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「ほな、行ってくるわ」
「へえ、おはようお帰り」
玄関口で見送る母親に克也があいまいに頭を下げて、先へ進んだ俺に急ぎ足でついてくる。
「待ってくれよ」
「はよ来い」
言い放って振り向かなかったのは、照れ臭かったからだ。
結局、昨夜はあの後妙に気まずくなって、克也も疲れてるだろうし、明日またということで、俺は部屋に引き上げた。克也がその後眠ったのかどうかは知らないが、俺は何だか胸がとんとんして眠れなかった。
朝起きれば、克也の方が先に身支度も整えていて、しっかり朝食の席に座り、不安そうな顔のままでみそ汁をすすっていた。
俺と目があうと、一瞬凍った顔をしたけど、引きつりながらも笑ってくれて、「おはよう。自己紹介が遅れたけど、僕、大槻克也って言うんだ、いろいろと助けてくれてありがとう」なんて、さわやか路線で決めたので、俺はことばを返せなくなった。
「達ちゃん。あのな、光津子に電話したら、今日朝から、祭事方に連れてきて、て言うてたで」
母親が間を取り持つように口を挟む。けれど、その口元が吹き出しかけてるのを、俺は知っている。
「まだ、手引き、読んでへんで」
「まあ、ほな、昨日、何してたん」
がちゃん!
みそ汁の碗を落としたのは克也だ。
「あ、あ、すみません、あの」
「ああ、ええのん、ええのん、気にせんといて」
手早くテーブルに広がったみそ汁を拭く母親とうろたえ真っ赤になっている克也を残して、俺はさっさとその場を離れた。その場でのたのたしていたら、母親にどんなからかいの種にされるかわからない。
で、今は克也を従えて、街の中央にある役所の祭事方へ向かっているところだった。
「おばはん、そのパンくれ」
バス停横の『伊那や』でいつものようにあんぱんと牛乳を買うと、隣から克也がじっと見ていた。
「何や、欲しいんか?」
「あ、いや、ううん」
振り返って尋ねると、克也は急いで首を振って、またもや赤くなった。色白のせいか、とりあえず顔色がすぐわかる。気持ちを読み取るのに苦労しなくていいのは確かだ。
「そっか」
あんぱん二個を牛乳で流し入れ、バスの時間を確かめていると、克也がおそるおそると言った様子で尋ねてきた。
「あの、さ、聞きたいんだけど…ここは京都、じゃないのかな」
俺は無言で克也を見た。
「でも、うん、きっと日本のどこかなんだよね、たぶん」
俺の視線に脅えたように、克也は急いで付け足してほほ笑む。
なるほど、こんなにふわふわしてれば、霧にも迷い、異界の境も踏み越えてしまうだろう。
「バスの時間までもう少しある。そこに座り。手引き書、読んだるし」
「手引き書?」
克也は俺が顎で示した先を落ち着かない顔で見た。
別におかしな場所じゃない。バス停によくある、青色のベンチだ。
俺が腰を下ろすと、克也もおそるおそるという感じでそうっと座った。
ただし、間は三十センチは空いている。
「何でそんなに空けるんや?」
俺は眉をしかめた。
「いや、その、あの、別に」
言いながら真っ赤になってりゃ世話はない。何を考えてるのかもろわかりだ。
俺はため息をついた。
「あのなあ、昨日のは事故や。別にどうこうしようとしたわけやないから。布団につまづいて足が滑った、それだけのことや」
「ああ、そう、そうなんだ」
露骨に克也はほっとしたようにほほ笑んだ。
「よかった、僕、どうしようかと思って」
「あほか」
「え?」
「こっちの話や、ええか、読むで」
何だろう。
ふいに今、すごく腹が立って、克也を殴りたくなった。
俺は自分の気持ちにぎょっとして、あわてて手引き書を開いた。
自分の気持ちに戸惑ってしまう。
俺はひょっとして、実はサディストだったんだろうか。ふわふわしている頼りなさそうなのを見るといじめたくなる性質だったんだろうか。
そんなことを考えたら、なぜかどきどきしてきてしまって、必死に手引き書に目をこらした。
「えーと、異界ぽんちへの手引き書、一。まず、ここは、異界ぽんちの知ってる世界ではないことを明らかにする。つまりやな」
「あのさ」
人が手引き書を読み上げ出したとたん、克也が遠慮がちに口を挟んだ。
「何や」
「その、異界…ぽんち、やめてくれないかな」
俺は冷ややかに克也をにらんだ。
「や、だからさ、その部分を読み替えてくれるとありがたいんだけど」
相手は微妙に情けない顔で笑った。
「どういうふうに」
「えーと、できたら、僕の名前で…克也、とかさ」
「わかった。ほないくで。ここは克也の」
とくん、と胸が不規則になって、一瞬ことばが詰まった。
「どうしたの?」
「いや、なんか、ちょっと変な感じがして」
俺は戸惑い、胸を押さえた。今は普通に打っている。
何だろう、感じたことのない不安定な気持ちが胸の中を走り抜けた。だが、今はもうそれはどこにもない。
ひょっとして、異界ぽんちは何かの病原菌を持ってるものなんだろうか。それで、俺がどきどきしたり、不安になったりするんだろうか。
「姉きに聞いてみよかな」
「何?」
きょとんとする克也に首を振って見せる。
「いや、こっちの話。すまん、続けるわ。えーと、ここはつまり、京都とか、日本、とかいうもんではない、と」
「え、えええ!」
克也はこっちが驚くような叫びを上げた。
「日本じゃない?」
「ああ、えーと、その」
「日本語、しゃべってるよね? 君、君、えーと」
「達夜」
「ああ、えーと、達夜…さんは」
「達夜、でいい」
男だと思い込んでる相手に、達夜さん、と呼ばれるのは妙に不愉快で、俺は思わず訂正した。
「達夜は日本人じゃないの?」
これはちょっと難しい質問だ。どう答えたものかと悩んで、俺は手引き書をめくった。
「厳密に言うと、違う、ことになるんやと思う」
「厳密に言うと?」
克也はますます奇妙な顔になる。
「というか、ここは、おまえの住んでいた場所やない。おまえの知ってる世界でもない。けど、そこから離れてるわけでもない。くっついてるわけでもない。まあ言うたら、この街は『時空に漂っている空間であちらこちらの現実とつながりやすい傾向にある街』やそうや」
途中からは手引き書を棒読みした。




