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空気はねっとりと蒸し暑かった。少し歩むだけで、重ねた着物の内側には汗がにじむ。
だが、その汗は今、ひやひやとした殺気に変わって冷えていった。
「克也」
「お出迎え、と来たね」
路地を抜けて角を曲がって、例の先斗町に入るや否や、ふわふわと周囲を奇妙なもやが漂いだし、見る間に濃度を上げて迫ってくる。
違和感を感じて歩を止めた数メートル先の軒先から「おかあはん、ほな行ってきますぅ」と華やかな声が響いたかと思うと、ゆらゆらと黒い蝶が群れるように黒紋付きの舞妓衆が姿を見せたのだ。
舞妓も最近はなり手が限られ、これほど一時に店出しするはずもない。付き添うはずの男衆もなく、わらわらと塊になって路地を塞ぐその腰には、ぶんわりと妙に膨らむ桃色白色の玉が揺れながら細い銀の糸で結びつけられているようで。
「やあ、ほら見てみ」
「まあ、あれは達夜やないの」
「そやわ、『京』の達夜やわ」
ざわめきながらこちらを振り返る顔は、ただ真っ白で目鼻もなく、下唇だけに塗りたてた紅が毒々しいほど鮮やかで。
「達夜」
「さがっとけ、克也」
俺は胸の内で舌打ちした。
おびき出すどころか、真っ向から相手の陣に飛び込んでしまったようなもの、周囲にちらちら闇夜をかすめる気配はおそらくは張り巡らされた『針』なのだろう。
取られていた手を握り直して、克也の姿を背中にかばう。愚かな男なら訳も分からず、自分が前に出たがるものだが、克也はそのあたりはさすがに聡い。自分が足手まといになる可能性を考えてか、すうっと俺の背中に添うように後ろへ回り込んでくれた。
(あったかいな)
すぐ真後ろに克也の体温を感じて、一瞬俺は戸惑った。
狩りをするときは常に一人、ましてや夜闇に背中を守るものなどないはずが、今かばったはずの克也の存在に自分の守りが固まったのを感じ取る。
「達夜、達夜、どないしたん、そんなきれいなべべ着て」
「後ろにかぼたんは恋しい人か、まさかな、達夜、我ら狩る鬼がそんな殊勝な気持ちなんぞ、ないわいなあ」
囃し立てるように口々に笑う『闇舞妓』にそろそろとおこぼを脱ぎ、足袋裸足になる。足の下で冷えた石畳がじんわりと、興奮に熱くなった体の熱を奪っていく。
「なあなあ達夜、こっちおいで、こっちおいでて、なあ達夜!」
ふいに一人が黒紋付きを閃かせて飛びかかってきた。足音一つたてずにさわさわと間近によると、かっと開いた口に銀に光る牙を見せ、がきっと危うく首の付け根で噛み合わせたのを、とっさに体をそらせて避ける。と、
「つ!」
ずきんと激しい痛みがこめかみを貫いて、俺は一瞬視界を失った。
(『針』!)
「ほうら、あぶないえ」
「なあ、達夜!」
「く…っ…っ!」
揺らめいた体を支え損ねて近くの壁に寄れば、そこをめがけて別の『闇舞妓』がぶつかってくる。必死に避けたそのすきに、もう一人が爪を光らせ襲いかかってくる。乱れる着物の裾を蹴立てて走れば、背けた顔の鼻先をきらめく『針』の気配がよぎる。
「達夜!」
またもう一度、『針』にこめかみを貫かれて、俺は吐き気に前へのめった。
食らえば食らうほど衝撃がひどくなるのは知っていたが、それでも最後の砦にしがみついていたのは、克也にきれいなままの自分を覚えていてほしかったからで。
「達…あ!」
だが、物陰に走り込んで様子を見ていてくれた克也が悲鳴を上げて振り返れば、『闇舞妓』の一人が背後から克也を抱き締めていた。右手をはねあげられ、肩から腹へ背後から手を回され抱えられている克也、あれではすぐには抜けられない。しかも、もがこうとした克也が何に気づいたのか、ふいに呆然とした顔になって背中の『闇舞妓』を振り返り、こうつぶやいた。
「頼子……」
「克…え?」
「頼子だろ? どうしてこんなこと、するんだ?」
克也は混乱した顔で背中の『闇舞妓』の白塗りの顔を振り向いている。
どれも同じような白塗りなのに、そしてまた目鼻もとうになくなって、恐らくは気配も似たものになっているはずなのに、それでも頼子をそうと認識できること、それを一瞬うらやんだのも確かだが、何より俺を凍らせたのは頼子と呼ばれたその『闇舞妓』の、紛れもない克也への恋慕の情で。
(まさか)
克也は頼子が体は女性だが心は男性で、だからこそ友人でしかないと言っていたはずだ、そう考えた俺のためらいがすきを作った。
「あ…ぅ」
首を無理にねじ曲げられるようにして、克也が『闇舞妓』に口を吸われる。小さな悲鳴がくぐもって、合わせた口元から真っ赤な鮮血がはい降りるのが目に飛び込んだ。
何を見てもおびえることのなかった克也の瞳が恐怖に染まり、見る間に潤む。強ばらせた克也の体から見る間にくたりと力が抜けて、滑り落ちるように『闇舞妓』の腕から崩折れる。
「こ…のっ…!」
視界が紅蓮に染まった。




