第二章 見境ない男が取らされる責任
当初投稿からいくつかのエピソードを追加しました。
「本当にこの先に狼族の王都なんて実在するんですか? デジレ隊長?」
暗闇の中、同じ質問を繰り返す斥候に対して、デジレは不機嫌に答えた。
「間違いない」デジレは斥候の一人に対して馬に乗ったまま睨み付けるように言った。
「この近くにあるいくつかの犬系の町で、隠された狼族の王都があるといううわさがある。そのいくつかは聞いているだろう?
あたしとエレオノーラ様が情報を精査してみたけど、この付近にあることは間違いないと踏んでいる。たぶん、今まで見つけられなかった王都よ」
デジレ隊長と呼ばれた女は、ふさふさした毛に包まれた大きな耳を油断なく周囲にめぐらせながら言った。変な物音はなく、そこにはひそひそ話をする彼らしかいない。周囲には砂漠の荒涼とした風景がいつまでも続いている。もう暗いから遠くの目印などは見えない。だが、デジレが迷うはずもなかった。
斥候の一人は、ちょっと短めの茶色の尻尾を横に振って不満を示した。
猫系と犬系のもっとも大きな習性の違いは、この尻尾の動かし方だ。
犬系は喜ぶときに尻尾を横に振るのだ。
『まったく、犬系ときたら非常識にもほどがある』とデジレはひそかに思った。
「しかし、デジレ隊長、もう世界はわれわれ猫系の亜人間のものになりつつあるのに、わざわざ火中の栗を拾いにいく必要があるんですかね。隊長が探しているものに関係あるとか?」
デジレは、凄惨な笑みを浮かべて斥候に答えた。
「あたしたちが知らなくてもいい情報もあるのよ?」
その笑みは、ぞっとするほど冷たく、また妖艶でもあった。斥候たちは、もはやデジレの指示に従うほかないと理解して、尻尾を立てて言った。「それじゃあ、私がもう一度偵察に行ってくることにします。実は、この先で火をちょっとだけ見たやつがいるんです」
斥候の一人がそう言った。それは一番若手で、デジレに心酔している若者だった。
月明かりしかない暗闇の中で行動すること。それが猫系にとっての最大のアドバンテージだ。
たとえ狼族といえども暗闇の中では分が悪いはずだ。
ただ、デジレは、その若い斥候が単独行で危険を犯すことを望まなかった。だから、デジレは斥候を制して言う。
「いいわ。あなたたちは先に王都に向かいなさい。あたしが見てくるわ。たまにはあたしもスリルを味わいたいしね」
デジレの言葉を聞いて、年長格の斥候の一人がにやりと笑った。
「そりゃ、相手にとって災難なことですな」
デジレが犬系の敵に対して躊躇するなんてことはあり得ない。どんな使い手であっても、デジレが相手に後れを取るはずもない。デジレは剣術に関して言えば史上最強に近い天才だ。
つまり、デジレに会った犬系の亜人間は、確実に死ぬしかないのだ。
「もしあたしが戻らなくても、気にせず王都を探すのよ。もし狼族がいなければ無視して構わない。だけど――、もし一人でもいたら、可能な限り生け捕りにしなさい。犬系の希望を砕くには、その方が効果的だからね」
部下たちはデジレの方を向いて頷いた。ただ、その若い斥候が少しだけ不安な色を見せたのをデジレは見逃さなかった。デジレは、その斥候の耳元で小さく呟いた。
「大丈夫だ。あたしが犬系などに引けをとると思うか?」
慌てて首を振った斥候を見て、デジレは微笑んだ。デジレは、自分に弟がいたらこんな感じだろうと思った。自分が一人で向かおうとしたのはそれが理由かも知れない。
ここにいるのは、猫系の中でも最強と言われる虎族の亜人間二〇人だ。選りすぐられた戦闘員と言っていい。たとえ狼族といえども、暗闇という条件なら敵ではない。ましてや忘れさられた王都であれば、大勢の狼族がいるはずもない。
デジレは、もし狼族を見つけたら、自分たちが勝利することを疑わなかった。
* * *
『あのさ、俺は、必ず戻ってくるよ。絶対だ。だから、待っててくれ』
浅い眠りの中で夢を見ていた。その中で絞り出した台詞。
夢の内容は思い出せない。だけど、なぜか全身が震えて目が覚める。
眠気が吹き飛んでいた。再び眠ろうと、俺はテントの脇の寝袋で寝返りを打った。
目を閉じたけど眠れない。そのとき、何だか乾いた砂を踏むような音が聞こえた。
俺はなんとなく気になって目を開ける。
その刹那――。
俺は、何かに寝袋ごと腹を叩かれた。寝袋を蹴飛ばされたんだろう。そして無理矢理俯せにされる。顔を見せないまま、後ろから羽交い絞めにされたようだ。その力は信じられないほど強力だった。身動きがまったく取れない。
そして、首筋に剣が当てられたのが見える。そのひんやりとした感触が、俺の恐怖を煽った。
これってルイーゼ?
俺は驚いて声を張り上げた。
「だっ、誰だ? ルイーゼか? いくら怒ったっていってもやりすぎ……」と俺は後ろを振り返ろうとした。
「ふん。間抜けな犬に答える名前なんて……」
女の声だ。だけど、ルイーゼのじゃない。小声で耳元にささやくように言われた。
ほぼ次の瞬間、首筋の剣に力が込められた。冗談じゃなさそうだ。
死が直前に迫る。でも、あまりに非現実的すぎて、他人事のようだ。実感が沸かない。
でも直後に、不思議なことが起きた。なんだか羽交い絞めしている力が突然抜けていったんだ。剣を取り落としている。ザンッという刃が地面に刺さった音が響いた。
「な、なんで涙が……」と言いかけた声の主は、だらんと力が抜けて腑抜けてしまっていた。
そして、呆然と立ちつくしたまま、俺を見つめて、嗚咽と共にぽろぽろと涙を流している。
「うう、うあーん。えぐ。あう――」
その子は突然泣きじゃくっていた。俺は困惑するしか選択肢がない。
何で? 何で泣いてるの? というか、何で俺、泣いてる女の子に襲われてるの?
俺は、羽交い絞めから逃れると、寝袋から出て、その声の主を眺めてみた。
月明かりの下でよく見えないけど、ルイーゼと同じくらいの年の女の子に見える。ただ、シルエットから分かったことがある。この子の頭の上に飛び出ている耳の形がルイーゼと全然違う。この耳はイヌミミって言うより、横幅に広いネコミミだ。
俺はその耳に触れてみて、すぐに分かった。
これ、絶対猫の耳だ。だって、全然さわり心地がルイーゼと違うもん。よく見ると、とらじま模様だし……。
俺がしばらく耳を触っていると、泣いていたこの子は「にゃあん」とか言う色っぽい声をしだした。なんだか変な雰囲気になってきたので、俺はこの子の耳から手を離した。そしたら、こっちを涙目から艶っぽい目に変えて名残惜しそうに見てる。
「君は誰?」
俺がやっとの思いで聞いてみると、その猫耳の女の子は気を取り直したように答えた。
「あ、あ、あたしはデジレって言うの。ベルナルディーヌ・ウジェニー・デジレ・クラリー。虎族の指揮官なの」
デジレ? 虎族? 狼族のほかにもいるのか? というか、やっぱ名前長すぎっ。それに、なんだか口調が変わってるし。
虎って、どう考えても犬じゃないよな? しかも指揮官だって! 何の指揮官なんだろ? 一体何が起きているんだろう?
というか、この娘、なんだか、知り合いのような気がしてならない。
俺は混乱したけど、とりあえずデジレに話を聞いてみることにした。
「デジレ。どうしてここにいるの? それに何で泣いてるの?」
デジレと名乗ったその子は、俺を潤んだ瞳で見続けてつぶやくように言った。
「な、何でだか分かんないけど、あなたを見てから涙が止まらないの」
そう言ってから、涙を振り払うように元気に続けた。
「あたし、この先のどこかに狼族がいるって聞いたんで、襲いに来たんだ。途中で、変な明かりを見つけたから偵察に来たの」
何だよ、それ? 狼族を襲うって、ルイーゼを襲うってこと? やばくない?
デジレはそんな俺にお構いなく、しばらく夢見るような目つきでぼーっとしていたけど、俺の服にぺたぺたと触ってきた。そして、掌を俺の胸に当てて上目遣いで言ってくる。
「あの、あたしの尻尾触って下さい」
* * *
デジレの全身がこの男を求めていた。
胸に触れた瞬間、自分が全てを賭けて探してきた存在がこれだと確信した。そして、次の瞬間デジレのからだが熱く燃え上がるのが分かった。
それは、今までデジレが経験したことのない感覚だった。
「あの」デジレは熱い目で信二を見つめて言った。「あたしの尻尾触ってください」
「はぁ?」信二はびっくりして変な声を出した。「尻尾? 触るの?」
デジレは熱心に頷いて、信二にぴったり体をくっつけてくる。そして、尻尾を触りやすいように、お尻を突き出した。デジレはそこから出ている尻尾をたててふるふると動かした。
* * *
やばい。何だかとってもエッチだ。
考えてくれ。ネコミミを付けた若い女の子が四つん這いになって、お尻を突き出している姿を。それは一体どんな状況であり得るって言うんだ?
俺は突然のことにどうしようか迷っていると、突然テントの入り口が開いて、ルイーゼが出てきた。ルイーゼは不機嫌そうに口を開く。
「あなた、一体誰と話しているのですか? 寝言がうるさくて眠れません……。それとも反省して、テントの中に入りたいというなら、言い訳だけは聞いてあげ――」
そう言いかけたルイーゼは、その状況に気がついて硬直していた。無理もない。
「ななな、何をやっているのっ!」
そう大声を出した後、デジレの耳に気がついて、ルイーゼは俺への激怒の度合いを高めた。
「その子、猫系の子じゃないですか! それに、ししし、尻尾まで触ろうとしてませんかっ?」
俺は、無意識にデジレの尻尾の直前まで手を伸ばしていたことに気がついて、慌てて手を引っ込めた。
「い、いや、触ってない。触ってないからっ!」
俺が慌てて発した言葉は、ルイーゼの大きなイヌミミに入っていかなかったようだ。
「わわわ、わたしの尻尾触ったのに! 別な子となんて! しかも猫系となんて! ぜ、絶対許せませんっ!」
俺に平手を張ろうとしたルイーゼは、その手を見事にデジレに阻まれていた。俺の目に留まらないスピードで、デジレがルイーゼの手をつかんだらしい。
デジレは、恍惚とした表情のまま、つぶやくように囁いた。
「この人をいじめちゃだめなの」
その様子を見てルイーゼは一瞬混乱したみたいだけど、すぐにぷいっと後ろを向いて、言い放った。
「な、何よっ! もうそんな仲になったってわけですか? 信二、あなたはやっぱり女ったらしじゃないですか! 最低ですっ! 言い訳をするならちょっぴり聞いてあげようと思っていたのにっ」
そう叫ぶルイーゼを見て気付いた。
ルイーゼの尻尾は地面にまっすぐくっついてる。この尻尾の状況って、犬なら確か警戒態勢だと思う。俺は、なんと言い訳したものやら困った。
というより、俺何にもしてないでしょ?
俺はため息をついた後、ルイーゼの方を向いて言った。
「あのさ、ルイーゼってば絶対誤解しているから、後で話を聞いてよ」
ルイーゼは、俺と、俺にぴったり体をくっつけたデジレを嘗め回すように見た後、尻尾を立てて言った。
「後で? 何を言ってるんですか。今すぐ話を聞かせてもらいます。じっくりとっ!」
デジレは、俺から一時も離れようとせず、それどころか視線も外さなかった。まばたきも惜しいくらい、俺を熱い目で見つめ続けている。
そして部屋に火を熾し終えたルイーゼは、それを複雑そうな顔で見ている。
デジレは、長い尻尾を俺の体に絡めようとして、ルイーゼの激高で残念そうに止めていた。
明るくなったのでデジレの姿がよく見えるようになった。髪の色は赤みがかった茶色のショートで、目の色は透き通った青だった。この子もかなりスタイルが良くて美人だったので、俺はしばらく呆然と眺めちゃった。ただ、この子はルイーゼより全然胸が大きかった。革製のビスチェみたいなのを着てて、胸のサイズが丸わかりだった。そして、ルイーゼのと同じようなショートパンツを付けてた。やばい。扇情的だ。
俺は、顔を真っ赤にしながら、ルイーゼに聞いた。
「この子って猫系って言ってたよね? 猫系ってなんだよ?」
俺の言葉に、ルイーゼはため息をついてから説明してきた。
「この世界は大きく分けて、犬系と猫系っていう二つの亜人間の勢力がせめぎあっています。それ以外の種族もいることはいますけど、大きな勢力にはなってないんです。
犬系の最強種族はわたしたち狼族だけど、残念ながらもう残っている仲間がほとんどいません。だからわたしは、その狼族の仲間を探していたんです。
そして、猫系の最強種族に虎族っていう種族がいて、これが幅を利かせつつあります。虎族に対抗できるのは狼族を置いてほかにいません。ですが、狼族はあまり数がいませんから」
「あたし、虎族なんだよ?」
デジレは、俺を蕩けそうなほど熱い目で見ながら言う。ルイーゼはそれを見て声を高めた。
「ちょっと! いい加減に信二から離れなさいっ。は、恥ずかしいでしょうっ!」
ルイーゼの言葉に、デジレは、ちょっとだけ目を向けたけど、すぐに元通り俺の方を見つめ始める。なんだか、俺の方が恥ずかしくなって、デジレから体を離そうとした。でも、デジレは俺を抱きしめている腕に力を入れて、離れようとしなかった。
一体なんだ? デジレって、なんでこんなに俺にくっついてくるの? それも、単なる好意って感じじゃなくて、崇拝とか熱狂ってレベルだ。
「デジレはなんで俺にくっつくの?」
俺の問いに、デジレは接着剤で張り付いたように俺にぴったり触れたまま、潤んだ瞳で上目遣いをして答える。
「わかんないけど、あなたの近くにいるととっても幸福なの。あなたに触れると気持ちいいの。こうしてると頭の中が真っ白になって、もうどうなってもいいよ。デジレは、このまま死んじゃってもいい。今とっても幸せなんだよ」
デジレはそう言ってうっとりした目で俺の瞳をじっと見つめた。嘘を言っているようには見えない。俺はもっと恥ずかしくなった。
俺はどんどん深みに嵌っていくような気がして、ルイーゼの方を向いて聞いた。
「ねぇ? 何でこうなるんだよ? 俺のせい?」
「な、何でわたしに聞くんですかっ。わたしが知るはずないです! ですけど、とにかく虎族のあなたは信二から離れなさいっ。話しにくいでしょう!」
ルイーゼが腰に手を当てて言ったけど、デジレはその言葉を無視した。ルイーゼの尻尾が立って、何だか目に怒りの炎が込められるのに俺は気がついた。
やばいっ。
俺は抵抗するデジレから、無理矢理身体を離そうとした。デジレは、さっき俺が指一本動かせなかったルイーゼの平手を止めていた。それを考えれば、デジレはかなり身体能力があると思う。だけど、なぜだか腑抜けになっているデジレには力がそんなに込められていなかった。俺は何とかデジレから離れて、ルイーゼの隣に移動した。
デジレは人指し指を唇に当てて、不満そうな表情をしている。
ただ、俺がすぐ隣に来ると、ルイーゼが微妙に尻尾を振ったのがわかった。
ちょっとだけ俺から離れて、デジレは冷静な部分が出てきたのかもしれない。
「まだ名前を聞いてないよ?」デジレが俺に聞いてきた。「デジレに教えてください」
俺は、頷いて答えた。
「水川信二だよ。信二って呼んでいいから」
その瞬間、ボーっとしていたデジレがちょっとだけ目を見開いた気がする。
「信二様。あなたはひょっとして人間なんですか?」
「ばかばかしい! みれば分かることでしょう!」
ルイーゼがバカにするように小さく言うと、デジレもしげしげと俺を見つめた。最初に俺の耳を見て、そして次にお尻の辺りを見ていた。あのときのルイーゼと同じだ。
「ホントだぁ」とデジレの顔が見る見るほころんでいくのが分かった。「人間なんだ。信二様、人間なんだぁ」
デジレは満面の笑顔で顔を赤らめながら言葉を続けた。
「ねえねえ、信二様? 今度二人っきりのとき、いっぱい抱きしめて、いっぱい尻尾触ってね? 虎族は薄情な狼族と違って最後まで人間に尽くすんだよっ。人間の方に最後までお仕えしたのは猫系だって言われているんだ。狼族は人間に冷たいの」
デジレの言葉を聞いてルイーゼが爆発した。あっという間にルイーゼはデジレに飛び掛った。
「なっ、何てこと言ってるんですかっ! 誰が薄情で冷たいって言うの! ふざけないでっ! あなたのこともう許せません!」
あんまりに突然だったので、俺は止めることなんてできなかった。最初はデジレもルイーゼに反撃していたけど、なぜだか、デジレは本調子が出ないようだ。
仕方ないので、俺は二人の間に割り込もうとした。だけど、興奮したルイーゼは全然止まりそうにない。もともと猫系に対して悪いイメージを持っているようで、ルイーゼは加減なんてしそうもない感じだ。俺はルイーゼを止めにかかった。
俺の知識にあるお姫様はこんな荒っぽくない。どう見てもおてんば姫って感じだ。
「おい、ルイーゼっ、やめろよっ! やり過ぎだよっ」
しかし、ルイーゼのほうが俺より力が全然強い。情けないけど、それが事実だった。俺はルイーゼの肩を掴んだ。けど、びくとも動かなかった。幾度かルイーゼを後ろから押さえ込もうとしたけど、簡単に振り払われて俺は力の差を思い知った。狼族が犬系で最強とか言ってたけど、その言葉は伊達じゃないみたいだ。どう考えても俺に止められるはずがない。
仕方がないので、俺は最後の手段をとることにした。
尻尾だ。
ちょっぴり怒られるかもしれないけど、多分尻尾を握れば、ルイーゼはやめるはずだ。
だって、さっきの尻尾に対する執着ってすごかったから。
俺は慎重に、ルイーゼの反り返った尻尾に近づいた。そして、俺はゆっくりそれを両手で握り締めた。尻尾はちょっとだけあったかくて触り心地がよかった。
ルイーゼは俺がそんなことをするなんて全然予期していなかったらしい。
「な!」ルイーゼはその瞬間、大声を上げていた。「ななななな、なんてことするのっ!」
そして、振り返ったルイーゼは真っ赤だった。握られた尻尾が、俺の手から逃れようとするかのように大きく左右に動く。
「ああああ、あなたっ、ど、どういうつもりですかっ!」
ルイーゼの目は俺が握り締めた尻尾に集中してた。
「ご、ごめん。ルイーゼが興奮して止まらなかったから……。落ち着いて話そうよ」
ルイーゼはぶるぶると震えながらも、俺が掴んでいる尻尾から目が離せないみたい。擦り傷だらけのデジレは、俺が両手でルイーゼの尻尾を握っていることに気がついたらしい。ぺたんと座り込んで、うらやましそうに左手の人差し指をくわえた。
「いいなあ」
「し、尻尾……」とルイーゼは何か言いかけた。
痛いのかも知れない。酷いことをしちゃったかも。
俺は、はっとして、「ごめん。痛かった?」と聞きながら、尻尾から両手を離した。
するとルイーゼは、しばらくの間熱い目で俺の手と尻尾の握られていた部分を交互に見てた。そして、なんだか赤い顔のまま小声でつぶやいた。
「べ、別に痛くなんて――」
やがて、ルイーゼは赤い顔のまますくっと立ち上がると、座り込んだデジレを見下ろした。「い、今の、見ましたよね? 信二はわたしのことが好きなんです。無理もありません。私は狼族の姫ですしねっ。私は、まだその気持ちを受けるつもりはありませんが、ちゃんと考えてあげる必要があります。だからあなたは信二に変な気を起こさないでください!」
俺は、その言葉に絶句しそうになった。だけど、何とか精神を奮い立たせて叫ぶ。
「いつ、俺がルイーゼを好きだって言ったんだよっ!」
俺の言葉にルイーゼはびっくりしたように俺をにらみ付けて叫んだ。
「だ、だってあなた、わたしの尻尾、あんなに情熱的に掴んだじゃないですか! 忘れたなんて言わせませんからっ!」
情熱的? 尻尾を掴むことって、一体どういう意味があるんだろう?
ひょっとして、俺ってとんでもないことしちゃったの?
「あのさ、尻尾を掴むってどういうことなの?」
俺がルイーゼの方を向いて尋ねると、熟しきったトマトのように顔を真っ赤にした狼少女が小さく抗議した。
「そ、そんな恥ずかしいこと、姫であるわたしに言わせようとするなんて! あなたって、ホントにエッチなんですねっ。信じられません。そういうことは二人だけの時に――」
ルイーゼの言葉は最期は消え入りそうに小さくなる。俺はルイーゼの言葉が全然理解できなかった。
「なんだよそれっ? 意味わかんないよ」
俺が呆れて言い返すと、ルイーゼは身体全体を俺からそむけて、背中を見せた。
尻尾がピンと立っている。
「とにかく、デジレは信二に手を出したらダメです。次は容赦しませんからねっ。信二もっ!」
俺はふと気がついて、ルイーゼに声を張り上げた。
「ルイーゼ、そういえば寝る前に二度とそばに寄らないでとか言ってなかった? なのになんで、そんなこと言うんだよ?」
ルイーゼは怒りに燃えるような、迫力のある口調で俺に答えてきた。
「あなたは、わたしの尻尾両手で握りましたよね! 昔のことはどうしようもありませんし、仕方ないから、許してあげます。ですけど、これから勝手なことしたら許しませんっ。ちゃんと責任取るべきですっ。これから尻尾に見境ないことしたらダメですからっ」
ルイーゼはこっちを振り返って言い放った。
顔が真っ赤だ。よく見てみるとさっきまで立っていた尻尾が、水平に伸びてる。
あれ? 尻尾が上に立った状態から水平になるのは攻撃態勢だっけ?
犬を飼い始めた頃に読んだ本に、確かそんなことが書いてあった。
「尻尾に見境ないって何だよ?」
俺が言い返すと、攻撃態勢のルイーゼはちょっと躊躇したみたいだった。だけど、ゆでだこみたいに真っ赤な顔になってから、ルイーゼは叫んだ。
「あ、あなたは家にいた女の犬の尻尾、無理やりなでたって言いましたよね! 最低です!」
それを聞いて、デジレはビックリしたようだった。俺はわけがわからなくなって、つい口走ってしまった。
「あのなあ、家にいた犬はオスだよ」
「なっ!」
ルイーゼの驚愕は頂点に達したらしい。
「あああ、あなたって、そういう趣味があるんですか? まさかあなたの系統ってそっち系?」
どういう趣味で、何の系統だって言うんだよ!
俺が突っ込みを入れる前に、デジレが俺に向かってお願いしてきた。
「あのね、デジレの尻尾も触って欲しいなあ」
その言葉にルイーゼは凶悪な目つきでデジレを睨んだ。
「あなた、身体に言い聞かせないとわかんないのかしら?」
再びルイーゼがデジレに襲い掛かりそうな雰囲気を感じる。念のため俺はデジレが地面に取り落とした剣を引き抜いた。
そしてそれをデジレに返していいかどうか、俺は一瞬悩んだ。
その時のことだ。俺が握ったデジレの剣が目も眩む真っ白な光に包まれていた。その光はあっという間に周囲を圧する光になっていく。
全員が驚いて息を呑んでそれを見つめた。そして、その光はやがて、やがて刃の中に吸い込まれるように消えていった。俺は辛うじて声を出した。
「え? い、今のは? 一体何なの?」
俺の問いに、ルイーゼは目をぱちぱちさせながら首を振った。
「わ、わかりません」
俺がデジレを振り返ると、我に返った顔で思い出すように説明してくれた。
「このレイピアにはいろんな伝説があるって聞いたよ。人間の勇者様から貰ったものなの。だけど、今みたいに光るなんて見たことも聞いたこともないんだけど」
デジレはその後、レイピアに大切そうに触れると自慢そうに説明した。
「デジレのレイピアはすっごく切れ味がいいんだよ」
「そういや、デジレはなんでここに来たんだっけ? 狼族を襲うとか言ってなかった?」
「うん。デジレは、ヴュルテンベルクの部下と一緒に、狼族が住んでいる王都を襲いに来たの。途中で火が見えたからデジレが偵察に来たの」
その言葉にルイーゼが声を張り上げた。
「あなたは、王都を襲いに来たっていうのですか? ふざけないでっ! 返り討ちに遭うに決まってるわっ」
ルイーゼの怒りはもっともだ。だけど、根本的な疑問がある。
「なんで狼族を襲うの?」
「猫系の意思を統一する必要があるの。犬系の都市群を制圧するには王族である狼族を捕まえるのが効果的なの。虎族の戦士二〇人が夜に襲う予定だから、夜目の聞かない狼族は簡単だと思うよ。戦いは避けて捕虜にすることだけを目的にしているんだ」
その言葉にルイーゼはビックリしたようだ。確かに、犬より猫の方が夜目が効くだろう。
「虎族二〇人が同時に? それも夜間で捕縛だけを目的に? それでは父君といえども……」
ルイーゼの顔が怒りから不安に変わる。
何とかしてあげたい。だってルイーゼは、誰も知り合いがいない俺と一緒にいようとしてくれた。不安な俺の支えになってくれた。だから、俺はルイーゼを助けたいと思ったんだ。
そして、無理だと思いつつも、俺はデジレに聞いてみた。
「デジレ。狼族がいなかったということで、引き返すよう仲間に命令してもらえないかな? デジレって指揮官なんでしょ?」
だけど、デジレは、すぐに首を縦に振った。俺は逆にそれにびっくりした。
「うん。いいよ。その代わり、その後信二様のとこに戻ってきていい?」
「だめです」
なぜかルイーゼが即答する。俺はルイーゼに聞き返した。
「何でだよ?」
「テントが狭くなるし食料も余裕ありません。それに猫系なんて見たくもないです」
「でも、あたしがいないと、また捜索隊が来たとき大変だよ?」
デジレは俺のほうをじっと見つめて言葉を続けた。
「狼族の探索隊は何度も出されると思うよ。エレオノーラ様は絶対この辺に狼族がいるって信じてるの。それに、デジレちゃんと食料持ってきてるもん」
「エレオノーラって?」
俺の質問に答えたのは、尻尾を高く上げたルイーゼだった。
「エレオノーラは、残虐な殺戮猫です。わたしたち犬系をどんどん追い詰めて、たくさんの犬系の人々を殺してきました」
殺戮猫? なんだそりゃ?
微妙に違和感を覚える表現だけど、俺はそのことに突っ込まないでおいた。
「とにかく、一度、わたしはお城に戻ることにします! 信二も一緒に来ますよね? あなたは、わたしの尻尾を両手で掴んだ責任を取らなきゃいけないのですからっ」
尻尾の責任って、一体どんなことをするんだろうか? 殴られたりするのかなあ?
俺はかなり不安を持ったけど、とりあえず、右も左も分からないこの場所で放り出されるより、百倍もましだと判断して、答えた。
「よくわかんないけど、ちゃんと責任取るよ」
俺がそう言うと、ルイーゼはなぜだか頬を染めて小さく頷いた。
「良かったです」
馬を引いて砂漠を抜けるまで、ほぼ二日かかった。ルイーゼが来るときは一日だったと聞いたから、俺が足手まといだったんだろう。
「俺が足手まといになってるよな? ごめん」
明らかに俺のせいだというのに、ルイーゼもデジレも気にしていなかった。
「人間がいるんだから、歩みが遅くなるのは、当たり前ですよね? 謝る意味が分かりません」
ルイーゼの言葉に、デジレもなぜそんなことを聞くのかという感じで不思議そうに頷いた。
俺はルイーゼとデジレの態度に違和感を覚えたけど、口には出さなかった。
沙漠を抜けると、俺たち三人は、ルイーゼの案内で狼族の王都に向かうことになった。
やっと乗馬できるようになったとき、ルイーゼは前と同じ質問をしてきた。
「あなたは本当に馬に乗ったことがないのですか?」
「うん。乗ったことのある奴もいるとは思うけど、俺の知り合いでは見たことないなあ」
俺がそう答えると、ルイーゼは明らかに気を落としているように見えた。なぜだろう。
――なんだ? 前にも聞かれたけど、何を期待されているんだ?
そしてルイーゼは俺を馬の後ろに乗るように合図してきた。俺は苦労したあげく、何とかルイーゼの後ろに乗ることが出来た。
「呆れました。本当に馬に乗ったことがないのですね?」
「仕方ないだろ。俺の世界じゃ、そんな経験した奴の方が少ないんだから」
「デジレの馬に乗らない? デジレの方が絶対乗り心地いいよ」
デジレが背後から声をかけてきた。振り返ると期待で震えるような笑顔だった。
――デジレの乗り心地って、どう言う意味だ?
「馬鹿言わないでください。私の方がいいに決まってます。それに、信二は私の尻尾を掴んだのですから、私の方に乗るのが当たり前です」
――ルイーゼの方がいい? ルイーゼに乗るのが当たり前?
やばい。変な想像で頭がいっぱいになりそうだ。
俺の状態が大変な状況になる前に、慌てて手を振った。
「もうルイーゼの馬に乗ってるし、早く行こうよ」
「信二、振り落とされないようにちゃんと捕まってくださいね」
ルイーゼは振り返って満面の笑みと共にそう言った。
そして、見晴らしのよさそうな丘の傍で、ルイーゼが馬を止めた。デジレもそれに倣ってルイーゼの傍に馬を止めた。怪訝そうなデジレに、ルイーゼは耳を動かしながら言った。
「ねぇ、向こうで剣を戦わせてる音がしませんか?」
デジレはほんの少し自分の耳をすませると、「ホントだ」と言った。
だけど、俺には全然その音が聞こえなかった。犬系の亜人間の聴覚は人間よりはるかに優れているらしい。さすがにイヌミミを持っているだけのことはある。
俺たちは警戒しながら、馬に乗ると、その歩みを緩めて先に進んだ。そして、小高い丘の上に出たとき、その音の正体が分かった。
丘の下で二つの集団が争っていたんだ。遠くでよく見えなかったけど、ルイーゼには見えたようだった。「少ない方の集団は猫系の部隊のようですね。だけど、相手は一体何者でしょう? 千人近くいて、しかも猫系と犬系が混在しています! 一体どこの部隊かしら?」
俺の背後で、しばらくボーっとしていたデジレが不意に厳しい目つきになった。
「猫系の方は、たぶんあたしと同じヴュルテンベルクの部隊だよ。知っている戦士が見えた」
遠くからだったけど、部隊の装備色が違っていたので、戦いの状況は分かった。俺が見ても、猫系のほうが明らかに錬度が高くて、しかも意欲が高く見える。数は数十人だったが、十倍以上いる混成部隊を縦横無尽に立ち回って、かき回していた。
「混成部隊の士気は高くなさそうですね」
ルイーゼが俺に説明したとき、それは起きた。
よく見てみると、その戦闘集団から百メートルほど離れた場所に、小集団がいた。その集団から、突然、火の玉が現れたんだ。そして、それは、その戦闘をしている集団の上空に移動していったんだ。たぶん高さは十メートルほどだろう。
「え? あ、あれは?」
俺が指差すと、ルイーゼは硬直したまま辛うじて答えた。
「魔法だと思いますけど……、まさか……」
俺はルイーゼとその火の玉を交互に見つめた。火の玉はどんどん大きくなっていき、五メートルほどの大きさになる。そして突然、猫系の集団の中心を襲っていった。
「な、何てこと! あれじゃ、両方に被害が出ますっ」
ルイーゼの言葉どおり、轟音と共に地面に向かった火の玉の側にはたくさんの混成部隊もいた。俺は、それを凝視するしかなかった。
耳をつんざく轟音と共に、火の玉が地面に着弾し、たくさんの土煙が周囲を覆った。
そして、しばらくして、その周囲が見えるようになったとき、俺は言葉を失った。
直径十メートルほどの巨大なお椀型の穴が出来ている。そして、その外側にたくさんのけが人と、動けなくなった人たちがいた。そのほとんどは、混成部隊の人たちだ。けが人は少なく見積もっても百人以上いるだろう。そこには、血塗れの人や身体の一部を失った人が溢れていた。まるで地獄絵図だった。絶句するしかない。
「あ、アレが、魔法なの?」
もちろん、そこにはもう猫系の部隊は一人もいなかった。混成部隊の人たちは、必死にケガをした人を助けだして、手当てをしようとしていた。致命傷と判断されて放置されている人もたくさんいる。俺は見ていられなかった。
デジレはその光景を凝視していた。
「戦士だから、戦いで死ぬのは仕方がないよ。だけど――」
デジレを見た。その目が怒りに満ちていくのが分かった。
そのときのデジレの姿は今まで見たこともなかった。哀しそうな、それでいて何かを湛えた瞳だ。そして戦場から目を離さずに、凝視し続けている。
「あれは、戦いじゃない。単なる殺戮だよ」
デジレが震えていた。怒りで震えているんだ。デジレが叫ぶ。
「許さないっ!」
俺が止める間もなく、デジレが馬を走らせていた。
レイピアを握り締めて、魔法使いの小集団に向かって飛び出していく。
「ま、まって――」
あんなところに一人で突っ込んだら、デジレが死んじゃう。そんなのダメだ。
魔法使いはデジレに気付いたように見える。杖のようなものを振り上げていた。
魔法使いは二人。一人は後ろに引いて、もう一人はそれを庇うように一歩前に出た。
魔法使いの周囲にいた護衛達はデジレの方に集まりだした。
「デジレっ!」
デジレは馬を飛ばしていた。ルイーゼの馬に乗る俺は追いようがない。ルイーゼは俺の様子に気付いたようだ。
「ダメですっ! あなたが行っても、デジレの邪魔になるだけでしょう。分かりますよね?」
「でも! デジレがっ」
「私が行きます。あなたはこの馬を降りてください」
「え?」
ルイーゼはバスタードソードを取り出して握りしめた。
「私も王族として、あれほど犬系の人が殺されたのを見過ごすことなど出来ませんからっ」
ルイーゼはそう言った後、追い立てるように俺を小突いた。馬の上で俺は姿勢を崩した。
「お、おいっ」
俺が半分転げ落ちるように地面に落ちると、ルイーゼは小さく言った。
「あの、私は必ずここに戻って来ます。だから、待っていて――」
ルイーゼはそこまで言ってから、何だか語尾を濁した。不思議に思ってルイーゼを見ると、目線を反らしてきた。
そして、デジレのいる戦場に向かって馬を走らせていった。
* * *
ルイーゼは考えていた。
あんな虎族のために、命を賭ける必要なんてない。
ただ、デジレがこのまま死んだら、夢見が悪すぎる。信二も悲しむに違いない。
ルイーゼはデジレが冷静になれば、脱出することは出来ると踏んでいた。デジレと直接剣を交えたことはないが、おおよその実力は予想できる。危険だけど何とかなるはずだ。
だけど、そんなこととはまるで関係なく、ルイーゼは涙が止まらなかった。
ルイーゼ自身が最後に発した言葉で、なぜか全身に衝撃が走った。
ずっと感じていた疑問の答えが得られた気がした。
もう会えないと思っている人は、「必ずここに戻ってくる」なんて言わない。戻る手段を考えてあったから言うんだ。そうでなきゃ、残された人が絶望してしまうから。
そんな当たり前のことにやっと気付いた気がする。
それがどうして涙につながったのか、分からなかったけど――。
ルイーゼの前方一〇〇メートル先でデジレが暴れていた。それは信じがたい光景だ。
魔法使いの護衛は、二〇人ほどいた。護衛は全身に甲冑を着込み、剣撃では防具の隙間に刃を差し入れなければ、傷も付かないだろう。だから、最初はデジレが迫っても、護衛達は微動だにしなかった。
だけど、初撃で護衛の一人は重そうな甲冑の腹部の狭い隙間を両断された。大量の血で甲冑が血塗れになり、どおっと衛兵が倒れた。デジレは一人目の敵を屠った後、振り返りもせずにそのまま突き進んでいた。そして続く二撃目で、二人の重装備の護衛兵が両足から血を噴き出して倒れ込んでいた。デジレは鋼の甲冑の構造を熟知しているらしい。
護衛兵に動揺が走る。デジレは圧倒的な力を持っていた。
みんな重装備だったけど、デジレはそんなことお構いなしに護衛達を翻弄していた。
ルイーゼと同じくらいの距離に本体の集団がいたけど、魔法使い達の集団に加勢しようとしていない。
――無理もないわ。自分たちの仲間ごと敵を殺そうとした魔法使いを、助ける道理がない。
でも、これなら助かる確率がだいぶ高まったと思う。
ただ、十分注意した敵が、デジレの周囲を遠巻きに覆っていった。
そうなれば防具を着けていないデジレが助かるはずがない。
ルイーゼは慌ててその包囲網の一角に切り込んでいった。デジレに注意していた護衛達は虚を突かれたようだ。ルイーゼは簡単に、包囲網を崩すことができた。
そして、デジレは衛兵達の壁から抜け出した。
デジレの背後から飛んでくる槍があった。ルイーゼはデジレの方に飛んでバスタードソードを振った。向きが変わって、槍は明後日の方向に飛んでいく。
デジレはそのルイーゼを不愉快そうに見てから言い放った。
「何しに来た?」
デジレの一声はこれだ。ルイーゼはデジレの背後による衛兵を一瞥してから叫んだ。
「援護に来たのに決まってるでしょう!」
デジレはもう一度魔法使いの方向を睨んでから溜息を吐いた。
「あれくらい、一人で何とかなる。お前は理解してないな。何で包囲網を崩した?」
「理解してない? どういう意味ですかっ」
デジレはルイーゼに合図して、すぐにその場を離れようとした。だけど、なぜか信二のいる方向じゃなくて、大群の本隊がいる方向を指差して向かっていく。
ルイーゼも馬の向きを変えて、デジレを追うしかない。
そのほぼ次の瞬間、ルイーゼ達のすぐ側を強烈な火の玉が襲っていた。向きを変えなければ直撃していただろう。
轟音と埃が周囲を襲う。だけど、驚いて立ち止まった馬の横にデジレがいた。耳鳴りがする。
「アレを見てみろ」
デジレは埃の間を指差していた。本隊の集団が丘の上に向かっている。そこには信二がいるはずだ。ルイーゼは愕然とした。
「信二様を護るためには、あたしがあの魔法使いを引きつけるしかない。あいつらは交代で魔法を使った攻撃をするだろう。お前が信二様の元に走って、あの本隊から逃げ出すんだ」
埃が徐々に晴れていき、視界が広がる。
デジレが言うとおり、魔法使いは入れ替わっている。デジレは何で、そんなことを知っているんだろうか。魔法使いなんて、この世界から失われてもうだいぶ経つはずなのに。
「ですけど――」
「お前の剣では魔法を防げない。だけど、あたしの剣なら出来る筈だ。だから、あたしがやる。その代わり、もしあたしが助かったら、あたしが信二様と一晩過ごすことを認めろ」
デジレはルイーゼを睨み付けて続けた。
「そのくらいの報酬があっても罰は当たらぬだろう。お前が来なければ、護衛を盾に魔法使いに肉薄できた。接近戦になればもはや魔法は使えない。赤子の手をひねるようなものだ。だからこそ、魔法使い達は、本隊を犠牲に出来ても、護衛もろともの攻撃をすることは出来ない。自分たちを丸裸にしてしまうからな」
ルイーゼはバスタードソードを落としそうになった。
デジレは護衛兵にわざと囲ませた。そして、その状態で彼らを盾に、魔法使いに迫ろうとしていたんだ。ルイーゼはそれを邪魔した。魔法使いの攻撃をしやすくしてしまった。
デジレは頭に血が上ってなんていなかった。
冷静でなかったのは、ルイーゼの方だった。
その事実にルイーゼは衝撃を受けるしかなかった。
だけど、何でデジレは魔法使いとの戦い方を知っているんだろう。
ルイーゼは信じた。
デジレは必ず戻ってくる。デジレは強い。
およそルイーゼが知る狼族のどんな剣術の達人も、デジレには遠く及ばないだろう。剣技ではなく膂力に頼る虎族にしては、あり得ない戦士だ。
虎族に稀に生まれた剣術の天才が、その一生のすべてを賭けてその技量を磨き続けた。数年ではなく、何十年も鍛え続けた。虎族が剣術で狼族を上回るためには、それくらいでなければあり得ない。つまりデジレは普通なら耐えられないほどの苦難を経てきたんだろう。
そんな戦士が今闘っているんだ。
戻ってくるのに決まっている。
本隊より先に丘の上にたどり着くのは容易だった。自分たちを犠牲にされた本隊の兵士達は、まだ連携行動が出来ずにいたからだ。
信二の元に急いだルイーゼは、信二が何かを指差しているのに気付いた。
ルイーゼは振り返ってその方向を見る。
上空には魔法の火の玉が四つほど停滞していた。
それがほぼタイミングを一つに、護衛から離れつつあったデジレを襲っていった。
「デジレっ!」
デジレは、馬を飛ばすスピードを緩めて、剣を構えていた。
デジレを襲う火の玉は、正確には同時ではなかった。それは一つずつ魔法で指示をしなければならないからだろう。デジレは初弾をぎりぎりまで引きつけてから、馬を跳躍させた。
それ以外のどんなタイミングでも、かわしきれなかったに違いない。
さっきまでデジレがいた場所に大きな穴が開いた。
次弾はデジレがレイピアを力任せに振り払った。
魔法を防げるというデジレの言葉は真実だった。信じられない剣だ。
レイピアに弾かれた火の玉は、速度を増して護衛達の方に向かう。そして、護衛の半数ほどを道連れに爆発していった。
すごい。
デジレなら本当に一人であの魔法使いを倒せそうだ。
だけど、そんなルイーゼの期待は次の火の玉の行動で吹き飛んだ。
二つの火の玉の行方を知った魔法使いは、別な魔法を使ったらしい。
残っている二つの火の玉を無数に分割して、デジレの周辺にばらまこうとしていた。
その小さな火の玉の数は、一〇〇以上ありそうだ。
かわせない。剣で全てをはじき返すことも出来ない。
呆然とする直前に、ルイーゼの視界に別のものが現れた。
本隊の兵士の頭だ。
ルイーゼはハッとして、信二を馬の後ろに乗るよう指示した。
「早く乗ってくださいっ!」
もたもたする信二の手を引いて、何とか馬に乗せる。そして、まだ闘うデジレを背に、その場を離れるしかなかった。
だって、信二を助けるために、デジレはあの場で闘うことを選んだ。
信二を助けられなかったら、デジレに顔向けできない。
ルイーゼはデジレの無事を祈った。馬を飛ばして、敵の本隊から出来るだけ離れようとした。
そして、しばらく馬を飛ばす。振り返って、後を追う本隊の位置を確認しようとした。
視界がぼやけている。
そして、知らぬ間に自分が涙を流していることを知った。
敵の本隊は、ルイーゼ達を追ってきていなかった。
* * *
さすがにデジレは助からないかも知れないと覚悟を決めた。。
『信二様。あたし――この魔法を防げないかもしれない。未熟なあたしを許してください』
デジレはそう呟きながら、襲いかかる火の玉を待ち構えた。
だけど、その覚悟をした次の瞬間、レイピアから不思議な力が流れ込んでくる。
『加速せよ。単位時間をプランクから無限遠まで延伸』
その言葉が脳裏に刻まれた後、不思議なことが起きた。
火の玉の速度が、急速に遅くなっていき、ついには停止した。
デジレは理由がわからぬまま、一〇ほどの火球を剣で払った後、気付いた。
火の玉が遅くなったのではない。
デジレが周囲を見渡すと、デジレの周囲が急速に静止していくのがわかる。
世界が遅くなっているんだ。それはつまり――。
『あたしが加速しているっ』
デジレは理解した。
それは、レイピアが起こした奇跡だ。そして、デジレの感性が訴えている。この奇跡は邪悪な何かが起こしている。デジレは、それに気付いて声を上げた。
『あたし、何か悪いものに守られてる。ダメなのにっ。信二様の役に立ちたいだけなのにっ』
それでもデジレは火球を払い続け、そして全てを消し去ることが出来た。
デジレ以外の誰かがそれを見たのであれば、それは信じられない光景だっただろう。
ほぼ数瞬で、デジレは一〇〇を超える全ての火球をはじき返した。亜人間業ではない。
そして、静止した時間で無防備の魔法使い達の前に立つ。
デジレはレイピアを引いて、一人の魔法使いに向けた。
「いいよ。あたし、悪い人に守られてもいい。あたしが信二様を守れるのならっ」
その言葉をきっかけに、時間の流れが戻る。
そして、魔法使いの一人をレイピアが切り裂いた瞬間、残ったもう一人の魔法使いが叫んだ。
「時間操作か。悪魔めっ。貴様、大切なものを失って後悔するぞっ」
デジレは躊躇しなかった。その魔法使いが魔法を唱える前に、レイピアを払う。魔法使いの首が胴体と離れていく。
そして、魔法使いを失った軍団が崩壊するのは、当然のことだった。
* * *
そしてデジレと合流した俺たちは草原を丸一日、そしてうっそうとした森林を二日間、最後に眺めの良い山を馬を引きながら丸一日かけて越えた。そして、俺はそこで城を見つけた。
それはまるでおとぎ話に出てくるような石で出来た小さなお城だった。石の囲いの中に、たくさんの石の家が立ち並び、そしてその中央に可愛らしい城が立っていた。
「あのお城は?」
俺が聞くと、ルイーゼは小さな胸を張って答えた。
「あれが王都です。お城は小さいけど犬系の都。ここからだと、二、三時間で着くと思います」
そして、ルイーゼは俺の方を振り向いて、ほんの少し顔を赤らめた後、にっこり笑った。
「信二のこと、私の尻尾を握った人だって、ちゃんと紹介しますからっ」
その言葉を聞いたとき、何だか意味深なものを感じて、俺の頭の中で警戒信号が鳴り響く。
だけど、ルイーゼの笑い顔には凄みがあって、「どういう意味だよ」って聞き返すことが出来なかった。
俺たちが馬を下りて、ルイーゼの住む王都に入る前に一悶着があった。
それは、デジレが原因だった。王都を囲む塀を避けて、中に入るためには、一つしかない門を通らなきゃなんないようだ。その門の前に長槍を持って仁王立ちしているイヌミミの屈強な若者がいる。その若者は、ルイーゼと一緒にいるデジレに気が付いて邪魔をした。
「虎族がなんでいるんだ? 今すぐルイーゼ様の側から離れろっ!」
そう言って、そいつは三人並んだ中からルイーゼの側に走りこむと、手を引っ張った。そして、ルイーゼがよろけた瞬間、デジレとの間に割り込んできた。そして、俺とデジレからルイーゼを守るように立つと、槍を向けてくる。
とりあえず、俺を一瞥して、猫系でないと判断したんだろう。デジレの方を向くと、その目前で槍を振り回した。デジレはボーっとしていて、動こうとしていない。
「我々の力を思い知れ!」
それはひょっとして牽制だったのかもしれないけど、俺は慌ててたから、そんなこと考えもしなかった。慌てて俺がデジレの方に一歩踏み出したとき、よろけてデジレを押し倒す格好になった。そして、背中に熱い衝撃が走る。
数瞬後、俺の背中に鋭い痛みがあった。
「え? 何が――」
俺が言いかけた時ルイーゼの叫び声が響いた。
「な、何してるのですか! エルンスト!」
「え? だって、コイツが変に割って入ってきたから……」
背中越しにルイーゼと男が言い合っている。俺は振り返ろうとしたけど、何だか力が入らなかった。そのうちに目を開けていられなくなる。
これって、やばいかもしれない――。
そして、俺は、自分の下にいたデジレが何だか立ち上がる気配を感じた。
その直後、俺は意識を失った。