矜持
誠が学校に戻った時には、すでに六時間目の授業は終わって放課後になっていた。誠としてはそんなにも長い時間、砂浜にいたつもりはないが、2時間近くもいていたらしい。
放課後だけあって、グラウンドには運動系の部活動に励む多くの生徒たちが存在するが、校舎内は授業中と比べものにならないほど閑散としている。まだ日がある文化祭の準備に励んでいる者や用もないのに残っている物好きたちがいるだけだ。
おそらく、千早は放課後でも仕事をしているため、学校に残っていると考えて戻ってきたものの、広い校内で千早を探すにはなかなか面倒だ。
携帯電話で呼び出せれば、もっと楽なのだが、誠は千早の番号を知らなかった。
そして、そこで誠は携帯電話を入れていたカバンを置きっぱなしだったことに気づき、教室に取りに戻るのだった。
誰もいない教室、秋の陽光だけが寂しく板張りの木目を照らしていた。
カバンから携帯電話を取り出すと、誠が学校を飛び出した直後に見知らぬ電話番号から複数回の着信があった。おそらく千早か優輝の番号だろう。忍には一応、誠の番号を教えていたので、それを聞いたのだろう。
だが、途中で誠の荷物が教室に置き去りにされていた事に気づいて、無駄だと悟り諦めたのだろう。
「スギ……」
蚊の鳴くような小さな声だったが、突然その名を呼ばれて、誠は驚いて跳ね上がりそうになる。
「西本、いたかのか?」
まるで千早は忍者のようにまったく誠に気配を感じさせなかった。
「うん。家に電話しても帰ってなかったし、荷物、置きっぱなしだったから、取りに戻ってくると思ってずっと待ってたの」
「話があるけど、いいか?」
「うん、あたしもスギと話がしたいし、ここじゃあ、あれだから場所を移動しょうか」
そう言って、千早は先頭に立ち、誠を案内する。
廊下を歩いている誠と千早にはまったく会話がなかった。だが、それでも誠は千早の変化に気づいていた。これまでの千早の印象は、まさに親分の孫『お嬢』というにふさわしい立ち振る舞いだったのだが、今はまるで壊れかけのガラスの器のような儚さと憂いを表情に滲ませている。それは、ありふれた表現だが、どこか深窓の令嬢を思わせる雰囲気だった。これまでの千早のイメージとは違う佇まいと言動に、誠は妙に興奮して胸が高まってしまうのだった。
そして、ひと気のない廊下を先導する千早。だが、転校初日で校内の地理には明るくない誠にも、その道順は覚えがあった。
なぜならば、その場所はつい数時間前まで優輝と昼食を取っていた保健室なのだから。
「入って」
千早にそう促されて、誠は保健室に入る。
「今は先生、職員会議に出てて誰もいないから……」
千早の言葉どおり、保健室の中には主である養護教諭はどこにもいなかった。
たしかに、あれからだいぶ時間が経ち、誠も気もちの整理がついたとはいえ、親分の事となると冷静な話し合いができる自信はない。そして、それは千早も同じなのだろう。だから、話し合いの場所に誰もいない保健室を選ぶのも納得できなくはないが、誠は違和感を拭えなかった。
パチン──
そして、その違和感が確信に変わる音が耳を打つ。
千早が誠に続き、自身も入室したあとに後ろ手で保健室の扉の鍵をかけたのだ。
「あのさ、なんで鍵まで閉める必要があるんだ?」
「大丈夫。鍵はあたしが持ってるから、これで外から誰も入れないから」
誠の質問にそう答えながら、カーテンまで閉めて完全に外から中の様子が伺えないようにする千早。
〝いやいやいや。その答え、ぜんぜん俺の質問に対する返答になってねーし!〟
なんだろう。これからこの場所でおこなわれるであろう行為が、まともな話し合いでなく、ただただ犯罪の臭いしかしないのが気のせいだろうか。
心の中で最大限の警報を鳴り響かせる誠は命の危険さえも感じて身構える。
「スギ……」
だが、そんな誠の危機管理は杞憂に終わる。
甘く、せつない響きで誠の名を呼んだ千早は、その長い手をまるで獲物を狙う蛇のように誠の首
元に絡みつかせる。そして、そのまま動きを封じると千早のやわらかく暖かな唇が誠の口を塞ぐのだった。
瞳を閉じて、睫毛がふれあうほどの近距離に迫った千早の整った顔だち。その吐息が誠の肌をやさしく撫でる。普段の千早からは想像できない色気と恍惚に、誠の背筋にぞくりと寒気が走るのだった。
「~~~~???」
予想外の行動に、誠の頭の中は恐慌状態に陥る。誠はキスなど今までしたことがない。それどころか女性と付き合った経験もない。高森学園には一年生で夏の大会のベンチ入りメンバーになった部員には、必ず彼女ができるというジンクスが存在するのだが、それを初めて打ち破った男が誠だと言われている。
だが千早は、誠が完全に固まっているのをいい事に、そのままベッドに押し倒す。仰向けに倒れる誠に対して馬乗りの体勢になる千早。
「おまえ──いったい何を──!」
身体の中で最も早く正常な機能を取り戻したのは、声帯だった。誠は千早の手首を掴み、制するように抗議の声をあげる。
しかし、千早はそんな抗議に頓着することなく再びキスの雨を誠の唇に降らすのだった。
それはキスという名の全身麻酔。
千早の髪から漂ってくるフローラルなシャンプーの香り。煮詰めたミルクのような甘い匂いと少しばかりの汗の甘酸っぱさ入り混じった体臭。
それらの香りと口腔から注ぎこまれる快感によって、誠の身体はみるみるうちにチカラを奪われていく。筋力も体格も女である千早よりも誠のほうが上なのは確かだ。しかし、今は千早の身体を跳ね除けることができなかった。
やがて、それまで抵抗のため掴んでいた千早の手首を、誠はあっさりと手放すのだった。
「ごめんね」
誠に馬乗りになった体勢のまま、千早はそう沈鬱につぶやく。
だが、その瞳はあらゆる意志の光が消えうせ、まるで感情を持たない人形のような表情だった。
これまでの誠が千早に対して抱いていたイメージである、責任感のある女性らしくハキハキとした口調やキリリと引き締まった硬質な表情とはまったくかけ離れていた。
「あたしだって、おじいちゃんの孫だもん。スギがどんな思いと覚悟で高森学園をやめて海鹿内に来てくれたのかは分かってる。そして、それがすべておじいちゃんと一緒にプレーするためだってことも……」
そこで千早は言葉を詰まらせる。その身体がわずかにふるえる。
「でも、言えなかった。おじいちゃんが倒れて、もう監督ができないっていうことを。本当はあたしがもっと早く伝えないといけなかったのに、あたし、スギに入団を拒否されるのが怖かったから、ずっと言えないままだった。本当にごめんなさい」
「あのな、西本……」
「それ以上は言わないで!」
誠は自分がオーシャンズをやめない事を伝えようとするが、千早はまるで悲鳴のような声音でそれを封殺する。
「分かってる。言いたいことは分かってる。本当はおじいちゃんが監督をできればいいんだけど、心臓の持病が悪化したおじいちゃんにそんな無理はさせられない」
千早の身体がわずかに震える。そして、少しの空白の間の後に薔薇の花弁のような薄い唇がその言葉を紡ぐのだった。
「だから……あたしのカラダで我慢して……」
千早は自らの手を誠の掌に携える。
そして、千早は上半身のセーラー服を脱ぎ捨てる。
その瞬間、豊満なバストを包んでいるフルカップの白いブラジャーが現れ、誠の目の前で大きく揺れる。ウエストを始めとした全体的なほっそりとした体のラインとは対照的な豊かすぎるバストを改めて認識させられる。カーテンを閉めきった事により陽光が届かなくなった薄暗い室内では、白磁気のようになめらかな肌と相まってその白さの輝きがよりいっそう際立つのだった。
「直接、さわってもいいから」
たとえ、この後、誠のほうから大きなアクションを起こさなくても、このままなすがままでいれば千早を抱くことができるだろう。千早はその手の店に行けば、抱くのではなくただ話すだけでも1時間数千円の料金が発生してしまいそうな超A級のビジュアルを持っている。
誠も健全な男子高校生だ。女体に対する憧れも性欲を並みの男と比べても有り余るほどある。もし、千早が誠に惚れているというのなら、この後に付き合うかどうかという問題は別にして、迷わずその肢体の持つ魅力を堪能するだろう。なにせ、ただのキスや愛撫だけであの気もちよさなのだ。セックスがどれほどの快楽なのか想像する事もできない。
だが千早は、ただ誠をオーシャンズに留めておくためだけにそのカラダを差し出しているにすぎない。
野球は、誠にとって親分と絆であり、畢生の仕事であり、自己実現のための手段でもある。だが、決して女性のカラダを抱くための道具ではない。
誠はオスとしての欲望に負けそうな体に鞭打って、馬乗りの体勢だった千早を逆に押し倒す。今度は上下関係が完全に入れ替わって、誠が千早に馬乗りになるのだった。誠の欲情にまみれ、蕩けそうな思考を正常に引き戻したのは、倫理や道徳心、ましてや男としての意地でもなかった。ただの野球人としての矜持だった。
「俺はおまえを抱けない……」
誠は緊張と興奮でカラカラに乾ききっている喉から、精一杯の声を絞り出す。
「なんで、あたしを抱きたくないの?」
悲しげに呟く千早。
「そんなわけないだろ!」
「だったら、なんで……?」
「俺にとって野球は、投手として磨きあげた技術はこういうことをするための道具じゃあねえんだ!」
そう短く告げる。誠。
「なんで? なんで? なんで?」
しかし千早は、納得はおろか理解すらできていなのだろう。「なんで?」と何度も繰り返して、惜しげもなく大粒の涙をこぼしてその頬を濡らすのだった。
一時の異常事態から脱したものの、千早が情緒不安定なのは変わらない。
付き合いが浅い誠では、どうしたらいいのか分からず途方に暮れるのだった。
「千早!」
そのとき、施錠をしていたはずの扉が開く。
優輝が慌てた顔をして保健室に入ってくるのだった。昼休みに、あれほど好き勝手にベッドなどの備品を使っていた優輝のことだ。おそらく合鍵のひとつでも持っているのだろう。
そして、誠はほっとため息をつく。
千早の親友の優輝なら、今の情緒不安定な千早とこの場の状況を収束させてくれるはずだ。──
そう、千早は下着姿で大粒の涙をこぼして泣きじゃくっていて、誠がその上で目を血走らせながら馬乗りになり股間をギン勃ちさせているこの状況を。
……………。
……………。
……あれ?
〝なにげに俺の人生、地味に詰んでね?〟
客観的に、どう見ても今の状況は強姦未遂。情緒酌量の余地など1ミクロンもなく第一審で誠の有罪が確定ではないか。
「違う! 立花、聞いてくれ!」
必死の弁明を繰り返す誠。しかし、そんな誠には一瞥もくれずに、優輝は千早のもとに駆け寄るのだった。
「千早のバカっ! こんな事をして、どうする気なの!」
そして、容赦なく千早の頬に平手打ちをするのだった。
乾いた炸裂音と共に千早は目を白黒させる。そして、数瞬の間のあとに千早の瞳には、先程までと比べ物にならないほどの量の涙が溢れ出すのだった。
「だって……だって……だって……こうしないとスギがいなくなっちゃうもん! そうなったら、オーシャンズがなくなっちゃうもん!」
優輝の平手打ちによって千早の泣きかたは号泣に変わってしまった。もはや昨日まで誠が感じていた親分のような威厳や頼もしさなどは微塵も感じられなくなってしまっているのだった。
「まこっちゃんがいなくなったって、元に戻るだけじゃん。なにが怖いのさ?」
「でも、でも、それじゃあ、オーシャンズがなくなっちゃうもん」
「去年は最下位だったけど、親分が心血を注いで創ったチームだよ、そう簡単になくならないよ。それにね、千早。たとえ、まこっちゃんをチームを引き止めるためとはいえ、自分のカラダを差し出すようなマネしちゃあ、駄目だよ。そんな事をしたら、いちばん悲しむのは親分じゃん」
千早はまるで母親に玩具を買ってもらえなかった子供のような聞き分けのない口調で、優輝の胸で
泣きじゃくる。そして、優輝はそんな千早の頭をなでながら、やさしい口調で諭すのだった。