新たな叢雲
山麓の戦いが始まる少し前。岩山の頂上は露天の舞台にて、大蜘蛛を従えた利毒と、喜千代班の交戦が始まっていた。
既に待ち構えていた蜘蛛以外にも、岩山には大小様々な蜘蛛が巣食い、舞台へ上がってこようとしている。足を掛けて上ってくる蜘蛛と、斬り薙ぎ払う班員たちの攻防が繰り広げられる中、喜千代は前方へ踏み込んでいた。
「ハアァァァッ!!」
裂帛の声を上げ、利毒に斬りかかる。しかし、利毒は大蜘蛛の背に立っており、継ぎ接ぎの巨躯を操って応じてきた。
ギィンッ、と。交差して空気を震わせた刀と脚の先で、紫の鬼は楽しげに顔を歪ませる。
「あァ、危ないではありませんか。こちらは武器を持っていないのですよ、志乃殿に渡してしまいましたからねぇ!」
「やっぱり。志乃ちゃんが持ってた刀、お前が渡したものだったか」
喜千代の脳裏に、刃の光がぎらりと蘇る。道中の洞窟で、志乃が持っていた得物が。
志乃が元々持っていた刀、沢綿島の狸から譲り受けたという妖魂器は、蟻地獄の罠に落ちていたのを芳親が回収している。さらに、麓へ下る途中で紀定へ預けられため、今頃は直武の手に収まっただろう。彼女が刀を得るとすれば、利毒が何かした以外に考えられない。
「ンフフ、良い品だったでしょう。鼬の屋敷にあったものでしてねぇ。守り主たちがあの有様になってしまいましたので、ワタクシが回収しておいたのですよ」
「襲っておいてよく言う、なっ!」
刀を防ぎ続けていた脚を払い、飛び退って距離を取る。先ほどまで喜千代がいた場所に、別の脚が追撃を叩き込んでいた。
「我が品の足を振り払える剛力に、素早い身のこなし。憤っていてもなお冷静な判断……ンフフフ、アァぁ、もっとアナタの力を見せてくださいませ、喜千代殿!」
「だったらまず、お前が自分で戦えや!」
腹から咆えて、再度斬り込んでいく喜千代。踏み、あるいは払い除けようとしてくる多脚を、受けることなく器用に躱して、上空へ飛び上がった。
繰り主を守るように、二本の足が交差して掲げられる。真正面から破るなど無謀なその壁へ、突きの構えを保って飛び掛かる。「フゥッ」と鋭い吐息に合わせて、喜千代は刀を蜘蛛の脚に突き刺さした。
動きが止まった喜千代の背後で、待ち構えていた他の脚が刺突の用意を整える。が、彼女はそれより早く袖から何かを取り出すと、眼前に聳える蜘蛛の脚に放り投げて絡ませる。
「蟲は止めさせてもらうわ。鬱陶しいから」
刺さった刀を抜いて、喜千代が蜘蛛の背へ落ちるのと、彼女を狙う蜘蛛の脚が突き出されたのは同時。しかし、後者は途中でピタリと動きを止めた。次いで、障壁となっていた脚も左右へ崩れ落ちる。鬼と守遣兵が真正面から向き合う中、二人の足場となっている蜘蛛は、ずしんと倒れ込んで動かなくなった。
「ああ……封じられてしまいましたねぇ」
ちらと、利毒は障壁に使った足の片方を見下ろす。継ぎ接ぎの脚には、分銅と札がついた鎖が巻き付いていた。
守遣兵には、術を行使する場面が必ず訪れる。そのため、術を発動させる道具を、いかなる兵でも暗器として所持しなければならない。罠や敵の無力化に用いられるそれらは、使い方や持ち主の力量次第で多彩な効力を発揮する。
利毒が傍らに置いていた大蜘蛛は、次の長になりうる鼬を大部分に活用したもの。志乃と対談した際、動きを封じきれず攻撃されることも想定し、対人妖兵でも保つように作り上げていた。それをこうも鮮やかに停止させられるとは。
「ァハ、ハハハァ。これでまだ本気を出しておられないとは。小手調べでも予想以上ですよォ、喜千代殿。アナタは真の実力者なのですねぇ」
「そうでもなきゃ、兼久くんの足引っ張っちゃうもの。で、蜘蛛を封じられて、お前はどう出るのかしら」
「撤収しますが」
不気味な愉悦の顔から一転、きょとんとした表情で即答され、改めて刀を構えていた喜千代は肩透かしを食らった。動揺を狙っての虚言かと表情を引き締め直すも、利毒はますます首を傾げる。
「お待ちしている、とは手紙で申しましたが、本腰を入れて皆様と戦うとは申しておりません。ワタクシの目的は怨念の収集と、雷雅殿からの頼みごと――志乃殿に、我々側の存在であると気付いていただくのみでございますれば」
つらつらと、今までの薄気味悪さが嘘のような滑らかさで、利毒は仕事仲間に話すように言葉を続ける。「第一に」と。
「ワタクシにはとても重要な大仕事があるのです。ここで足止めされるわけにはいきませんので。本体は最後の鼬を蜘蛛に仕立て終えたのち、本拠地へ引き上げております」
おもむろに、利毒は胸元へ手をやったかと思うと、躊躇なく襟元をはだけた。そこに覗いたのは肌ではなく、目まぐるしく動く絡繰りの機構。
「このワタクシは傀儡。ンフフ、よくできておりますでしょう? 撤退が叶わなくとも、成果は本物のワタクシに渡りますから、これ以上の戦闘は不毛というわけです。故に、ここは引き分けということで」
瞬間。空が光ったかと思うと、鬼の言葉を遮って、轟音が空気を揺らした。咄嗟に喜千代は空を見上げ、次いで後方の班員たちを確認するため振り返り、鬼から目を離してしまう。
「楽しませていただき、ありがとうございましたァ、喜千代殿。機会がありましたら、また」
「ッ! 待て!」
前へと顔を戻した喜千代が見たのは、どこに隠れいつの間に現れたのか、巨大な蜉蝣に抱えられて飛び去る利毒の姿。あっと言う間に夜空へ逃げ去られ、喜千代は思わず舌打ちしたが、すぐさま班員たちの元へ駆け寄る。
繰り主が消えたためか、蜘蛛たちは動きを止め、次々その場に倒れ込んでいく。何か仕掛けが発動するような気配はなく、沈黙していた。
「みんな、戦闘お疲れ様、ありがとう。怪我はない?」
「はい。全員無事です」
答えた男性班員を始め、後方で戦っていた者たちもまた、揃って床に座り込んでいる。確かに怪我は無いが、みな連戦に疲弊していた。班員を残して利毒を追うことは不可能と、即座に下した判断は誤っていなかった。
班員たちの疲労以外にも、飛び去る蜉蝣を追跡する手段がないことや、利毒がもう何もしないという確信など、判断材料は多くあった。おかげで正解を選択できたとはいえ、喜千代の中には悔しさの澱が残っている。ないものねだりと分かっていても、より良い結果を勝ち取れたのではないか、と。
「とりあえず、ここで隊長たちを待ちましょう。今のところは静かだけど、蜘蛛が動き出さないとも限らないし」
「轟音の出所は、確認しなくても大丈夫ですか?」
さきほど答えた班員とは別の、近くにいた女性班員が訊ねてきたが、喜千代は首を横に振る。気になる所ではあるが、兼久たちの方が先に対処できるはずだ。今は班員たちをきちんと休ませたい。
だが、喜千代は顔に出さないよう、一人考えながら案じる。あの光と轟音は雷で間違いない。おそらく志乃が放ったものだろう。あの子は、相手を任せた芳親と晴成は、どうなってしまったか。
――嫌な予感が、強い。
戦場では、良くないことなど数多く転がっている。その分だけ嫌な予感も存在する。だが、今はぞわぞわと体を這うような寒気がして、悪いことが待っていると告げられている気がした。
討伐は終わり、害となる蜘蛛も動きを止めた。棚盤山から脅威は消え去り、兼久隊は任務を完遂した。けれど、利毒の謀は始まったばかり。
かの鬼が何をしようとしているのか。そこに何が、誰がどう絡んでいるのか。人間側に知る者はまだ、誰もいない。