花の崩落
ばちん、と。何かを弾く鋭い音が聴覚を、目を瞑らざるを得ない閃光が視覚を打って。珠花が再び目を開けば、振り下ろした蜘蛛の足が一本、黒焦げになっていた。
「――は?」
思わず、間の抜けた声が零れる。止まった蜘蛛の足先では、ずるりと影が蠢いていた。地に落とし、叩き潰したはずの鬼が、笑いながら立ち上がっている。
「なあ、お前。邪魔だ」
愛想ではない陶酔の笑みが、放たれた敵対の言葉が、異質な何かを纏って現れる。呪詛の毒に満たされ、珠花の放つ気配こそ絶対の空間で、それは起き上がっていく。珠花の圧を押し返して。呪詛よりも黒く暗い、何かを抱えて。
青白い目がこちらを見る。麻痺によって濁っていたその目は、異様な妖光が宿っていた。
再び繋がった視線から怖気が伝わり、珠花の体を強張らせる。相対しているモノが、己より格上だと思い知らせてくる。人ではなくなり、怨敵を殺しうる存在へと至ったが故に、感じ取れる危険は膨大だった。敵わないと、理解できてしまった。
これは、珠花に恨みの根源を植え付けた少女ではない。正真正銘の化け物――悪鬼だ。
考えるより先に、珠花の体が動く。明確な脅威を排除しようとする。恨みを晴らすためではなく、自分を守るために。
舞に連ねた打擲は、あっさりと鬼に叩き込まれた。それなのに、木の葉の如く翻弄されていた体は、びくともしていない。呪詛も変わらず、確かに伝っているはずなのに、鬼は容易く呑み込んでいる。
「あはははぁ」
信じられないと瞠目した矢先、無邪気な笑い声が転がった。軽やかで、朗らかで、呪詛の坩堝にはそぐわない声。故にこそ異常としか聞こえない声音に、寒気を感じた直後。背中が強かに打ち付けられた。
「ぐ、ぁ……」
喉が絞まる。絞められる。距離を一瞬で詰めた鬼が、珠花の首に手をかけていた。苦しいが、かけられている力には加減が見える。
本体の危機を受けて、残りの足が鬼を剥ぎ取ろうと撓る。舞に合わせていた時とは違い、容赦なく。それでも鬼には効いていなかった。青白い目を細めて、牙を覗かせて笑っていた。
あの時と、同じ。いいや、あの時は突然の脅威に直面した恐怖も、一歩間違えば死ぬような危機もなかった。それでも、けれども、屈辱だった。こいつにとって、珠花は手を抜ける程度の存在でしかないのだと、突き付けられてしまったが故に。
冗談じゃない。ふざけるな。ぶつけたい言葉は喉ごと潰され、放つこともできない。数多の毒を呑み干して、人の道を踏み外して、命の使いどころを仇討ちに定めた。その全てを、今まで費やしてきた全てを、無駄にされてたまるものか。
負けたくない。押しやられたくない。これに一矢報いられるなら死んでもいい。笑うな、嗤うな、その顔ぶん殴って二度と笑えなくしてやると、とうの昔に決めたのに!
抑圧された言葉まで乗せた睨視を、青白い繊月と化した双眸に叩き込む。効かないと嘲笑うどころか、伝わってすらいないように笑う鬼。その顔が、ふと、横を向いた。途端に手も外れ、珠花の上から飛び退いた。否、引っ張られたように見えた。
「はあァ……雷雅殿が見たかったのはあれですか。ワタクシの成果を軒並み吸い上げるなんて、つくづく酷いお方ですねェ」
何かが倒れる鈍い音と入れ替わりに、聞き馴染んだ声がやってくる。狂った調子を失った声の主は、激しく咳き込む珠花を起こすと、梅紫の瞳で覗き込んできた。
「珠花様、ご無事ですか? ご無事ですね? 明らかにマズい事態となりましたので、この利毒、お助けに参りましたァ」
声がなくても、珠花の目に健在な戦意を読み取って、利毒は嬉しそうに笑う。基本的には静観を貫くと言っていた利毒だが、言葉の通り、良くない事態が起こってしまった。珠花が相手にしていたのは花居志乃であって、弱らせても歯が立たない悪鬼ではない。
「一体あれが何なのか。ワタクシもすぐに見当はつきませんが、アナタの手に余ることは確かです。ワタクシの手が入ってしまうこと、どうかお許しくださいませんか。持ち場を離れました故、いずれ志乃殿を助けようとする者も入ってまいります」
調子を一切外すことなく、笑んだままでも冷静に言葉を紡ぎ出す利毒は、それだけで逼迫を伝えてくる。珠花とて、猶予がないのは分かっていた。
「いいえ」
分かっていても、頷けなかった。
「駄目。それは駄目なの、利毒。あなたは見守るだけでいて」
どんな形であれ、花居志乃に呪詛を刻むことは、自分の手で成し遂げる。蜘蛛の糸を掴み、珠花の名を新たに貰った時、そう決めた。そう決めたからこそ、この命を繋いできた。
唯一の幸福、唯一の希望を失い、ただ緩やかに朽ちようとしていた命。その再燃は、自分では傷一つ付けられない相手への復讐。どんなに愚かでも、生み出すものが何も無くても、珠花はこの道を往くと決めた。
絶対的な正しさとして、己が命の使い場所として。檻の外へ出るべく選び取った道は、自分の足で踏破しなければならない。飾られる花を脱却した、自分の足で。
「これは、私の……私の選んだ、結末だから。お願い」
自分に数多をくれた鬼の襟元。珠花の纏う真紅よりも暗いそれを、掴む。力を籠めすぎた白魚の手は震えていた。悪鬼が怖いのではない。何も成せず負けることが、怖い。自分の選択を成し遂げられないことが、怖い。それだけは絶対に嫌だ。
お願い、と。もう一度繰り返す声も震え、それが情けなくて、珠花は俯いてしまう。けれど、掴む手に何かが触れて、顔を上げる。一度も目を逸らさなかった利毒が、いつも通りに珠花を見ていた。笑いはすれども、嗤うことはなく。
「承知いたしました。それが、アナタの意志であるならば」
珠花の手に重なる、利毒の手もまた白かった。男なのか女なのか分からない手。唯一、行き場のない珠花の手を掬い上げ、握ってくれた手。
「後のことは、お任せを。どうぞいってらっしゃいませ、珠花様。そして、久咲様」
「……ええ。ありがとう」
私の神様。
するりと手を抜き取って、珠花はもう一度、立ち上がる。乱れた衣と髪はそのままに。それでも彼女は美しかった。堂々と胸を張って、微笑んでくれた利毒に背を向けた。
悪鬼が襲ってこなかったのは、利毒の使いである蜘蛛が、総出で抑え込んでくれていたから。しかしそれは、麻痺や呪詛の毒が効いている後押しもあってこそ。悪鬼が万全の状態だったのなら、すぐにでも押し負けていたに違いない。
珠花が、悪鬼と相対する。蜘蛛の拘束が、解ける。氷輪の目に、牙が覗く口で笑って、恐ろしい悪鬼がやって来る。一直線に飛んできたその体を、珠花が連れた蜘蛛の足が、捕らえた。
「まだ舞は終わっていないの。おとなしく見ていなさいな」
出せる全力を奮って悪鬼を押さえながらも、珠花は微笑みを浮かべてみせる。苦しい色など滲ませず、最後の舞を、ゆるやかに始める。
花が咲く。花が咲く。鬼の育てた花が咲く。毒を纏って花が咲く。悲願の紅い花が咲く。
呪いに適った花は咲き、仇に敵えと力を奮う。今こそ願い叶える時だ。
舞台は直に幕が下り、悲願の花も実を結ぶ。最後に開くは懸命の生花、ここに見事、咲き誇った。
珠花が、舞を終える。両腕を広げ、己の急所を曝け出す。彼女の胸を起点に、掻き混ぜられた呪詛が集まり渦巻いて、解放と共に打ち上げられた。
黒に塗り潰された部屋に、紅く。具現化した呪詛の奔流が、真っすぐに悪鬼を貫く。矢のように、槍のように、一閃。悪鬼の胸を射抜いた紅は、花火のように広がった。
「――志乃!」
後ろへと倒れる中、珠花は入口だった場所に、白銀の影を捉える。志乃の仲間だろう。それなら敵だ。敵だけれど、もう迎撃の余力はない。
足元が、音を立てて崩れていく。轟音が花楼を揺るがしている。珠花がその身に宿し、解き放った呪詛の余波は、九重の楼閣を崩壊させるほどの妖力でもあった。
落ちる、落ちていく。白銀の人影が、志乃へ手を伸ばしている。そうは、させない。貴方にとって救いたいそれは、私にとっての怨敵だから。
残った微力を奮って、捕らえていた志乃を放り捨てる。後は知らない。どうせ、あの化け物は死なないのだ。あの白銀の人影も、志乃を助け出せるだろう。それでも構わない。珠花は復讐を果たした。平穏を願ってくれた姉の願いも、自分の命も、持っていた全てを投げ捨てて。
崩れた漆黒の破れ目から、欠け知らずの満月が見えた。幽世には、あの巨大な月が常に浮かんでいるのだという。最期の景色としては、上等だった。文句のつけようもない。
咲いた花、盛りを終えた花は、後は土に還るのみ。呪詛の器となったことで、全身が呪物となったこの身は、約束通り利毒に渡される。
結末の奏でを聴きながら、珠花を名乗った久咲は、笑った。無邪気な少女の笑みを浮かべて、落ちていった。
***
開かれた扉へ飛び込むのと同時に、強化と透過を施されていた糸を断ち切る。発狂の危険性と隣り合わせになりながら、紀定が仕込んでいた糸を。
素早く閉扉もこなした芳親を待ち構えていたのは、廊下も階段もめちゃくちゃに入り組ませた、幾重もの幻術。結果的に花楼から出ることになった時とは違い、先導してくれる青の怪火はいない。自力で、一人で突破するしかない。
風晶との戦いで、既に疲労が溜まっている体では、得意の術も鈍ってしまう。とはいえ、芳親は妙術に長けているため、鈍っていても速度は平均以上。大量に仕掛けられた幻術を解除しながら、呪詛が振り撒いた劇毒の残滓を掻き分けながら、確実に九階へ向かっていた。
鬱陶しさと煩雑さに、苛立ちさえ覚える暇がない。芳親はただ、前を見ていた。進むことだけを考えていた。足止めなど蹴破って、消しきれず蓄積する呪いも意に介さず、ボロボロの体で駆け抜けた。
その道が、突如として開けたのは、七階に差し掛かったのと同時。呪詛から身を守る術にだけ注力できるようになって、芳親の進みは段違いに速まる。紅の名残を無に帰して、狐火も蒼炎も消えた漆黒を切り裂いて、ひた走る。
八階も難なく踏破して、九階。その最奥へすぐに到達して――しかし、凄まじい妖力の暴風に打たれた。
襖を失った、真正面の部屋。紅が蠢く真っ暗闇から叩きつけられた、力の余波。呪詛塗れで穢れきったそれに、芳親は思わず吐き気を催した。けれども、逆流してきた臓腑の中身を押し戻し、聞こえた数多の怨嗟も無視して。脆くなった足場を踏み抜く勢いのまま、ようやっと友の居場所に辿り着く。
「志乃!」
その名を、久しぶりに見る背へと呼びかけた。その名の持ち主は、呪詛を穿たれた後だった。
中空で、留められるように拘束されていた背に、手を伸ばす。届く前に、拘束していたものが、志乃を投げ捨てる。呪いに侵された少女の体は、崩れゆく花楼の壁を破り、夜空へと放り出された。
今夜だけで何度作ったのか分からない、牡丹の足場を築く。考える時間も、呪力を巡らせる時間も感知できないほどの一瞬で、芳親の足元に幻想の光が咲き開く。暴風を閉じ込めた備えはなく、己の跳躍だけで、巨大な月が浮かぶ空へと飛び出した。
妖雛たちが投げ出され、飛び出したのは、風晶が守っていた側の反対。志乃は崩れる楼閣の瓦礫に紛れ、無抵抗のまま、頭から落ちていく。行く先には、暴風や蒼炎に荒らされていない、渡り廊下の屋根瓦が待ち構えている。
その前に、芳親が追いついた。志乃の足首を捕まえて、体を引き上げ寄せる。膨大な呪詛を受けた体は、抱きしめた芳親にも苦痛を伝えた。苦悶の声を押し殺して、芳親は着地の場所へ、新たに牡丹を咲かせる。
果たして、妖雛たちの体は、瓦ではなく牡丹に受け止められた。しかし、端々が黒ずんだ牡丹もまた崩れ、受け止められた二つの体は転がり落ちてしまう。
次なる落下先は、中庭。志乃を抱えたまま、瓦を転がった芳親は、歯を食いしばって再び牡丹を開かせる。先ほどよりも黒ずみが広がり、枯れかける手前の様相をした牡丹は、緩衝の役目を果たすなり崩れ消えた。
「ぐ、うっ……」
悪寒、幻聴、じんわりと広がっていく痛み。創痍の体を更に削られ、芳親は一旦、志乃を仰向けに寝かせて離れた。
苦痛に細まる目をこじ開けて、志乃の容態を視診する。あちこちが破けた服の下には打撲痕。それらは呪詛の効果もあってか、まだ痛々しい赤を保っている。胸には、服の上からでも分かるほど禍々しい、赤黒い呪詛の痕が刻まれている。
志乃の命が危険なことは、どう見ても明らかだった。
呪詛が伝染し、痺れて上手く動かない腕をぎこちなく上げて、牡丹を咲かそうとする。沢綿島で、史緒の解毒を行ったように。志乃の負担を少しでも減らし、その命を守れるように。
だが、息をするように容易いその術すら、今の芳親にはままならない。威容を誇るはずの牡丹は、咲けども小さく、すぐに黒ずみ崩れてしまう。何度やっても結果は同じ、それどころか悪化していき、咲かせるための力ばかりが尽きていく。
どうして、と。声にならないまま、問いが喉の奥へと消えた。志乃を助けることは、できるはずなのに。できるのは、自分しかいないのに。守ることにかけて万能と言い切れる力さえ、全く発揮できない。
棚盤山の麓で刻まれた、後悔の傷口が開く。また、守れないのか。犠牲を生んでしまうのか。志乃を止められず、晴成の左腕を失わせ、己の無力を突き付けられた記憶が蘇る。今度は、志乃の命が失われそうなのに。助けを呼べる気力すらないまま、見ていることしかできないのか。
食いしばった歯の痛み、噛まれた唇の痛みだけが、芳親の正気を保つ。折れかけ、消えかけの気力を奮い起こす。暗闇から抜け出せないまま、堂々巡りの考えから、何とか這い出そうとする。追い縋る悲観を振り払って、希望を探す。
それすら断ち切るように、ひときわ大きな崩落の音が降ってきた。地に落ちた妖雛たちを照らし出す月光が、遮られた。
「あ――」
見上げた芳親の視界を、瓦礫が覆いつくす。花楼の中腹部分が崩れ、外壁の大部分が剥がれ落ちてきていた。
渡り廊下へ逃げ込もうにも、庭との間には一階分の段差がある。志乃を抱えて飛び込むだけの力はあっても、時間が間に合わない。咄嗟に、芳親は志乃に覆い被さって目を閉じた。そんなことしか、できなかった。
ところが、瓦礫は轟音と共に、落下途中で砕け散った。
焦げ臭さと共に、ぱらぱらと降り注ぐ破片の雨を受けて、芳親は再び目を開く。花楼の残骸が降り積もった地面に、少し距離を開けて、影が立っていた。
「良かったぁ。話す前に潰れちゃったらー、困るもんねぇ」
散々な有り様の中へ、暢気な声がやってくる。連ねられた佩玉の瓊音が転がってくる。長い裾と黒い足袋に包まれ、黒い平沓を履いた足が、ささやかな金の装飾を煌めかせて歩み寄ってくる。
「こうやって会うのは初めてだねー。前は呪具越しだったけど、憶えてるー?」
志乃を庇うようについた手はそのまま、芳親はさらに顔を上げた。幽世の夜を支配する巨大な月を背後に、小さな黄金の繊月が二つ、黒い影に浮かんでいる。すらりと二本の角を伸ばしたその影は、見紛うことなき鬼そのもの。
「対面では初めまして、芳親。俺は雷雅。見ての通り鬼だよー。そして、志乃の親でもあるねぇ」




