紗幕を抜けて
志乃と芳親が滝の裏で話をしてから、さらに数日。ようやっと志乃の体調が万全となり、現世へ帰れるようになったのは、水無月の終わり頃だった。幽世に続いて常世と、時の流れが感じ取れない世界に居続けた妖雛たちは、水無月を過ごした感覚もなく文月を迎える。
『っあー、ずいぶんよく寝ちゃったなぁ』
が、その前に。志乃は雷雅釈放の場に立ち会わされていた。牢を開けた八千草と、その隣に芳親も控えてはいるが、雷雅と向き合っているのは志乃だけ。
『ふふふ。ひと月ぶりだねぇ、志乃。こないだまで可愛くて仕方ないくらいだったのに、ずいぶん綺麗になった気がするよー』
『はて。まあ確かに、着物は少し様変わりしましたが……』
『着物ももちろんそうだけどー、雰囲気だよー、雰囲気。相手を見上げるんじゃなくてー、真正面から見られるようになってるからー、前より凛々しくて綺麗なんだよー』
目を細めて穏やかな笑みを浮かべる雷雅に、志乃は小首を傾げる。けれど、相手への視線を変えることで印象が変わる、という点は胸中に留め置いた。いつか役に立つかもしれなかったので。
視界の端で、芳親が今までに見たこともないような形相をしているのも見えていたが、志乃は激する感情もなくいつも通り。雷雅に何をされたのか、雷雅が志乃をどう見ているかは知っていたが、怒りを覚えるようなことではないのだ。志乃の内側に広がる空洞では、自分に向けられた蹂躙や侮辱など、傷も残せず消えてしまう。
『ところで、なにゆえ俺をお呼びになられたのですか』
『んー? そんなに急がなくてもいいのにぃ。でも、そうだねぇ、忘れないうちに渡しとかないとー。残念だけど、君たちとは帰り道が別だからねぇ』
同じくいつも通りの空虚さを纏いながら、雷雅が懐から箱を取り出す。一瞬、志乃は身を強張らせた。何かを警戒したからではなく、沢綿島で妖怪の姿を取り戻した後、雷吼丸によって届けられた桐箱を思い出したので。
己が性質を認めたというのに、高価なものは相変わらず苦手。ちぐはぐな自分に苦笑しつつ、志乃は箱を受け取った。沢綿島の時よりは恐れずに。
『これは……顔の防具、ですか』
ためらうことなく開けた箱には、顔の下半分を覆うだろう防具、いわゆる面頬が収まっていた。淡い色をした布上に鎮座しているそれは、霧の薄絹を通したことで、しっとりと静かな光沢を湛えている。
大具足と組み合わせるような仰々しさはなく、鼻から顎を覆う面頬を彩るのは、青みがかった漆黒と黄金。触れれば黒鉄の冷たさが、持ち上げれば重みが指を伝う。
無言のまま、雷雅がするりと箱を回収したため、志乃は面頬を試着してみた。ぴったりと、吸い付くように嵌まった面頬は、恐ろしいほど付け心地が良い。冷たさも重みも、指から伝わってきたそれから想像したものより軽やか。まるで最初から志乃の一部だったかのように馴染んでいる。
『うんうん、大丈夫そうだねぇ。さすがは阿伎戸が作った防具。あ、志乃はまだ知らないかぁ。阿伎戸っていうのはー、色護衆もご用達の職人妖怪だよー。志乃の面頬を作ってもらうついでにー、晴成の義手も依頼したんだぁ。俺が勝手に貰っちゃったから、そのお詫びにねー』
志乃は答えず、そっと面頬に触れる。呼吸を妨げない隙間こそ空いているものの、黄金の歯は食いしばって閉じられているため、愛想笑いは前より伝わりにくい。そもそも、ここは愛想笑いをすべきなのだろうか。違うかもしれないが、正解は分からない。
『その面頬にはねぇ、志乃がそう望む限り、衝動を落ち着けてくれる術を仕込んでもらってるんだよー。人間を食べたいって欲に抗うのは、すーっごく難しいから』
ぞわり、刺激が志乃の背筋を突き抜け、愛想笑いを砕け散らせる。悪寒と悦楽を掻き混ぜたような昏い感覚は、好ましいとは言い難かった。しかし、いつか好ましくなってしまうのだろうと、波紋に乗って予感が染み渡っていく。
『妖怪が人間を食べるのはねぇ、人間が鳥獣や魚を食べるのとは、ちょっと違うところがあるんだよー。人間の美味しさっていうのはー、精神とか魂の美味しさだから。奉られる存在に仕える巫覡とかー、得を積んだ高僧とか。高潔な人間の魂ほど、その血肉や骨を美味に仕立て上げる』
実際に食べたことがあると言わんばかりの語り口で、雷雅は志乃に囁く。さらさらと黒髪の帳を落として、仄々《ほのぼの》と温かな宵へ誘うように。
『今でもすごく美味しそうなのに、晴成はどんどん美味しくなるだろうねぇ。元から神霊に仕えるような家の人間で、驕ることなく研鑽に励んでるんだものー』
容易に想像がつく。志乃は表にも思念にも出さなかったが、脳裏で明鏡を思い出していた。嘘など容易く見破れそうな清澄を宿した、藍色の面影。あの清廉に沢綿島での行いを白状した記憶や、灯火を探す道へ背を押してもらった記憶も引きずり出される。
けれど、そのいずれもが、今は猥雑に押し流されて汚濁まみれとなっていた。あの星が高潔なのは変わらないが、志乃が変わりすぎた。明鏡に向き合えるような、人間ではなくなった。
とろりとした黄金の流し目が、視線の合わない青白の瞳に注がれる。交わらずとも雷雅は気にせず、春の夜風めいた声に言葉を乗せる。
『我慢して、我慢して……その上で、どうしようもなくなっちゃったら。俺のところに帰っておいでー、志乃。苦しかったことなんて、ぜーんぶ忘れさせてあげるから。そうじゃなくたって、いつでも俺のところに来ていいよー。痛くなったら癒してあげる。苦しくなったら慰めてあげる』
『――いいえ』
花びらを弄ぶような声を、はっきりとした拒絶が断ち切った。氷輪の瞳もまた、微熱に溶ける黄金の瞳に刃を返す。ぞわぞわ這い回る情動を抑え付け、押し退けて。
『貴方の癒しも、慰めも要りません。俺は、貴方のところへは、行かない』
こちら側に来るな、と。冷たく暗い舟の上で突き放してくれた鬼の声を、志乃は忘れていなかった。妖怪になるなという意味合いには応えられなくなったが、それでも。本当に人から離れてしまう時までは、抗うと決めている。
『ふふふ。そっかぁ、ざぁんねん。だけど、俺は志乃のことだぁいすきで、あいしてるから、いつでも頼ってくれて……うーん、違うか。いつでも利用してくれていいんだよぉ』
面頬ごしに、白皙の手が志乃の頬を撫でる。黒髪の帳も引き下がり、雷雅の空虚な笑みが見えた。
『あ、そうそう。雷吼丸の制御権も、志乃にあげるー。元々あげるつもりだったんだー』
『それはどうも、ありがとうございます』
『どういたしましてー。……あーあ。もう終わっちゃった。次はいつ会えるかなぁ。っはは。また会おうねぇ、志乃』
芸術品もかくやの「名残惜しい」という顔をして、横に垂れた志乃の髪をさらりと一撫でして、雷雅はふわりと踵を返す。音もなく現れていた女童が、先導のために鬼の行く手で待っていた。
霧が重なる常盤の中へ、黒く揺蕩う後ろ姿が溶け消えていく。その気配も霧の彼方へ消えるまで、志乃は鬼の背を見送った。警戒していたのはそうだが、それ以外にも何となく、目を離したくない気持ちがあった。
『……志乃』
短くも、ひどく緩慢な長時間が経つような感覚から、同朋が志乃を引き上げる。見やれば、芳親がすぐ傍にまで来て、憂慮に顔を曇らせていた。
『すみません、芳親。俺は大丈夫ですよ』
芳親が常には仮面をつけていないのと同じく、志乃も面頬を外して笑う。使い古された愛想笑いは健在で、これまでのことは悪夢だったのではと希望さえ抱かせる。もちろん、そんなことはありえないと、認めた二人は分かっているが。
『済んだか。お前たちの帰る道はこちらだ』
それ以上出る言葉もなく、歩み寄ってきた妖雛たちを八千草が先導する。芳紅の本体はついぞ現れなかったが、残る穢れの浄化を筆頭に後始末があるため、あらかじめ別れの挨拶は交わしてあった。
白銀の肢体の隣を歩きながら、妖雛たちは森を進んでいく。深い霧と常緑に錯覚を引き起こされそうだったが、常世の森は唐突に途切れ、真っ暗になった。何の前触れもなかったため、志乃はつい周囲を見回したが、八千草と芳親は落ち着き払っている。芳親に至っては慣れた様子で志乃の手を握り、迷わないよう努めていた。
『ここは、常世と幽世の間に当たる空間だ。名はついていないから、その時その時で適当に呼ばれている。今の人間なら、正確な名称を決めているかもしれんが』
迷いなく歩きながら、八千草が説明してくれる。その毛並みと、毛並みに触れている芳親の片手を、ぼんやりとした小さな光が照らし通り過ぎた。蟲のような、植物のようなそれは、ふよふよとたまにすれ違っては消えていく。
『この光る奴らの正体は、色々ある。あぶれた力の欠片が集まったモノ、幽世に棲息する妖草木が飛ばしたナニカ……いずれもここで、独特の生態を築いているらしい。研究するようなもの好きがあまりいないから、多くが謎のままだな』
生態を築けるような環境があるのか、という問いには、慣れてきた志乃の五感が答えを見つける。どうやらここにも森が広がっているらしい。常世にあった静謐な山林とは異なる、鬱蒼とした樹海。ここもまた外光が差していないが、霧に遮られてはおらず、最初から夜の中にある。
足裏から伝う感触からすると、足元はあまり良いと言い難いようだが、八千草は上手いこと道を見つけて進んでいるらしい。志乃も芳親も躓くことなく進めていた。
『すごい、ですね。光もなければ、足場も悪いのに』
『ん? ああ、私は何もやっていないぞ。あちらが勝手に避けるし、導くのだ。通り道にされるのは良いが、長居はされたくないらしい。ほら、光る奴らは一定の方向から来ているだろう。それに、もっと足元に注意してみれば、蠢いている気配も分かる』
きょとんと志乃は目を瞬かせたが、芳親も肯定するように握る力を強めたため、言われた通りに注意を傾けてみる。まずは光るナニモノかたちに。大群をなしているわけではなく、ぽつぽつ現れる程度だったため気づくまで時間がかかったが、確かにやって来る方向が同じだ。
次いで、足元。光の方に神経を尖らせ済みなこともあってか、こちらはさほど時間をかけず気配を察知できた。何かが這いずり、離れていく気配。二人と一頭が踏み入る前から準備をしているのだろうか、動きはかなり遅いのに、ちゃんと避けられている。
長居されたくない、という八千草の評に違わず、奇妙な森はそう長く続かなかった。またも唐突に暗闇が途切れ、今までで最も明るい森に出る。久々の光に、思わず妖雛たちの目が眩む。
『ははは、お前たち揃って同じ顰め面だな。私はもう行かねばならんが、くれぐれも気を付けて行きなさい。行く方向は自ずと分かるさ。特に芳親、お前がな』
では、と。妖雛たちが満足に挨拶も返せないうちに、八千草の気配は消えてしまった。志乃と芳親はしばらく「うう」だの「いたた」だの呻きながら、その場を動かず目を慣らすのに徹していた。
「……芳親、行けます?」
「うん……」
しぱしぱ、渋面で瞬き合うと、すっかり人間時の服装に戻った二人は歩き出す。行く方向は分かると言われた通り、見慣れない森でも、進む足に迷いはなかった。芳親の方が特に分かると言われたため、手は繋ぎっぱなしで。
杉の巨木が立ち並び、歩きやすさも今までとは段違いの中を進むこと少し。行く手に建物の影が見えてきた。近づくにつれてそれは門だと分かり、門扉の前に見覚えのある人影も確認できる。小柄な体躯に纏う衣服は見慣れないが、被いだ衣の下から覗いている純白の髪は、間違いなく茉白のものだ。
「茉白!! まーしーろー!!」
同時に気づいた芳親が、空いている片手をぶんぶん振りながら呼びかける。志乃もつられて、空いている片手を振り上げた。途端、伏せられていた赤い目が二人を捉え、小柄な姿がひらひらと衣を泳がせて駆け寄ってくる。
「志乃! 体は何ともない!?」
「はぁい、この通り元気ですよー」
危うげに叫び走り込んできた茉白を二人で受け止め、志乃はのほほんと答える。茉白はぺたぺたと志乃の頬を触り、慌てた勢いのまま胴体も触って確かめていたが、本当に何ともないと分かるなり大きな息を吐く。
「よ、かっ……たぁ……ほん、と……報告、聞いた時、どうしようか、と……」
「ご心配おかけしまして、申し訳ありませんでした、茉白」
「うん……芳親、も。何ともない?」
「何ともない」
こくり、繰り返して頷く芳親を見た後、茉白はその場に崩れ落ちかける。変わらず妖雛たちが支えていたため、美しい装束に土がつくことは避けられた。
「すう、はあ……ごめん、落ち着いた。よく戻って来てくれました、二人とも。おかえりなさい」
「ただいま」
「えへへ。ただいま戻りましたぁ」
切り替えの早さに戸惑わず二人が応じ、束の間の平穏が訪れる。それを破ったのは、「して」と質問を構えた志乃の声。
「ここはどこで、どうして茉白がいるのでしょう。それに、そのお召し物は」
「ああ……これは、巫女の装束だよ。実家での普段着だけどね」
緋袴に白の小袖、藤と雲が描かれた衣を被ぐ装いを、物憂げな赤い視線が一撫でする。連鎖して、茉白の儚げな面には苦笑が浮かんでいた。
「ここは天藤山の麓。祭祀を司る天藤分家が管理している禁足地。二人はここへ返すっていうお達しがあったから、巫女も兼ねている私が迎えに来たんだよ」