水の槍
視界に映る世界が重くなり、鈍くなり、暗くなる。
だけどそれは体調が悪くなったからというわけではない。多分、自分が生み出した速度に対応するために肉体の何かが世界を遅くしているように見せているのだ。
構えるクレハとの距離が縮んでいく。ゆっくりな世界でクレハの表情は先ほどとはほとんど変わらない。ただ、寒い何かが私に叩きつけられているだけだ。
一歩。彼我の距離は半分になった。彼女は動かず、私が一方的に近づいている。
二歩。これはある意味狙って踏み込んだ。刀のリーチをほとんど把握し、二歩目をギリギリ刀の間合いに入らないようにする。そして二歩目を踏み込んで間合いに入るのと同時。
「つぇあああああぁああ!!!」 鈍く震える声が響く。恐らくは間延びになっているからだろう。だが驚くべきはそんなところではない。声に対してクレハ抜き放とうとしている刀は高速なはずの世界の中でなお、スムースにそして乱れを感じない。これが戦いという場でなければ見惚れてしまうほどの流麗さ。
「く……ぅ……」 そして私も、自らの肉体を両断しようとしているこの刃に対処しなければならない。既にこの身は前へと踏み込んだ。ならば、下がることなどあってはならない。歯を食いしばる。今見える情報の中でわかるのはクレハがこのまま振り抜いた場合、切っ先は右のわき腹から入り左の肩口に掛けて切り裂かれるということ。クロの【甲鱗】さえ貫いて切ったこの一刀を受け取るという選択肢は考えるまでもない。となれば避けるしかない。腕を動かす。緩慢に動くそれは確かに通常の世界であれば速いだろう。しかし、今この世界で私はクレハの一振りより遅い。ならば、刃が届くよりも先に行動し避けるしかない。大事なのは一歩。踏み込みに対するカウンターを、それより速く蹴って前へと飛び込む。上体を低く、剣線を潜るように。
ピッ
ともすれば耳元で糸を張ったときのような音。
頭を庇い床を転がって何でもいいからクレハから距離をとって振り向く。
彼女の眼前には白が舞っていた。それは私の髪の毛であった。
「やあっ!」
私の世界はいつの間にか元の速さに戻っていた。
クレハの背後へと回っていたから見えた。刀を振りぬいたクレハへ、リョーが水の槍で突く。
槍という武器はその長いリーチから繰り出される薙ぎ払いによる面攻撃と突きによる点攻撃が最も優れている。特に乱れの無い突きというのは正面から喰らえば距離感を掴むことは難しく、反応することも難しく、捌くことも難しい。
「フッ……!」
だが、それは対処の出来ない相手の場合だ。
クレハはあれ程までの激情を晒しながら戦い方はどこまでも冷静だった。突きの強みが点であるならば、弱みもまた点であるということ。突き出された水の槍から体をずらせば自分の脇から脅威は勝手に去っていく。
「まだ、まだぁ!」
だからこそ、リョーは突いた勢いを大きく踏み込んで無理矢理殺し、クレハが避けた方へ向けて薙ぎ払う。
「抜刀だけしか取り柄が無いわけじゃないわ、よッ」
クレハが襲い来る薙ぎ払いに対してとった行動は刃を寝かせ、僅かに斜め。受け流すための構えなのか。
「これは水、だよ?」
リョーが、にやりと笑った。
「しまッ――ぐぁ!」
それは摩訶不思議な現象。
リョーが薙ぎ払った水の槍が刀に触れるのと同時、刃をすり抜け、クレハの体を払い飛ばした。