鹿村克也
誠がオーシャンズ入団を決意してから数日たったある日、球団は正式に親分の辞任を表明して千早が監督に就任することを発表した。
親分の孫娘で、しかも現役の高校生の監督就任は一部の野球関係のマスコミをおおいに賑わせたのだが、やはり所詮は注目度の低い独立リーグ。2週間もすればその話題は次々に更新されるニュースの渦に埋もれていく結果となったのだった。
これからオーシャンズは『名目上は』千早をトップとして、新たなスタートを切ることになる。……とはいえ、近畿独立リーグの公式戦がおこなわれるのは、4月から9月の6ヶ月間。今シーズンはすでに終了しているので、誠がオーシャンズの投手として公式戦に登板するのは、早くても来年の四月。今は十月なので、まだ11ヶ月も先だ。
だからといって、チームとして活動がないわけではない。たとえばオーシャンズの掲げている理念に「野球を通じての、海鹿内市を始めとする和歌山県全体への地元密着と地域貢献」というものがある。だから、練習がない日など地元のゴミ拾いや消防訓練や祭りの準備などのボランティアに参加しなければならない事がある。そして、そういった活動への参加に消極的な選手は、実力者でも容赦なくチームと契約させてもらえない……ようするクビになってしまうのだ。実力だけがモノをいうプロ野球ではありえない話だが、地元密着や地域貢献を掲げる独立リーグではこういう事もありえるのだ。
そして、この日もそういうイベントで、地元の小・中学生を対象とした野球教室をおこなっていた。ただ、野球教室といっても参加には事前の予約や参加料が必要だとかそういう堅苦しいものではなく、休日の市民球場を利用して希望者に対して選手が無料で個別に指導をおこなう、途中参加も途中解散もOKな非常にアバウトなイベントだった。
「忍さん、わたしにボールの投げかたを教えてください」
「あたしにはボールの取り方を教えてください」
教えてもらう小・中学生よりも指導するオーシャンズの選手のほうが多いという悲しい状況のグラウンド。だが、そんな状態でも忍に教えを請う者は後を断たない。──というよりも、この野球教室に参加している者の九九パーセントが忍目当ての女子中学生なのが現状だ。
もちろん彼女らの目的は、野球の技術指導よりも中性的な美少年である忍との会話とスキンシップである。忍と話をしてはキャーキャー騒ぎ、捕球や送球の体勢を教えてもらうために忍に身体を触ってもらってはキャーキャーと喚き散らすのだった。
「あの、忍さん野球のボールの握り方を教えてくれませんか」
「ああ、いいよ。ボールはね、こうやって指に縫い目が4ヶ所で交差するようにして握るんだよ」
女子中学生の手をまるで恋人にやるように丁寧に握り、1本1本の指を丁寧に折り曲げてやりながら忍は指導する。
「あの、分からないんでもう1回やってもらえますか?」
「うん。それじゃあもう1回、最初からやり直すね」
「ああ……すてき……」
陶酔を孕んだ羨望のまなざしで忍を見つめる女子中学生。
「あの、わたしにもボールの握り方を教えてください」
「わたしも!」
「わたしにはバットの握り方を教えてください。──っていうか忍さんのバット握りたい!」
その光景を見ていた他の女子中学生は、我先にと忍に群がるのだった。
〝どうせ野球にたいして興味がない奴ばかりで、教えてやったって明日になりゃ忘れてんだから、そこまで丁寧に教える必要はないのに……〟
苦々しく誠がその光景を見つめていると……
「あの忍さん、わたし、バッティングが引き手主導じゃなくて緩やかなタテ軌道を描けなくて困っているんですよ。あとテークバックの時にバットのヘッドが投手のほうに入り込む悪癖があるんですけど、どうやったら矯正できますか?」
なぜかやたらとテクニカルに関する知識が半端ない小学生が現れる。
野球にたいして興味がない奴ばかりなんて言ってごめんなさい。そして、忍さん。せめてその子だけには、丁寧に教えてやってください。
「ところで、忍さん、さっきからあのこっちをのほうを睨んでいる男なんなんですか?」
「オーシャンズのユニフォームを着ているけど、職員の人ですか? あんな態度の悪い奴、クビにしてくださいよ」
「えっ? 選手なんですか? あんな極悪を煮詰めたような顔をした男が?」
「また、わたしたちを視姦してきた。イヤ! 妊娠させられる!」
「ええっ? 忍さんのルームメイト。イヤ! あんな男が忍さんと同じ部屋の空気を吸っているだなんて、信じられない!」
「いっそのこと、死んでくれないかしら。あっ……でも、今すぐ死んだら忍さんに迷惑がかかるから、球場の外でトラックに轢かれてくれたらいいのに」
容赦も躊躇いもなく誹謗中傷してくる女子中学生軍団に、誠は今すぐバットを振り回してグラウンドを血の惨劇に変えたい衝動に駆られるのだった。
「あいかわらず、オマエは女にもてへんのぉ……」
やることがなくひとり佇んでいる誠に対して、オーシャンズのユニフォーム姿の中年男が声をかける。
「まあ、父親ゆずりのその凶悪の目つきやったら、しょうがないのぉ」
男は粘着質な関西弁と陰湿な笑みで誠を嘲るのだった。
嫌な人が来た……誠は即座にそう思い、心の中で身構えるのだった。
この男──名前は『鹿村克也』といい、このオーシャンズの選手兼ヘッドコーチである。だが、役職上はヘッドコーチであるものの、監督の千早は指導者としてはズブの素人なので、実質的な監督としての権限を握っているのはこの男である。
現在は48歳。かつては大阪の難波に本拠地を置く南洋ファルコンズで正捕手を務め、後に選手兼任監督まで登りつめた偉大な野球人に違いないが、誠はどうしてもこの男に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
なにせ、出会いの段階で誠の鹿村に対しての印象は最悪だった。
「おう、女のケツを追いかけて、野球しにきたボンボンちゅうのはオマエか? お嬢にとってオマエは救世主にみたいなもんやから、なんでも言うこと聞いてくれるやろ?」
挨拶に出向いた誠に対して鹿村が放った第一声がそれだった。もちろん誠は親分と野球をするために海鹿内市に来たのであって、千早が目的なのではない。失礼にも程がある。その時に一緒にいた忍は「今のは、誠の緊張をほぐすための鹿村さんなりの気遣いだから……」と後でフォローしていたが、はっきり言って、初対面の人間相手にこんな言葉を吐くような品性の人間を敬えるほど、誠の人間としての器は大きくない。
しかも、それだけでなく、その後に練習やイベントなどで顔を合わすたびに「甲子園で活躍したなんて言うても、今年の高森学園は3人も投手がおってその中の1人にすぎんだけやないか。それでよく偉そうに甲子園優勝投手を名乗れるわ。ワシらの頃は決勝までエースひとりで投げぬいたもんやけど、ホンマ今の高校球児はひ弱やのう」「ええのー、生まれてからこのかた金に困ったことがないボンボンは。見てみい、あのグラブやスパイク、どれも新品のようにピカピカやないか。あいつの中では金といったら紙幣のことで、小銭なんか生まれから1度も見たこともないんちゃうか?」と他のチームメイトの前でわざわざ誠をけなすのだ。仕舞いには誠のほうも腹が立ち、グラウンドで会っても無言を貫くと、「ほら見てみぃ。杉浦忠治の息子……太陽の子が来たで。あいつはボンボンやから、箸の上げ下げもろくに出来へんらしいで。今もワシに対して何もなしやろ? 太陽の子やから月見草のワシよりも偉いんや。だから、あいさつのひとつもせんのや」とチクチクと女が腐ったような嫌味を連発し、さらに練習中も「なんや、あの遅い球は」「あれやったら、ワシなら箸でも打ち返す事ができるで」と、とにかく誠を中傷することを生きがいにしているとしか思えないような言動を続けるのだった。
もちろん鹿村はプロの世界で2500本以上の安打を打ち、捕手としては唯一三冠王にもなった男だ。しかし、そんな畏敬の念も誠の中では、この数週間のあいだできれいさっぱりなくなってしまったのだった。
「なにか用ですか?」
誠は鹿村にそっけのない対応を取る。
「なんや、その態度は。さすが太陽の子やな。まあええわ、おまえはこの野球教室が終わった後も練習するつもりなんやろ?」
「ええ。そうですけど?」
「それやったら、ワシがオマエの球を受けたるわ」
「本当ですか?」
誠は驚く。同じチーム内、鹿村のポジションは捕手でありながらも今まで1度も誠の球を受けてくれた事はなかった。正直、自分は鹿村に気に入られてないから、受けてもらえる機会はないだろうと考えていたが、まさか鹿村のほうから誘ってくるとは夢にも思わなかった。
「わかりました!」
誠は少し上擦った声でそう答える。