1
「まあまあまあ、達っちゃん、えろう早いお帰りで」
「どつくで、おかん」
玄関のドアを開けたとたん、能天気な声が響いて俺はうなった。
「さっさとそこ、のいてんか」
「のいてんか、言われてのいてられるほど、気のええ女でもおへんしなあ」
藤色のワンピースに白い割ぽう着、黒々とした髪は結い上げて鼈甲かんざしなどさしている、見かけだけは良妻賢母の母親が、口元に指先あててそっぽを向いた。
「ましてや、祭事方御陵所に努める娘をもつ母親ともなれば、こんな半端な時間にのたのた帰ってくる子ぉに、優しゅうする義理もないし」
「小言は後や。何でも聞いたるさかい、この荷物、おろさして」
いらいらしてついそう口を滑らせると、ちかっと相手の目が光った。
「よろし、よう言わはった。覚悟しときや。で、荷物て何ですのん」
「こいつ、見かけより重うて重うて」
どさっと玄関口に背中の『荷物』を降ろす。言わずと知れた、さっきの異界ぽんちだ。左頬を真っ赤にはらして気を失ってるところは、俺よりずっと年下に見える。
「まあ、達っちゃん。何もせっかくの痴漢さんをこんなことせんかっても」
「何や、その、せっかくの、痴漢さん、てのは」
聞きとがめてにらみつけると、相手はほほほ、と口元を隠して笑った。
「そやかて、物好きにあんたかて襲てもろたんやし」
「違ーう!」
何を考えてるのやら。
「こいつは痴漢やない、異界ぽんちや」
「あれ…」
母親は笑いを引っ込めて、さすがにちょっと凍りついた。それから、ゆっくりと目を逸らせて立ち上がり、
「まあ」
「こらこらこらこら、どこへ行く」
「いややわ、お茄子、炊けたんちゃうやろか」
「話を逸らすな、話を!」
怒鳴りつけると、母親はしらっとした顔で振り返った。
「そやかて、知らへんえ、光津子がいいひんからええようなもんやけど、帰ってきたらどないなるやら。何も」
母親は廊下に伸びて気を失ってる異界ぽんちをのぞき込んだ。
「拾て帰ってこんでも……ええ男やね」
「俺のせいなんや」
「え?」
まっすぐに見つめられて怯んだが、あきらめて一息に言った。
「俺が角の『辻封じ』に引っ掛かってつまづいたん。で、草履ばきやろ? 石に血がついてしもたんや。で、こいつが来た」
「あれまあ」
母親はふいにまじめな顔になった。
「何石?」
「白」
「死人やんか」
「うん」
「これも死んでるのと違うん?」
「突くな、足で!」
ぐったりしている男の顔をつま先で押す母親にわめくと、相手はほうとため息をついて俺を見上げた。
「ちょっとええ男はんやからて、達ちゃん、死んでるもんは手間がかかるのえ?」
「生きてるて。ちゃんと話したし」
「そやけど、死人の角やろ?」
「そやから、多分、霧に巻かれて、死人に誘われよったんやろ」
「ははあ、好きな子でも追いかけてはったんか」
「まあ、そんなとこやろ」
「どっちにしても、見込みないやんか」
「おかん!」
俺はうなった。
「あのなあ、俺は男探しに辻にいたんと違うんや。とりあえず、こいつが辻に来てしもたんは、俺のせいや。殴ったんも俺やし、そやから連れてきた。仕方ないやろ?」
「何ではたいたん?」
「…ノーコメント」
「何やの?」
「知るか、いうことや」
「ふうん、そうなん、そういう態度取るんやな」
母親はふいと身を離した。そのまますたすたと玄関横の電話を取り上げる。
「何する気や」
「光津子に報告させてもらいます」
「きたねえ!」
「ほな、話すか?」
母親は受話器を持ったままにこにこ笑った。昔からそうだ、ここぞという時の決め技は、母親の方が数段勝る。
「あの…なあ」
「はいな」
「異界ぽんち、言うたんや」
「はあ、この人に」
「はよ、事態をわからしてやろ、思て。そしたら、こいつ、俺に向かって、い、い」
「い?」
「いかれ…………ぽやて」
「いかれ? 何やの」
「そやから、なあ!」
「はいな」
「い、いかれ」
「それさっき聞きました」
「だまっとれよ!」
「はよ言いよし」
「そやから! いかれ〇〇〇て!」
いらだった俺は思いっきり大声でわめいた。
一瞬の沈黙。やがて母親が爆発するように派手に笑い転げ出す。
「あはははは」
「笑うな!」
「いやあ、ひど」
「笑うなて!」
「そら、ひどいわあ。あはははは」
「くそお」
「よりにもよって、達ちゃんになあ」
「誰のせいやと思てんねん」
「何言うてんのん、たとえ女に生まれても、十八になるまでは男として育てるのが祭事方のしきたり、あんたに文句言われる筋合いやないえ」
いきなりきりりとして母親が言い放った。それから、何を思ったか、再び受話器を取り上げる。
「何すんのや、話したら、姉きには知らさへんのと違うんか!」
「それがなあ」
澄ました顔で母親は続けた。
「光津子、今夜帰れへんの。何か、街のあちこちで『辻封じ』が割られてるんやて。何者の仕業か、何を企んでのことか、調べんとあかんらしいわ」
「ほな、あの角の『辻封じ』も」
「そやな、たぶん、そうやろう」
母親は番号を押しながら、
「そやし、光津子には言うとかんといかんのやわ、やっぱり」
「待てや、それやったら、俺が言う言わへんにかかわらず、電話するつもりやったんやんか!」
「そうなるやろか」
俺はくらくらした。まんまと一杯食わされてしまったのだ。
「ほな、何で聞きたがったん!」
「そやかて」
くふん、と母親は唇の端で笑った。
「面白いんやもん」
これだ。こんな母親を持っていたら、性格が多少がさつになってねじくれても当たり前じゃないか。
「その人、奥に寝させてええで。布団敷いて看病したり、ひょっとしたらひょっとするかもしれへんし。ああ、それに、異界の手引き、ちゃあんと読んだるんやで」
「……わかった」
俺は数十倍疲れた体に鞭打って、あいも変わらず気を失ったままの男を引きずり上げた。正直なところ、廊下を引きずっていきたかったぐらいだったが。




