沢綿島の狸・前
「――お、港が見えてきたなぁ」
上下左右、どこを見ても青い中を進む帆船に、波と同じくらいゆったりとした舵取りの声が落ちる。「ええ」とそれを拾い上げるのは、今のところ唯一の乗客でありながら、帆の操縦を手伝う青年――沢綿島に先行していたはずの紀定だった。
「おそらく、直武様は既にご到着なさっているかと。そうであれば、芳親殿が私の気配を察知して、すぐに見つけてくださると思います」
「紀定殿のお仲間は頼りになるなぁ。それに比べて、おいらの妹ときたら」
赤茶の癖毛を持つ漕ぎ手の青年は、温和な顔に困り果てた表情を浮かべる。
「本当に申し訳ない。落ち着きが無い奴で」
「いえ。……ただ、変化に必要な葉を忘れていってしまうのは、少々そそっかしいと言わざるを得ないかもしれませんが」
「少々じゃ済まされないくらい、そそっかしいですよ。狸としてあり得ない失態です」
ため息交じりに言う彼の名は、双岩史継。沢綿島に暮らす狸である。
沢綿島は、妖怪界隈でも有名な島だ。狸の天下として名高く、変化した妖怪が昼間から人間と関わり合っているという珍しさゆえに。
「それに、変化したままの姿じゃ話せもしない。直武殿を困らせてしまっているに違いありませんよ」
「妖怪であれば、おそらく芳親殿が察知してくださるかと。であれば、身振り手振りで大まかな意思の疎通が取れているかもしれません」
「だといいんですが。ま、そんな心配を口にするより、さっさと港に行く方が良いですね。すみません」
困り気味だった表情や声音を振り払うように、史継は晴れやかな笑顔を浮かべると、やや遅めの速度を上げるべく奮闘し始める。彼の労力は無駄にならず、会話をしてから半刻も経たないうちに、帆船は港へとたどり着いた。
人気のない桟橋に船を着けると、先に紀定が降りる。史継は船上で一度足、妹の気配を探っていた。
「……いますね、四人分の気配がします」
「もう分かるのですか」
感嘆の色が混ざった紀定の声に、史継は「ええ」と少しばかり得意げに答える。
「そう遠くないところにいるようです。移動しているみたいですが……あ、急にこちらへ近づいてきました。合流しましょう」
連れ立って、二人は直武たちがいるらしい方へと向かう。間もなくして、彼らの方へ歩いてくる旅装の三人組が前方に見えてきた。
ところが、三人と合流する前に、白い影が一直線に飛んでくる。
「クアァァァーッ!」
「あっ、史緒! 心配させやがって!」
白い影は鴎だった。真っすぐ飛んできた矢か槍のようなそれを、史継は驚くことなく受け止める。鴎はぶつかるように史継に抱き着くと、バシバシと翼で彼を叩いた。
「史緒殿、ご無事で何よりです」
「クエァ……」
真っ先に問いかけてきたのは直武。彼と芳親の二人は、驚き故のきょとんとした顔をしているが、紀定はきりりと顔を引き締める。
「紀定? どうしてここにいるんだい?」
三人のうち、直武がきょとんとした顔で問いかける。彼の隣にいる芳親も、意外そうな顔をしていた。
「直武様の本人確認のため、こちらの案内役の方についてまいりました。当初の伝達は果たしております」
「そ、そうなんです。あっ、その前に初めまして。双岩史継と申します。親分から、直武様ご一行を案内するよう仰せつかって参りました」
少し早口に言って、史継はぺこりとお辞儀をする。どこか不安げな顔の彼に、直武は一瞬、訝しむような目を向けたが、すぐに温かな微笑を浮かべた。
「そうだったのか、わざわざありがとう。となると鴎君も、私たちを迎えに来てくれたのかな?」
確認するかのように優しく問われると、鴎は史継の腕の中で自慢げに胸を張り、「その通り」とでも言うかのような鳴き声で答えた。が、呆れ顔の史継に指先で頭を小突かれる。
「自慢できるようなことは何もしてないだろ、全く。……こいつもお迎えを仰せつかりまして、先にそれをお伝えするよう頼んだんですが、ご覧の通り、伝えるも何もない状態になってしまいまして。あっ、こいつはおいらの妹で、史緒っていうんです」
「妹殿であらせられるのですか?」
「そう、妹で……、ん?」
返しかけ、史継は直武のもう片側にいた若者に目を向けた。中性的だが男物の衣服を纏っている若者は、不思議そうに史継を見ると。
「鳥が妹というのは、一体どういうことなのでしょう?」
まごうこと無き少女の声で訊いた。
事前に彼女のことを知っていた紀定は驚かないが、史継は目を瞬かせた後、「えっ!?」と仰け反る。男装の少女は小首を傾げたが、すぐに腑に落ちたような顔をした。
「あぁ、驚かせてしまい、申し訳ありません。こんな成りではありますが、俺は女なのですよぉ」
暢気に笑う少女の頭からつま先までを、丸くなった史継の目が何度も往復する。大げさ気味の態度に何か不満があったのか、鴎が彼の手を強めに噛んだ。
「いってぇ! ……あー、失礼しました。その、女には見えなくって……すいません」
「いえいえ。ところで、鳥が妹殿であるというのは」
「その答えは後で聞こう、志乃君」
遮るように直武が言うと、少女は「承知いたしました」と下がる。その際、紀定に目を向けると、静かに目礼していた。
「さて。彼女の問いも含めて、訊きたいことは船に乗ってからでいいかな?」
「もちろんです。こちらへ」
史緒と呼んだ鴎を抱え、史継は来た道を引き返す。彼に直武が続く後ろで、紀定は少女の傍に歩み寄る。
「どうも、初めまして。直武様に仕えております、産形紀定と申します」
「こちらこそ初めまして。この度同行させていただくことになりました、花居志乃と申します」
丁寧な挨拶を交わす二人に、「固い」と芳親が一言突っ込んだ。
「……紀定、あんまり、僕たちと歳、変わんないんだから……畏まらなくて、いい」
「そういうわけにはいかないのですよ、芳親殿」
「はい。そういうわけにはいきません、芳親さん。礼儀作法は大事です」
同じことを二度言われ、むすっと芳親が頬を膨らませると、先を行く直武が笑い声を上げた。
「困ったね、芳親。志乃君は紀定側についてしまったようだ」
「……礼儀が大事、なのは、分かる。……でも、固いまま、は、よくない」
「いつまでも固いままでいるわけではありませんよ。芳親殿は緩くなるのが早すぎるのです」
「えー……」
「えー、ではありません。少しは花居殿を見習ってください」
小言を言う紀定と、嫌そうな顔でそれを聞く芳親の様子は、まるで兄弟のように見える。志乃はじっと眺めているだけだったが。
「紀定さん。産形の兄貴もしくは紀定の兄貴、とお呼びしてもよろしいですか?」
唐突に言葉の正拳突きをお見舞いした。
裏返った「はい!?」という声と共に、弾かれたように志乃を見る紀定。生真面目な彼には似合わない「兄貴」という呼び方に、直武と芳親が吹き出すが、取り乱した彼の耳には入らない。
「な、何故、そのように呼ぼうと?」
「俺の兄貴たちに似ているなぁと思いまして。芳親さんを注意しているところだとか、少し剣呑な目つきになるところとか、低くて荒っぽい声になるところとか。お嫌でしたら、紀定さんと呼ばせていただき」
「できれば後者でお願いできますか」
食い気味な感じを気にすることなく、志乃は「分かりましたぁ」と笑う。
「あぁ、俺のことも花居ではなく、志乃とお呼びください。そちらの方が呼ばれ慣れておりますので」
「承知しました」
引きつった笑みを浮かべて頷く紀定。前方では、様子を見ていないのにもかかわらず、直武と芳親が未だに肩を震わせていた。
日が高くなる中、直武一行を乗せた船は海原へ滑り出す。英崎の港が見えなくなるところまで来ると、史継は一度船を止めた。
「さて、史緒。元の姿に戻ろう」
「クアッ!」
挙手のように片翼を挙げ、舳先に留まっていた鴎もとい史緒は、兄の方にペタペタと歩み寄って行く。史継は懐から葉っぱを一枚取り出していた。
「史継殿、それは?」
「変化の葉っぱです」
近くに座っていた志乃の問いに、史継は笑顔で答える。志乃はきょとんと目を丸くして、疑問をあらわにしていた。
「ただの葉っぱにしか見えませんが」
わざわざ史継の近くに行き、志乃は渡してもらった葉っぱをまじまじと、訝しげな目で観察する。しかし自分で言った通り、特に変わったところは何もない、緑の葉っぱに違いない。
「それが、おいらたちには重要なものなんですよ」
笑みを得意げなものに変えると、史継は葉っぱを鴎の頭に載せる。直後、ぼふんっという音と共に煙が現れたかと思うと、幼い少女が姿を現した。
「ふう、やっと戻れた」
可愛らしい花柄の着物に、史継と同じ赤茶の短髪の少女。ぐんと伸びをした彼女に、史継がジトッとした目を向ける。
「なぁにが『やっと戻れた』だ。ほんと、呆れてものも言えないようなことしやがって」
「なっ、お、お兄ちゃんがすぐ教えてくれれば、あたしだって葉っぱを取りに戻ったわよ!」
「言ったのに戻って来なかったじゃねぇかよぉ!」
顔を合わせるや否や、ぎゃいぎゃいと口喧嘩を始める二人。突如として展開される光景に、志乃は思わずぽかんとしていた。
「……志乃、志乃。戻って」
「へ、あ、はい」
隣に座っている芳親に足をつつかれ、間抜けな声とともに戻って来ると、志乃は瞬きをして「つまり」と切り出す。
「つまり、どういうことなのでしょうか?」
「どういうことって、変化よ。あの葉っぱは変化に必要なものなの」
何を言っているのかと言わんばかりの顔で、堂々と言い放つ史緒。が、史継に額を指で弾かれてよろめいてしまった。
「いったぁいっ! 何すんのよ、お兄ちゃんの馬鹿!」
「志乃殿はそれが分からないから困ってるんじゃないか。っていうか馬鹿って何だ!」
二人はすぐさま口喧嘩を再開してしまった。微笑ましく眺めていた直武が、代わりとばかりに向かい側から話し出す。
「変化というのはね、志乃君。獣の妖怪、すなわち妖獣が、別のものに姿を変えることを言うんだよ。昔話か何かで聞いたことは無いかな、そういう話」
「あぁー、狸とか狐とかがやるという?」
「そうそう」
「では、史継殿と史緒さんは、狸か狐」
「「狐じゃない!!」」
今度は仲良く口を揃えて言い放つ、赤茶の髪の兄妹。思わず志乃が仰け反ると、史継は「しまった」という顔をしたが、史緒はそのまま詰め寄ってくる。
「あたしたちを狐呼ばわりなんて、良い度胸してるじゃない。沢綿島の狸にとっては侮辱と同義よ!」
「は、はあ、すみません」
「大体、お兄ちゃんには殿ってつけるのに、あたしのことはさん付けなんてどういうつもり!?」
「……いや、それは今関係ないだろ」
冷静な指摘を受けた途端、史緒はぐるんと兄の方を振り返った。
「お兄ちゃんだけ大人と同じ呼び方されるなんてずるいもん! ずるい!」
「であれば、史緒殿と呼ばせていただきますが」
「大丈夫です。こいつ調子に乗るから。じゃ、史緒、そろそろ黙ろうなー」
「ちょっ、親分みたいなことしないで!」
頭を撫でられながらも、史緒はしばらく駄々をこねていたが、最終的に拗ねて船の端っこに座り込む。一方で史継は、嵐のような妹の振る舞いを捌き切り、「はぁー、やれやれ」と息をついていた。
「皆様、お騒がせしました。それと、さっきはすみません、志乃殿。あいつの言う通り、沢綿島の狸は狐呼ばわりが大嫌いなんで、つい反発しちまうんですよ」
「それは大変失礼いたしました。でも、そんなにもお嫌なのですか、狐と間違われるのは」
「陸の狸よりはずっと嫌がってるかと。沢綿島は狸の天下で、そうなって以来一度も狐の侵入を許しませんでしたから、それを誇りに思っているんです」
ふふん、と胸を張ってみせる史継に、志乃はぱちぱちと目を瞬かせる。
「今までの言動から察するに、史継殿たちは狸でいらっしゃるので?」
「そうですよ、ほら」
あっさりと肯定するなり、史継の後ろから、彼の身の丈ほどもあろうかという赤茶の尻尾が忽然と現れる。丸みがあって太く、先端の毛の色が濃くなっている尻尾は、まさに狸のものだ。
「ど、どこから出て来たのですか?」
「……ずっと、生やしてた、よ。……見えなかった、だけ」
足元からの返答に、志乃は目を白黒させる。その前で、史継は照れたように頭をかいていた。
「あちゃー、見破られてたかぁ」
「……それは、僕が、妖雛、だから……人間だったら、気付かない」
「褒めてもらうのはありがたいですが、相手が誰であっても、見破られていたというのは悔しいですよ。……ん? 志乃殿も妖雛では……ああ、いや、失礼。まだ〈解放の儀〉をしてないんでしたよね」
自分で答えに漕ぎつくと、史継は操舵を再開する。同時に志乃も着席した。
「そういえば、船が見えない時点でも、芳親さんが気配を感じ取っていたわけですから、史継殿の実力は相当なものなのですねぇ」
「いや、それは違う」
即答で断じられ、志乃だけでなく史継も「えっ?」と声を出す。向かい側にいた紀定も目を見開いていたが、直武はどこか面白そうに、芳親に問いかける。
「それは、どういうことかな、芳親」
「……確かに、史継の気配も、感じた、けど……それよりもっと、強い気配、が、あった。……今は、全く、感じ取れない、から……そんな、気配を、隠せるうえに、他の、気配だって、誤魔化せるほど……強いのが、いる」
牡丹色の目が、ゆっくりと史継へ向けられる。静かながら重みを感じるその視線につられ、一行の目も狸の青年へと向けられた。
自身へ集中する視線に、史継はきょとんとするばかりと思われたが。
「いるって、この船にですか? それは――」
言葉を切ると、先ほどまでの温和な態度に似合わない、狡猾そうな笑みを浮かべる。直後、ぼふんっという音と共に湧き出た煙に包まれ、彼の姿が見えなくなった。




