急襲
真っ直ぐに飛んできた一羽の鷹が、樹上で待っていた紀定の腕に留まった。実際は鷹ではなく模型、配達や伝達を担う模型呪具だが、本物と見紛うほど精巧に作られている。
持たされていた包みを渡すと、鷹はさっさと飛び去って行く。紀定は見送ることなく地上へ降り、史緒の傍らへと戻っていた。
「それに証が入ってるの?」
「はい。志乃殿が希望した意匠の紋と、色護衆の所属を示す意匠が施されております」
興味深そうに、狸の少女は包みを見上げる。浮かんでいる表情は姿の通り、幼子のように微笑ましい。
傍から見ると、年の離れた兄妹に見えなくもない二人を照らすのは、月光ではなく陽光。ここは現世、幽世に居続けられない紀定と直武のために貸し出された、団史郎の屋敷だ。
「双岩」と表札がかけられた屋敷があるのは、一行が入港した両入浜の真反対、相澄という港町の外れ。幽世の屋敷と全く同じ場所にあるため、実質的には同じ建物である。さすがに規模は小さくなっているが、それでも十分広い。
「おっ、史緒ちゃん。その年でもう良い兄ちゃん掴まえたのかい?」
「違うわよ。この方はお客様!」
異なっている点と言えば、屋敷に平然と、港町の人間がやって来ていることくらい。
庭に面する廊下を通りかかった男性が、笑顔で史緒をからかい、手を振って通り過ぎて行った。紀定は初めて見る顔だが、団史郎の知人なのだろう。
団史郎は狸の総大将であると同時に、人間社会の重鎮の一角を担ってもいる。ゆえに、一部の人間には正体が知られているのだ。その他の住人たちは、彼が狸であることを知らない。
「……やはり、狸の皆様は現世に溶け込んでいらっしゃるのですね」
「現世の屋敷に来てからずっとそれね、あんた。もう十日……ああ、でも、島に来た翌日からだから九日か。それでもかなり経ってるのに」
「すみません。ここまで違和感なく、妖怪が人間社会に溶け込んでいる場所は、そうそうありませんから」
「まあ、確かにね。人間と仲良く、しかも団体で暮らしているのなんて、この島の狸くらいだわ。それはともかくとして、戻りましょう」
周囲を一度見回すと、史緒はくるりと体の向きを変える。
二人の足元近くにあるのは、やはり幽世の屋敷と同じ場所にある庭池。青空と両者の姿が映っていたが、少女の手が翳されると、満月の夜空が現れる。
幽世を映し出す水面へ、二人は躊躇なく足を踏み入れた。水の感触はあれども濡れることはなく、何ら変わらずに帰還する。
「ありがとうございます、史緒殿」
「この程度はお安い御用よ」
ふふん、と胸を張った後、「それじゃあね」と手を振って、史緒は庭にある門へ歩いて行った。彼女と別れた紀定は屋敷に上がると、一行が集うために貸し与えられた部屋へと戻る。
「直武様。紀定、ただいま戻りました」
「ああ、おかえり」
簡単なやり取りをして襖を開けると、縁側に腰かけて庭を眺めていたらしい直武と目が合う。彼より向こうには妖桜にも劣らない幻想的な牡丹が見え、大輪を散らす雷が閃くのも見えた。行灯のような優しい光と、鮮烈な鋭い光が交互に点滅するのは、なかなか目に悪い。
開花と迅雷は、風に揺れる枝葉のようなざわめきと、轟くとまではいかないものの、空気を引き裂く騒音を伴っている。繰り出しているのはそれぞれ、妙術の操作を練習する志乃と、練習に付き合う芳親だ。
「二人とも、一旦やめ。志乃君の証が届いたよ」
直武が声を掛けると、牡丹も雷も霧散して消える。次いで、妖雛たちが縁側に近寄ってきた。
「おぉー、届きましたかぁ」
のんびりと笑う志乃の隣で、芳親がこくこくと頷く。姿かたちこそ変われども、二人の性格や挙動が変わることはなく、幼くて無邪気だ。微笑ましいほどに。
「どうぞ、お受け取り下さい」
「ありがとうございます」
紀定が渡した包みを、志乃が丁寧に開いていく。出てきたのは書類を受理した旨が書かれているのだろう手紙と、片手で持てるほど小さな円形の板が一枚。板の表には彼女が希望した月と蝶の紋、裏には色護衆が掲げる竜胆と桔梗の紋が刻まれている。
「これが俺の証ですか……へえぇー」
表裏を返しながら、面白そうに板を眺める志乃。届けられた包みを見上げてきた史緒同様、幼子のようで微笑ましい。しかし紀定は、彼女の笑みに不気味なものを感じ取ってもいた。
志乃は自他に興味を持たない節があるものの、好意を持つことは知っている天真爛漫な少女だ。けれど、戯れに虫を殺す子どものような、真っ白な残酷さも持っているように思われる。
「虫」が人の形をしていても、平然と殺してしまうのかもしれない。不躾な想像すら鮮明にしてしまうものが、志乃の笑みにはあった。
「……紀定?」
紋が刻まれた板に向けられていた牡丹色の瞳が、紀定の方を向いていた。こてん、と首を傾げる芳親を見て、紀定はゆっくり目を瞬く。
「失礼しました、芳親殿。私をお呼びでしたか」
「……何か、ぼーっと、してた、から。……どうかした、の?」
「いいえ。お気になさらず」
反対に首を傾げつつも、「そう」と芳親は視線を外した。最初に会った時から、変わらず人形めいていたからか、彼に対してはそういう恐ろしさを感じたことがない。
「それは大事なものだから、くれぐれも失くさないようにするんだよ、志乃君」
「はい。ところで、芳親さんも持っていらっしゃるんですよね、これ」
「うん。……失くしたら、怒られる、なんて、程度じゃ……すまされない、から。……本当に、必要な、時にしか……出さない、ように、してる」
言いつつも、芳親は懐から証を出して見せる。彼の紋は、日輪に牡丹という組み合わせだった。
「では、志乃君の証も確認できたことだし、次の目的地の話をしようか。二人とも上がっておくれ」
二人そろって緩い返事をし、縁側に上がる妖雛たちを尻目に、紀定は現世の方の屋敷から持ってきた地図を広げていた。精密に描かれた彩鱗国の姿は、大雑把に見れば三日月、細かく見れば鹿が前脚を上げて立っているような形状をしている。
彩鱗国は、大小さまざまな島から成り立つ島国だ。最も大きく縦に長い島、水葉洲は、中央である黄都府を含めて七つの府を有している。翠森府もその中の一つだった。
「ありがとう、紀定。……次の目的地は橙路府だ。緑峰府の慈方郡を経由して入り、最南の逢松郡に向かう」
直武の指が紙上の妙後に戻り、北上して緑峰府の慈方を通過。次いで東に向かい、隣の橙路府は勢代台郡に入る。逢松はその下にあるが、彼の指先は慈方と勢代台の間に聳える山脈で止まっていた。
「というのも、逢松を拠点にしている妖怪が、不穏な動きを見せているようでね。私たちにも加勢するよう、実は書類を送ったその日に命が出されていたんだ。だから、この辺りの関所で転送陣を使って、一気に逢松へ行くことになるかもしれない」
転送陣は易々と使えない。術式が秘されているということと、陣を発動させるだけの呪力を即座に集めるのが難しいという理由があるからだ。しかし、術式を知っている直武と、人間を上回る呪力を持つ妖雛二人がおり、加えて行くだけの一行には、あまり関係がない事情である。
「……師匠。質問」
「うん、何かな」
心なしか真剣な顔つきをした芳親が、小さく挙手して発言する。普段、何を考えているのか分かりづらい芳親の真剣な顔は、何か重大なことを指摘しそうな雰囲気を放っているが……直武と紀定は、別の予測も立てている。
「……慈方には、蕎麦街道。……勢代台には、『美食城下町』……っていう、ところが、ある。……そこには」
「ごめんね。転送陣を使うことにならなくても、おそらく立ち寄れないと思う」
皆まで言わせず直武が謝ると、芳親の表情は一瞬で落ち込んだものになった。案の定だったと思いつつ、紀定は一応、励ましの言葉を掛けておくかと思案していたが。
「だけど、逢松にも美味しいものはあるだろうし……何より、派遣されてくるのは兼久君の部隊だよ」
言われた途端、牡丹色の目に輝きが戻っていたため、すぐに頭から消し去った。
「兼久殿というのは、芳親さんの義兄君でしたっけ」
「そう。茉白もいる」
喜色が滲み出ている笑みが、向けられた志乃にも伝わっていく。とは言っても、鏡に映ったかのような笑みであるため、空っぽなことが一目で分かったが。
「茉白さんと言えば、兎のように小柄で大変可愛らしく、料理や裁縫も完璧にできる上に薬学にも明るい才媛の許嫁殿でしたねぇ」
「……志乃殿。それは茉白殿の前では言わない方がよろしいかと。芳親殿の褒め言葉に、終始顔を赤らめているような方ですので」
あの長い惚気話を聞き切り、しかも内容をちゃんと覚えているのかという感嘆は置いて、紀定は助言しておいた。
茉白という少女は、芳親から贈られる言葉のみならず、褒め言葉そのものに慣れ切っていない。初対面の人物から彼と同じ言葉を掛けられては、赤面するどころか顔から火を噴いてしまうだろう。
「茉白君は照れ屋さんだから、褒め言葉を言われると困ってしまうんだよ。だから、褒めるにしてもお手柔らかにね」
おそらく、そんな茉白を微笑ましいと思っているのだろう直武からの指示に、「左様ですか」と青白い目が瞬く。
「しかし、俺は他の方を褒めることには慣れておりませんし、失礼なことを口走ってしまうかもしれません」
「言葉を削げばいいんだよ。ただ『可愛らしい』とか、『奥ゆかしい』とか、簡単に言ってあげればいい。芳親は言い過ぎだね、良さを言い連ねたい気持ちは分かるけど」
眉を八の字にして笑う直武に、芳親は遠慮なく不満を顔に出した。旅を始める前から変わらない態度は、紀定からすると馴染みがある部分だが、常々直してほしいと思っている部分でもある。
と――芳親の顔と、笑みが浮かんでいた志乃の顔がさっと変わる。視認した直後に、ぞわりとした悪寒が、紀定の全身を駆け巡った。敵と相対した時に張り詰める、緊迫の悪寒が。
「……団史郎の、気配、が……尖った」
「そのようだ。一体……」
険しく目を細める直武の背後、部屋の襖が勢いよく開け放たれた。振り返って確認せずとも、伝わってくる強烈な気配は団史郎のものだと分かる。
「何があったんだい、団史郎」
振り返りながら、遮られた言葉を紡ぎ直した直武の問いは、「敵襲だ」という短い答えに切られた。
「我らが宝山に、数百年ぶりの侵入者が現れおったわ」
***
沢綿島には宝が眠っている。彩鱗国のみならず、異国や異界から流れ着いてきた宝が、島のどこかに集められ、守られている。
伝説として語り継がれ、噂としても流れている話。現世で聞けるのはその程度だが、幽世にはその真実が、今もなお受け継がれている。島には宝山があり、設けられた宝物庫を、狸たちが守っているという真実が。
初代団史郎が人間と約束を交わしてから、長らく守られてきた宝物庫。宿敵である狐どころか、狙ってくるものが何であれ、扉にも触れさせなかった堅牢な砦。そこへ続く長いつづら折りの道を、小さな影が歩いていた。少し前に、紀定と別れた史緒だ。
「……誰」
道の途中、もう少しで宝山を守る砦が見えてくるという所で、史緒は立ち止まって誰何した。前後は唯一の道、左右は森。暗い木々の間に、何か気配がある。身内の狸たちではない、よそ者の気配。
「あたしがこの道に差し掛かってから、ずっとつけてきているでしょう。誰なの」
未熟とはいえ、史緒もまた宝山を守る狸の一員。故に、感じ取った気配にも臆さず威嚇したが、答えはない。動く様子もないらしい。ならばこちらからと、史緒は右側の森を睨み付け、狸の姿に戻り入って行った。
沈むことのない巨大な月に照らされながら、がさがさと茂みを進むこと少し。小さいながらも開けた場所に出る。近づいても動かなかった気配の持ち主は、姿を隠すことなく、堂々と史緒を待ち構えていた。
『……え?』
現れた正体は、一匹の鼬。狸の天下である沢綿島には、もちろん他の獣もいるが、気配で島の者と分かる。何より、ここを狸の縄張りと心得ている島の者なら、不用意に近づきはしない。この鼬は最初に感じ取った通り、他所から来た者だ。
『ここはあたしたち、狸の縄張りよ。立ち去りなさい』
何故よそ者が、という疑問は振り払い、史緒は毅然と言い放つ。ところが、鼬は急に牙をむいて身構えたかと思うと、彼女に飛び掛かってきた。
『なっ……随分な挨拶じゃない!』
危なげなく軽やかに躱す史緒に、鼬は唸り声をあげ、続け様に飛び掛かって来る。どこか狂気じみたものを感じさせる、ただならない雰囲気があった。よく見れば、鼬の毛並みは酷く荒れており、血が滲んでいるのも窺える。
獣特有の素早さで攻撃を避け続けながら、史緒は思考する。何故か手負いの鼬ではあるが、自分の手には余るかもしれない。宝山の砦で仲間に合流し、増援を呼ぶか。そののち、なるべく被害を出さないようにするにはどうすれば……。
『ッ!』
冷静な思考を保とうとしていた気持ちが、足を掬う。盛り上がった木の根に、史緒は足を取られてしまった。
『いっ、つぅ……』
地面を転がった体が、木に叩きつけられて止まる。じんじんと痛みが侵食する体を、史緒は無理やり起こした。鼬は少し離れた場所から、こちらの様子を窺っている。
追撃が無いのを察して、史緒は周囲を見回してみたが、鬱蒼と茂る木々が視界を塗りつぶしている。攻撃を避けているうちに、宝山からも、つづら折りの道からも離れ、森の深くに入ってしまったらしい。
『何なの……あんた……』
ぎりりと歯を噛み締め、四肢を踏ん張り、鼬を睨み付ける。史緒の心が折れていないと知ってか、鼬は再び唸り声を上げて身構えた。
だが。
『こっちだよ、こっちで音がしたんだ』
緊迫した空気の中に、仲間の声が落ちてきた。おそらく、巡回役を担っている狸だ。
先に反応したのは鼬。次いで、背筋が凍って初動が遅れた史緒。両者はほとんど変わらぬ速さで森を駆け抜け、声の方へと向かって行った。
『なっ、誰だ!? ここは狸の』
『逃げてッ!!』
遮って鋭く吠えるも、仲間は何が起こったのか分からないだろう。予想通り、仲間の無防備な姿が見えた瞬間、史緒は彼らの前に飛び出していた。
『――へ?』
落とされた声は、仲間が無事だったという証拠。史緒の耳は確かにそれを拾っていた。けれど、胴体に走った激痛が、安堵を泡沫のものにする。
史緒の体には、鼬が噛みつき、爪で引き裂いた傷が、鮮烈な赤で刻み付けられていた。




