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野球難民

「今から6年前、あたしと優輝が10歳の時にキヨスイの野球部は廃部になったの。当時は日本中が不景気で、企業の野球部が次々と廃部になっていたらしいから仕方がないといえば仕方がないんだけど、幼い頃のあたしたちにはそういう事情はよくわからなかった。ただあの時の、まるで自分の身体の一部を……ううん、それ以上のものを失ったような心の痛みだけは、今でもはっきり覚えている。だけど、本当に傷ついたのは昔からキヨスイの野球部を応援していた人たちで、普段は人前で涙を見せない大人たちもあの時は子供のように泣いてたわ」


 千早の声が震える。


「難民って言葉があるじゃない。帰るべき故郷を失って彷徨っている人たち。海鹿内の人間はみんな野球難民なのよ。愛すべきチームを失ってどうしたらいいのか分からない。その虚しさを埋めるために既存のプロ野球のチームや高校野球のチームを応援したりする人もいるし、野球自体に情熱を失う人もいる。だけど、全ての人たちに共通しているのは決して年月だけでは癒しきれない大きな傷を持っているということなの。


 だから……独立リーグができてこの町にチームができるって話が来たときは町中の人たちが喜んだわ。また、キヨスイように町の人たちが一体となって応援できるチームが生まれるって。オーシャンズは海鹿内の人間にとって希望なの。都会の人間にとっては、ただの独立リーグのチームかもしれないけど、海鹿内の人間にとっては、かけがえのないキヨスイの生まれ変わりなのよ」


 たしかに、プロ野球のチームや企業チームがいくつも存在する首都圏で生まれ育った人間には、おらが町のチームの喪失に伴う心の痛みというのは理解しにくい感覚なのかもしれない。


 そして、その痛みを最も多く味わった野球人がもしかしたら親分なのかもしれない。


 アマチュア時代のキヨスイを始め、選手として入団し監督として始めての優勝を遂げた南洋ファルコンズ。V5を達成してパ・リーグ史上最強チームと謳われた関急ブレイヴス。球界の排泄物とまで呼ばれた弱小軍団からリーグ連覇を達成するまでになった大鉄レッドブルズ。


 親分が在籍したかつてのパ・リーグの電鉄系関西3球団は、身売りに伴う本拠地の移転や球団同士の合併などで、今やその原型をほとんど留めていない。


 だからこそ親分は、なんかしてオーシャンズをこの町に定着させるために老体に鞭を打って現場で戦う選択をしたのだろう。そして千早はその意志を受け継ぎ、オーシャンズの監督を引き受けた。


 オーシャンズがこの町に定着し、キヨスイ野球部の代わりになれるかは誰にも分からない。 

だが、ひとつだけハッキリとしている事実がある。


「西本、オマエは監督には向いていない」


 誠は冷淡にそう断じるが、この言葉は皮肉や中傷ではない。むしろ千早の心の平穏を案じたからこその忠告だった。


 野球の監督──そして、指導者に最も必要なのは、野球の知識でも人柄でもない。『信念』だと誠は思う。人間は誰しも完璧ではなく、常に自分の選択は間違っているかもしれないという不安を抱えている。しかし、監督はそんな不安を決して選手にみせてはいけない。たとえ当初は間違った選択だったとしても、事後の努力と覚悟によって英断に変える事こそが監督の役目。だが、己を信じていない人間を誰が信じることができるだろうか。他人から信用されなくなったら、指揮官はお仕舞いだ。


 そして、いま誠に目の前にいる少女はどうだろうか。


 他人の評価を気にし、己を偽り、憐れなほどに精神的な弱さを隠しきれずに常に迷いを見せているではないか。


「分かっているわよ!」


 だが、千早は語気を荒めて、悲鳴のような声音で吐き捨てるのだった。


「あたしのこんな性格が監督に向いていない事くらい、自分でも分かってるわよ。球団の偉い人たちだって、あたしに指導力や采配能力なんて期待していない事も分かってる! 欲しいのは『親分の孫』っていう血統背景と現役女子高生監督っていう話題性だけ! 客寄せパンダなんて事は百も承知よ! でも、そうしないとオーシャンズはなくなっちゃうもの。たいしてお客さんの来ない独立リーグの最下位チームの監督なんて誰がやりたがるのよ? 恥や外聞なんてものを気にして自分がやれる事をやらないで、チームがなくなるのなんて絶対にイヤ! あたしはもうキヨスイの時みたいな想いはしたくないの!」


 千早が厚顔無恥で、己を客観視できる能力に欠けている自信家だったならば、ここまで苦しむことはなかっただろう。だが人一倍、他人の評価や視線を気にするこの少女は冷静に、そして客観的に自分に対する世間の評価を理解してしまっている。


 そして、その評価と恥の意識に苦しみながら、なお世間や周囲の大人が期待する『お嬢』としての自分を演じ続けている。


 千早はその重みに耐えきれないのか、とうとう膝を屈して、身体を震わせて再び涙をこぼすのだった。


 その姿は、どこまでのひ弱な少女そのものだった。


 だが、その小さく震える背中を見つめる誠の胸には、千早に対する畏敬の念がすでに宿っていた。


 誠の父である杉浦忠治は、球界を代表する強打者であると同時に有言実行のスーパーヒローだった。今から20年以上前のある試合、延長戦でのウラの攻撃、二死満塁という場面で自分に打席が回ってきた時に、父はベンチ──そしてスタンドの観客に向かってこう言い放った「オマエら、俺が今すぐ試合を終わらせてやるから、帰る準備をしとけ!」。その後、サヨナラホームランを打って本当に試合を終わらせてしまったのだという。


 そんな男が父だからこそ、甲子園に出場した時に往年のファンやマスコミは、誠に杉浦忠治の面影を期待した。だが、誠は常に不言実行と冷静沈着を意識して決して過度の言葉で己や観客を奮い立たせるような真似はしなかった。そういう意味では、誠はとっくの昔に野球人としては杉浦忠治の息子である事をやめている。甲子園の優勝投手として幾度となく窮地を経験した誠でも、杉浦忠治の息子である重圧には精神的に耐えられないと判断したからだ。


 しかし、千早は誠よりもあきらかに精神的に脆いにもかかわらず、チームのために親分の孫のお嬢であり続けている。


 その姿を見せられたら、誠が取るべき行動はひとつしかないのだった。


「俺がオーシャンズを優勝させてやるよ!」


 誠は声を張り上げる。


「そしたら、オマエは優勝監督だ。誰にもオマエの事を客寄せパンダなんて言わせねえ! この世界は勝てば官軍なんだよ!」


 その口調は捨て鉢を装っているが、確かな覚悟と決意が存在した。


「いいの? 東京には戻らないの?」


 涙で頬を濡らす千早が問いかける。


「戻らねえよ! 今更どのツラさげて高森学園に戻れっていうんだよ。それに、俺は学校に帰ってきた時点でオーシャンズの留まる決意をしていたんだよ! それをオマエが勝手に『言わないで!』なんて言って勘違いしたんじゃねえか!」


 まあ、そのおかげで誠は気もちのいい思いをできたので、深くは追求しないが。


「それに、俺がオマエのもとで野球がしたいと思ったのには、もうひとつ理由がある。俺が風呂場に行く時にオマエが言った言葉は覚えてるか?」


「風呂場って、昨日の?」


「ああ、あの時オマエは俺にこう言ったよな。『スギ、あんた、準決勝の12回ウラ・2死満塁での投球、フルカウントから最後にわざとボール球を投げたでしょ?』って」


 甲子園での準決勝、誠は絶体絶命のピンチでマウンドに立っていた。同点のまま迎えた12回の裏で2死満塁フルカウント、バッターは相手の四番打者。


 その時、ふたつ年上の先輩である3年生捕手が要求したボールは、外角の低めだった。


 そして、誠が投じたストレートは外角高めボールゾーンに外れたものの、なんとか打者を空振りの三振に打ち取った。


 この時の誠の投球を、多くの観客たちは誠の失投だと思っているのだろうが、実は違う。それまでの対戦で、外角高目が相手打者にとって最も得意とするゾーンだと確信していた誠は、多少のボール球でも強引に振ってくるはずだという明確な意思を持って、ストレートをわざとボールゾーンにはずしたのだ。


 あれ以上、外に外れていたのなら押し出しのサヨナラになっていただろうし、あれ以上、内に入っていたとしたら間違いなく痛打されていた。そういった意味では、あの1球は誠にとって一世一代の投球だった。


 だが、先輩のサインに逆らった事になるので、誠はマスコミに対してあの1球はコントロールミスだと発言した。


「俺は驚いたよ。まさか誰にも理解されないと思っていた、あの投球の真実を初対面の女子高生に見破られているとは思ってもみなかった」


 誠がそう言うと、優輝は「そんなこと言ったの?」と驚く。尋ねられた千早は気まずそうに「うん」とだけ返事をする。


「たしかに、オマエの性格は監督には向いていないかもしれない。でも、その野球に関する知識と観察眼は本物だ。俺はそんなオマエのもとで野球をやってみたい」


「本当にそれでいいの?」


「ああ」


 そして、誠たちは記念室を退室して内野スタンドに足を運ぶ。


 内・外野共にクレーター舗装と呼ばれる、黒土のグラウンド。内野席には観戦のための椅子などが設えられているが、外野席は傾斜のある芝生のみ。その外野スタンドの向こうには海鹿内の太平洋と白い砂浜が一望できる。


「小説とかでさ、『目を閉じると在りし日の面影が脳裏に蘇る』っていう表現がよくあるでしょう? 子供の頃はその言葉の意味を分からなかった。年配の人間が使う陳腐な言い回しだと思っていた。でもね、今はその意味が物凄く理解できるし、深い言葉だと思う。だって、キヨスイがなくなって六年が経った今でも、あたしはこの球場のスタンドに立てば、あの頃の光景がすぐに脳裏に蘇るんだもん。優輝やおじいちゃん、町の人たちと一緒になってキヨスイを応援したあの日のことを」


 やさしげに目を細めた千早はそう呟く。


 太平洋から吹きつける風はよりいっそう激しくなり千早の長い髪を千々に乱す。


 海から吹く潮風がなによりも特徴的なこの球場が、これからの誠の本拠地となる。


 監督は女子高生。チームは最下位。前途は多難だが、やるしかなかった。


 誠は決意を固めてコブシを強く握り締めるのだった。



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