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第九章 幸せな少女の願いと狼少女の祈り(前編)

 車は一時間もかからずに遺跡から数キロのところまで来た。遺跡は、三つの塔とその周囲にいくつかの小さな建物から出来ていた。三つの塔は、百メートルくらい離れた正三角形のそれぞれの頂点に位置し、その高さは数百メートルありそうだった。

 その塔の表面は何だかざらざらした質感で、使い古されたように見える。塔の周囲は、光沢のある金属質の地面が覆っているようだ。ここからだと、塔の入り口は見えない。

「あれ?」ルイーゼが変な声を上げた。「なんだか文字が出てます。正面の塔が人間の塔、その隣が亜人間の塔だそうです。奥の塔はまだ表示されていませんね」

 確かに、車内のディスプレイに映し出された塔に、なんだか読めない文字が書かれていた。ルイーゼはそれが読めるらしい。

「それに『亜人間は人間の塔に侵入できません』って書いてあります」

「ルイーゼとデジレは入れないっていうこと?」

 俺が聞くと、ルイーゼは首を振って答えた。

「そんなことは私にはわかりません。そう書いてあったというだけですから」

「目的地は『人間の塔』なんだろうなあ」

 俺は、車の速度を若干落として、注意深くその遺跡に接近して行った。

 しかし、そんな注意はあんまり意味がなかったようだ。

 突然聞いたことのない甲高い音が車に鳴り響いた。直後に電子的な音声が流れた。

『エネルギーの集積を関知しました。上空からの攻撃魔法の襲来を警告します。防御魔法を展開しますが、貫通することが予想されます。乗務員は直ちに待避してください』

 それは火の玉のような魔法だった。

 車に襲いかかろうとする、まだ無色の魔法の火の玉を、車の中のディスプレイはすぐに見つけた。そして、警告を出してきた。

 最初、俺は車の速度を上げて回避しようとした。けど、表示を見る限り、ぴったりこの車をねらっている。どうやっても逃げられそうもなかった。

 ――まずいっ。

 俺は危険を知らせるために大声で叫んだ。

「ルイーゼ、デジレ! 車を出るぞ。何か攻撃が飛んでくる!」

 俺は慌てて、操縦桿を戻して車を止めようとした。時間が永遠のように長く感じられる。

 そして車がやっと停止した。魔法の火の玉は既に目に見える物に変わっていて、警告がなくても、普通の表示で見えるくらいに大きく表示されていた。もうほとんど時間がない。俺は自分のドアを開けて気が付いた。ルイーゼとデジレはドアを開けられないんだ。

 ――どうすればいい?

 一瞬だけ悩んだけど、俺は大声で叫んだ。

「ルイーゼはこっちから出てすぐに車から離れろっ。デジレのドアは俺が開けてやる」

 俺はドアから飛び出して、車の反対側に走った。

 ほぼその瞬間、上空で大音響が鳴り響いた。走りながら見上げると、火の玉がドーム型の半透明な膜にぶち当たったところが見える。たぶんこれが防御魔法なんだろう。

 ――こんなのが直撃したら助からない。やばすぎだ。

 俺は目を奪われそうになりながらも一度視線を切る。車の反対側に回りこんだ。

 そしてデジレが居る右側の後ろ側のドアを開ける。ドアが開くまでの時間がとんでもなく長い時間のような気がした。ルイーゼをちょっとだけ見たら、何とか俺の方のドアから飛び出せたようだった。そして、デジレはドアが開いた瞬間飛び出してきた。

「信二様っ、危ないっ」

 デジレは、ドアの内側からディスプレイに表示されている火の玉を見ていたらしい。

 防御魔法を貫通した攻撃が着弾したのと、デジレが俺の上に覆い被さってきたのはほとんど同時だった。

 俺はその時のことを生涯忘れない。絶対に。

 デジレは俺を守ろうとして、手を伸ばしてきた。そして力一杯俺を抱きしめようとする。

 それとほぼ同時に防御魔法を貫通した魔法攻撃が着弾していた。

 轟音とともに車が爆発していく。俺とデジレは衝撃で数メートル吹き飛ばされた。

「うわぁっ!」

 俺はデジレと一緒に地面をごろごろ転がる羽目になった。埃だらけで目が開かない。全身の筋肉がきしむ。骨の二、三本が折れているかもしれない。

 俺は呼吸も出来ず、しばらく地面に這いつくばっていた。煙が咽に痛い。

「うえっ! ごほっ」

 俺が何とか息をつないで目を開けられたのは、しばらくしてからのことだった。

 何とか俺は助かったらしい。辺りを見渡す。

 デジレはちょっと離れた場所に飛ばされていた。俺はその側まで行った。

 そしてデジレに言った。いや、言おうとした。

「デジレ、大丈夫……」

 俺は言葉を終えることができなかった。

 デジレは血塗れだった。爆風で背中から腰の辺りにかけて大量の出血をしてた。

 心臓の鼓動にあわせて出血するデジレを見ていられない。俺を庇ったからだ。

 それは致命傷にしか見えない。

 俺は言葉を失う。茫然とその光景を見るしかなかった。

 そして、そこから数メートル離れたところに、なにか毛皮のヒモのようなものが落ちているのが見えた。

 俺は最初、それがなんだか分からなかった。だけど、しばらくしてから気が付いた。

 それはデジレの尻尾だ。デジレの大切な尻尾がそこにある。それが千切れて落ちているんだ。

 俺の瞳から涙が溢れた。

「信二、様? だ、大丈夫?」デジレがとぎれとぎれの言葉を発した。「あれ? なんか真っ暗で、なんにも――見えないよ?」

 デジレは目の前にいる俺をきょろきょろ捜している様子だった。

 デジレは――目の前にいる俺が見えないんだ。そして俺はデジレの傷口を手で押さえようとした。でも、血が止まらない。デジレの身体が血で染まっていく。

 俺は、胸がいっぱいになった。涙が止まらない。どうすればいいのか分からなかった。

 でも、たぶん俺はデジレを抱きしめなきゃいけない。

 俺はデジレを優しく抱きしめて嗚咽をこらえると、何とか声を出した。

「お、俺は大丈夫、だよ。デジレが俺を守ってくれたんだ。ありがとう。いま、ほこりだらけだけど、すぐに周りが見えるようになるさ」

 デジレは見えない目をこすりながら、ゆっくりつぶやくように言った。

「あたし戦士なの。だから今、デジレがどうなっているか分かるよ? でもお願い。デジレを抱きしめていて欲しいの。それからできれば、デジレの尻尾触ってね?」

 デジレの控えめな言葉。それは俺の心をとっても揺さぶった。悲しくて、デジレを力一杯抱きしめた。デジレの身体は折れそうなほど柔らかかった。

 デジレの尻尾は千切れてた。尻尾なんてもう触れない。

 だけど――そんなこと言えない。言えるはずがない。俺は震える声をなんとか発する。

「だ、大丈夫。これからずっとデジレを抱きしめるから。尻尾もずっと触ってるよ」

 涙が頬を伝うのが分かる。涙がデジレにぽたぽたと落ちていく。

 俺の言葉に、デジレは苦労して微笑んだようだった。

 一言一言噛みしめるように、デジレは言葉を紡ぎ出した。

「うん。感覚が、ちょっとないけど、尻尾、触られている、気がする。うれしい。やっと、デジレの願いが、叶ったんだね? 信二様。大好き」

 俺はもう言葉が出なかった。嗚咽しかでない。

 俺はデジレを抱きしめることしかできない。俺が出来るのはそれだけだ。

 俺は馬鹿だった。俺はもっと早くデジレの尻尾を触ってあげれば良かった。

 俺はデジレの最後の願いを叶えられないんだ。俺は大馬鹿だ。

 デジレを抱きしめながら、俺は涙が止まらない。

「信二様に抱きしめられているから、デジレ、全然、怖くないよ。痛くもないの。今、デジレはとっても幸せだよ?」

 デジレは幸せそうに微笑んでそう言った後、小さく弱々しい咳をした。口から血が流れ出ている。そして小さな声で続けた。

「デジレの大切なレイピア、信二様に持っていてもらいたいの。あたし、もう信二様守れないから、せめて剣だけでも、ね? お願いしていい?」

 俺はやっとの思いで囁いた。震える声で小さく言う。

「分かった。大切にするよ」

 俺はデジレが腰につけているレイピアを見る。レイピアは震えていた。そう見えた。

 デジレは微笑んだまま言葉を紡いだ。

「信二様、知ってる? 幸福と愛って別なことなんだよ? だけど、あなたはその両方なんだ。あなたのこと、大好きなの。デジレが大好きなあなたはデジレに幸せもくれるの。デジレは、信二様をずっと待っていたんだ。だからね。あなたにデジレの全てをあげるの――」

 デジレは、一生懸命俺に言った。それは、デジレがずっと気にしていて、ずっと言おうと思っていた大切な言葉なんだろう。言葉を探して、考えて、そしてやっと言えたんだ。

「心から祈ります。大好きなあなたが、幸せになりますように……」

 デジレは呟くようにそう祈った。

 デジレの最後の祈り。

 それは、デジレ自身のものではなかった。

 俺はそんなデジレをどれだけ傷付けてきたんだろうか。

 俺はデジレのことをどれだけ考えてあげたんだろうか。

 俺はそのとき理解した。

 俺は言わなきゃなんない。泣くのは後でも良い。今言わなきゃ一生後悔する。

「デジレ、俺もデジレのこと……」

 その言葉を言い終えるほんのちょっと前のことだった。デジレはびくっと震えた後、動かなくなっていた。幸せそうに微笑んだ表情のままで。

『大好きだよ』

 俺はデジレにその言葉を言うことができなかった。

 俺は自分の愚かさに絶望するしかなかった。

 大声で泣くことが出来れば少しは救われただろう。でも、俺はただ涙を流すだけで、言葉を発することすら出来なかった。

 気が付くと、ルイーゼは俺のそばまでやってきて、涙をぼろぼろ流していた。

 何でデジレが死ななきゃなんないんだろう。

 こんな思いを何でしなきゃいけないんだろう。


 俺は、涙を流しながら、デジレの尻尾を拾い上げて握りしめた。そして無言で、まだ暖かいデジレから腰のレイピアとそのベルトをはずして、それを自分の腰に付けた。

 一体誰が、何のためにこんなことをしたんだろう?

 決まってる。リウィアが、この塔に近づくやつを攻撃したんだ。

 ――ふざけてるっ。絶対に許さないっ。

「信二?」

「ルイーゼ。ルイーゼは危険だから、戻ってくれ。一人なら逃げ切れるはずだろ?」

 俺がルイーゼを振り返って言うと、平手打ちが待っていた。

「ばかっ! 私だって怒ってるのですから! デジレをこんな風にした敵のことを! 絶対許しませんっ。私の大切な仲間を、こんな風に踏みにじるものを私は絶対に許しませんからっ」

 ルイーゼは、涙をぽろぽろ流しながら、怒りに燃えた目で叫んだ。

「私は狼族。仲間を大事にするのが、私たちの誇りなんですっ!」

 そして、塔の方を睨んで数歩進んでから、ルイーゼは不思議そうな顔をした。涙を拭いたルイーゼが、クンクンと匂いを嗅いだ。

「なんだか、嗅いだことのある匂いが近づいているような――」

 ルイーゼはイヌミミを澄ました。

「かすかに馬の音もします」

 俺がルイーゼと顔を見合わせた直後、突然人間の塔のほうから声が響き渡った。

『亜人間がここに来ることは許さない。天罰を受けろ』

 そして、空に甲高い音が響いた。

 俺が空を見上げると、そこに小さな光の玉が沢山浮かんでいた。数え切れないほどたくさんの玉だった。

 そして、一瞬おいてから、それがルイーゼと俺の方に向かってきた。

 俺は頭の中が真っ白になって立ち尽くすしかなかった。だけど、ルイーゼが腰につけたバスタードソードを抜くと、俺の方をみて叫ぶ。

「地面に伏せなさいっ」

 俺が慌てて地面にしゃがむと、俺の方に向かっていた光の玉は軌跡を変えた。そして、それはルイーゼの方に向かう。

 それは、まるで亜人間を人間の塔に近づけないかのようだった。

 その時、俺の脳裏を皇都でのアリシアの言葉が蘇った。

『あなたの行く先の塔の側にあるスイッチを切りなさい。そうすれば外部への攻撃が停止するでしょう』

 アリシアは確かにデジレにそう言っていた。俺は人間の塔を見つめる。

 目もくらむほど高い塔の、地面をみる。塔と俺の間。十メートルほど先。

 そこに確かにあった。

 人間の塔の手前に、操作盤のような切り替えスイッチがある。

 ただ、なにか変だ。

 そこだけ地面の色も変だし、何より、そこにそんなのがある理由がわからない。

 だけど、悩んでいる時間はなかった。

 俺は再び立ち上がると、そこに向けて駆けた。

 すると、光の玉の大半は俺の方に向きを変えてくる。

 さっき屈んだ時は、全部ルイーゼの方に向かった。つまり、この光の玉はたぶん近くのものを選んで襲うように出来ている。

 じゃあ、もっと側に別のものがあれば、そっちを襲うはずだ。

 俺は腰につけたデジレの剣のことを思い出した。

 ルイーゼも、そのことに気付いたようだ。ルイーゼはバスタードソードを光の玉の密集地帯に投げた。俺がレイピアを抜いている間に、ルイーゼの周囲の光の玉は、バスタードソードに次々と向かっていった。ぱちぱちという小さな破裂音と光を放って消えていく。

 バスタードソードはその光と熱で、どんどん溶けていって、最後は跡形もなくなっていた。

 自分に触れたことを考えてゾッとする。一つでも身体に触れたらたぶん命取りだ。

 俺はレイピアを掲げるとそのまま空に放り投げた。レイピアは玉を引きつけながら放物線上に飛び、ルイーゼの方に向かった。

 光の玉がレイピアに触れても、レイピアはそのまま何もなかったかのように飛んでいき、ルイーゼの側の金属質の地面に甲高い音を上げて落ちた。

 バスタードソードと違い、光をすべて吸い込んだ後レイピアは溶けもせず、そのまま変わらない光沢を保っているようにみえた。

「こ、これ、すごい剣かもしれません……」

 ルイーゼが俺の方に向けて声を上げた。俺はルイーゼの方を向いて頷いた。

 そして俺が操作盤の側までたどり着いた時のことだ。

 しばらく静寂が包んだ後、今度は、空にオーロラの光のようなものが現れた。その光は俺たちの真上に降りてきた。

 ルイーゼは、躊躇せずレイピアを拾い上げた。そして高く剣を構える。

 まだ終わりじゃなさそうだ。

 しかも、俺はこのオーロラがメチャクチャ危険な予感が止められない。

 俺は慌てて操作盤に向き直った。スイッチは一つだけ。しかも、レバーを引くだけだ。ぴかぴかで錆びた様子もない。

 操作に迷いようがない。

 ――だけど、こんなスイッチ、何のためにここに置いてあるんだ?

 俺はそう思いながらもレバーに手を伸ばした。


 俺がレバーに触れた瞬間、地面が金色に光った。頭の中に声が響く。

『人間の塔の攻撃停止機構は、人間同士の戦いに関与することを意図していません。従って、この停止は亜人間が行う必要があります』

「え?」

 きょろきょろと周囲を見渡したけど、どこから声が響いたのか分かんない。

 見るとルイーゼも同じ動作をしていた。

 ――亜人間? 俺が動かしちゃいけないの?

 俺は当惑しながらも、レバーを引こうとしてみた。

 だけどびくともしない。操作盤は磨き上げられたかのように綺麗だったから、さび付いているワケじゃなさそうだ。

 ――ルイーゼが操作しなきゃいけないの? だけど――。

 なぜだか、それはダメな気がした。そんなコトさせちゃいけない。

 俺はルイーゼとレイピアの双方を不安そうに見つめた。そのときのことだ。

 ルイーゼの様子が変だ。

 突然ルイーゼの瞳は涙で一杯になっていた。そして、デジレの剣を取り落として、崩れ落ちそうになっている。レイピアが金属質の地面に落ちて、乾いた高い音が響いた。

「ど、どうしたんだよ?」

 ルイーゼは両手で顔を押さえて、うずくまっていた。

 ――何が起きたんだ?


 * * *


 ルイーゼが剣を拾った時、脳裏を沢山の記憶が通り過ぎていく。それは自分の知らない人の記憶がほとんどだった。だけど、その中でルイーゼの心に焼きつくものがあった。

『あたし、恋に生きるの』

 それは、虎族の女の子だった。その子は自分の日記にその思いを綴っていた。

『優しくて強い男の人と、一緒にいろんな冒険をするんだ。一人なんてイヤだもん。だから、剣を学びながら恋を探すことにしました』

 少女は大人のいる剣術道場に通っていた。その少女がそこで頭角を現し始めるのはすぐだった。少女は虎族で稀な剣術の天才といえた。

 そして少女の願いは、剣の腕が上達するとともに、儚く散っていった。周囲の男は、徐々にその子を女の子としてではなく、戦士として扱うようになっていく。少女の剣術のスピードと技術は、男たちのパワーを圧倒するのに十分だった。

 敗北した男の卑屈な瞳が少女を困惑させた。少女より強い男なんていなかった。

『こんなはずじゃないのに。もっと女の子らしくしたいのに』

 その子はそんな気持ちを内に秘め、そして、若くして剣術指南役にまで上り詰める。

 だけど、少女としての願いは叶うことはなかった。

 周囲の人は少女を仲間としてしか見ない。剣士としてしか見ようとしなかった。

 祝宴で、ダンスの相手として誘われることもない。そのことに気を使った年上の部下が義務として自分を誘ってきたとき、その少女は心を酷く傷つけられた。

『あたしは一人なんだ。誰かを恋することなんてないんだ。あたしは自分だけの居場所が欲しかっただけなのに――』

 その少女はそう思って、自分の心を封印した。そして冷酷な戦士としての顔を表に出すようにしていった。また、心が張り裂けるような思いはしたくなかったから。

 不思議なことに、そこからの記憶はたくさんに分かれていた。ルイーゼにはそれがどういうことかわからない。

 最初の記憶は、少女がある人の警護をすることになる記憶だ。

 一人で生きていくことを決めた少女は、ある日その人と出会った。それは、間違いなく運命の出会いだ。

『君が俺を守ってくれる人?』

 その人についての記憶はおぼろげなものしかなかった。だけど、少女の気持ちは鮮烈だった。

 最初会ったときから、身分違いのその人に恋をしてしまった。それは理屈なんかじゃなかった。ただ、どうしようもなく、その人が恋しくなったんだ。

『どうしよう? あたし、こんな気持ちになるなんて……』

 少女は自分の気持ちを表すことが出来なかった。それはとても大切で失いたくなかった。

 だから、その人を守ることに全力を尽くした。その人のそばにいるだけで幸せだった。ある時、その人が自分の選んだネコミミのアクセサリーを着けてくれたときは、天にも昇るような気持ちだった。その時に一緒に撮った写真は、少女のかけがえのない宝物になった。

 少女は、その人の傍にいると、どうしようもなくその人が愛しかった。そこが自分の求めたものだと確信する。少女はその人にすべてを捧げたかったけれど、嫌われたらと思うと、行動に出られなかった。その人と過ごす時間は宝物のように輝いていた。一時も離れたくなかった。

 ほんの少しでも嫌われたくなかったんだ。ルイーゼにはその気持ちがとってもよく分かった。

 この人は少女の大切な居場所。少女にとってかけがえのない人。手の届かない身分の人だったけど、少女をちゃんと女性として扱ってくれる。ホントは弱いくせに、護衛している少女を庇おうとして、大怪我をしたこともある。

『な、なんで、あたしなんかを守ろうとしたの? あなたを守るのがあたしの仕事で、あなたがあたしを守る必要なんてないのに。あたしが失敗しただけなのに』

 病室でベッドに横たわるその人は、少女に対して叱りつけるように言った。

『バカ言え。女の子を盾になんて出来るわけないだろっ』

 少女はその時、警護する自分の未熟を許せなかったけれど、同時に自分の心と身体が熱くなることを止められなかった。少女を守ろうとする男の人なんて想像もしていなかったから。

 この人と離れることなんて想像も出来なかった。今までの人生は、この人と会うためのものだったと少女は信じた。いつまでもこの人と一緒にいたいと願った。

『ずっとあなたの側にいられたら――あなたを守っていられたら』

 でも、その人がこの世界からいなくなるときがやってくる。

 それを知った少女は一つのお願いをした。それは永遠にその人に仕えるための儀式。その人が持っていた剣を、まず自分の肩に当てて、そしてもらいたいと少女は願い出た。それは少女が絶望しないためのただ一つの代償行為だ。

 その人は、躊躇していたが、少女が真剣で、そして必死であることに気付いたようだ。

『分かった。この剣は君に上げるよ』

 その人は、願いどおり刃を軽く少女の肩に当てた後、その剣を与えた。

 その剣は、恐らく、このレイピアに違いない。

 そしてこの少女は――。

『あたしは、永遠にあなたに仕え、そして命のある限りお守りすることを誓います』

 少女は小さく呟いた。その言葉を聞いて、その人は哀しそうな目をして言いかけた。

『俺はもうここに戻れないかも――』

 それは、特別な言葉だった。だって、その言葉を聞けるのは少女だけだから。他の人はそんなことを言ってもらえない。その少女だけに向けられた言葉だ。それが分かった。

 だから少女は満面の笑みでそれに応えた。それ以外は何もいらない。

 言葉を発したら、少女は大切ななにかを失う気がした。

 そして、その人が自分の前から去ったあと、微笑みながらその少女は自らの命を絶った。

 そうしなければ、自分の誓いが守れなかったから。そして、命を失う直前に、少女は大切な剣を必死に拭いて、鞘に収めた。大切な剣を自分の血で汚したままにしたくなかった。

『大丈夫だよ。あたしから会いに行くから』

 血塗れの小部屋。そこに少女は一人だった。誰に看取られることもなく、少女は一人で死んでいった。少女が死んだことをその人も気付かなかった。隣の部屋にいたあの人は、それを知らない。それがルイーゼの涙を誘った。

 なぜ、少女がその人についていかなかったのか、ルイーゼには分からない。

 なぜ、その人が行くのを止めなかったのかも分からない。

 あまりに悲しいその結末。

 それでも少女は、そのとき幸せそうに微笑んでいた。

 その少女は最後に幸せだったのだろうか。そんな筈はないとルイーゼは思う。

 そして、たくさんの記憶が続いた。

 それは、自分でも分からない誰かを探す、少女の長い長い旅の記憶だった。虎族の少女は、レイピアを探し、そして、その後大切な誰かがいることを知った。

 少女はいつまでも、存在しない、そして会えるはずもない誰かを捜し続けた。理由なんて分からない。ただ、自分より大切な何かがあることだけ知っていた。

 少女は不思議な使命感と焦燥感に煽られ、ひたすら剣の修行と放浪の旅を続けた。

 少女は成長し、老いていく。そして死ぬまでそれを得ることは出来なかった。命が潰えても、再び新たな生を受け、そして同じ苦しみが続いた。

 会えない。大切な人がいるのにその人には決して会えない。絶望に覆われそうになる。

 ただ、レイピアに触れた時だけ、ほんの少し幸福に包まれた。それがただ一つの希望だった。それがただ一つの未来だった。

 少女は年を経ても、心に秘めた人以外の恋人を作ることもない。

 少女はそんなこと考えもしなかった。

 少女は周囲に理解されないまま、永遠と思える日々をひたすら何かのために過ごしていく。ただ、身体に刻まれた何かが少女の剣術を他の追随を許さないレベルまで磨き上げていった。

 繰り返す未知の記憶が、幼いうちから他を遙かに凌駕する剣の技術を少女に身につけさせていた。少女の前では、あらゆる種族のどんな剣の天才も色あせて見えた。

『絶対に会いにいくんだ。だって誓ったんだもん――』

 そんな言葉が、不意に何度も出た。それは少女を永遠に拘束する言葉でもあった。

『大丈夫だよ。あたしから会いに行くから』

 少女はどこから見ても不幸だったように思えた。だけど何かの真実を追っていたんだ。

 そして、最後の記憶。

 虎族の少女は、最初からレイピアを持っていた。それはたぶん命をかけた必然だ。

 そしてある戦いに赴く途中で、少女は待ち望んでいた運命の人に出会う。

 永遠とも言えるほどの時間を経て、やっと会えた。それは奇跡と言っていい。

 信じていた。いつか会えるはずだと。そして、少女は祈っていた。早く会えることを。

『うう、うあーん。えぐ。あう――』

 少女の瞳から止め処なく涙が溢れた。自分の心からの祈りが叶ったことを知ったから。

 何度も繰り返した大切な願い――。

 運命の人に気付いた少女は、今度はその人に積極的に迫った。そして、沢山の思い出を作る。それは紛れもなく幸せな記憶だ。

 ただ、最後の最後で思い知らされた。その少女はその人に選ばれない。必死に食い下がった。お願いした。だけど、結局は変わらなかった。少女の本当の願いは叶わなかった。

『どうすれば嫌われないの? どうしたらいいの?』

 全てを捧げても、願いは叶わない。それは残酷で辛い現実だ。

『嫌いにならないで! そんなのいやだっ』

 ただ少女はそれでも良かった。その人の傍にいて、同じ時間を過ごせるだけで幸福だったから。その人に幸せになって欲しかった。それが少女に最期に残された、ただ一つの望みだった。

 だから、自分の身を挺してその人を守った。

 そして、やはり自分の命を失うしかなかった。

 その後、最後の願いを、ホントは無理だと分かっていることをお願いした。

『できれば――尻尾触ってね?』

『――ずっと触ってるよ』

 優しいその人は、最後までその少女を大切に思ってくれた。

 本当は少女は自分の尻尾を握ってもらえなかったことを知っていた。

 その人に嘘はつけない。だけど、その人の気持ちを大切にしたかった。

『うん。感覚が、ちょっとないけど、尻尾、触られている、()()()()――』

 ルイーゼの瞳から涙がこぼれる。哀しい心が止められない。心が痛んだ。この少女はいつも大切な人を求め、そのために全てを賭けて、そして、ついに叶えられることはなかったんだ。

『あなたのこと、大好きなの』

 それでも少女は、そのとき幸せそうに微笑んでいた。なんて強い想いだろう。

『大好きなあなたが、幸せになりますように……』

 ずっと待っていた。大切でかけがえのないその人に会える日を。そして、その人を護りたかった。一緒にいたかった。それがルイーゼには痛いほどよく分かった。

 その少女は――。

 ルイーゼは知っている。その少女がデジレであることを。

 そして、その少女が最後に幸せとともにあったことを、ルイーゼは心から願った。


 デジレの悲しみが分かった。それは命を賭けた大切な願いとともにあった。

 その願いを奪ったのは自分だ。ルイーゼはデジレの願いを何度も邪魔した。

 涙が止まらない。あんなに不幸で、あんなに祈ってきたデジレを、ルイーゼは一顧だにしなかった。なんて酷いことをしてしまったんだろう。

 ルイーゼが不思議な記憶の嵐に翻弄されたのは、実際にはほんの数瞬の出来事だった。だけど、その幸せで悲しい記憶はルイーゼを泣き崩れさせた。

「ルイーゼっ!」

 そして、ルイーゼが正気を取り戻したのは、信二の叫び声に気付いたからだった。

 ルイーゼが涙で一杯の目でその声の方を振り向いた。そのとき、ルイーゼは信二がオーロラの光に襲われつつある現実に気がついた。

 信二が襲われている。

 それは、悲しむルイーゼを一瞬で現実に引き戻すのに十分な出来事だった。そして、立ちつくしたルイーゼは、我に返ると信二に向かって駆けた。身体が勝手に動いていた。

 だけど、たぶん信二は助からない。信二を助けられない。

 信二は命を失うだろう。そして、再び世界が閉ざされる。

 ――信二っ!

 ルイーゼは間に合わない。分かっていた。


『亜人間がこのレバーを引くことによって、攻撃停止機構が起動し、ここにいる人間の方が救われるでしょう。ただ、その代償として――』


 だがその直後、ルイーゼの目に信じられないものが映っていた。

ほぼ同時進行で、「天使が守るもの」も投稿しています。もしよろしければそちらもご覧いただければ幸いです。

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