投球練習
それから、野球教室は定刻どおりに終了し、誠は鹿村との投げ込みをおこなうためにウォーミングアップを済ましてから肩を作る。
その時の誠の心は、確実に喜びで落ち着きを失っていた。
たしかに、口を開けば誠に対する嫌味を言う鹿村の人間性は好きになれない。嫌悪しているといっても過言ではない、しかし、それでも鹿村はプロの世界で20年以上も捕手として現役を続けてきた一流の野球人であることは間違いない。そんな相手に、直接ボールを受けてもらえるのだから嬉しいし、緊張しないわけがないのだった。
やがて準備ができた誠のもとに、キャッチャーミットを手に持ち、マスクとレガースとプロテクターを身に纏った鹿村がブルペンに現れる。
「それじゃあ、やろうか」
その口調、歩く速度はとても野球選手とは思えないほどスローで、まるで大型の草食獣を思わせるものだった。かつて日米野球で来日したメジャーの選手たちに『ムース(ヘラ鹿)』とあだ名されたのも頷ける。
立ち姿勢ではなくいきなり蹲踞の形で構える鹿村に対して、誠はまずストレートを投げる。
誠の指先から放たれたボールは、一瞬で約18,44メートル先に鹿村のミットに収まり、乾いた音を響かせるのだった。
「おっそいの~。ハエが止まりそうやないか」
相変わらずの皮肉にむっとするが誠は我慢する。たしかにあの言い方は腹が立つが、誠の球速が遅いのは事実だ。野球の名門高校には『右のオーバースローで最高球速が135キロに満たない投手は、サイドスローかアンダースローに転向させたほうがいい』というマニュアルが存在する場合があるが、残念ながら誠の最高球速はそれ以下だ。しかし、誠の投手としての長所は単純な最高球速ではなく、低めに投げた時でも高めの時と球速が変わらない球持ちのよさ、そしてストレートと腕のふりがほとんど変わらない変化球を低めのコーナーに投げ分けることができる制球力だ。
それを見たら、鹿村の考えを改めるはずだ。
「よし、次は変化球を投げてみぃ」
「はい……」
驚いたことに、ストレートをたった1球投げさせただけで鹿村は誠に変化球を要求する。
誠のストレート(フォーシーム)以外の持ち球は、カーブとスライダーである。誠はカーブ、スライダーの順番で投げ込みを続けるのだった。
「スギ、おまえのストレート以外の持ち球は、このカーブとスライダーだけか?」
「はい。そうです」
「……ならんな」
鹿村は立ち上がり、被っていたマスクを外してそう呟く。
「えっ……?」
「話にならん言うとんのや。この程度のボールやったら、通用せえへん。杉浦忠治の息子で甲子園優勝チームの投手やいうから、少しは期待したんやが、所詮は高校生のガキやな。時間を無駄したわ」
そして、鹿村はぼりぼりと尻をかきながら、そのまま誠に一瞥もくれずにブルペンを去っていき、最後には放屁するのだった。
ひとり、取り残されしまった誠。
誠が鹿村に対して球は、全3種類の球種をそれぞれ1球ずつ。合計たったの3球だ。
最初はあまりのあっけなさに茫然とその場で立ちすくんでいたが、まるで焼けつく酸が鉄を溶かすかのように徐々に怒りの感情が思考を蝕んでくる。
あの男はいったい何様のつもりなのだ。全知全能の神でさえ、どんな悪人を裁くのも今際の際を見定めてからだ。それにもかかわらず、神とは程遠い存在であるはずのあの男は、たった3球で誠の投手に対する才能を見限ったのだ。なんという傲慢! だが、何よりも誠が怒りを覚えるのは、鹿村にボールを受けてもらえるのを嬉しいと思っていた自分に対してだった。あの男は最初から誠を認めるつもりはなかったのだ。わざわざ嫌味を言うために、誠の練習に付き合ったのだ。そんな品性の男に期待してしまった自分の浅はかさがなによりも恨めしい。
「クソッタレ!」
誠は悔しさのあまり、手につけていたグラブをマウンドに叩きつけるのだった。