決意と覚悟
教室、そして学校を飛び出した誠は、ひとりで海岸の砂浜に座り込んでいた。
紀伊半島の南にある海鹿内市の海岸、砂浜は大きなシルクの布のようであり、海は空との境目が分からないほど青く輝いていた。
だが、そんな大いなる自然の美しさを目の当たりにしても誠の心は晴れなかった。まるで白く凍てついた大地にひとり置き去りにされたかのように、心の空洞は径を広げ続けていたのだった。
〝なんのために、俺はこの町に来たんだろう……〟
〝親分がいたから今の俺があるんだ〟
親分の教えにより野球選手としての第一歩を歩みだした誠は中学生の時もそこそこの実績を残して、高森学園の野球部の入部を許された。
だが、そこで待ち受けていたのは栄光ではなく苦難の日々。
30名近くいる同期の野球部員のうち、上級生に混じって練習中にボールの使用を許可してもらえるのは、その才能を認められたほんの5,6人。投手として上背もなく目を見張るような速球を投げられなかった誠は、その他大勢の部員のうちのひとりだった。
そんな誠が唯一ボールを握らせてもらえるのは、全体練習のあとに先輩打者が自主的におこなう打撃練習で、バッティングピッチャーをしている時だった。
高森学園は全寮制。中学生の時とは比較ならないグラウンドでの全体練習と寮内での厳しい上下関係に、一年生は心身ともに疲れ果て、一歩も動けない状態に陥るのが普通だ。
だが、それでもボールを触ることに餓えていた誠は、1日も休まず先輩の打撃練習にバッティングピッチャーとして付き合った。
要求するコースをリクエスト通りに投げないと、先輩はそっぽを向いて、交代を命じる。役割はただの『手動式練習機』に過ぎないが、誠は喜んで1日に2、300球ものボールを投げ続け、その役割を失わないために死に物狂いで正確なコントロールを身につけた。
やがて、その変化を敏感に感じ取った先輩たちが、監督やコーチに誠を試合で使ってやってほしいと進言をしてくれた。最初は、紅白戦での中継ぎだった。そこから紅白戦での先発、練習試合の中継ぎ、先発。役割はみるみるうちに上がっていくものの、『先輩に気もちよく打ってもらう方法』とまったく逆の投球をすれば、面白いように打者を打ち取る事ができるようになっていた。
そして、入学時にははるかに格上だった者たちを差し置いて、誠は1年生で唯一の夏の大会のベンチ入りメンバーとなったのだ。
そこから、地方予選、甲子園と、タフなスタミナと使い減りしない肩、そして、ここぞという時の勝負強さを買われて、チーム内の最多イニング登板を果たすまでになった。
「何年も高校野球の監督をやっているが、未だに選手の可能性を見誤ることがある。わたしは杉浦を上背もスピードもないただの凡庸な投手だと勘違いし、3年間を費やしてもベンチ入りすら危ういとさえと思っていた。でも、この大会ではその杉浦に何度も救われた。杉浦の成長がなければ、この甲子園での優勝はありえなかった。わたしは未だに選手に多くの事を教えてもらっている」
大会を振り返って、監督はマスコミに対してそう誠を褒め称えてくれた。
〝そんな思いをしてまで、やっと掴んだエースの座だったのに……〟
忍や優輝に対しては「迷いはなかった」と語った誠だったが、実際は何の躊躇もなくオーシャンズの入団を決意できたわけではない。
練習環境の変化もそうだが、なによりも誠の心を揺れ動かしたのは自らを抜擢してくれた監督、先輩に対する恩義だった。
この夏の甲子園出場は、ある意味では先輩たちに連れていってもらったものだ。そして、その先輩たちが抜けた秋以降は、誠が投手の柱となってチームを引っ張ってならなければならないはずだった。それなのに、個人の勝手な都合で高森学園もやめてチームを去ることは、育ててもらった恩を仇で返すようなマネに他ならないからだ。
そんな信義違反を犯してまでも、高森学園をやめてオーシャンズに入団したのも全て親分が監督していたからだ。親分の年齢から考えても今が共に戦うことができるギリギリの時期なのは、分かっていた。
〝だけど、親分はもうチームにいない〟
〝後任は、指導者としてはズブの素人の女子高生だ〟
だが、それでもオーシャンズをやめるわけにはいかなった。
誠にもう戻るべき場所がないのも確かだが、それ以上に父との約束がある。
父は誠に対して「親分を助けてやってくれ」と頼み、誠は「任してくれ」と了承した。誠はそのやりとりを、父と子のものではなく、同じ師を持つ兄弟弟子──年老いて現役を退き力になれない兄弟子が、まだ現役の弟弟子に対して向けた懇願の言葉だと思っている。
なにより、もうすでに監督の座を退いているとはいえ、オーシャンズは親分が文字どおり命をかけて創りあげたチーム。オーシャンズを誹謗し蔑ろにすることは、親分を誹謗し蔑ろにする事を意味するのだ。
〝だったら、俺がやるべき事は決まっている!〟
誠は決意でコブシを固く握り締める。
たとえ指導者が、実績や能力よりも話題性重視の女子高生監督だとしても、先程の非礼と暴言を詫びてオーシャンズに忠誠を誓うことだ。
誠は立ち上がり、再び学校へと戻るのだった。