塔の中の少女
自分の声を録音しても無駄だろうけど、話し相手がいないから、そうしているだけだ。
母は、祖母の声を録音していた。
「あれは暑い夏の日のことだった。あなたを連れて地下街で買い物をしていたら急に警報が鳴ったの。すると『ドーン!』と大きな音がして地下街が揺れた。電気が切れて暗闇になり少し後に灯りがついた。地上に出るためデパートのエレベーターに乗ると、最上階まで行ってしまった。ドアが開くと、街は火の海になっていたの」
祖母は僕が生まれる前に死に、母も僕が小さい頃に血を吐いて死んだ。痩せこけた母は、僕の手を握りしめて「誠也、一人にしてごめんね」と言った。
黒い雨が静かに降っていた。他の棟にいた人達も既に死んでいた。僕は、この大きな団地の最後の住人になり、灯りがつく部屋はここだけになった。
毎晩屋上で火を焚く。誰かに見つけられることを願いながら。その夜も、双眼鏡で夜景を眺めながら火を焚いていた。すると遥か遠くの高い塔の上の方に一瞬灯りが見えた。
誰かがいる…
すぐに行きたかったが、また黒い雨が降りだし、出ることはできなかった。
二日過ぎ、青空が顔を出した。しかし台風が近づいているのか、強風が吹き荒れていた。
僕は、水筒と双眼鏡を持って塔に向かった。
自転車はいくらでも落ちているので移動には困らない。途中途中で建物に登り位置を確認しながら向かうと、やがて塔に着いた。50メートル程もある巨大な塔だった。前に立つと扉は錆びついていたが、ノブは滑らかだった。
やはり誰かがいるのだ。
中に入ると螺旋階段があり、それは上まで続いていた。塔の中に僕の足音が響き、一番上に着くと「バン!」と音が響いた。フロアーの隅に扉があった。少し離れたとこから「誰かいるの?」と叫んだが返事はない。近づき扉を開けて中に入ると、また別の扉が開いていて、風が吹き込んでいた。その外に出ると鉄の階段が壁づたいにあり、ぼろぼろの白い服を着た女の子がそれを登っていた。「待ってよ!」と声を掛けたが彼女は止まらず、僕は後を追った。天辺で階段が途絶えると彼女は振り向き「来ないで!」と叫んだ。
雲一つない青空の中で、白い服がはためいていた。僕は落ち着かせるために「幸福だよ、幸福!」と叫んだ。それが良い言葉であることを知っていたから。死んだ大人達は、よくその言葉を使っていた。もう一度その言葉を叫ぶと、彼女は「幸福?」と首をかしげた。僕には、その言葉の正しい使い方がわからなかった。「そう。幸福」と言うと、彼女は「なあにそれ?」と言った。困った僕は彼女に近づき、双眼鏡を差し出すと「あれだよ」と言い、遠くに見える団地を指差した。
彼女と話すことはあまりなかった。二人に会話は必要なかったのだ。一緒にいれさえすれば、それで良かったから。彼女に名前を聞くと「あたし、けいこ。蛍の子でけいこ。蛍を知ってる?」と言い、僕は「知らない」と答えた。
毎晩、彼女と屋上で火を焚き、そこで缶詰めを食べた。食事の前に「幸福!」と声をあげ、食後にまた「幸福?」と言い、くすくすと笑った。「幸福」という言葉を上手く操れない二人だったが、それが楽しかったのだ。
やがて僕のみる焚火は、彼女の瞳に映る焚火となった。彼女の横に座り、そのあどけない横顔を覗き込み、瞳に映る火柱を見つめた。すると彼女は泣いた。
僕は「死」に何も感じなかったし、母が死んだときも泣かなかった。幼い頃に見た景色は、青空と、黒い雨雲と、人が死ぬ姿くらいで、死は日常茶飯事だった。
彼女に、泣くわけを聞くと「一人になりたくない」と言った。僕はいつも一人だったから「一人になりたくない」と思ったことはないが、彼女の言葉を聞き、僕も一人になりたくないと思った。でも彼女を一人にしないためには、僕がいつか一人になるしかないのだ。僕は、そっと彼女を抱いた。
三年ほどが過ぎ、彼女に症状が見え始めた。彼女は食べた物を全て吐いてしまった。血を吐き、痩せ細り、歩くことも難しくなった。それでも彼女は焚き火を見たがったから、僕は彼女をおんぶして、毎晩屋上にあがった。彼女の体が、日に日に軽くなるのがわかった。背中に感じる彼女の鼓動は、僕の悲しみを癒してくれたけれど、僕が彼女の痛みを癒してあげることはできなかった。
彼女は「殺して欲しい」と言った。
でも、抱いてあげることしかできなかった。
その夜は空気が澄んで星が見えた。
毛布を敷いて、二人で夜空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。彼女が「誠也…今のが蛍」と言うと、僕は、彼女を抱きしめて泣いた。彼女は「一人にして、ごめんなさい」と言い、静かに目を閉じた。
一粒の涙が流れ落ちた。
あれから何年過ぎたかわからないが、彼女と出逢った日も、今日のような快晴だった。
僕は録音した彼女の声を聴いた。彼女は、あの言葉を繰り返し、無邪気に笑っていた。
今の僕には希望も絶望もない。あるのは青空と、彼女の笑い声だけだ。
終わり