陰に潜むもの
いつもなら、一つの跳躍で景色ががらりと変わる。だが、今回はどんなに進んでも、夜闇に沈んだ森しか見えない。
妖雛二人が狸たちを回収している間、紀定は宝山の裏側の森にいた。
所々に月光が差し込んでいながらも、獣道すらない森は不気味に静まり返っている。紀定の重みで揺れる枝葉の音が、静寂で塗り固められた闇の中へ消えていく。
だが、消えてしまう前に、音を拾い上げたものがいた。
一定の間隔を開けて落ちる枝葉の音、その足元へ向かってくる、茂みを駆け抜ける素早い音が一つ。枝から枝への跳躍をやめ、軽やかに地面へと降り立った紀定が、音の方を一瞥すると。
『――シャアァァァッ!』
鋭い威嚇の声と共に、前方の茂みから細長い影が襲い掛かって来た。
わずかに差し込む月光が、獣の姿を明らかにする。紀定の背丈を優に超える巨躯に、蟷螂が持つような鎌と化した巨爪を掲げた鼬だ。
凶悪さが見て取れる鋭利な鎌爪が、低い風音を伴って振り下ろされる。しかし、獲物の首を狙った一撃は、空振りに終わった。
『!?』
下肢だけで着地し、人間のように立って周囲を見回す鼬。顔に正気は見受けられないが、何が起こったのかを把握できずに困惑している色はあった。それもそのはず。狙いを定めたはずの相手が、音もなく一瞬で消えてしまったのだから。
しばし紀定の姿を探していた鼬だったが、不意に動きをやめ、じっと立ち尽くした。耳をそばだて、相手が動き出すのを待っている。月明かりがあるとはいえ、鬱蒼と茂る木々のせいで見通しは悪い。耳に頼るのは賢明な判断だろう。
果たして、鼬の策は功を奏す。静謐を乱す乾いた微音、何者かが枝を踏んだ音を拾い、弾かれたように振り返った。
けれど、策があるのは相手側も同じこと。
「御免」
短く小さな声と共に、項へ手刀が叩きこまれる。背後からの攻撃に、鼬は成す術なく、声すら上げず倒れてしまった。
手刀の攻撃は無論、紀定によるもの。鼬が振り返るまで姿を見せなかった彼は今、うつ伏せになった巨躯を冷然と見下ろしている。
「頭は回るが、罠を仕掛けられる予想には至らなかったか」
次の作業へ取り掛かるべく、鼬のすぐそばに歩み寄った足元から、バキッと枝が折れる音がした。鼬が反応した音は紀定の罠だったが、これは正真正銘、彼自らが立てた音だ。
しゃがみ込んで縄を取り出し、紀定は鼬の腕を後ろ手に、足も動かせないように縛っていく。間近で見てみると、爪と一体化して鎌のようになった腕や、牙の隙間から滴っている血といった鼬の異様さが鮮明に知れたが、涼しい顔が顰められることはない。
「……む」
ところが、ぴくり、とわずかに柳眉が寄った。
紀定の目が捉えていたのは、鼬の背にしがみつく一匹の蜘蛛。指先でつついてみても動く気配はなく、摘み上げても足をだらりと下げるだけ。おそらく死んでいるのだろう。
「普通の蜘蛛、ではないだろうな」
携帯していた袋に蜘蛛を入れて片付けても、整った顔から険しさは抜けない。表情を変えないまま立ち上がると、紀定は警戒の色を浮かべた目で、周囲をぐるりと見回した。
「――出て来い」
発するのは冷え切った声。間を置いて返された茂みの揺れる音が、新手の存在を伝えてくる。
枝を渡る際にわざと音を立て、先ほどの罠でも音を出した紀定は、新手がいることなど当然と読み切っていた。だからこそ、狼狽えることなく苦無をしっかり構えられる。
やがて横方向、枝を伝っていた時の進行方向に、二匹の鼬が現れた。片方はすっくと二本足で立ち上がったかと思うと、むくむく大きくなっていく。身の丈は地に伏した鼬と同様に、紀定の背を容易く超しており、さほど広くない森の中では窮屈そうだった。
「やはり鎌鼬か」
特徴から導き出される名称を呟いて、苦無を握る両手に力を込める紀定。鼬は血走った目で、彼をじっと見定めている。睨み合う両者間の空気が、静寂と緊張で張り詰めるかと思いきや。
『――たす、けて、くれ』
破りがたくなりつつあった沈黙を、唐突な鼬の声が震わせる。途切れ途切れな上、苦しそうな響きを隠しきれていない声音に、紀定は瞠目しつつもすぐに頷いた。
『……われわれ、は……ころす、ことしか、できぬ。抵抗、すら……ままなら、ぬ。……お前、も、狸の、ことも、傷、つけたく、ない、が……間違い、なく……お前、たちを、襲う……』
早くも限界が近いのか、声に滲む苦痛は色濃くなるばかり。体の負担に耐えきれない辛苦と、不本意な殺戮に駆り出される悲哀とが混ざり合った、聞いていられなくなる声色だった。
『……伝えて、おきたい……蟲の、類に、気を付け……』
「それは、蜘蛛のことか」
『蜘蛛、だけ、では、ない……毒を持つ……ぐ、ぉ』
言葉が遮られ、代わりに咳と血塊が吐き出される。鼬は呻きながら、何かを振り払うように頭を揺らすと。
『――ガアアアアアッ!!』
己の血で赤く染まった牙を剥き出しにし、鎌となった腕を振るって襲い掛かってきた。枝や倒木などで狭められ、巨躯では動きにくいだろう空間を縫うように抜け、刹那のうちに距離を詰めてくる。
体重も乗っているだろう斬撃を受けることはせず、紀定は躱して回避する。沈黙していたもう一匹の様子を窺うと、命までは奪わずにおいた、倒れ伏した鼬の元へ駆け寄っていた。拘束を解こうとしているのだろう。
――三対一、こちらが圧倒的に不利。となると、選択肢は退避の一手のみ。
即座に思考し、後方へ飛び退いた彼の姿が闇に溶け、《《消える》》。忽然と姿を消した相手を探し始める鼬を尻目に、紀定は音もなく駆け去った。
森へ来たのは、鼬を捕獲し、情報を聞き出すよう命じられたため。しかしながら、鼬は自ら興味深い情報を話してくれた上に、怪しい「蟲」も手に入れられた。収穫は十分だろう。
月光にすら捉えられることなく。紀定もまた宝山へ帰還した。
***
宝山内の岩盤をくり抜いてできた部屋では、直武と団史郎、史継の三人が、卓上に地図を広げて何やら話し込んでいた。が、外出していた者たちの気配を感じ取ると、全員が顔を上げる。
「直武様。産形紀定、ただいま戻りました」
「親方……じゃない、旦那ぁ。花居志乃と境田芳親、ただいま帰還いたしましたぁ」
「ああ、ご苦労様」
紀定が姿を現したのとほぼ同時に、妖雛二人も戻って来た。飛び出して行った時と同じく、せり出した見張り台から。芳親の牡丹を利用して上がって来たのだ。
「……あれ? 紀定さんのお姿が、急に見えたような」
卓に歩み寄って来ながら、志乃が首を傾げる。青白い目を瞬かせる彼女に、紀定が小さく頷いた。
「私も少しながら呪術を使えますので。詳細は、事が全て終わってからお話しますよ」
「分かりましたぁ。では、ご報告を」
この中ではというか、宝山内で唯一のほほんとした態度で、志乃はにっこり笑ってみせた。同じ妖雛の芳親も、あまり緊張感を持ってはいなかったが。
「団史郎殿のご指示通り、巡回役の狸さん二匹と、同場所にいた史緒さんを回収しました。史緒さんは重傷を負っていらしたので、手当て役の狸さんたちの元に運んであります」
何気ない調子でさらりと、笑顔を崩すこともなく、史緒の負傷が告げられる。あまりにも場違いな笑顔に、緊張の面持ちで沈黙していた史継の口角が、ひくっ、と引きつった。
「それ、は。……笑って報告することなのか、志乃殿」
卓上に置かれた拳が何かを――おそらく憤りを、抑えつけて堪えるかのように震えている。当然だろう、妹が重傷を負っていることを、へらへら笑われているのだから。
「笑って……笑って、報告することか!?」
完全に抑え込めなかった分が、怒号となって吐き出される。悲痛な響きも奥底に潜めた咆哮に、けれど、鬼の少女は至って軽い声音と調子で、「そうではないのでしょうねぇ」と答えた。
「ですが、俺はこういう顔しかできないのです。申し訳ありません。ご不快でしたら、殴っていただいても構いませんよ」
本人は意図していないだろうが、困ったような笑顔と共に放たれた即答は、どう聞いても煽り文句。史継は顔を歪ませ、乱暴に志乃の胸倉を掴み上げたが。
「史継、今は抑えろ」
極めて冷静な声を被せられて止まった。拳を作っていた腕を下げ、悔しげに俯く彼をよそに、団史郎は「続けてくれ」と卓の向かいから志乃を見る。
「よろしいので?」
「何も思っていないわけではない。だが、それをお前に説いたところで、馬の耳に念仏を唱えるのと同じことだと分かっておる。今はそこに構っている場合ではなかろう。続けよ」
言葉の通り、老熟した狸の眼光は鋭い。しかし志乃はそれすらも、「承知いたしましたぁ」と笑って受け取る。悪気があるのではなく、そうする以外の方法を、志乃は知らなかった。
「目視した敵は鼬一匹だけでしたが、気配がいくつかありましたので、森の中に潜んでいると思われます。それと、何やら奇怪な大蜘蛛の異形一体と交戦しましたが、こちらの詳細はよく分かりませんでした。倒した後に霧散してしまったので」
「失礼、志乃殿。蜘蛛、とおっしゃいましたね?」
「? はい、確かに」
きょとんと目を瞬かせた志乃をよそに、紀定は腰に提げていた袋から、蜘蛛の死骸を取り出した。
「捕獲目標だった鼬の背に付いていた蜘蛛です。鼬は三匹で行動し、加えて巨大な鎌爪を備えていましたので、一部は鎌鼬でしょう。そのうち一匹から、『蟲に気を付けろ』という忠告を受けました。おそらく志乃殿が交戦した蜘蛛は、忠告にあった蟲の一種かと思われます。今のところ、この死骸は霧散しておりませんが」
「なるほど。情報を吐いてくれたから、鼬を捕まえては来なかったんだね」
目を細める直武に対し、妖雛たちは揃って首を傾げる。団史郎が二人に、鼬の捕獲と情報収集に関する旨を説明してから、紀定は報告を再開した。
「彼らは故意で狸を襲っているというわけではないようでした。抵抗することができず、殺すしかないのだと。おそらく黒幕は別にいて、その手足がこの蜘蛛なのでしょう」
「では、蜘蛛は倒さず捕まえた方が良かったのでしょうか」
「いや、構わぬ。相手をするべきは鼬だからな」
「気を付けた方が良い」
団史郎の言葉を聞きつつも、遮るように発言をした芳親が、片手――史緒を抱えていた方の手に牡丹を咲かせて見せる。幻想的で美しいはずの花は黒ずみ、崩れかけていた。
「ふむ。どうやら、彼らは毒を持っているようだね」
「……攻防どちらもこなせる上に、毒の有無まで分かるとは。お前の妙術はどうなっているのだ。〈特使〉とやらだからこそ、なのか?」
慣れた様子で言う直武に反して、団史郎は胡乱な目を向ける。芳親の返答は沈黙だが、それは答える気がない故ではなく、説明する時間が惜しい故の沈黙だった。
口を閉ざした芳親に、「ま、待ってくれ」と史継が慌てたように顔を上げる。
「芳親殿。毒があるってことは、史緒は」
「牡丹で、ある程度、抜いたから、死ぬ可能性は、ほとんど、ない、けど。後遺症は、出る」
無駄のない明言に、お人好しな青年の姿を取った狸の顔は、またも歪んで俯いてしまった。けれど、彼の心痛に構える暇など、この場の誰も持ち合わせてはいない。
「では、こちらも防具で身を固める必要があろうな。妖雛どもには武器も要る。ま、どちらも問題ない。既に取りに行かせている」
「……え。防具だけじゃなくて、武器も? 初耳なのだけれど」
不意を打たれたかのような反応を見せる直武に、「そりゃあそうだろうとも」と、団史郎は若干気だるげな声で返した。
「人間側と話がついたのが今日だったのだ。お前たちに話そうと思っていたら、この騒ぎというわけよ」
やれやれとため息をつきつつ、ちらと団史郎の目が横を向く。合わせたかのように、何やら細長い箱を背負った狸が数匹、こちらへ駆けて来ていた。
「志乃と芳親は、あいつらが持っておる刀と防具を使え。史継は正門に向かい、毒への対策を整えさせよ」
威厳を湛えた声で指示を出すと、団史郎はゆっくりと瞬いた。一度閉じられた灰色の目は、どこか暗くなったように見える。
「……抗うことができず、殺すことしかできぬのであれば。楽にしてやる他なかろう」
打って変わった静かな声で呟かれた言葉に、異を唱える者はいなかった。