海鹿内市
「海、しかないし……」
列車から駅のホームに降り立った杉浦誠は、開口一番そうチカラなく呟くのだった。
長い道のりだった。
東京から新幹線で約2時間半、そしてそこから在来線の特急で約2時間、誠は計5時間近く列車に揺られていた事になる。その手には、軍隊の雑嚢のような大きな袋が握られ、左肩で担ぐようにして持っているのだった。
そして、ようやく辿り着いた駅のホームの目の前には、まるで大きな鏡のように青い光を反射させている太平洋と白い砂浜が広がり、悠然と誠を出迎える。その深い青は、まるで海そのものが内側から光を放っているかのような明るさと美しさだった。
10月の半ば──。季節は秋で時刻もすでに夕暮れに近いのだが、照りつける日差しの熱気は真夏の炎天下を思わせる。誠は被っていた帽子のツバを沈め、よりいっそう目深にするのだった。
改札口を抜けて駅舎からロータリーに出ると、そこにはタクシー乗り場とバス停があった。しかし、人と車の数の少なさの割にはやたらと広大で、駅前だというのに飲食店もほとんど見当たらない。
〝今日からこの町に住むのか……〟
和歌山県海鹿内(ない)市──
紀伊半島の南部に位置するこの都市は、東京23区内で生まれ育った高校生である誠にはとてつもないド田舎に映るのだった。
だが、今日の目的地であり、誠のこれからの下宿先になる所までは、駅からさらにバスで15分ほどかかる。誠は次に来るはずのバスの時刻をチェックする。
〝ゲッ……1時間以上もかかる〟
地方都市ではそこまで珍しい事ではないのだが、それでも今まで5分おきに電車が来るような東京での便利な生活にどっぷりと浸かり、公共の交通機関を利用するのに時刻表を確かめる習慣すらなかった誠にとっては、カルチャーショックだった。
〝これだったら、待つより歩いたほうが早そうだな〟
高校生で人並み以上に体力に自信のある誠は歩いて、これから自身の下宿先となる旅館──『西本屋』を目指すことにするのだった。
駅前から国道、そして商店街に続く道を歩いていく誠。しかし、商店街は平日の夕暮れ前にもかかわらずシャッターが閉まっている店も多く、人通りも少なく今ひとつ活気がない。
初めて訪れる海鹿内市は、誠の目には人口減少と少子高齢化に悩む典型的な地方都市に見えるのだった。なにせ駅を出てから、これまでのあいだに見た最も大きな建物は国道沿いにあるパチンコ屋だったのだから。
だが、その閑散とした風景とは対照的に、駅の構内の掲示板、商店街の店先には所狭しと大量のポスターが貼られていて、街を賑やかにしている。
そのポスターのうちのひとつは野球のユニフォームを着た老人を中心に配置して、勇ましいレタリングでこう綴られていた。
──親分、復活! 海鹿内オーシャンズ、頂点へ──
この海鹿内市が他の日本中どこにでもある地方都市とは違うところ、それはプロ野球チームがあるということだ。
だが、勘違いしないでほしいのは、プロの野球チームがあるといっても、世間一般の人が思い浮かべる、セ・パ両リーグ各6球団ずつに別れ、試合はテレビで全国中継される事も多く、一流選手は年棒を1億円以上も貰っているような、あのプロ野球チームではない。
日本野球機構には属さず、選手の月収は10万ほど、もちろんテレビ中継など地元のローカル局を除いては全くといっていいほどない……世間一般的には独立リーグと呼ばれるプロ野球──近畿独立リーグに在籍しているチームが、この海鹿内市に本拠地を置く『海鹿内オーシャンズ』なのだ。
そして、海鹿内オーシャンズのイメージアップを図るために作成されたポスターは数種類あるのだが、どのポスターも人物の構図やレタリングの違いこそはあるものの、ある2文字だけは例外なく、どのポスターにも目立つ場所に大きく、綴られているのだった。
親分──
それが、構図の異なるどのポスターにも例外なく中央に配置されている男──いや老人といったほうがいいだろう──の愛称だった。
親分こと西本一人。かつては日本野球機構に属するプロ野球チーム『関急ブレイヴス』で監督として指揮を取り、パ・リーグのチームとしては史上最多となる5年連続日本一を達成した球史に燦然と輝く名将として知られている。義理と男気溢れる性情、鉄拳制裁も辞さない熱血指導、野球の技術指導だけではなく時には選手の私生活の面倒も見るほどの懐の深さから、いつしか親分と呼ばれた西本一人は、監督としての実績以上に、その人間性が選手を初めとする関係者やファンの間で語り草となっているのだった。
その親分が15年ぶりに現場復帰を果たし、監督として指揮を執っているのが、この海鹿内オーシャンズなのだ。
そして、親分は誠にとっても、喉が裂けるほど礼を言ってもまだ言い足らないほどの恩人だ。誠は親分が率いるオーシャンズでプレーするために、東京の野球名門校を辞めてまで、この海鹿内市までやってきたのだ。
そして、さすが親分の地元であり、独立リーグとはいえプロ野球チームが存在する町。
商店街を抜けて住宅地に歩を進めた誠の視線の先にあるのは原っぱのような空き地で、小学生低学年くらいの子供ふたりがゴムボールとプラスチック製のバットを使って野球をしている。低年齢層の野球人気の低下が叫ばれて久しい昨今においては珍しくも微笑ましい光景だ。
ひとりの少年の打球が空き地を越えて、誠の足元に転がる。
誠はそのボールを拾い上げて、駆け寄ってくる少年たちに手渡そうとする。
「ほらよ」
「ありがと~」
足元にいる少年たちが、誠の顔を見上げる。
すると……
「ぎゃああぁぁ!!! オニーーッ!!!!」
「怖いよーーー!!!」
泣きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったのだった。
〝誰の顔がオニだと? 怖いだと?〟
蛮行も悪行も働いていないにもかかわらず、オニ呼ばわりされた誠の心の中には憤りや悲しみはもちろん存在する。だが、それ以上に感じているのは諦観だった。
誠は父親譲りの三白眼のせいで非常に目つきが凶悪で、そのたびにトラブルに巻き込まれ続けているのだ。
気の荒い教師や野球部の先輩からは、素直に話を聞いているだけなのに「反抗的な目つき」だとか「そんなに俺のことが気に喰わないのか?」と因縁をつけられること多数。それだけならまだしも夜中に道を歩いていただけで犯罪者扱いされた経験もある。だから、初対面の相手……ましてや子供に怯えられるのなんて日常茶飯事。もう慣れっこなのだ。
だからこそ、誠は自衛のために、外を出歩く時はツバのある帽子を目深に被って目を相手に見られないようにするのを習慣としているのだった。今のように見上げられた場合はどうしようもないが、大抵の場合はこれで無用のトラブルは回避できる。
だが、慣れてはいるとはいえ、それでも子供相手に怯えられるのは精神的に多少傷つく。誠は沈んだ暗い足取りで再び歩き出すのだった。
「ちょっと! そこのあんた!」
だが、突然、まるで研磨された針のように鋭い敵意のある声に呼び止められる。
振り向くと、そこにはひとりの少女が立っていた。
滝のように流れるロングヘアーにセーラー服に身を包んだ少女。
女子高生としてかなり身長が高い。男である誠と5センチも変わらないように見える。そして、長い髪は一房だけ、青いリボンを螺旋状に巻きつけているのだった。
「あんたよ! あんた! そのこの帽子を被ったあんたよ!」
火の玉を吐くかのような口調が示すとおり、いかにも気が強そうな少女だ。女性としてはややハスキーな声音もその印象をよりいっそう強くさせる。
「このコたちに何にしたのよ! こんなにも怯えているじゃない!」
少女の足元には、先ほど泣き叫んで走り去っていった2人の子供たちがしがみついている。
〝最悪だ……〟
これからの展開は、深く考えなくてもだいたい想像がつく。
誠がどれだけ根気強くかつ丁寧に「何もしていない。ただボールを取ってあげただけだ」と真実を説明したとしても、この手の直情型の人間は「ウソ言いなさい! 何もしていないなら、どうしてこんなにも怯えているのよ」と責め立てるだろう。
そして、後はいくら「落ち着いて話を聞いてくれ」と誠が訴えても「落ち着いてるわよ!」とまったく落ち着いていない語調で喝破しようとするのだ。誠も男として16年生きてきたから分かる。この少女のようなタイプは、自らの怒声が引き金となってアドレナリンが放出して、さらに興奮する人間なのだ。
もちろん、対話による説得が不可能だからといって手を出すのはNGだ。
少女は激情型の性格とはいえ、顔だちは整っており、その容姿はハッキリ言って美少女の部類に入る。しかも、制服の上からでもわかるくらいにメリハリの利いた魅力的なプロポーションをしているのだ。
それでなくても『人は見た目が9割』『かわいいは正義』などという恐ろしい論理がまかり通っているこの世の中、普段から犯罪者扱いされる事の多い誠が指先でも触れようものなら、即座に司法の手によって性犯罪者の烙印が押されてしまう。
誠は自らの脳細胞をフル活用して、どうすればこの状況を切り抜けられるか考えを張り巡らす。
だが、少女はそんなことはお構いなくカツカツと激しい靴音を立てて、誠との距離を詰めてくる。誠は『考えて』結論が出てから行動に移すタイプだが、少女は『考えながら』行動するタイプ。もしくは何も『考えないで』行動を実行できるタイプなのだろう。そして、もし後者だとしたら最悪だ。なにせ、思慮というものが存在しないこのテのタイプの人間は、なにも反論しないのはやましい事があるはずだと勝手に決めつけて、信じて疑わなくなってしまう。
しかも、どうやら誠の懸念どおり少女は何も考えないで行動を起こせるタイプの人間らしい。少女は誠の動きを制するため、手首を掴みにかかる。
「そういえば、あんた、この辺では見かけない顔ね……。怪しい奴。ますます見逃せないわね。ちょっと一緒に……きゃあぁあああ!!!」
だが、しかし、近づいた拍子に何かに躓いたのだろう、少女は耳が痛くなるほどの盛大な悲鳴をあげてバランスを崩す。
「痛てて……」
そのあおりをもろに受けて誠もバランスを崩してしまい、最終的にふたりは仲良く地面に倒れこんでしまうのだった。
そして、あおむけに倒れている誠は胸板にやさしくも柔らかい感触が舞い降りている事に気づく。それと同時に左手の掌には、すべすべの布に包まれた桃を思わせる心地のよい弾力が存在しているのだった。
「痛った~い」
少女の痛みに呻く声がやたらと近く聞こえる。当たり前だ。なにせ誠の目の前には、少女のまるで閉じたつぼみのような清楚な唇が存在しているのだから。そこでようやく気づく。誠の胸板に乗っかっているのは少女の豊満なバストであり、今まさに左手でがっちりと鷲掴みしているのは少女の瑞々しい果実のようなヒップなのだから。
「「……………」」
お互いに無言になる誠と少女。
時が凍りついたかのような長い長い沈黙。
「最低! ヘンタイ!」
やがてふたりの時計の針が再び動き出した時には、少女はそう叫びながら誠の頬を平手で打つ。小気味のいい炸裂音が響くと同時に誠が被っていた帽子も脱げ落ちる。
〝終わった!〟
誠は自らの人生の終焉を覚悟する。これで誠は性犯罪者確定だ。
だが、再び少女は言葉を忘れたかのように口を噤む。
「すぎうら……」
少女の薄い唇が言葉を紡ぐ。
「すぎうらまこと……? あんた、もしかしてあの杉浦忠治の息子の杉浦誠なの?」
警察沙汰寸前の騒ぎから一転、まるで夢見るかのような茫然とした口調で、初対面の少女は誠の名を口にするのだった。