想起
長く伸びる哀愁の音色が、ゆっくりと降り積もっていく。二胡という異国の楽器の音色だと、何故か志乃は知っていた。否、思い出した。もう一人の育ての親から教えて貰ったと。
「……うーん……」
横になっていた体をゆっくりともたげると、さほど長くない髪が流れ落ちた。
志乃が寝ていたのは牀榻で、垂らされている薄布の幕を開けば、異国の調度品が並べられた部屋が現れる。色彩はほとんど白黒だったが、黒檀の調度品がどれも美しい意匠をしているため、落ち着いて趣のある雰囲気が醸し出されている。
積雪の庭と同じ色合いをした部屋の中で、紺瑠璃を基調とした衣服の少女は浮いていた。
幼い彼女が身に纏っているのも異国の衣服で、大袖に裳、飾りが吊るされた帯、腕には領巾が絡められている。寝台のすぐ近くには、平たい沓も揃えられていた。
沓に足を滑りこませて下りると、鬱陶しいほどひらひら揺れる衣を気にすることなく、志乃は丸窓へと歩み寄った。微風と共に、二胡の音色が流れ込んでくる。
開け放たれた窓外には、秘境の風景が広がっていた。武骨な岩山群、緩やかに流れる碧い川、生い茂る屈強な木々。雲とも霧とも言えるものが漂い、幽玄な雰囲気に拍車をかけている。
山水画や水墨画といった絵画を元にして作ったと、教えて貰ったことも思い出した。
つい見入ってしまうほどの絶景だが、少女の青白い目はすぐさま下を向く。回廊の屋根があるのを確かめると、躊躇なく窓から小さな体を躍らせる。涼しい顔で着地すると、何事もなかったかのように回廊の中へ入って行った。
聞こえてくる二胡の音が大きくなっている。演奏者はさほど遠くない場所にいるらしい。
「……三番の庭、ですかねぇ」
呟いて、少女は歩を進める。ここには彩鱗国式と異国式、大小様々な庭があり、それぞれに番号が振られているのだ。三番の庭は異国風の庭で、大きい部類に入る庭だった。
廊下を一人、衣服を靡かせて歩いていく少女の姿は、青い蝶のように可憐。ところが、宮殿と言っても差し支えないほど広いこの場所に、人影は全く見当たらない。彼女を見る者もまた、一人もいない。
途中、奏でられていた旋律が終わり、静寂が訪れた。けれどそれは一時で、次は琵琶の音色が響き始める。彩鱗国の琵琶ではなく、二胡と故郷を同じくする琵琶の音色。
はたしてその音色は、確かに三番の庭から流れて来ていた。演奏者は、澄んだ池に建つ東屋にいる。
「雷雅さん」
歩み寄って名を呼ぶと、黄金の双眸が開かれ、空虚な微笑によって細められる。志乃が返す笑みも空虚で、血が通っていない。作られた人形同士が向かい合っているかのように。
志乃にとっては、この鬼こそ最初の手本で、参考だった。言葉遣いも、人称も。空虚の上に、愛想笑いを被せることも。楽器の弾き方を真似するように、自分の振る舞いにしていった。
「おはよう、志乃。今日寝かせた部屋はどうだった?」
「はて。よく見ておりませんでした。異国風の部屋であることを察したくらいです」
「えー。まあ、彩鱗国式も異国式も、全部似たようなものだからねぇ」
言いながら、雷雅は琵琶を二胡の隣に下ろして膝を叩き、座るよう催促する。志乃は遠慮なくそこへ座った。
志乃同様、異国の衣服を纏う雷雅は、ぞっとするほど艶麗な男だ。結い上げても座れば椅子に流れる濡れ羽色の髪、白皙の肌に優美な佇まい。額からすらりと生えた二本の角と、僅かに覗く牙という鬼の特徴が無ければ、どこかの貴公子と間違われてもおかしくない容姿を持っている。
爪の先まで綺麗な指で、さらさらと志乃の髪を梳きながら、美しい鬼は目を細めた。
「大きくなったねぇ、志乃。今、五つだっけー?」
「はい。もうすぐ年が明けますので、六つになりますが」
この場所に季節は無い。現世の四季を告げてくれるのは、一番を振られた彩鱗国式の庭だけだ。それもまた雷雅から聞いたこと。宮殿の中央にある一番の庭には、現在、しんしんと雪が降り積もっている。
「そっかぁ。じゃあ、もうすぐお別れだねぇ」
「そうですね」
双方とも笑顔を浮かべていながら、交わされる言葉は酷く淡々としている。二人のやり取りに微笑ましさはなく、代わりに薄気味悪さがあった。
「敬語と礼儀は染み付かせたから、現世でも大丈夫だよー。それに、君を預けるのは、妖雛の扱いに手慣れている人間だからねぇ」
「存じ上げております。俺はここでのことをすべて忘れて、その方に育てていただくと」
「ずっとここにいても良いんだけどねー、それじゃあ志乃のためにならないんだよー。あと、風晶に叱られるし」
正反対の雰囲気を持つ鬼の名を挙げ、雷雅は大仰なため息をついた。
「ねぇ、志乃。箏弾かない? 彩鱗国の箏と異国の琴、どっちでもいいからさぁ」
「お望みならば弾かせていただきます」
「ありがとー。それじゃあ、楽器が置いてある部屋、どれか適当に行こっかぁ」
雷雅は懐から紙を取り出して投げ、志乃を抱え上げて歩き出した。後ろからは、布面を付けた使用人に変わった紙人形が、楽器を持ってついてくる。どこからか、鈴に似た小さな音色も。
さり、さり、さり。さり、しゃら、さり。
志乃が見つけやすいようにと、雷雅が帯から下げている飾りが立てるものだった。玉が擦れる小さな音なのに、何故かはっきりと聞こえてくる不思議な音。
ああ、だから――ぼんやり、志乃は思う。
弦楽器ばかりだった音の中に、鈴の音が混じっていたのか、と。




