紅い少女
その日は雨の日だった。
雨の日はあまり好きじゃない。空気が湿っていると気持ちがどこまでも沈んでいきそうで、煤けた空は暗雲と共に世界をより暗くしていく。そして雨粒は濁っていた。よくはわからないけど、この荒れた世界と関係しているそうで、空気中に含まれる物質を雨は濃縮して大地に降り注いでいるからだった。
家の機能の一つに、ろ過装置がある。そのおかげで汚染された雨水も綺麗に出来るため飲み水に困るということはほとんど無かった。
目を覚ます。カーテンで窓の外は見えなくても、ざぁざぁぽたぽたと音色を奏でる外の音を聞いてあぁ雨だなと思う。着替えて、昨日の夜に残っていたご飯を冷蔵庫からだして火を起こし温めていく。シェルターの中や昔の機械の中には火を用いず電気の力で温めるレンジやオーブンといったものがあるけれど、それらは大きく電気を食べるというから家には無かった。
ホットミルクと夕食をテーブルに置いてさて食べようか、と席に着こうとしたところで――
「助けて!」
どんどんどん、扉を叩く音と助けを求める声が耳へと飛び込んできた。
あの人の声ではない。いや、それどころではない。この家にまず人が訪ねてくることも初めてだし、ましてや助けを呼ぶ声を聞くことになるなんて思いもしていなかった。
「少し待って」
家の扉を開ける際には鍵を開ける必要もあるけど、他にも私とあの人しか知らない防犯装置もあってそれを一旦停止させないと家に入れることは出来ない。これはあの日手紙と一緒に置かれていた本に書かれていたことの一つだった。それまでそんなものがあるとまで知らなかったんだから本当に私はあの人のことを知らないんだと思ってしまう。
「ん。どうぞ、入って」
「ありがとう!」
茶色の外套に身を包み、降る雨によって濡れたそれらは床へ水溜りを作っていく。そこでわかったのは外套を着た誰かは私よりも小さいということ、裸足だということ、声の高さから女の子だということ。
「こっち」
「う、うん」
「さ、外套を脱いで」
「ん」
濡れたままではよくないと思い、シャワー室のある場所まで連れて行く。外套を脱がせて目についたのは炎のような赤い髪。瞳の中で燻る橙色。赤い髪は背中を覆い隠してなお余りある長さで、手入れがされていないのかぼさぼさだった。
濡れた外套は置いておき、シャワーの水でタオルを濡らしたら汚れた少女の体を拭いていく。泥で汚れた足に、外套の隙間から入ってきたであろう灰色の雨水。髪の毛も砂埃で汚れていたから拭いていく。
「とりあえず、これでいいかな。そういえばあなたは外套しか身に着けていなかったけど、何かあったの? 助けて、とも言っていたし」
「その……くちゅん!」
「あぁ、ごめんなさい。そのままでは寒いよね。少し大きめだけど、服はあるからそれを着ましょう? さ、こっちに来て」
「うん」
バスタオルに少女の体を包んで、手を引いていく。タンスから私の服の中にはワンピースがあったから、それならこの子の身長でも着ることはできるはず。
「うん、似合ってる」
「これは……?」
「ワンピースっていうの。私の服なんだけど、あまりこれを着るのは得意じゃないというか、動きにくいというか……まぁだから、あなたにあげる」
「……ありがとう!」
「あとは温かい飲み物を飲んで、体を温めないと。こっちに来て、椅子に座っていて」
「うん!」
どうやら喜んでくれたらしい。
先ほどまでは戸惑い気味だった少女の表情から戸惑いは消えて、彼女は喜びを見せてくれる。私は自然と笑みを浮かべていたのかわからないけれど、最初の頃の私もあんな風だったのかなと思いながら温まったミルクを少女の前に置き、その向かい側に座る。
少女はおずおずと差し出されたミルクの入ったカップに手を添えて少しずつ飲んでいく。
「それじゃえっと……うん、名前、教えてもらえる?」
「なまえ?」
「そう。あなたの名前」
「こう……さか……しゅ……り?」
「こうさかしゅり?」
「うん! なまえ、しゅり!」
「しゅりね。私の名前は龍堂柏。ハクよ」
「ハク……ハク! わたし、ハクって人にあったら渡せって言われた!」
「言われた?」
「うん!」
先ほどまでミルクを舐めていたしゅりは椅子から降りると、シャワーのあるほうへ行く。そして外套をひっくり返したと思うと、そこから一通の手紙を出した。
「これ!」
「これは……」
受け取った手紙。包まれた封を解いて中を見る。
そこには、もう長い間声も聞いていない人の書いた文字があった。
『こんな形で君に連絡をしてしまいすまない。
君は、元気にしているかい? 僕はまだ君の下へと帰ることは出来ていないけれど、無事なことは確かだから。
手紙の本題に移ろう。柏、今君の目の前にいるであろう少女のことだ。彼女は少々複雑な事情を抱えていて、僕が僕の用事で生まれた被害者のようなものだ。いってしまえば君と僕の『仲間』なんだけれど、それを伝えても混乱を生むだけだから記憶の片隅にでも置いておいて欲しい。とにかく言える事は、今彼女は追われている。なんとかして彼女が捕まらないように動いているけれど、それでも僕一人で止めることは出来ない。すまない、君に迷惑かけてばかりだ。
とりあえず火急の用として逃げろ。一日か二日は猶予があるはずだし、柏があれを呼んでくれているなら家の周囲には防犯装置として警報も仕掛けてある。あとは本に書かれてあったとおりにしてもらえば大丈夫なはずだ。重ねて、いきなりの連絡に突然のことで申し訳ないと思っている。そして、結局のところ君を僕の問題に巻き込んでしまった。必ず君に会いに行くだから、その子を頼む。
龍堂桐峰 より
追伸、その子の名前は紅叉華朱里。君の妹のような子だ。仲良くしてあげて欲しい』
「………………」
「ハク?」
あの人の……桐峰からの手紙だった。胸の奥が熱くなった。だけどそれを、今表に出すわけにはいかない。手紙をたたみ、朱里をみる。不安そうな眼差しだ。あの人は朱里を『仲間』と書いていた。つまり、この子もあの研究所のようなところにいた子なんだろう。そしてあの人は、この子達のために何かをしているのだろう。私をあの白い世界から救い出してくれたときのように。
「大丈夫。私があなたを助けてあげる。だから、安心して」
「あ」
膝を屈めて、少女を抱きしめる。温かな体温。久しく触れていなかった人の温もりというものだった。
「さ、ミルクだけじゃ物足りないでしょう? 朝ごはんを食べましょう」
「うん!」