人生の半分
ある男の話をしよう。
理想も感情も薄く、放浪としていた男の話を。
男は人ならば誰もが持っている筈の物が欠落していた。
それは好奇心。
子供も大人も関係なく持ち合わせている感情。大半の人間はその感情に打ち勝つことは出来ず、最大の行動原理として好奇心が存在している。
だが、男にはその好奇心が存在しない。
何が起きようとも男は気に留めることさえない。
ただの機械とも言うべき行動原理。
だがいつしか男は理解していた。自分の心が人間では無いことに。
同族を殺されて眉一つ動かさない人間などこの男以外にはいないだろう。
故に男は人間の感情は簡単に壊れる事に気づき、それを嫌った。
だが、それは間違いだった。
感情を持たないと言うことは今の自分自身が消えること。
男は何もしない。ただただ、何もしない。体の苦痛は瞑想で忘れる。
ひたすら長い時間、何もせず何も思わない様に努力した。
どうしようもなかった。どれだけ時間が過ぎようとも何も変わらない。感情はいつもの様に男を惑わし続ける。
そしてようやく気づいた。
感情が無くならない理由。それは男が死を望んでいないこと。
感情の無い肉体など人形以下の屍と他ならない。
男は感情を失う所か喪失していたと思っていた好奇心さえ失っていなかった。
生への好奇心。死を望まない人間ならば誰もが持ち合わせていた。無論、男にも。
遂に男を現実と繋ぎ合わせていた糸が途切れた。止めていた感情が男の中へと流れ込む。
死への道を歩んでいたという深い絶望。全ての感情を解放した後だと言うのにそれを押し殺すほどの絶望が男を満たした。
そしてこの深い絶望さえもなくなった男は全てを投げ出し堕落に目覚める。
これまでの男の人生には他人など存在せず全ては自分。
そしてこれからの人生。一つの境界線を跨いだ。
だが堕落もすぐに終わりを告げ、中間を過ぎた人生も新たな始まりを迎える。
雨の音。固い地面に甲高い音を響かせる馬の足音。左右からの呼吸音にカタカタと歯を鳴らす音。腹部の痛み。
これが男の感じられる全て。
冬の雨は人を殺す事ができる。馬に繋げられた荷車の壁は継ぎ合わせた布だけで構成されている為、寒さを直に受ける。
やがて馬車は止まった。目隠しを外され周囲を見渡すが、この荷車を囲む軍人達と前の馬車から降りた軍人以外には確認出来ない。
「エヴァン降りろ」
男エヴァンは軍人に従って荷車から降りる。
エヴァンが降りると馬車と荷車は他の罪人を乗せたまま何処かへ行ってしまった。
「付いてこい」
エヴァンは素直に付いていく。
これから行く場所は分かっている。拷問部屋。決していい場所ではない。
だが、拒む理由もない。堕落に落ちたエヴァンにとっては、幸も不幸も関係なく暇潰しに他ならない。
感情を潰そうとした代償は大きい。自分に危害が加わろうとしてるというのに他人事のように考えている自分がいる事に自然と笑みが零れる。
「入れ」
着いたのは牢屋だった。
少し驚いた。拷問にかけられる過去があったから、ここまで運ばれて来たと思っていたが、予想が外れてしまった。
だが普通の人間とは考え方の違う俺にとっては牢屋の方が苦痛。
「わかってるじゃないか」
ここまで案内してきた軍人に言うと、腹を蹴られ牢屋に叩き込まれた。
腹には元々切り傷があって蹴られた時はそこそこ痛かった。
「心臓が止まったら出してやる」
理不尽な発言を残したまま軍人は帰っていった。
気分は最悪。
まだ牢屋に入って数分も経っていないが限界に達している。居心地が悪すぎて堕落という化けの皮も剥がれてきた。
エヴァンの他にも人はいるが話し相手はいない。
全員がやせ細り、声もろくに出ない。
現状を確認するとここは処刑場以外の何物でもなかった。飢餓で殺す処刑場など流石のエヴァンも笑ってはいられない。
前にこんな噂を聞いた。
何もしなくても勝手に処刑できて、なおかつ死体を掃除する必要もない便利な処刑道具があると。
生憎道具ではなく場所だったが、噂通りの場所だ。
誰かが死ぬと他の罪人が死体に群がる。これが続くだけ。死体を片ずける必要がない。彼らも食べなければ楽になれるのに、これが欲求の強さなのだろう。
エヴァンは誰もいない隅の方に座り想像する。自分がこの罪人達と同じ姿になった時、どのくらい辛いのか。下手な拷問よりは確実に辛いだろう。
それに目的がなくても死ぬ事は避けたい。前と同じ絶望は2度と味わいたくない。
これからどれだけの時間この牢屋にいるのか分からないが、こんな死人のような姿にはならないと心に誓った。
「フッ」
不意に何処からか鼻で笑われた。咄嗟に周りを見渡すが感情を表に出せそうな人間は見当たらない。
「探しても無駄だよ。隣の部屋にいるからね、話してみたかったんだよ、人形さん」
人形。エヴァンが逮捕されるまで言われていた通り名。
処刑が決まってからは1度も言われなくなったこの言葉、エヴァンの興味は一気に壁の奥の女に向いたが無言で待機。
「この辺を彷徨いてる見張りの話。今日は人形を捕まえた話で持ちきりだったからね」
勝手に話し続けている。暇潰しには丁度いいが声が大きい。
「声が大きい、もっと下げろ」
「あ、ごめんごめん。この位でいい? ていうか人形さんの声小さくて聞こえないよ」
この女とは相性が悪い。
会話すれば暇を潰せるのは分かっていたが、ストレスが溜まっては結局何の意味もない。
「少し黙ってろ。あとその名前で呼ぶな」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・?」
・・・・・・本当に黙るとは思わなかった。
こういうタイプの人は何回か会った事はあるが、言う事を聞いた試しがなかった、子供みたいに・・・・・・というか子供だ。
子供は大人の言葉はしっかり聞くと聞いたことがある。話を聞かないとも聞いたことがあるな?
分からなくなってきた。
「でさ、聞きたいことがあったんだけど・・・・・・いい?」
「いちいち聞くな。・・・・・・先に言っておくがつまらない事なら無視するからな」
無視するつもりはないが、言っておく。調子に乗った奴には脅しがよく効く。
「結構喋るのね。・・・・・・・・・外に出ようと思うの。あんたも一緒にね」
こいつは人を混乱させるのが得意なのだろうか。
「・・・・・・」
「・・・・・・あ、あれ? つまんなかった?」
子供では無言の圧力には耐えられず、相手が反応なしではつまらない。なら、反応する様な言葉を探す筈だ。その言葉が出るまで俺はじっくり待たせてもらう。
ビキッ・・・・・・
不穏な音が聞こえた。
「何だ脆いじゃない、これなら使わなくても余裕ね」
「何言ってる?」
音と独り言からして、連想するのは・・・・・・
ビキキキキキッ
不穏過ぎるこの音が少しずつ大きくなってきた。
「待て、壊すなら少し待て。」
「あ、ごめん」
急に頭上から瓦礫が降ってきた。俺は右腕で頭を守りながら同時に急に現れた日差しを防ぐ。
崩れた瓦礫の中に一つの大きな影が見える。
眩しくて見ずらいが、ぼんやりと人のシルエットが確認できた。
「早く来な、ここは臭くてかなわん」
そこには子供ではなく軍服に身を包む長身の女性が立っていた。