夜空を穿つ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふうう、ようやく宅飲みにありつけたなつぶらや。ここ数ヶ月、お互いに都合がつかねえことが多かったが、今年中にこうして相伴することができて何よりだぜ。
何より、外に比べて金がかからないっていうのがでかい。増税の影響があるようで、ここらへんの店は軒並み値上がりだ。肴の額も考えると、それなりの人数いなきゃ、のれんをくぐる気にならねえわ。
それによう。酒を飲んでそこから帰るとなると、何かとトラブルが付きまとう。ほろ酔いの千鳥足ってだけでも危ういのに、自分ひとりじゃまともに立てない、判断ができないほどまで酔ったら大変だ。このご時世、無事でいられることの方が少ないだろう。
ひとつ屋根の下で好きなだけ飲んで、適当にトイレへ行って、適当に眠っちまう。こいつが最も楽しい酒の飲み方だと、個人的には思っているのよ。
くわえて、酩酊状態の時に出くわすっていう、ちょっとした怪談話を最近、耳に挟んでな。お前も外で飲まなきゃ行けなくなった時、頭の片隅に入れておいて損はないと思うぜ。
俺のオヤジの話になるんだが、大学への進学が決まった時、実家で酒を飲ませられたらしいんだ。「大学で飲みがあった時、あらかじめ自分が飲めるかどうか、知っておいた方がいい」って、じいちゃんにすすめられてな。カップ酒を一杯、ぐいっとあおった。
結果からして、オヤジは酒を飲めるクチだったらしい。じいちゃんとしても、息子と一緒に酒を飲むのは夢のひとつだったから、その晩は二人して大いに酔っ払った。
ばあちゃんが持ってきた肴も食べずに飲んでばかりだったから、トイレも早い早い。10分おきくらいで交互に席を立ちながら、馬鹿話を続けるといった調子だったらしい。
たっぷり2時間半も続いた酒宴は、じいちゃんが先に酔いつぶれて終わる。その残っていた分の酒も飲みほして、オヤジもだいぶいい気分になっていた。入っていたこたつから出て、両足で立ったところで、意図せず身体が左へどんどん傾ぐ。
「こりゃあやべえ」と思いつつも、身体はこたつから出たばかりにもかかわらず、寒さを感じない。むしろ火照りに火照って、身体中が熱であぶられているように感じた。
「だから酔い覚ましとかいって、みんな外に出てたんだな」と、オヤジは勝手に納得。ふらつきながら玄関に向かい、戸を開けた。
すでに日付が変わろうかという時間帯。ほとんどの家からは明かりが消えており、空にも星がほとんど浮かんでいなかった。月の姿すらない。
――一晩中良い天気と聞いていたし、月にしてもちょうど半月が見える時期なのにおかしいなあ。
オヤジはぼんやり考えながらも、軒先からふらふらと出ていき、外回りの門も開けて路上へ出てしまう。まだまだ涼しい風が足りていなかった。
当時のオヤジの家は、魚屋の向かいにある。しっかりシャッターは締まっていたが、魚の匂いがかすかに漂っているように思えた。そういえば出してくれた肴は、ほとんどが鮭とばやスルメといった乾きものばかりで、いやに水が奪われた。
せめて枝豆か豆腐でもありゃあな、と思いながら、魚屋の前を通り過ぎたオヤジは、ふと妙な音を耳にした。トタン板の上で、何度も子供が飛び跳ねているかのような気配だ。耳垢が溜まっているかのように頼りない、今のオヤジの聴力でもばっちり聞こえた。
周囲を見やると、正面の十字路を越えたところにあるアパート。つい数週間前にできた鉄筋コンクリート製のそれの屋根で、小さな影がぴょこぴょこと跳ねながら、手足をばたつかせている。その動作は、まるで水の中から水面に出ようと手をかくように、空の上を目指そうとして、必死にもがいているように見えたとか。
しらふだったなら「いかにも怪しい奴だ」と、近寄りはしなかっただろう。でもこの時のオヤジは、ほろ酔いをいくらか通り過ぎた、調子を崩す一歩手前の状態。何をやっているんだと、本能のままにふらふらとアパートへ足を向ける。
十字路には人も車も通らず、なんなく渡れた。オヤジがアパートの真下、住んでいる人の車や自転車が置かれている駐車場まで来ても、まだ人影は空の上へ向けて、よじ登ろうとジャンプし続けていた。
やがて疲れたのか、跳ぶのをやめてがっくりと肩を落とし、手を膝に置いて息を切らし出す影。その頭がわずかに左右へ動き出し、やがてオヤジとばっちり顔が合うと、ぴたりと止まった。
影は背筋をただすと、先ほどまでの見苦しい跳び方から一転。柔らかく浮き上がったかと思うと、両手を広げてそのままの姿勢で屋根の上から身体をはみ出させたんだ。
糸で釣られた人形が、固まったまま動いているかのような動きに、オヤジはとっさに反応できない。身体そのものを微動だにさせないまま、オヤジの前に降り立った影との間は、一メートルも開いていないというのに、その顔も来ている服も真っ黒で判然としなかった。
「ちょうど良かった。君の手を貸してくれないかい?」
声変わりをしていない、少年の声だ。にもかかわらずその身長は、高校時代に背が高い方にいた自分とほぼ同じ。小学校や中学校でもいた、格別でかかった同級生の姿を思い浮かべながら、オヤジは言われるがまま、両腕を影に向かって突き出した。
影がぐっとオヤジの両腕を握ったかと思うと、突然、ひじから先が外れた。影に引っ張られるまま離れていく前腕。目を見張ったまま動けないオヤジの上腕。その間には血や筋肉、神経などというものは見えず、ただ夜の闇が広がっているのみ。
いまだ事態が飲み込めず、目をぱちくりさせるオヤジの前で、影はオヤジの前腕を握ったまま、その場で先ほどまでの、じたばたしながらのジャンプ。「ぼかあん」と口から擬音語も飛び出した。
とたん、ぱっと青白い光がスポットライトのごとく、天からオヤジの身体に降り注ぐ。見ると空には、先ほどまで影も見えなかった月が浮かんでいる。予報やカレンダーで示されていた上弦の月。
光が強かったのは、ほんのわずかな間。すぐにいつものほのかな白い姿に収まってしまう。
「ぷすぷすぷす。ぷすぷすぷす」
そんなことを言いながら、今度の影はオヤジの腕の手首に近い部分を握り、空へ向かって突き出し続ける。すると月の周りから、じょじょにじょじょに、小さい星たちが生まれていくんだ。
このけったいな光景、オヤジはずっと平静な状態で見ることはできなかった。というのも、自分から離れて影に握られている前腕部分。それが味わっているだろう感覚が、自分へ直に届いてくるからだ。
指をついたなら、即座に引っ込めたくなるような「冷たさ」。星が現れるたび、オヤジの十指が感じ続けているものだ。
指一本に星ひとつ。冷えを求めていたオヤジだったが、今、指先に感じるのは冷たいを通り越して、痛いに達するほどのものだった。
酔いはほとんど醒めている。「やめろ!」と、オヤジは残っている右足でミドルキックを影へ見舞ったけれど、見事に宙を切る。間合いを見誤ったかと、二度三度と繰り返すけど手ごたえなし。掴みかかってやろうにも、手は影に奪われたまま。
叫んでいればまた違ったかもしれないが、この時のオヤジはもう、寒さで歯の根が合わないほどだったらしい。がちがち音を立てながら、オヤジは影へ届かぬ蹴りの抗議を続けていた。
ややあって、満天の星空が見渡せるようになる。影はまだ続いていたオヤジのキックをものともせず、前腕をすっとオヤジの方へ差し出した。
すると磁石でもついているかのように、いささかもじっとしない上腕へ、ひとりでに前腕が戻っていく。オヤジの両指は、もう何も感じない。
「いやあ、今日はたまたま『帳』が新品だったのを失念しててさ。穴を開け損ねていたんだよ、参った参った。でも、どうにかどやされずに済みそうだ。ありがとう」
影はぺこりと頭を下げると、もう闇に溶け込んでいた。最初からいなかったかのように、ふっと消えてしまったんだ。
戻らない感覚に、オヤジが急いで家に戻る。温まった家の空気に当たると、ずきずきと疼痛が指先に流れ出す。ほぼ凍傷に見舞われていたんだ。
その後、しかるべき治療がされて今は無事でいるけど、それ以来オヤジは、酒が入ったまま外へ出ることに、抵抗を覚えるようになったとか。




