第三章 人生の全てを捧げる少女
デジレは極度の興奮状態にあった。
デジレは信二に触れているとどうしようもない恍惚感に包まれる。デジレは信二に押し倒されたとき、信じられないほどの快感に全身が貫かれていた。
偶然信二の唇が触れた首筋から、デジレの全身に熱いものが流れ込む。信二の身体の重みが、デジレに耐えられないほどの怒濤のような快楽を与えていった。
このままいられるなら、全てを失ってもいい。震えるほど幸福で甘美な瞬間だった。蕩ける感覚に、デジレは夢中になった。何も考えられない。ただ、信二のことだけを求めていた。
――ああっ。幸せっ。
全身の毛穴が開くのが分かった。生まれて初めての感覚が全身を包んでいく。頭が痺れて、快感と絶頂感で全身が硬直した。甘い溜息が漏れて、思考が飛ぶ。何も分からない。
「ああっ、あうっ」
それは天国にいるような感覚。強烈な麻薬のような快楽にデジレは溺れた。
信二の身体を必死に抱きしめる。全身が信二のことを求めていた。下半身だけでなく、まるで全身が濡れているようだった。痛いほど劣情が抑えられない。
信二が与えてくれる蕩けるような快感。何物にも代えられない幸福。
だけど、しばらくして急速にそれが失われて行くのが分かった。
なんで?
デジレは強烈な喪失感と共に、冷静な思考が回復していった。
「信二様?」
デジレが起き上がって見つめたとき、すでに信二の目は閉じられていた。背中が血まみれだ。それを見たとき、何が起きたのかデジレは理解した。
――あたしを守って怪我したんだ!
デジレはそう理解した瞬間、頭の中が真っ白になるのが分かった。
――な、なんで、大切で大事な人を護れなかったの? それどころか逆にあたしが護られるなんてっ! あたし、自分が許せないっ!
それからデジレは自分でも何をしたのかほとんど覚えていない。
ただ、槍を持った犬系に襲い掛かろうとしたところまで覚えている。
デジレが愛用のレイピアを取り出したのは数瞬後だった。剣を抜いたデジレに気がついて、ルイーゼと口論していた男が、すっとデジレの前に立つ。
――こいつだ! この男が信二様を怪我させたんだっ!
デジレはその男の方に飛ぶと、剣を振り降ろそうとした。そのスピードは人間の限界を超えていて、目で追うことはほとんど出来なかったろう。だけど、その男は辛うじて自分の槍で受け止める動作が出来たようだ。
その男が槍で攻撃を受けながら同時に数歩後ろに退いたのは、長年の勘がなせる技に違いない。デジレが振った剣は、相手が防ごうとして差し出した槍を、紙を切り裂くように簡単に両断した。金属を切り裂くなんてデジレにとっても初めての経験だった。
ただ、祖父から何度も話を聞いたことがある。
このレイピアは伝説と共に生きてきた剣だって。
男は槍を投げ捨てる。そして、帯刀していた剣を抜いた。
デジレの攻撃を今度は厚みのある刃で受け流そうとしたようだ。
だがその男は再び失敗した。
その剣の数センチある刃をも、デジレのレイピアは切り裂いていたから。
驚愕する男に致命傷を与えようと二撃目を振り上げた。
だが、その寸前にデジレは狂乱するルイーゼの叫び声に気がついた。
「信二! どうしたのっ? しっかりしてくださいっ!」
信二に覆いかぶさってルイーゼが何かをしていた。一瞬デジレは嫉妬で爆発しそうになったけど、すぐにルイーゼが何をしているのか気が付いた。
――まさか、毒を吸い出してるの? あの槍に毒が塗られてた?
ルイーゼは必死に信二の傷口から何かを吸い出して、地面にぺっと吐き出す作業を繰り返している。デジレは慌てて、信二の下に駆け寄った。
* * *
最初、ルイーゼは面倒なことになったと思ったけど、事態はそれどころではなかった。
切りつけられたときのショックで信二は意識を失っている訳ではなかった。エルンストが切りつけた槍の刃には、狼族が使う必殺の神経毒が塗られていたのである。
エルンストの槍先の色と信二の様子からそれに気が付いたルイーゼは、絶句するより他なかった。戦時でもなければ、そんなことはしない筈なのに。
ルイーゼは躊躇しなかった。慌てて信二の傷跡に唇を寄せると、そこから毒を吸い出そうとする。暴れていたデジレも、すぐそれに気が付いて、ルイーゼと同じようにした。
一五分くらい二人でそれを続けていると、信二の呼吸が落ち着いてきた。デジレはそれに気付いてルイーゼの方を見つめてくる。ルイーゼが小さく頷くと、デジレはぽろぽろ涙を流しながら安心したように信二に抱きついてきた。
そして、エルンストが、デジレに警戒しながらルイーゼに近寄ってきた。
エルンストはルイーゼ達の様子に目を丸くして、ビックリしたように言ってくる。
「ル、ルイーゼ様? どうしてそんなことするんですか? どうせコイツ掠り傷だし、一晩も放って置けば、運が悪くなきゃ助かりますよ? まあ、神経毒のせいで少しは障害が残るかもしれないけど……」
ルイーゼはそんな言葉を聞いていなかった。ルイーゼはエルンストに、この人を客人としてお城のベッドに運ぶように命令した。そして、デジレを見ながら言う。
「デジレも信二と同じ部屋に案内してください。ただ、部屋の中と外に見張りをつけて」
「コイツ、虎族ですよ? 正気ですか? 城に入れるなんて! さっき暴れまわったばっかりじゃないですか」
「あなたが信二を怪我させたからですよ?」ルイーゼはにべもなく言い放つ。「デジレは信二がいる限り、変なことなんてしないでしょう」
エルンストは疑わしそうに信二をじろっと見つめて聞いてくる。
「で、コイツは? 何で耳がないんですか? ルイーゼ様も、なんでこんなヤツの毒を吸い出したりするんです? もっと姫様としての自覚を持ってくださらないと……」
正門での騒動に気が付いたらしく、城から何人もやってきた。ルイーゼはてきぱきと指示して、信二を城の客間に運ばせた。デジレは心配そうに信二の横について歩いて行く。それをあからさまに胡散臭い目で何人かの犬系の兵士が睨みつけながら、護衛というか、連行していった。それを横目で見たエルンストは、突然気が付いたように聞いてきた。
「あれ? そういえば、なんでルイーゼ様は王都に戻ってこられたんですか? 相手を見つけるまでは城に戻ってこられない決まりですよね?」
ルイーゼはほんのり頬を染めて、エルンストのピンと張った耳に口を寄せて小さく言う。
「信二はあたしの尻尾を握った人です」
ルイーゼの言葉にエルンストはビックリしたように言う。
「え? アイツ、耳がないけど狼族なんですか? メチャ弱そうじゃないですか」
ルイーゼは信二への悪口に、むっとした調子で言い返した。
「信二の悪口を言わないでください!」ルイーゼはエルンストを睨み付けた後、ゆっくりと言い放った。「あの人は人間なのだから」
その言葉に、エルンストは一瞬何を言われているか考え込んだ後、大声で叫んだ。
「えーーーーーー! アイツ、人間なんですか! 本当ですか?」
その声があんまり大きかったので、耳ざとい犬系の亜人間達に、信二が人間であることは、すぐに広まってしまうことになった。
ルイーゼが、信二が運び入れられた客間に入ったとき、そこは人であふれていて足の踏み場もなかった。だが、すぐにドア付近の人がルイーゼに気が付いて、まるで海が割れるように信二が寝ているベッドまでの道が出来上がっていく。
そしてベッドの横には、心配そうにじっと信二を見つめているデジレがいた。虎族のデジレの周囲には一メートルほどの空間があって、みんな遠巻きにしていた。
「あなたたち! これでは落ち着かないですから、この部屋から出て行きなさい!」
ルイーゼが怒鳴ると、蜘蛛の子を散らしたように、ばたばたとみんな出て行った。しばらくするとそこに残っていたのは、エルンストとデジレだけになった。
ルイーゼが、腰に手を当ててエルンストに言い放った。
「エルンスト、あなたはなんでここにいるのですか?」
「ルイーゼ様、部屋の中にも見張りを置けと指示したはずですが? それに、こんな凶暴な虎族を監視なしに置くわけには行きません」
「私がいるのですから、大丈夫です」
「ダメです。危険です」
エルンストは引き下がりそうもなかった。ルイーゼは小さい声で、ぶつぶつ文句を言ったけど、認めるしかなかった。ルイーゼは八つ当たりっぽくエルンストを詰問する。
「そもそも何であなたが衛兵なんてやっているのですか?」
エルンストはほんの少し口籠もってから小さく答えた。
「それは――ルイーゼ様が帰られたらすぐに分かるように……」
ルイーゼはエルンストにもう背を向けている。ルイーゼは信二を見つめながら聞いた。
「信二の意識は?」
ルイーゼが聞くと、デジレは首を横に振った。
「意識戻らないの。体温も暖かくならないの」デジレはそう言った後、エルンストを睨みつけた。「信二様にどんな毒使ったのよ? 事と次第によっては許さないからっ!」
何か言おうとするエルンストを制して、ルイーゼがぼそっと言った。
「私たちが使うのは神経毒で、解毒薬なんてありません。幻覚に苛まれたりすることもありますし、記憶や意識障害を起こすこともあります。運が悪いと一生治りません。二人ですぐに毒を吸い出したから、そんなに酷いことにはならないと思いますが……、信二は人間だから、私たちと効き方が違うかも――」
エルンストはルイーゼを気にしたんだろう。小さな声でささやいた。
「ひょっとしたら、ヴィレム様なら何かいい方法知ってるかもしれません……」
ルイーゼは、エルンストをしばらく見つめた後、頷いて「ヴィレムを呼びなさい」と命令した。エルンストはヴィレムを呼ぶために、すぐにその部屋を出て行った。
デジレはまばたきもせずに、じっと信二を見つめていた。そして、デジレはただひたすら信二が起き上がることを願っていた。両手を堅く握りしめていつまでも祈っていた。
ルイーゼはそれに気が付いて、なぜだかとっても胸が痛くなった。
ヴィレムはこの王都の長老だ。このあたりでもっとも長く生きていると言われている。
いわゆる生き字引というヤツだ。
ヴィレムは客間にやってくると、じろりとデジレを見た。
「そちらの虎族の方は?」
「まあ、信二の知り合い、でしょうか?」
ルイーゼがちょっとだけ悩んでから言う。それを聞いたデジレはキッと顔を上げて断言した。
「信二様はデジレのご主人様っ!」
あんまりはっきり宣言したので、ルイーゼは一瞬反応に困った。だけど、ヴィレムは薄笑いを浮かべると、頷いて言った。
「実際に見ることが出来るとはのう」
ルイーゼは意味が分からずにヴィレムに向き直って尋ねる。
「どういう意味ですか?」
ルイーゼの問いにヴィレムはゆっくりと説明した。
「猫系の亜人間、とりわけ女性に極めて好かれる匂いを発する人間がごく稀にいるらしいのじゃ。フレーメン反応という名前だと聞いておる。おそらく、このデジレという虎族は自分でもどうにもならない恍惚感に包まれているんじゃ。この信二という人間に触れているだけで、他はどうでもよいと言う本能じゃ。虎族を含めた猫系の弱点と言ってもいいじゃろう。この人間のためなら、おそらくこの娘、なんでもするじゃろうて」
ルイーゼは、その言葉にビックリして、デジレをまじまじと見つめた。
そう言われてみれば、デジレの行動には思い当たる節がある。
ヴィレムはデジレから離れた場所にルイーゼを連れて行くと、小声で聞いてきた。
「このお方はお主の尻尾を握ったんじゃな?」
ルイーゼは突然の問いに真っ赤になったけど、コクリと小さく頷いて小声で言った。
「は、はい。とても激しく情熱的に握られてしまいました」
ルイーゼは、握られたときのことを想いだすように呟いた。
「会ったばかりでしたし、どんな人かもあんまり分かりませんでしたが、私は今までに無いほどドキドキしました。だからこれも運命だと思ったのです。ただ信二は、ちょっと浮気者なので、きちんと私が手綱を引き締めないといけないようです」
「ふむ。それでお主はあの方と尻尾を握りあう仲になったというわけじゃな?」
ルイーゼは、そこで慌てて手を振って答える。
「それなんですが、信二は人間ですよね? 尻尾がないから握りあえないのです。どうしたらいいと思いますか?」
ヴィレムはルイーゼの言葉に思わず笑い出した。
「そういえばそうじゃな。まあ、ケガで尻尾を失った者と結ばれた例もあるから、そう気にすることはないじゃろう。じゃが、覚えておくがいい。人間と我ら狼族は習慣も異なるんじゃ。尻尾がない人間にとって、尻尾を握るということに本当に意味があることなのかね?」
ヴィレムの言葉にルイーゼは衝撃を受けた。
「そそそ、それでは、私の大切な尻尾を握ったのを、信二は別に気にしてないかもしれないってことですか?」
「人間同士の愛情表現で尻尾は使わんじゃろう?」
ヴィレムの言葉には圧倒的な説得力があった。茫然自失となったルイーゼを横目に見ながらヴィレムが言葉を続ける。
「じゃが、そんなことより、先にすべきことがあろうな。あの方が意識を取り戻さないうちは、そんな話も意味がないことじゃ」
その言葉に、ルイーゼは気を取り直して、辛うじて頷いた。
「そ、そうですね」
「まず、人間はわしら亜人間より体力が劣ると言われておる。当然、毒物に対する耐性もわしらほどないじゃろう。わしらが使う神経毒も、効きすぎたのかもしれんのう」
「そうなんですか? ですが、人間と交わるとあたしたちの力は強化されるって言われていますよね? あれって嘘なのですか?」
「言い伝えによれば、子孫に伝わる遺伝子というものがあって、人間の遺伝子にはわしら亜人間を強化するものがたくさん含まれているらしいんじゃ」
「なんで槍の先に毒なんてつけてたのか、ヴィレムは理由を知っていますか? あんなこと、戦争中でなければしませんよね?」
「もちろん知ってるとも」ヴィレムは逆にルイーゼに驚いたように言葉を続けた。「お主は知らなかったのか? おぬしの両親、つまり国王と王妃が虎族の二〇人ほどの小隊に攫われたことを? 今この城は戦争中に近い事態なんじゃよ」
「な、なんですって?」
ルイーゼは信二が寝ているベッドの側に駆け寄って、デジレを問い詰めた。
「来る前にも説明したでしょ。確かにデジレ、そう命令したよ。信二様がいてそんなに急げなかったから、あたしたち間に合わなかったんだね」デジレは信二から目を離さずに、ルイーゼに答える。「あたし達は夜目が利くから、夜寝静まった頃に襲ったんじゃないかな。犬系のほうが鼻が利くから、犬系の匂い袋をつけて夜襲したはずだよ? 狼族を人質にしたあと、半数を残して離脱したと思う」
デジレはどうでもいいことのように、作戦をぺらぺら喋った。それはヴィレムの説明が正しかったことを示している。怒りを込めてエルンストが大声を上げた。
「お前、何てことするんだっ! ふざけるなよっ」
「だって、デジレ、いなかったんだから仕方ないもん」
デジレは子供のように言う。ヴィレムはそれを一喝した。
「そんな議論より、先にすべきことがあろう! この者を助けるのが先決ではないか? 症状から判断して、明日の昼頃までに何とかせねばなるまい。そうしなければ、不可逆的な障害を受けることになるじゃろう」
その言葉にデジレはビクッとしてた。おずおずとデジレが聞いてくる。
「信二様を助ける方法があるの?」
「ルイーゼはこの王都から少し離れた場所に、禁断の塔があるのは知っておるな? あの塔の礼拝堂が人間の神殿と言われておる。そこに人間を助けるための必要な全てがあるらしいのじせゃ。ただ、あの塔の付近は亜人間には禁断の場所でもある。
その塔に近づいたもので、今まで無傷で帰ってきたものはほとんどおらぬ。何とか帰ってきたものも、途中で病に倒れ、結局命を落とすことがほとんどじゃった。禁断の塔とは亜人間にとって死に至る塔じゃ。ただ、それほど多くはないが、無傷で帰ったものもおる。史実では、禁断の塔から魔法薬を得た狼族もいたようじゃ。じゃが、偽の理由を持つ者には間違いなく死の制裁を与えられる――」
ヴィレムがその言葉を終える前に、デジレはきっぱりと言い切った。
「デジレが魔法薬を取りに行く。信二様を助けるためなら、デジレなんでもするよ。死んだって構わない。信二様のためなら」
ヴィレムはその言葉を予期していたように頷いた。
「ではおぬしにそれをお願いすることにしよう。デジレと言ったな? 必ずこの人間を助けるための魔法薬を持ってきて――」
「私も行きますっ!」ルイーゼが叫んだ。
さすがにそれはヴィレムも予想していなかったらしい。ヴィレムが慌てたように言う。
「二人で行く必要はないじゃろう? 危険な場所なのじゃよ?」
だが、ルイーゼは信二を見て、そして毅然として言い切った。
「何言ってるのですか! 信二は私の尻尾を掴んだ人です。私が助けに行く必要があります。危険だからこそ、私が行くのですっ。お父様たちなら、信二を助けてからでも絶対間に合います」
ヴィレムはルイーゼの瞳を見て、その決断が変らないことを理解したようだ。
ルイーゼは意志が強く、行動力もある紛れもない狼族だ。王族としての誇りもある。
ヴィレムはほんの少し悩んだ顔を見せたが、不意にエルンストに向かって言った。
「エルンスト。お主は、ルイーゼと共に行き、何があってもルイーゼを守れ。その身に代えてもルイーゼを警護せい。狼族の血を引くお主なら出来よう。よいな?」
エルンストは頷くと、ルイーゼの隣に跪いた。
「ルイーゼ様、お供させていただきます」
* * *
エルンストは、ヴィレムが沈痛な面持ちでルイーゼに話すのを聞いていた。
「良いか? 無理をしてはならぬ。もし、明日の昼までに魔法薬を持ってこられなければ、もはや手遅れじゃろう。だから、何があっても明日の昼までに、ここに戻ってくるのじゃ。最悪の場合であっても、あの者を看取ってやることが出来るようにな」
ヴィレムはルイーゼをじっと見つめてから諭すように言っている。エルンストはそれを聞きながら、片時もデジレから目を離さなかった。
デジレはベッドに横たわる信二をずっと見つめて、そして信二の手を握ってささやいていた。
「デジレが絶対信二様を助けてあげる。だけど、もし助けられなかったとしても、デジレはどこまでも一緒について行くんだからね」
デジレは信二を愛おしそうに見つめた後、愛用のレイピアをベッドの脇に立てかけた。
「ここにデジレの大切なレイピアを置いていくよ。このレイピアはデジレの心なの。信二様の傍にいつもデジレはいるからね」
エルンストは、その言葉を聞いて、不愉快そうに小声で呟いた。
「つまり、今ここでコイツが死ねば、全部問題解決するんじゃないか? ルイーゼ様はちゃんとした狼族の方を探しに行くだろうし、この虎族だって自分で命を絶つだろう。私は何だか後悔するためにルイーゼ様について行く羽目になりそうだ」
元々ルイーゼは旅支度をしていたので、準備はいらなかった。デジレも同様だ。エルンストが簡単に旅支度をすると、すぐに出発することになった。日が赤くなり始めた時間だったから、一分でも早く出発しなければならない。
城の前で、ヴィレムは禁断の塔までの地図をルイーゼに渡しながら言う。
「くれぐれも無理をするでないぞ?」
「私、絶対に信二を助けます。必ず明日の昼までに帰ってきますからっ」
ルイーゼはそう宣言してから、馬にまたがると、走り出した。エルンストはデジレと共にそれに続いた。早馬に乗った三人は、あっという間に王都から離れていった。
街道が荒れた道に変わり、周囲は暗闇になった。休憩を取るしかなかった。
エルンストがテントを張っている間に、ルイーゼは火をおこして簡単な料理を作っていた。エルンストがデジレを見ると、おこした火の傍で塔までの道のりを記した地図を暗記している。そして、あの人間がいたときと全くデジレの様相が違った。その余りの違いに困惑する。
夕食が終わった後、ルイーゼがテントに入って寝ることになった。エルンストは外で警戒を兼ねて横になる。デジレもテントに入ろうとしたけど、エルンストは許さなかった。エルンストは身体全体でデジレを遮って言う。
「ダメだ。ルイーゼ様と一緒のテントに虎族が入るなんて許すわけにはいかない。危険だ。私の目の届く範囲で寝ていてもらおう」
エルンストの言葉に、デジレはほんの少し興味を引かれたようだった。
「お前、ルイーゼのことが好きなんだな?」
「な、何言うんだ!」デジレの言葉にエルンストは慌てて言い返した。「これだから猫系は嫌なんだ! 身分ってものを分かってない」
そう答えながらも、デジレの言葉があの人間がいるときと全く異なっていることに気付いた。
「身分なんて関係ない。そんなこと言ったら、あたしは信二様と愛し合えない。人間と亜人間が付き合うのは禁忌だからな。だが、ルイーゼは信二様と結ばれようとしている。それを防いだ方がいいという点で、お前とあたしの利益は一致しているんじゃないか?」
エルンストは少しだけ考えた。だが、デジレの話を聞いてから判断してもいいと思って、聞いてみることにした。
「なぜそんなことを言う?」
「人間は猫系にとって神のような存在なんだ。ある種類の人間が、あたし達にはどうしようもなく愛おしいんだ。あたしは信二様が欲しくて我慢できない。分かるか? 理性を失う衝動だ。もし、信二様に愛してもらえるなら、あたしは全てを失ってもいい。奴隷のように扱われてもいい。何でもする。あの快感のためなら、どんな酷いことされたって構わない。
あたし達の言い伝えにもこんな話がたくさんある。娘は人間に物のように扱われて、最後には捨てられる。それでも、娘は幸福の中で死んでいくだろう。だから禁忌なんだ。
猫系は信二様のような人間に抵抗できない。人間は神聖にして不可侵。近寄ってはならない。ただその間に生まれた子供はすごい能力を発揮する。
あたしも信二様に一度でも抱いてもらえるなら、あたしの人生全てを捧げてもいい」
デジレはうっとりした目で自分の胸を抱いてそう言った。
そのデジレの目に狂気を感じたエルンストはぼそりと呟いた。
「狂ってる」
その言葉にデジレは色っぽく頷いた。
「そうさ。もともと恋愛なんて狂気だろ? あたしは信二様のためならなんだってする。今はまだ冷静なところもあるが、信二様の傍にいたらもう駄目だ。子供のようにバカなことをしてしまう。ほんの少し信二様のことを考えただけで、頭が蕩けてあたしはどうしようもなく身体があの人を求める。あの人を思うと身体が潤んでたまらないんだ。今だって、信二様のことをちょっと話しただけで――信二様、ああ、信二様が欲しい」
デジレは頬を染めてそう呟くと、自分の身体を抱いて震えていた。それはエルンストが見ても妖艶で、発情しているのが分かった。抱かれたい衝動を抑えきれないのだろう。
だが、しばらくして、デジレがエルンストに小さく言った。
「気がついたか?」
それは冷徹な響きだ。さっきまでの甘い声が微塵もない。
「何をだ?」
「ふん。所詮犬系か。役にたたんな」
デジレはそう吐き捨てると、エルンストの剣に手を伸ばした。エルンストは危険を感じて剣を持つ手に込めた力を強めた。
「なんだ?」
「あたしのレイピアは信二様と共にある。だから、お前の剣を貸せ」
「馬鹿言え。襲おうとするヤツに剣を渡す馬鹿がどこにいる」
「襲うのは別なやつだ」
デジレは呆れたようにそう嘯いてから、背後に飛んだ。
エルンストは一人で取り残される。
剣を振る風切り音が聞こえた。その音は鍛えられた剣士のそれではない。小さく叫びが聞こえた。男の声だった。
「な、なんだ? 何で猫系がこんなところに? いや、まさか貴様、虎族かっ!」
どうやら、闇に紛れて、夜盗の類が襲ってきたらしい。確かに禁断の塔の近辺は治安が悪いと聞く。この近辺には、たしか名高い剣士くずれがいたはずだ。侮れない相手だ。エルンストは慌ててテントの周囲の気配を探った。だが気配は、デジレの方だけだった。
耳を動かした。相手は見えない。だが物音から察するに全部で一〇人ほどの集団のようだ。隠れている仲間もいるだろう。だから夜盗団は全部で一五人くらいに違いない。かなり大きな集団のようだ。
デジレが虎族と言っても、さすがに一人では手に余る相手だ。そもそも、デジレは剣を持ってきていない。甘い女だとエルンストは考えた。剣なしで生き残れるとは思えない。
だが、デジレに剣を渡すつもりはなかった。
エルンストはデジレの生死などどうでも良かった。ただ、ルイーゼは何があっても護らなければならない。そして、ルイーゼに知らせる前に、エルンストは接近する気配を感じた。
デジレがやられて、盗賊の一団が迫ってきているんだろう。
エルンストなら、盗賊なら恐らく五人くらいまで倒せるはずだ。同時にかかられても、二、三人なら問題ない。そして、盗賊はそれ以上同時に襲いかかれることはないだろう。そんな訓練はしていない筈だ。大立ち回りをすれば警戒して、逃げおおせることも出来るに違いない。盗賊のヤツらだって、死にたくはないハズだ。
そして、地面を踏みしめる足音が近づいてきた。
それに気付いたエルンストは大声で宣言する。
「そこまでだ。それ以上近寄るな。後悔したくなければ――」
エルンストの言葉は最後まで続かなかった。
そこに立っていたのは、デジレだった。
デジレは、見たこともない豪華な装飾の剣をブラブラさせながら戻ってきていた。剣には血がこびりついている。デジレは退屈そうに説明した。
「面倒だから、あいつらから剣を奪ったよ。たいしたことのない相手で、つまんなかったけどね。犬系ってあんなものなの? 図体ばっかり大きいくせに……」
エルンストは、血塗れになった剣を掲げるデジレに大声を張り上げた。
「相手は? 何人いた? 後何人残ってる?」
「全部で二〇人くらいいたけど、面倒だったから数えてない。全部殺した。一人も逃がさなかったからね」
エルンストはその言葉に絶句した。
デジレは、甘くなんてなかった。レイピアが無くても、平気だって自信があったんだ。
エルンストは、狼族とさえ互角に近い戦いが出来た。
狼族の血を引くエルンストは、純血でこそないが、狼族としても通用する強さがある。天才とさえ言われていた。相手が虎族だって同様の筈だ。
少なくとも剣技について言えば、虎族より、狼族の方が遙かに上だと言われている。
だが、今デジレが放っている闘気に勝てる気がしない。エルンストでさえ、デジレには子供扱いされるに違いない。
そしてエルンストは思い出した。この女は、エルンストが持っていた大剣を切り裂いた。
こんな存在があり得るはずがない。そんなことが出来るはずがない。
この虎族の女は、危険だ。普通の虎族じゃない。
「お前は一体何者だ?」
「あたしは信二様に仕える護衛。信二様のために全てを捧げようと思っている」
「ふざけるなっ。お前には別の目的があるはずだ」
エルンストの言葉にデジレは頬を染めて呟いた。
「目的? あたし信二様のものになりたい。そうなったらどれだけ幸せだろう」
その言葉にエルンストは愕然とした。
エルンストには分かる。たぶんデジレはエリート中のエリートの戦士だ。エルンストより遙かに優れていることも認めざるを得なかった。
天才が努力を惜しまなかったらどこまで到達できるというのか。デジレはそういう存在だ。
そして、デジレは技術だけでなく精神も鍛え抜かれているはずだ。
それが、あの人間一人のためにここまで心を揺さぶられて、しかも理性が耐えられない。普通の猫系であればどうなってしまうのか恐ろしいほどだ。
「猫系にはとんでもない弱点があったもんだな。だが、さっきのような話を私にしていいのか? あの方を我々の陣営に引き込めば、お前達の勢力は犬系に抵抗できなくなるんだろ?」
その言葉にデジレはエルンストを睨み付けた。そして、冷静な口調に戻っていた。
「それも考えた。だが、エルンスト、お前はどうなんだ? 信二様をお前の陣営に取り込むということは、ルイーゼとあの人を結ばせるということだぞ? それでいいのか?」
エルンストはデジレの言葉にじっと考えた。
あの人間をうまく使えば、恐らく犬系の勢力を一気に巻き返すことが出来る。
だがその代償は、ルイーゼだ。ルイーゼはあの人間をなぜだか気に入っているらしい。
エルンストからすればとんでもない話だと思う。あの愛らしくて気高い王女が、あんなヤツの物になるなんて、エルンストには我慢ならなかった。
普通なら天秤に掛けるまでもないことだ。
第一ルイーゼはそれを望んでいる。それにその判断は王族として正しいんだ。
だが――、エルンストもデジレの狂気に当てられたんだろう。
デジレは、自分の側にあの人間がいて欲しいというだけで、この提案をしている。
そこには打算も利益もない。それはエルンストも同じだった。
「あの人間がルイーゼ様と結ばれないようにする方法が何かあるのか?」
デジレは妖艶な笑みを浮かべて、エルンストに自分の作戦を説明した。