愚直な優柔
正門の前に、砦と同じ背丈を持った二つの人影が現れる。鎧兜に身を包み、偽の刃ではあるものの、薙刀と大太刀をそれぞれ持った武神のごとき大男。狸たちが集まり、集合体となって変化した門番である。
砦の上では、弓兵の人間姿に変化した狸たちが待機していた。通常の矢だけでなく、麻痺の効果を持つ毒を鏃に塗った矢も混ざっている。彼らはみな一様に感覚を研ぎ澄ませ、鼬の出現を待っていた。
対して鼬側はというと、気配を隠しもせず、未だ森に姿だけを隠している。感じ取れる気配の数は十五。紀定がもたらした鎌鼬という情報から考えれば、三匹で一つの隊となり、五部隊に分かれているだろうことが予測されていた。
「……動きませんね」
正門の真上、有事の際には副官を勤める狸がぼやく。彼の隣には、険しい色に染まった顔を微動もさせず、気配がある方向を睨み付ける史継がいた。平常時に窺えるお人好しそうな表情は、完全に失われている。
いかに温厚な史継とて、敵襲があれば性格を切り替える。だが、今回の彼は、似つかわしくない険悪さが混ざった雰囲気を纏っていた。鼬が何者かに操られている非道な事実と、殺すことで鼬を救わなければならない任務が、彼から穏和を奪っている。
「…………」
加えて、史緒を傷つけられたことも。その史緒の負傷を、軽薄に扱われたことも。
ぐ、と静かに歯を食いしばり、煮え立ってさらに渦巻いていく情に蓋をする。そんな彼の表情は、泣き出しそうなのを堪えているかのようにも見えた。
『そうではないのでしょうねぇ』
吹き飛びそうなほど軽く、むなしい響きをした声が蘇る。
『ですが、俺はこういう顔しかできないのです』
むなしいそこへ蓋をするような、それしかないのだという笑みも。
志乃の態度に憤った。それは紛れもない事実だ。けれど、いま思い返してみると、志乃の姿を軽薄と断じきれなくなってくる。
憤りをぶつけても伝わらない。それ以前に、受け取ること自体できなかったというのなら、それは相手を理解できないということではないのか。相手を理解できないのなら、その先にあるのは、孤独ではないのか。
孤独とは、群集の反対。群れる妖獣である史継からすれば、死が取る形の一つであり、恐ろしいもの。忌むべきもの。
根っからのお人好しな彼は、それに晒されているものへ、心を傾けずにいられない。
あのむなしさが、孤独に由来するというのなら。温くて甘い判断しか下せないと自覚している史継は、憤りに迷いを混ぜてしまう。そうして、分からなくなってしまう。何も知らない妖雛の彼女に、どうやって、理解してもらうべきなのか。
混迷を極める史継の悩みは、しかし。鼬の気配に変化が現れたことで、中断された。
感じ取った総員が、一気に緊張を高める。張り詰め、固唾を呑むことも躊躇われる空気の中、副官の小声が恐る恐るといった調子で紡がれる。
「……史継さん、これは」
「気配が十五から、三つに減ったな。つまり」
史継の言葉を待たずして、木々が薙ぎ倒される音と地響きが起こった。鼬がいた場所から起こった音は、真っすぐ正門へ向かってくる。
集合することで巨大な姿に変化する芸当は、何も狸だけのものではない。変化を得手とする妖獣ならば種族を問わずできることだ。鼬も例外ではなく、その手法を取る可能性は、狸側も予測済み。
「弓兵、構え!」
裂帛の声が轟音に負けず響き、史継が片手を挙げて合図を出した。縄が波打つように、弓につがえられた矢が天を向いていく。
「……、放て!」
手が振り下ろされるのと、真正面に何かが現れたのは同時。毒も交えた矢の雨が、土煙も覆い隠せないほど巨大な影へと襲い掛かった。
『――シャアァァァァァッ!!』
鋭い鳴き声が一つ上がる。続けて二つ。けれど狸たちは気圧されない。ずらりと並んだ弓兵たちは第二陣と交代し、門番は大太刀と薙刀を構える。
砂塵が晴れ、現れた巨躯は健在だった。しかし、動いていられるのが不思議なくらいの重傷を負っている。
矢が刺さった箇所だけでなく、鼬は目鼻や口からも絶えず流血している。元の意識が残っているかどうかは分からないが、想像するのも嫌なほどの痛みは、感じたままのはずだ。
「――ひどい」
一瞬、史継は素に戻って呟いてしまう。意思に関係なく操られ、凄絶な苦痛を味わわせられながら死ぬまで動かされる。つまりそれは、生命を踏み躙られて、侮辱されていることに他ならない。
種は違えども同じ妖獣である鼬を、苦痛と屈辱の状況に陥れている何者か。他者を苦しめ、使い捨てるように消耗しようと考えられる誰かを、他を重んじる史継は理解できない。できるはずもない。
けれど。歪んだ思考に作り上げられた光景は、争いごとなど不向きな性格の彼に今一度、決意をさせた。悪辣な苦しみから、鼬を解放しなければならないと。
鼬の数に対して門番は二人だが、体躯と武器の大きさは若干ながら勝っている。巨大化したことによって素早さは衰えているものの、そこは鼬も同じ。ほとんど互角と言って差し支えない。
必然、導き出される動きは、真っ向からぶつかること。相手が選び、望んだことならば、こちらも正面から受け止めるのみ。
『シィッ!』
後ろ足で立ち上がり、先頭の一匹が再び声を上げて突っ込んでくる。重い風音を伴って、鎌のように変わった巨爪が振るわれた。後続の二匹も同様に襲い掛かってくるが、交差した薙刀と大太刀によって、三匹すべての攻撃が受け止められる。
「第二陣、放てェッ!」
動きが止まったところで、第一陣と入れ替わった第二陣の弓兵たちが矢を放つ。ほとんどの矢が刺さり、さらに鼬の体から血を奪うが。
『ギィィィィィッ!!』
三匹に衰えはなく、それどころか気迫を増している。箍も堰も意味をなさないような殺意が、苗床となった鼬の体を蝕み、軋ませ、壊しながら、無理やり突き動かしている。
ところが、後続の片方が不意に震え出した。
何らかの感情からの震えではないと、狸たちは即座に確信する。というのも、放った矢の中には、毒矢も混じっていたから。ただでさえ重傷を負っている鼬らに、毒が回るのは早かった。
大量の毒矢を浴びて、鼬は麻痺し、痙攣している。成された功は、門番を形作る狸たちにも伝わった。
『オオォォォォォッ!!』
圧しかかってくる重みと殺気を負かすように、咆哮して押し返す。麻痺した一匹が後退すると、史継の腕はすぐさま、晒された鼬の腹を指し示した。
「向かって左を射よ!」
既に入れ替わり、再度前に出ていた弓兵たちが矢を放つ。ほぼ無傷だった鼬の腹は、見る間に矢の林と化した。耐えきれない負傷で変化が解かれ、五匹の鼬が地に落ちていく。
一対一、しかしながら重傷と無傷の相対。勝敗は明白だったが、鼬は止まらない。門番から容赦なく振るわれる偽の刃が、壊れかけの体躯に否が応でも響く打撃を叩きつけた。先に沈黙した一匹と同じく、変化が解けて元の鼬の姿があらわになる。
史継たちは、それを待っていた。
鼬が態勢を整える前に、門番の片方が正門の上に手のひらを差し出し、史継と副官を乗せる。彼らが地上に降りると、大男は十人の歩兵へと変わった。鼬同様、狸も変化を解いたのだ。
「終わらせよう。だけど、くれぐれも油断しないように」
抜刀した一同を顔だけで振り返り、史継は毅然とした声で言う。頷きが返されるのと、残る十匹の鼬が立ち上がったのはほぼ同時。
先攻は狸たちが仕掛ける。鼬が退くことは終ぞなく、間合いを詰めてきた狸に迷うことなく飛び掛かり、斬り捨てられていった。事切れた無力な獣たちは、血溜まりの上に落ちていく。
断末魔を上げる鼬はいなかった。……もう喉が潰れていたのか、発声する余力も無かったのか。
最後の一匹を斬ると、史継は刀を収めて息を吐き出す。冷徹や剣呑で作り上げた鎧が剥がれて、いつもの穏やかな彼に戻っていく。
「……黙祷」
固い意志の鎧が取り払われてしまう前に、最後の指示をした。
濃い鉄の臭いが立ち込める中、狸たちは散らし散らされた命に黙祷を捧げる。誰もが目を閉じ、兵士から平和に暮らす妖獣へと戻っていく中。史継は鬼の少女が浮かべた、場違いな笑顔を思い出していた。
蟲を操るらしい黒幕もまた、彼女のようにへらへらと笑っているのだろうか。史緒に重傷を負わせ、鼬が苦しみながら落命するよう仕掛けて。
「……っ」
想像しただけで喉が震える。目頭が熱くなる。それなのに、孤独なのかもしれないと想像した相手を、悪辣と同列に並べた己を責めたくなる。
いいや、それ以前に。勝手な想像を巡らせてばかりの己に嫌気が差していた。もう何もかも嫌で、悲しくて。胸の内も頭の仲も、ぐちゃぐちゃに入り乱れていく。
お人好しな狸の青年は、どこまでも真面目すぎた。故にこそ、嗚咽も涙も抑え込める。ただ、喪われた魂の安息を願えば、少しは穏やかになれた。それすら勝手なことと思えてしまうほど、愚かなほどに善良だった。
だが。怒りであれ、悲しみであれ、泣くのは全てが終わってから。それは変わりない。
目を開け、ボロボロの亡骸を拾い上げる。開かれた門からざわめきが溢れ出してくるのを聞きながら、史継は埋葬のための指示を出し始めた。