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辞任

「あたしもそうだけど、千早は本当にまこっちゃんに感謝してると思うよ。だって甲子園で優勝を果たした投手が、わざわざ転校までしてオーシャンズの入団してくれたんだもん。普通、はっきり言って独立リーグよりも名門の高森学園で3年間を過ごしたほうが練習環境は恵まれているし、その後の進路の選択肢だって違うのに、本当によく決断してくれたよ」


「親分がいたからさ、親分は俺にとっては恩人だから頼まれれば地球の裏側だって行くさ」

 誠はさもそれが世界の常識であるかのようにその言葉を口にする。いや、それが誠の中の世界では常識だった。誠の人生の全てである野球。その野球の楽しさ、厳しさ、難しさを教えてくれた親分の存在はなによりも重く、なによりも尊い。


「それだよ。親分がオーシャンズの監督を辞任したのに、まだそんな事を言ってくれるんだから、あたしは嬉しいよ」


 …………

 …………

辞任……?


 クッキーを食べていた誠の動きが一瞬で凍りつく。 


一瞬、優輝が何を言っているのかが理解できなかったからだ。


「親分が辞任ってどういうことだ? 答えてくれ……」


 そう問い質す誠の声音はどこまでも冷たく、口調はもはや質問ではなく要求や命令に近かった。自らの喉から発生している声なのかさえも疑わしい。きっと冷えた金属同士がこすれあう時ならこんな音を立てるに違いない。


「えっ?……まこっちゃん、本当になにも聞いて──ないから、こうやってあたしに尋ねているんだよね……?」


 誠の声音と口調の変化を読み取り、優輝はそれまでの明るく弾けさせていた笑顔から一転、収集のつかない動揺で表情をこわばらせるのだった。


「今年のシーズンが終わってから、親分の心臓の持病が悪化して入院したのは知ってる? 親分ももう75歳だからね、やっぱり独立リーグとはいえ1年間、チームを指揮していたのは心身ともにかなり堪えたみたい。それでなくても、オーシャンズはダントツの最下位だったし。それでお医者さんに『これ以上、監督を続けたら命の保障はできない』って言われたの。親分は自分を慕って高森学園までやめて入団してくれたまこっちゃんのためにも来シーズンも指揮を執る。グラウンドで死ねたら本望だ──って言って、譲らなかったんだけど、千早を始めとする家族や海鹿内市の親分を慕う人たち全員に説得されて、ようやく折れたの」


 そこまで説明すると、優輝は上目遣いの不安げな表情で誠の顔を覗き見る。


「それで、親分の後任は誰なんだ?」


「まだ正式に親分の辞任は発表されていないみたいなんだけど、球団のほうは親分の孫の千早を監督にしようとしてるみたいで、千早もそれで納得したんだよ」


「西本が監督だと……?」


「うん……だけど千早、まだまこっちゃんにこの事を伝えてなかったんだ。てっきり昨日の歓迎会の時点で言ってるもんだと思ったんだけど……」


「……………」


 誠はこの時点で優輝の話を8割がた聞いていなかった。もちろん近距離で会話しているため優輝の言葉は誠の耳に響いているのだが、その音の意味を考える作業を誠の脳はすでにやめていた。


 誠と優輝の主観に依れば永久に近い長い時間、しかし客観的に計測すればほんの数十秒ほどの細く短い時間、沈黙が場を包む。


 そして、誠は無言で立ち上がり一歩を踏み出す。それはまるで自宅のドアを開けて玄関に入る時のような自然な動作だった。


「あのね、千早もまこっちゃんを騙そうとしてたわけじゃ……」


 うろたえた優輝が説得しようとするが、誠の低く冷たい声音がその言葉を封殺する。


「あの女、ぶん殴る──!」


 誠はそのままドアを破壊するかの勢いで、保健室を出て行くのだった。


「ちょっ──まこっちゃん──!」


 そして、まるで火の玉のような勢いで自分のクラスの教室へと舞い戻る。文化祭の事で仕事をし

ていた千早は昼食が遅れたようで、まだ弁当を食べているところだった。他の者はすでに昼食を食べ終えているが、人望のある千早の周囲には取り囲むように人垣ができていた。


 誠は怪訝な顔をする女子生徒などにいっさい頓着せずに、千早に詰め寄る。その迫力は餓えた肉食獣そのものだった。


「西本!」


 叩きつけるような声で誠は千早の名前を呼ぶ。


「親分が辞任して、オマエが新しくオーシャンズの監督に就任したっていう話は本当なのか?」


 千早は誠のその言葉にびくっと肩を震わせて、うっと声を詰まらせた。そして、みるみるうちに表情を曇らせて顔をうつむかせてしまう。


 返答を聞くまででもない。誠は千早のリアクションで全てを悟る。


 そして、それと同時に、誠の心は今度こそ掛け値のない絶望の淵へと引きずりこまれるのだった。


 優輝の言葉がただの性質の悪い冗談だったのなら、誠は怒りさえすれど、まだ救われただろう。しかし、優輝の言葉は紛れもない真実だったのだ。誠が親分と共に野球をプレーできると聞いた時に胸に抱いた喜びも期待も覚悟も、すべて報われぬ感情だったのだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 千早は隠すわけでも誤魔化すでもなく、ただひたすらに誠に対して謝罪の言葉を繰り返す。うつむいているため、その表情は誠からは読めない。しかし涙こそ見せていないもののその姿は泣いているようにも見える。


 だが、それでも誠の中で吹き荒れる黒い感情の嵐は収まることはない。いや、それどころか、よりいっそう激しさを増すのだった。


「ふざけんな! 俺は……俺は親分が監督をするっていうから、高森学園をやめてこんな田舎まで来たんだぞ! それなのに、今までその事を隠していやがって! よくも俺の人生めちゃくちゃにしてくれたな。おまえらは──この町の住人全員でグルになって俺を騙しやがって! 謝って済む問題だと思ってんのかよ!」


 その言葉はもはや、目に映る物すべてを憎む呪詛に近い響きを持っていた。

千早が女でなかったら間違いなく胸ぐらを掴んでいただろうし、右腕に鞭があったなら迷わずその頬を強打していただろう。誠は血を吐き出さんばかりの勢いで千早を痛罵するのをやめなかった。


 先程まで穏やかかつ和やかな空気が流れていた昼休みの教室が、誠ひとりのせいで地獄絵図のような雰囲気になる。人望が厚くマドンナ的存在のクラス委員長と転校初日の無愛想な東京人。この教室の9割以上の人間は千早の味方だった。


 しかし、それでも誰も獣の咆哮めいた大声を張りあげる誠を止めようとする人間は現れなかった。いくら他人が心配でも猛獣の檻の中に足を踏み入れようとする者はそうそう存在するものではない。


「杉浦、落ち着け。オマエの気持ちは分かるけど、もうその辺でええやろ。西本を許したれや」


「そうや。そうや。オマエの気持ちはよーく分かるが、言い過ぎやろ。なっ?」


 ようやく、見かねた皆川と宅和が2人がかりで誠を止めにかかる。


「──って、たまるかよ」


 ふたりに体を押さえつけられている誠が喉から声を絞り出す。それは先程までの怒声とは違い、鼻でもすすれば聞き逃してしまいそうな儚い呟きだった。


「オマエらに俺の気もちが分かってたまるか……。俺がどんな思いをして高森学園でエースになったか……どんな覚悟で高森学園をやめたか分かってたまるか……」


 誠の瞳に膜を張る熱い湿り気が、形となり涙となって頬を伝い落ちる。


 痛罵されている千早よりも、痛罵している側の誠のほうが先に落涙する事実に対する驚愕は、一瞬で世界を無音にする。


 千早、皆川、宅和、そしてこの教室にいる全ての人間が愕然と目を見張っているのを、誠は気配だけで理解するのだった。


「やめてやる! こんな学校もオーシャンズもやめて、俺は今すぐ東京に帰る!」


 両親にもほとんど見せた事がない涙を、まだ出会って間もない大勢の人間に見せてしまった自らの不覚を悔やみながら、誠は学生服の袖で乱暴に瞳をこする。


 そして、皆川と宅和の制止を振り払って、誠は教室を出て行くのだった。



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