問の声をあげる。
「ええか。誠。誠はカムに貶されてばかりやと言うとるが、それが南洋ファルコンズで監督をやっていた頃からのカムの選手の教育法なんや」
「どういうことなんですか?」
「カムはな、指導者としては基本的に無視・賞賛・非難の3つを使い分けて選手と接するんや。 まずは、まだまだ力不足な選手に対しては『無視』を貫いて様子を見守るわけや。次に、少し見所がある選手に対しては『賞賛』することによって成長を促す。そして、さらに期待できる選手に対しては、非難することによって奮起を促してより高いレベルに導こうとするんや。
そやから、無視と賞賛を飛び越えていきなり非難するんやから、カムはそうとう誠のことを期待しとるわけや。誠はもっと自信を持ってええ!」
「そうですか……」
歯切れの悪い口調でそう返答する誠。誠にとって親分の言葉は絶対的なものなのだが、それでもやはり納得できない感情は存在するのだった。
「まあ、誠の立場からすると、いきなりこんな事を言われても納得でけへんやろ。けどな、カムはテスト生から成り上がり、普通の人間やったら単体でも精神的に耐えられへんようなプロ野球の四番、捕手、監督の三役をひとりでこなしてた男や。その野球頭脳と経験は、一緒にバッテリーを組む事によって絶対に誠の将来にためになる。そやから、わしはカムにオーシャンズのヘッドコーチを頼んだんや。
それに、カムにとってスギは憧れの存在でどうしても適わんかったライバルや。もちろんその息子の誠の事もどうしようもなく気になる。けど、どう接したらええんか分から必要以上にけなしてしまうんやろ。カムはツンデレやからのう」
親分は悪戯っぽく笑う。
昨日の忍と同じような事を言っているのも驚きだが、それ以上にすでに70歳を超えている親分が「ツンデレ」などという単語を知っている事のほうがはるかに衝撃だ。どこでそんな言葉を覚えんたんだろうか?
「おじいちゃん! これ、頼まれてた本と着替え持ってきたから」
「おお、千早ありがとう」
千早が病室に入り、親分の雑誌と着替えを手渡す。
「それじゃあ、俺はこれで失礼します」
「ちょっと、待ってスギ!」
退室しようとした誠を千早が呼び止める。
「この後、時間はある?」
「少しくらいなら別に構わないが……」
「じゃあ、一緒に来て! それじゃあね、おじいちゃん、また来るから」
親分のいる病室から退室するふたり。
そして、千早は誠を案内する。しかし、千早は外には出ずに病院の建物内をひたすら歩く。
「いったい、どこ連れてくつもりなんだ?」
「じつはね、スギに会ってもらいたいコがいるの」
「誰なんだ?」
「今の西本屋の旦那夫婦の子供……つまり、あたしの従兄弟に当たるコで、湖万里ちゃんって名前の小学生の女の子。今は入院してるんだけど、野球が好きであんたにずっと会いたいって言っってるのよ」
その言葉通り、千早が歩いていく先にあったのは、同じ総合病院内にある小児病棟だった。それまでの薄暗く、薬品臭の漂う一般病棟の陰気な雰囲気から一変、小児病棟は壁などに動物やアニメのキャラクターの切り絵などが貼られており、ことさら明るい雰囲気を作り出そうとしている。
「ああ、そうだ! あんた、湖万里ちゃんに会うときは帽子を被っててよね。あんたの前科30犯の目つきのままだと、間違いなく小児病棟じゅうが阿鼻叫喚のパニックなんるから」
「わかったよ」
えらい言われようだが、誠は反論できなかった。たしかに初対面の小学生の女の子相手に素顔を見せて泣かれない自信がなかった。誠は屋内に入ってからは外していた帽子を再びかぶるのだった。
「ここに湖万里ちゃんはいるから」
ふたりが小児病棟の病室に入ると、そこにはひとりの少女がベッドの上で上半身だけ起こした体勢でスポーツ新聞を読んでいた。誠は一目で、その少女が千早の従兄弟の女の子だと判断する。たしかに、この少女はタレ目がちで猫のようなアーモンド形の瞳の千早とは似ていないように思えるが、鼻や口などのパーツは千早そっくりだし。なにより、その雰囲気が千早の叔父であり、親分の次男である西本屋の若旦那を思わせるものだった。
「あっ! ねえね、来てくれたん?」
湖万里という少女はあまり抑揚を感じさせない関西弁で口にする。それは、どちらかというと海鹿内市がある和歌山弁よりも舞妓さんなんかが使用する京都弁に近い響きを持っているように思えた。
見たところ、小学生といっても高学年でなさそうだ。ななつ、やっつ……など、年齢を数える時に「つ」がつくくらいの年齢の女の子だろう。
「ねえね、その隣におる人はもしかして……」
「そうよ、湖万里ちゃんが会いたがっていた杉浦誠よ」
「やっぱり、この人が杉浦誠なん?」
湖万里は読んでいたスポーツ新聞を放り出し、ベッドから立ち上がってそのまま誠の胸のダイブするのだった。
「誠や、誠。ホンマモンの杉浦誠や~」
いきなりダイブされて驚く誠だったが、なんとか湖万里を胸で受け止めることに成功する。
「ちょっと湖万里ちゃん!」
病人であるはずの湖万里のアクティブな行動に千早は慌てふためくが、湖万里はそんな事は気にせず、誠に抱きかかえられた体勢のまま胸の中ではしゃぐのだった。
「うちな~、今年の甲子園で見たときから、誠のファンやねん。そやから、ずっと、ねえねに会いたいって言うてたねん」
誠にとって小学生といえ、初対面の女の子にこんなにも歓待されたのは生まれて初めての経験だった。たしかに、スポーツ新聞を読むなど小学校低学年の女の子の割には変わったところはあるものの、その人懐っこい子犬のように愛想を振り向いてくれる湖万里に誠の心はすでにときめきかけていた。
しかし、千早は険しい顔つきになり無言で帽子のツバを押さえる仕草をする。誠は湖万里を抱きかかえているため、下から覗かれても目つきが見えにくいようにさらに帽子を深くかぶれというアイコンタクトだった。
誠は慌てて、もともと目深にかぶっていた帽子をさらに深くする。
「誠、部屋の中やったら帽子を取らなあかんで~」
しかし、湖万里はそんな誠の帽子をピンポイントでは奪いにくる。露になる誠の素顔。一瞬で誠と千早の動きが凍りつく。数瞬後に起こりうるであろう、湖万里が恐怖に怯えて泣き叫ぶ映像が、誠の脳裏に映し出させるのであった。