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第一章 少女の大事な場所を触るとき

衛星軌道。地表から約六〇〇キロの高度にあるハッブル宇宙望遠鏡。

 初めて異常に気付いたのは、そのデータを分析していた天文学者だった。

 約六〇億光年を超えた範囲の天体観測に問題が生じていた。

 最初、それはハッブル宇宙望遠鏡の障害が原因だと思われていた。

 やがて一週間後に、地上に設置された望遠鏡でも同様の現象が生じていることが判明した。それが示す事実は明確だった。

 ハッブル宇宙望遠鏡の分析から一〇日後。観測可能な天体は減少を続けていた。それは他の望遠鏡でも整合的な事実だった。

 観測可能な宇宙が縮小している。

 ほぼ、毎日一億光年の速度で観測範囲が縮退していた。

 既に、地球から五〇億光年を超える範囲の天体は観測できなくなりつつあった。

 そのあまりに現実離れした事実に対して、天文学者はどうすることも出来なかった。世界に警告すら出来ないことを責められないだろう。仮にその理由を示す理論を示すにしても、残された時間は余りに少なかったからだ。

 観測可能な宇宙の広さは一三八億光年と言われている。

 つまり、この事象が発生して、少なくとも既に三ヶ月が経過していることになるだろう。光速を越える速度で後退している宇宙は観測できない。その観測不可能な部分を含めた宇宙のサイズは四七〇億光年だから、既に一年以上前から縮退が発生している可能性もある。

 そして、あと五〇日を過ぎた時点で、宇宙がどうなるかという議論に対する回答を人類は持ち合わせていなかった。

 ただ一人の人間を除いて……。


 * * *


 俺が家の玄関を開けた先には、水平線まで砂漠が広がっていた。足元を見るとくるぶしまで砂にまみれている。

 それでも数歩玄関から飛び出して、左右を見る。どの方向を向いても砂しかない。

 振り返ると、沙漠の中に浮くように家がぽつんとあるだけだ。

 あり得ないだろ。何だよ、この光景?

 くるりと一回転して、へたり込みそうになる。

 なぜ沙漠のど真ん中に俺の家があるんだ。どうして?

 一日でこのあたりが砂漠化したって?

 現在地球はあちこちで砂漠化が進んでいるという。

 だけどいくら何でも砂漠化現象、激しすぎだろ? 国土交通省は何してるんだ!

 というか地球はもっと砂漠化に抵抗すべきだ。地球のがんばりに期待するほかない。

 そして、俺の家の方から気配を感じる。さっきの古美術商兼強盗だ。

 俺は慌てて家を背にして走る。砂に足を取られてうまく走れないが、やっとの思いで五〇メートルほど家から離れたとき、突然俺の足下でざざっという嫌な音と共に、大きな穴が現れた。

「え?」俺は短い悲鳴を上げた。「何、これ?」

 抵抗する間もなく、その大穴に吸い込まれていく。俺は慌てて手足をばたばたさせて、その穴から逃れようとした。その甲斐あって、穴の縁にしがみつくことが出来た。だけど、砂の穴だから縁はどんどん崩れる。俺は下に落ちそうになった。俺は、振り返ってすり鉢状の穴の様子を伺いながら、必死に下に落ちまいと抵抗した。穴の直径は五メートルほどに見える。

 これって、ひょっとして、あの、蟻地獄ってヤツ?

 蟻地獄といえば、その穴の中心に何かいると相場が決まってる。俺は恐る恐る後ろを観察してみた。そしたら、案の定、穴の中心部にシャーッという甲高い響きがしている。耳から感じた嫌な予感が全身に広がっていく。そしてゆっくりと、黒っぽいムカデを大きくした昆虫の頭が現れた。その頭は人間より大きい。

「いた、いたよっ! 蟻地獄さん!」

 や、やばくない? 何でこんなの、ここにいるんだよ!

 馬鹿でかい虫に恐怖心を煽られない人間がいたら是非紹介してくれ。代わってやるから。

 俺は必死に這い上がろうとした。砂まみれだ。俺は崩れる砂をかき分けて、やっとの思いで穴の縁から半身だけ地上に乗り出せた。脱出できそうだ。

 俺ってすごい。こんな状態でも、冷静的確な判断の下、脱出することが出来るとは。

 だけど甘かったようだ。安心する間もなく、次の瞬間、腰の辺りに鋭い痛みが走った。振り返ると、何か黒い紐のようなものが引っ込んでいく様子が見える。

 鞭のようなもので叩かれたらしい。俺は堪えきれずに、再びズルズルと穴に落ちていく。再び振り返った。その蟻地獄っぽいヤツが触角を伸ばして俺を叩いたのが見えた。

 俺は穴の半分近くまで追い落とされる。

 そのとき、俺は自分の命の危険が死ぬほど危ない危機にあることを理解した。

「だ、誰か! 助けて!」

 俺が悲鳴を上げて助けを求めたときのことだ。

 ザッザッと言う砂の上を走る乾いた音が響いた後、俺を見下ろす女の子がいた。

 それはまさに女神だ。

「た、助けてっ!」俺が短く叫ぶ。

 女神は一瞬でその状況を見て取ると、剣を抜いて、タッと軽やかにジャンプして穴に飛び込んできた。

「お、おいっ!」

 俺は大丈夫かって聞こうとしたけど、そんな余裕はなかった。気がつくと、俺の身体にたくさんのねばねばした触手が張り付いてる。気持ち悪い。

 俺は穴の中心の方に引っ張られていった。気配を感じて振り返ると、でっかいムカデが大口を開けて俺に襲い掛かってた。触手のせいで身体の自由が利かない。

「あわっ! ひえっ! うわぁ! 女神様! 助けてっ!」

 俺は子供のように手足をばたばたさせて、無様で無意味な抵抗しか出来なかった。

 そして、俺の横に降り立った女神様は、剣を一閃させて、触手を切り裂いていた。

 突然身体が自由になった。込めていた力の勢いで俺は砂に頭から突っ込んでいく。

 俺は口に入った砂を吐き出しながら、気配を感じて背後を振り返った。

 闘気に溢れた戦いの女神がそこにいた。全身にオーラが覆っているようだ。神々しかった。

 そして、女神が「はっ」という鋭い気合の元、その巨大ムカデを切り裂いた。周囲に緑色の体液が飛び散ったとき、俺は自分が助かったことを知った。そして、その瞬間、俺はその女神のお尻の辺りにそびえたつ、尻尾のようなものに気が付いた。


 ムカデの体液で緑色に染まった穴から何とか脱出した俺は、その女の子にひたすら頭を下げるしかなかった。

「助かった。ホントにありがとう。さすがの俺も死ぬかと思ったよ」

「サンドワームなんて剣を持ってればどうってことない相手でしょう?」

 その子は冷たい瞳で俺を一瞥してから続けた。

「まあ間に合ってよかったのかしら」

 その子は薄く微笑む。その笑みはまさに女神だった。そして少女は言葉を質問に変えてきた。

「で、あなたは誰ですか?」

 俺の首筋にさっきの蟻地獄に向けられた剣が伸びてくる。思わず変な声が漏れた。

「ふえ?」

 何で俺、助けられた相手に剣を向けられるの?

 夕日の逆光で見難かったけど、頭の上に毛皮の耳みたいなのをつけているのがシルエットで分かった。俺は、一瞬ためらった後、声を出してみた。

「あの、なんで、こんな砂漠があるの? 何で俺はここにいるの?」

 俺の言葉に、その女の子は毒気を抜かれたようだった。剣を一度納めてからため息をついている。そして俺の隣に寄ってくると、何だか俺の匂いをクンクン嗅いでいるみたいだった。

 俺って変な匂いしてるのかな? あ、そう言えば、昨日風呂に入ってない!

 一歩だけ退くと、俺は自分の腕の匂いをかいでみた。変な匂いはしないけど、自分の匂いなんて分からないだろう。

 俺は、ちょっぴり溜息を吐いてから、夕日を避けながら、女の子を見てみた。

 女の子は、綺麗な金髪で、碧眼だった。タンクトップみたいなのにショートパンツをはいてた。あんまり胸は大きくないみたいだけど、スタイルのいい体の線が丸見えで、こんな近くで女の子を見たことない俺には、どきどきしちゃう格好だ。この子、俺が今まで見たことがないほど整った顔立ちだった。

 まずいと思いつつも、俺はその子の全身を上から下まで眺める誘惑に勝てなかった。そして真っ白な肌と扇情的な服装のアンバランスが俺の前頭葉の一部を刺激するのに十分だったと言っていいかも知れない。

 一言で言えば美少女?

 だけど、そんな言葉で言い尽くされない、なんだかアイドルが纏いそうな圧倒的な雰囲気が全身を覆っている。足下から髪までつい触れてみたくなるほど、その女の子は魅力的だった。ショートパンツから出た真っ白な足は、男なら誰だって目を奪われるだろうし、タンクトップから見える素肌は男を誘惑しないはずがない。そして、何より、その子は、可愛いと綺麗を足して一万倍くらいしたような魅惑的な顔だった。

 それに、なんだか感情を揺さぶるような引っかかるものも感じるんだよな。なんだろ?

 その子をちょっと見ただけで、俺の心が震えるのがわかった。

 それはたぶん何かの衝撃を感じていたんだと思う。

 ちょっぴり考えて理由を思いついた。

 きっと、頭についた本物にしか見えない毛皮の耳とふさふさした尻尾が原因だ。

 なんでそんなコスプレしてるんだ? 理屈に合う説明なんてあるのか?

「あなたは誰?」

 その子は重ねて俺に聞いてきた。俺は変な感覚を覚えながらもコスプレ娘に答える。

「俺は水川信二って言うけど、キミは?」

 その言葉に、その子は俺をじろじろと見つめてから、ゆっくりと答えた。

「わたしは、ヴィルヘルミナ・フレデリカ・アレクサンドリーネ・アンナ・ルイーゼ。見ての通り、狼族です。あなたは何族? ちゃんと答えなさい」

 狼族? 何だそりゃ? 何言ってるんだこの子? それに名前めちゃ長いんだけど?

 鉄壁の忘却力を誇る俺様は、最期のルイーゼって言うところだけ辛うじて覚えることが出来た。さすがといっていいだろう。

 そして、俺は次の瞬間、突然理解した。

 あ、分かった。この子、狼のコスプレをしてるんだ。だから、尻尾をつけてるんだ。

 理屈に合う説明発見だ。つまりこの子は不思議系の残念な女の子なんだろう。こんなに可愛くてキレイなのに、なんだかもったいない気がする。

 とりあえず納得して質問に答えてみた。

「俺は、普通の高校生だけど?」

「高校生? 何ですか、それ?」

 不思議系のその子は疑うように俺を睨んで言葉を続ける。

「あなた、犬系? それとも猫系なの? どちらだか教えなさい! また私に刃を向けられたいのですか?」

 その子は俺を値踏みするように睨んだ。

 俺はその時、その子が構えた剣を見て気付いた。緑色のムカデの血の他に、たぶん俺が手で払ったときについた赤い血がこびりついている。

 やばい。不思議系の女の子を甘く見てた。

 俺はよく分からずに言い返すしかなかった。

「意味わかんない! 何だよ、犬とか猫って? 俺は人間だよ! 見りゃ分かるだろ!」

 俺が怒鳴ると、その子は絶句していた。立ち尽くしたまま、俺のことを凝視している。

 何だ? 何があったんだ?

 俺が恐る恐る後ろに退こうとすると、その子は超速度で俺の傍によって肩を掴んだ。

「ああああああ、あなた! みみみみみみみみ、耳を見せなさい!」

 その子はそう言うが早いか、俺を力任せに横向きにした。

 すごい力だ。全然対抗できなかった。そして、俺の髪の間からちょっぴり覗いている耳を、穴が開くほど見つめてから、肩の手を離した。今度はお尻の辺りをじろじろと見つめてくる。そして、その子は早口で聞いてきた。「し、尻尾は?」

 尻尾? 尻尾ってお尻についているあれ?

「はあ? 何言ってるんだよ! 俺は人間だってば! 尻尾なんてあるわけないだろっ」

 俺が呆れたように言うと、その子は再び呆然としたようだった。

 何だかまずいことになったような気がする。俺はゆっくりと後ずさりした。

 だけど、ルイーゼと名乗るその子は、がっしりと腕を掴んできた。

「な、なんだよ?」

「あ、あなた人間なんでしょう? でしたら魔法を使って見せてくださいっ!」

 その子はとんでもないことを言ってくる。

「魔法? あのさあ、マンガの見すぎじゃないの?」

「マンガって何ですか?」その女の子は不思議そうに聞き返してきた。

 ほぼ次の瞬間、低い音が響き渡る。

 そして徐々にそれが甲高い音に変わっていった。

「何だ?」

 そして、その音のする方向を見て俺はぎょっとした。それは、家のある場所からだ。

 やばい。何が起きるんだ?

 俺がそう思ったのは一瞬だけだった。だって、次の瞬間、家が霧のように薄くなって、消え去っていたから。土台のくぼみだけを残して綺麗さっぱり無くなっていた。

 違法建築にもほどがある。いくら何でもがれきくらいは残ってしかるべきだ。俺の住んでいた家は、どんな材料で出来ていたっていうんだろう。全く不動産は信用できない。

 もうその方向には砂漠があるだけだった。まるで魔法のようだ。

「魔法でやったんですね?」俺が声を上げる前にその子がにらみ付けてきた。「あなたが人間だってよく分かったわ。人間というなら仕方が無いわ。私をルイーゼと呼ぶことを許します」

 なんだかよく分からないけど、この子をルイーゼと呼んでいいらしい。

 だけど、なんだか勘違いされてる。魔法なんて使えるはずないし。

 そしてほぼ同時に、ルイーゼの背中の方に何だかふさふさした毛が舞い上がったことに気がついた。ルイーゼの後ろのほうに尻尾が見えてる。尻尾がくるくる回ってた。

 そういえば、何で? この子、何で尻尾を付けてるの? なんでコスプレしてるの?

 俺は少し横に移動して、ルイーゼの背中をじっと見つめてみた。

 ショートパンツから尻尾が出ている。それはどう見ても本物だ。

 で、その尻尾はバベルの塔のように天にそびえ立っていた。

 そして、ルイーゼは俺が混乱しているのに気がついたみたいだ。

「どうしたの? 私の尻尾じっと見つめて、ちょっと失礼ではありませんか?」

 ルイーゼの言葉に俺はしどろもどろになった。

「いや、あの、その……、綺麗な毛並みだなあって――」

「なっ!」ルイーゼは真っ赤になって俺に叫ぶ。「あああああ、あなたっ、突然なんてこと言うのっ! エッチよっ。恥ずかしいですっ」

 その尻尾らしきものがなんだか震えている。

 ということは、この尻尾動かせるってこと? つまり、やっぱりそれは本物だ。

 俺は戸惑いながらも聞くしかない。

「あ、あのさ? その耳と尻尾って、ひょっとしてコスプレじゃなくて本物?」

 俺の問いにルイーゼは、真面目な顔に戻って口を開いた。

「当たり前でしょう。というより、なんでそんなこと聞くのですか?」

「だ、だって尻尾なんて見たの初めてだし……」

 ルイーゼは俺の言葉に疑わしそうに聞き返してくる。

「あなた、一体何者? ホントに人間なの? さっきから違和感が止まらないのだけど」

 俺は、今まで、人間かどうかを疑われたことなんてなかった。

 俺って、そんなに人間離れしているんだろうか? かなり屈辱的だ。

「人間じゃなかったら、なんだって言うんだよ?」

 ルイーゼは俺の言葉に首をかしげた後、断言してきた。

「耳なし男かしら?」

 俺は自分の耳を指さしてから、ルイーゼに怒気を込めて大声を張り上げた。

「耳ちゃんとあるよっ!」

 俺の言葉にルイーゼが、合点がいったように、ぽんと手を叩いた。

「そうでした。それでも耳なんですよね」


 ルイーゼは、俺と共に安全な場所まで移動した。俺には分からなかったけど、周囲に危険な物はないって説明されたんで、助けられた俺には疑う理由もない。

 傍らには茶色っぽい馬がつながれている。馬にはたくさんの荷物が乗せられていた。それを下ろすと、ルイーゼは馬に水と食べ物を与えた。

 そしてそれが終わるとルイーゼはテントを作り始めた。

 ルイーゼがテントを作る手際は手馴れていて、実に見事だった。あっという間に骨組みを作って布を渡すと、大きなテントが出来上がった。

 俺はそれを手伝う間もなかった。

 テントの設置を終えると、ルイーゼは火を焚いてお湯を沸かした。そして、お茶のようなものを作ってカップに注ぐと俺に渡してきた。「どうぞ」

「ありがとう」俺がそう言って、その中を見ると、茶色っぽい液体が満たされていた。

 何だかいい香りがしている。俺がそれに口をつけてみたら、それは紅茶だった。

 そして、ルイーゼは、しばらくの間俺を質問攻めにしてから、やっと人間であることを認めてくれた。

「あなたは人間がたくさんいる別の世界からきたって言うんですね?」

 ルイーゼは俺の説明を聞いた後こう言ってきた。

「信じられません。この世界の人間の人たちはもう絶滅しちゃったって言われていますから。だけど、実際にここにあなたがいるのも確か。だから、あなたは遠くの国から来たってことで納得することにします。で、その国はあなたみたいな人間がたくさんいるのですか?」

 俺は軽く頷いてから、今度は俺が質問した。

「その耳って本物なんだよね?」

「当たり前です。私たち亜人間の特徴はふさふさした耳があることと、きれいな尻尾があることなんですから。それが、私たちの誇りなの」

 俺は、思わず手を伸ばしたくなったけど、鋼鉄の意志のちからでそれを押さえ込んだ。

「亜人間ってそれ以外は人間と同じなの?」

 俺が聞くと、ルイーゼは首を横に振った。

「人間は魔法を使えると言われています。あなただって使えますよね? 家を消しましたから」

 また魔法かよ? なんだそれ? 冗談だろ?

 俺は呆れて肩を竦めてから言った。

「悪いけど、信じられないよ。だいたい家が消えたのは俺がやったんじゃないし。だって俺がいた世界じゃ魔法なんてないよ」

「魔法がない? 失礼ですけど、奇妙な国ですね。そんなに人間がいるのに……、伝説に間違いでもあったのかしら? ただ、確かに大昔からの言い伝えだから、違っててもおかしくないかもしれないわ。人間は絶滅したって言われてからもう何千年も経っていますし……」

 ルイーゼはそう述懐してから、ふと気付いたように続けた。

「だけど、人間が特別なところは別にあるといわれているんです」

 特別なところ?

 俺が疑問に思って見つめると、ルイーゼはちょっぴり目を反らしてから小さく言葉を発した。

「あの? わたし達のような亜人間には系列って言うのがあるんです。系列をまたがって結婚は出来ません」そこまで言うと、なぜだかルイーゼは真っ赤になった。

「はぁ?」ルイーゼの言葉に俺は変な声を発してしまった。「系列ってなんだよ? 家柄のこと? 意味わかんないよ。それが人間とどう関係するんだ?」

 ルイーゼはちょっとだけ俺から目線を逸らした。そして、思い切ったように声を上げた。

「だから!」ルイーゼは俺を真っ赤な顔で見つめた。そして、拳を握って叫ぶ。

「わたしは犬系の狼族です! 狼族は王族で、一四になったら旅に出て、ふさわしい人を見つける決まりになっています。そのパートナーはただ犬系というだけでは認められません。ちゃんと同じ狼族を見つけなければ子供に能力を伝えられない。だから狼族以外の犬系と結婚したりすれば、王族から外れてしまいます」

 俺は、ルイーゼがなんでそんなことを言ってくるのかぜんぜん分からなかった。

 だけど、王族だったって言うのは衝撃的な情報だ。

「王族だって? じゃあ、ルイーゼってお姫様ってこと? ルイーゼってすごくない? お姫様なんて初めて見た――いやそれより……」

 やばい。俺ってお姫様に悪し様な言葉遣いをしてなかった? 怒らせたら、まずくないか? それこそどんなことになるか……。

「今まで失礼な言い方しててゴメン――スミマセンデシタ」

 慌てて謝ったけど、ルイーゼは頭を振って俺に言ってきた。

「あなたは人間ですよね? それだったら別に言葉を気にすることはありません。今まで通りで結構です。失礼ではありませんよ」

 人間なら気にしなくていい? どう言う意味だろう。

 ただ、突然丁寧な言葉にするのも妙な気がする。言われたとおりにした方が良さそうだ。

「でもルイーゼはお姫様でしょ?」

「そうです。わたしは姫でもあります。だから――」

 ルイーゼはじっと俺の瞳を見つめて口を開いた。

「だからわたしは狼族以外の亜人間と付き合うことは出来ません……」

 そう言って、ルイーゼは目を伏せた。そして再び俺を見つめてから、早口で言ってくる。

「だ、だけど人間は別です。人間と亜人間の間だと、とってもすごい子供が生まれるらしいんです! それに人間は、亜人間の系列と関係なく結ばれるって聞きましたっ! 人間となら王族から外れないし、とっても祝福されますっ。も、もし、わたしの結婚相手が人間だったら、犬系の勢力を復活させることだって夢じゃないと思います」

 俺は一瞬絶句した。ルイーゼが言っている言葉の意味が分かるまでにしばらくかかる。そして、結局俺は理解した後、真っ赤になった。

「そそそ、それは、ひょっとして? ルイーゼ?」

 俺の言葉に、ルイーゼは慌てたように叫んだ。

「な、何考えてるのですか? たたたた、たとえばの話ですっ。私たち会ったばかりなのにっ」

 ルイーゼも真っ赤になっている。だけど、なぜだかルイーゼは思わせぶりに俺を見つめているようにみえた。

「会ったばかり? そうだよな。そのはずなんだけど――」

 改めてルイーゼを見ると、なぜだか瞳が潤むのが分かる。

 だけど、その理由が全く分からない。だから、俺はルイーゼと目を合わさないようにした。

 不思議な感覚だった。横目でルイーゼをのぞき込む。

 ルイーゼの顔立ちも、スタイルも、今まで俺が見たこともないほど整っていて、ルイーゼと比べたら、どんなアイドルだって色あせるくらいだ。そんなお姫様を見たら、どんなヤツだってドキドキするさ。だからにきまってる。

 初めて会ったお姫様。

 だけど、あんなことを言い出すって事は、少しはルイーゼにもそんな気があるはずだ。

 ということは、うまくいけば、ルイーゼの気を引けるかも。

 そしたら、種族の強化という名目で、ルイーゼといろんなこと出来る、のか?

 というか、いろんなことって何? 一体ルイーゼにどんなことするの?

 最初は胸? そんなに大きい感じではないけど、十分なボリュームがあるように見える。

 やばい。ぎりぎり見える服と胸の隙間が気になって仕方がない。

 肩にブラの線がないからノーブラじゃないか? 全くけしからん姫だ。

 ルイーゼにする具体的な内容を想像して、俺は顔をますます赤くした。

 このまま妄想が進むと、なんだか取り返しのつかない場所が取り返しのつかない状態になりそうだ。だから俺は話を逸らすように小さく言った。

「俺、この世界に居続けることになったら、一人で生きていけるのかなあ」

 俺の言葉に、ルイーゼは一瞬きょとんとしてから、冷たい声とともににらみ付けてきた。

「あなたは、狼族をそんなに薄情だと思っているのですか? それともあなたは、一人でどこかに行くつもりなのかしら? だとしたら恩知らずな人ですねっ!」

「な、なんだよ。何で恩知らずになるんだよ? だって、こんな世界には、誰も知り合いがいないもん。一人で生きていかなきゃ――」

 俺が言いかけると、ルイーゼが遮った。

「あなたの知り合いはここにもういるでしょう!」ルイーゼは自分を指差して続けた。「わたしを頼ればいいはずです! 王都で暮らしなさいっ」

「え、ええっ? 何で?」

「イヤだと言うんですか?」一瞬ルイーゼが俺をうかがうように見つめてくる。

 俺は慌ててブンブンと首を横に振って答えた。

「ま、まさかっ。でも、いいの? 出会ったばかりなのに」

 俺がルイーゼを見つめて聞くと、ルイーゼは頬を染めた。

「だって、あなたは人間ですよね? 人間は貴重だから、近くに置くべきでしょう」

 その言葉に俺は渾身の力を込めて全力で脱力するしかなかった。

「なんだよ、それ? 俺はペット扱いかよ」


 ルイーゼは俺をちらっと見た後、頬を染めたままテントを指さした。

「あなた、確か信二って言いましたよね。テントで、邪な考えを持ったら許しませんからっ」

「へ? どういう意味?」

「このテントで一緒に寝る時、変なこと考えないでと言っているんですっ」

 え? マジで? 一緒のテントだって?

 俺は一瞬でその幸福な状況を想像した。妄想と言ってもいい。ルイーゼがテントの中で『ずっとあなたみたいな人が現れるのを待ってたの』とか言って迫って来るシーンだ。

 ヤバイ。俺の人生の幸運と理性を軒並み使い切ってしまう気がする。

「お、俺、外で寝るよ。テント一つなんでしょ?」

「それは、私と一緒のテントがイヤだって言う意味ですか?」

 ルイーゼは目をむいていた。俺は慌てて首を横に振って言った。

「そ、そんなわけないよっ」

 ルイーゼはその言葉が真実かどうか見極めるように、じっと俺の瞳を見つめていた。俺はこんなキレイな子に瞳を見つめられた経験なんてなかったので、顔が真っ赤になったのが分かる。目を逸らした俺に、ルイーゼは不思議そうに聞いてきた。

「どうしたんですか?」

「べ、別になんでもない」

 俺はそう言ってから、背中を向けるしかなかった。ルイーゼは怪訝そうな声を発した。

「まあいいでしょう。砂漠では、みんな助け合わなきゃいけませんっ。これはわたしの王族としての矜持です。だから、信二はわたしと一緒にいなきゃダメです。だいいちあなたは食料持ってないんでしょう?」

 ルイーゼは俺が頷くのを見てから、腕を組んで言葉を続けた。

「このままあなたを一人にしたら、間違いなくのたれ死にすることになるでしょうね。それにあなた、夜中ふらふらと出歩いて迷いそうな気もしますし……」

 どうやら、ルイーゼってお姫様にもかかわらず世話焼きタイプらしい。

 ただ、微妙にバカにされている気もする。

 だけど、なんにしても、少なくとも砂漠から出るまでは、一緒にいなけりゃヤバイというのは骨身に染みて分かった。俺だってまだ死にたくないし。

 だけどさあ、一体何で俺はこんなところにいるんだろう? ここってどこなのかなあ?


 その後、ルイーゼは俺に食事を作ってくれた。テントの外に焚いた火を使って、ルイーゼは慣れた手つきで料理する。ルイーゼはお姫様らしいけど、一人で旅に出ているだけあって、なんでも一人で出来るみたいだ。俺はちょっぴり手伝っただけだった。

 お姫様より生活力がない男ってどうよ?

 流石に自画自賛の権化とも言える俺からしても、かなり抵抗のある状況だ。

 そして、焚き火を真ん中にしてルイーゼと俺は向かい合って座った。

 料理は何かの肉と、野菜が煮込まれたやつがスープ皿に載せられて出てきた。

「わ、私は王族ですけど、とっても料理が得意で、誰かに作ってあげるのが大好きなんです。私、とっても家庭的なんですよ?」

 ルイーゼは俺の瞳をのぞき込んできた。ルイーゼがそう言うだけあって、料理はすっごく旨かった。パンはちょっと固かったけど、噛みしめるとおいしかったと思う。

 俺はこれからどうやって過ごすのか不安でいっぱいだったけど、ルイーゼはお城まで連れて行ってくれるそうだ。そこに、好きなだけいてもいいってルイーゼは言ってくれた。

 お姫様が言うなら、きっと大丈夫に違いない。でも何でこの子はこんなに親切なんだろう。

 突然変なところにやってきた俺だけど、いてもいいって言われただけで、とっても安心した。自分の居場所が出来たような気がしたんだ。良かった。

 俺は出された食事を食べた後、ルイーゼにお礼を言った。ルイーゼはにっこりした後、赤い液体が入ったビンを目の前に突き出してきた。ルイーゼは俺に説明する。

「今日は大変だったでしょうから、よく眠れるように、持ってきた取って置きのワイン、開けてあげます」

 ルイーゼはなんだか頬を赤らめていた。そして、何だか大切そうに紙に包まれたグラスが二つ出された。透明でいろんな装飾がされた高そうなグラスだった。

「一緒に飲みましょう」ルイーゼは有無を言わせぬ様子で言う。俺は辛うじて頷いた。

 俺がグラスを差し出すと、ルイーゼはワインをグラスに注いできた。そして、もう一つのグラスにも赤い液体を満たして、ルイーゼはそれを握った。そして、ゆっくりと焚き火の向かい側から、俺の隣に移動してくる。俺はルイーゼがすぐ隣に来たので、横目でルイーゼを見たら、揺れる炎が映し出す顔がとってもきれいだった。なんだかドキドキして、ごまかすように俺は「乾杯」と言ってグラスを掲げる。そしたらルイーゼは怪訝そうな顔を見せた。俺はルイーゼに簡単に説明する。

「俺がいた世界だと、カップルとか、みんなで一緒にお酒を飲むときは『乾杯』って言って、グラスをちょっとだけ合わせるんだ」

 俺が説明すると、ルイーゼはワインと同じくらい真っ赤になった。そして俺の方にグラスを伸ばしてきて、グラスを合わせてから「乾杯」って言ったんだ。

 チンという軽い音が静寂の中に響き渡る。

 ワインを飲んで軽く酔いが回ると、ルイーゼがいろいろなことを話してくれた。

 狼族が減って、同じくらいの年の遊び相手がいなかったこととか、他の犬系の男の子と遊ぶと親に叱られたことなんかを話してくれた。何でも、狼族の血は残さなければいけないものなんだそうだ。俺にはそのあたりの感覚がよくわかんなかった。

「住んでいた国であなたはどんな馬に乗っていたのですか。何色ですか?」

 なぜかルイーゼはそんな質問をしてきた。俺は首を振って答える。

「馬なんて乗ったことないよ」

「え? では移動とかは馬車に乗るということですか?」

「うーん、どういえばいいんだろ? 馬の代わりのものがあるんだよ」

「では、あなたは馬は乗れないのですね――」

 なぜかルイーゼは落胆したように言ってきた。

 でも、そんなことを話すルイーゼの碧色の瞳を見ていると、吸い込まれそうで、意志の強さを感じたんだ。俺はこんなに大きくて綺麗な瞳を見たことがなかった。まだ一四歳だって言ってたけど、この世界では、一二歳を過ぎたらもう一人前として扱われるんだって。

 ルイーゼは俺より年下だけど、俺みたいないい加減な人間よりずーっと大人びて見えた。それにルイーゼは本当に綺麗だった。輝く瞳と、きめ細かい肌、時折見せる大人びた表情と、子供のような笑い顔は輝いていて、俺の心をとらえるのに十分だった。

 そして、ルイーゼがかなり酔ったころ、変なことを言い出した。

「あなたの耳、触らせてもらえませんか?」

「はあ? 何でそんなことしなきゃなんないんだよ?」

「人間なんてお話でしか聞いたことなかったから。触ってみたくなったんです」

 俺は半分呆れたけど、まあ酔っていることもあって、「まあいいけど」と言った。

 そしたら、ルイーゼは目を輝かせて、俺の耳をじろじろ見た後、触ったり、引っ張ったりしてきた。

「痛いからあんまり耳引っ張るなよ!」

 俺は抗議したけど、ルイーゼは聞きもしなかった。逆に変なことを質問してきた。

「ねえ? 毛がなくって耳寒くならないのかしら?」

 俺は呆れながらも答えた。

「そう言えば、確かに耳は体の中で一番体温が低い場所らしいなあ」

「やっぱり! そうなんですね。あとあと、聞きたいんですけど、信二の世界ってその髪の色と目の色の人っていっぱいいるのですか?」

「へ? 黒髪と黒目って普通だろ?」

「いいえ」とルイーゼは首を大きく横に振った。「黒髪なんてわたしは見たことないです。黒い目も稀だし。とてもうらやましいわ。神秘的で素敵」

 俺はそんなこと言われたことなかったんで、戸惑った。

「ルイーゼの髪と目のほうがぜんぜん綺麗だろ? 俺、最初見とれちゃったもん」

「なっ!」ルイーゼは真っ赤になって俯いた。「何言ってるんですか。こんな髪普通ですよ?」

 俺はルイーゼの綺麗な金色の髪と、碧眼を見つめてから、首を横に振って言った。

「俺の生まれたところだと、あんまりいないんだよ」

「へえ。面白いですね」ルイーゼは興味深げに言った。

「その耳も触らせてくれよ」と俺は酔っ払って調子に乗って聞いてみた。

 ルイーゼはちょっとだけびっくりしたようだったけど、小さく頷いてくれた。

 俺は、ルイーゼの毛皮に覆われた耳を右手でゆっくりとなでた。とっても気持ちいい。

「この耳って、触られるとどんな感じ?」

 俺が聞くと、ルイーゼは夢見るように言った。

「やさしく触ってくれるから気持ちいいですよ。恥ずかしいけど眠くなってしまうわ」

 ルイーゼはどんどん目がとろんとしていって、ついに目を閉じてしまった。俺のひざの上に頭を乗せて横になる。俺は慣れないワインに酔ってしまったみたいで、何だか頭がボーっとしていた。

「あの……」

 ルイーゼは目を閉じたまま呟いてきた。俺はルイーゼの方に目を向けた。

「なんだよ?」

「あの。最初に会ったとき、怪我させちゃってごめんなさい」

「まあ、突然家が現れたんだろ? 怪しむのは無理ないよ。たいした怪我じゃないし」

 俺はそう言って掌を見た。傷口はもうふさがりかけている。

「いいえ。違うんです。わたしが剣を向けたのは――慌てたからなんです」

「――慌てた? なんで?」

 俺が不思議に思って聞くと、ルイーゼはそっと大きな瞳を開いた。

「あなたを見たら、なんだか慌ててしまって、それから――」

 ルイーゼはそこまで言ってから、目を閉じた。

「なんだか悲しいような嬉しいような変な気持ちになったんです」

 そう言ってからルイーゼは少し顔の向きを変えた。

「不思議です。あのとき私は、あなたが人間なんて分かっていなかったはずなのに……」

 ルイーゼの瞳から薄く涙が見えた。その瞬間、変な感覚が俺をよぎる。

 そういえば俺が今日起きたとき、額に冷たいものふってきた。

 ひょっとしてあれってルイーゼの涙? いやいや、そんなはずない。だって理由がないし。

 横になったルイーゼを見ると、尻尾をふるふると震わせているのに気付いた。それを見ているとルイーゼって、狼っていうより犬にしか見えない。

 俺は、ちょっとおかしくなって、目を閉じているルイーゼの尻尾をなでてみた。

 ルイーゼの尻尾は柔らかくて毛並みがとっても気持ちよかった。

 その瞬間、ルイーゼは電撃を受けたように飛び上がった。

「なっ、何するのっ!」そして、俺の胸倉をつかんで叫んだ。

「あなた、わ、わ、わたしの、わたしの尻尾触ったでしょう!」

 俺はルイーゼの剣幕にびっくりしたけど、簡単に頷いた。

「え? うん。なんかさわり心地よさそうだなあって思って」

 俺の言葉を聞いたルイーゼは、これ以上ないくらい真っ赤になって、小声で囁いた。

「そ、そんなこと、普通の顔で言わないでくださいっ」

 ルイーゼは真っ赤になったまま、俺の耳に唇を近づけて、恥ずかしそうに小さく聞いてくる。

「も、もっと触ってみたい、ですか?」

 俺が頷くと、ルイーゼは俺に背を向けて、しばらく考えているようだった。

 そして、ルイーゼはゆっくり言った。

「そ、そんなに、わたしの尻尾が気になるなら、ほんのちょっとだけ、ちょっぴりなら――」

 ほとんど聞こえないくらい小さな声でルイーゼは呟いていた。  

「――さ、触ってもいいわ」

 俺はすごい不自然な様子を感じたけど、ルイーゼは一大決心といった感じだ。

 ルイーゼは背中を向けたまま、ちょっとだけ震えていた。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「あ、あの、ホントはっ! このワインは、わたしがいいと思った人が現れたら飲もうと思って、持ってきてたんですっ」

 ルイーゼはそう言ってから、振り返って俺を見つめた。

「でも、こんなに早く飲むことになるなんて、思ってませんでした。それに――何だか、わたし、あなたのこと他人に思えないんです。なぜでしょう?」

 そうして、ルイーゼが再び背中を向ける。尻尾が震えていた。

なんだ? 何があるんだ? 俺ってそんなに変なこと言ったか?

 俺はすっごい変な予感がして聞いてみた。

「あのさぁ? 尻尾触るのってなんかあるの? 家じゃあ嫌がる犬の尻尾、結構触りまくってたんだけど――」

 その瞬間、ルイーゼは鬼の形相で振り返って、俺に平手打ちを食らわせた。それも三度も。頬に三つの赤いもみじが出来上がっていた。右に二つ。左に一つ。

「無礼者っ。あなたってそんな人間だったのですね! わたし全然分からなかった! あなたのような人間なんてだいっきらいですっ!」

 そして、さらに左右に一つずつ俺の頬にもみじが追加プレゼントされた。全部で五発だ。

 俺の顔にたくさんの手形がついたと思うけど、何が起きたのか全然分からなかった。

 ルイーゼはそのまま立ち上がってテントに入ろうとする。俺はあわててルイーゼの肩に手をかけた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 ルイーゼが振り返った。綺麗な瞳にたくさんの涙がたたえられてた。

 俺はその様子があまりに衝撃だったので言葉に詰まってしまった。ルイーゼの瞳は悲しみと後悔の涙で溢れていた。そして、ルイーゼは小声でつぶやくように言う。

「わたしは、あなたが純粋な人間だって思ってました。だから、パートナーでもいいかなって思っていたんです。匂いも好きな感じだったし。運命だって」

 そして、ルイーゼは俺に背を向けた。尻尾が力なく垂れ下がっている。

「でも、そんな人だったなんて……。ひどいっ。わたし、あなたを軽蔑します。もう側に寄らないでくださいっ! 汚らわしいわっ」

 そう言ってルイーゼは泣きながらテントに入っていった。俺は呆然とするしかない。

 何で?

 俺は何がなんだかわからなくて、大混乱していた。テントから小さく声が聞こえる。

「私ってバカです。こんなに簡単に人を信用したなんて――」

 ルイーゼが涙を流している光景が俺の目に焼きついて離れなかった。

 そしてしばらくしてから、ルイーゼはテントの外に寝袋を放り投げてきた。

 俺はその場を離れることも出来ずに、ワインを飲み干した後、外で寝袋に包まって眠るしかなかった。

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