終章 救世主の目覚め
シルヴィがシェンク達と合流して、ラムダに戻ったのは翌日のことであった。幸いミズルカに放たれた炎は、アルトが人の姿を取り戻した時点で残らず鎮火し、魔物の世界へとつながるゲートもいつの間にやら姿を消していた。周囲の人里に影響はなく、死者は誰一人として出なかった。
アルトは自室の寝台で寝かされていたが、一夜経っても目を覚まさなかった。目立った外傷はなく、立てる寝息も健やかである。それでも、恐るべき化け物に変身した後なのだ。目を覚ます保証はない。
アルトのルームメイトにしばらく別の部屋に移ってもらうよう頼んで、シルヴィはずっと彼の傍らで目覚めを待った。体が動く日は一日も欠かさなかった鍛錬もせずに、彼の安らかな寝顔を時折のぞきながら、ミルディンからの手紙を読み返していた。
その内容はいつも、同じ。まるで隠居した貴族のような、青年の豊かな平凡な暮らしだ。庭園で散歩したり、鷹を連れて狩りに出かけたり、お忍びで街に遊びに出たり……そうやってあちこちで見てきたものを、ミルディンはつぶさに報告する。戦いに明け暮れるシルヴィの代わりに見てきたから、と言うように。
封筒に入っているのは、文字が並ぶばかりの手紙だけではない。ミルディンが描いた絵が一枚、決まって同封されている。大概、手紙の中で触れられたものが書かれている。庭園で見つけた植物であったり、街の風景だったりすることが多いのだが、希に全く関係がないものが入っている。それは金髪の少女が微笑する絵だ。
絵の中の少女が誰か、ミルディンが明らかにしたことはない。だが、聞かずとも分かることだ。そして、その絵をシルヴィに送ってくる意図も。
アルトが目を覚ましたのは、ラムダに着いた二日後のことであった。正確な時刻は分からない。うたた寝をしてしまったシルヴィが目を覚ますと、肩に毛布が掛かっていた。彼の後ろ姿は窓辺にあり、月明かりに照らされたラムダの街並みを見下ろしていた。
「いつ、目を覚ましたの?」
シルヴィは左目の隻眼を擦りながら、後ろ姿に語りかけた。
「大分前だな。死ぬほど腹が減ってたから、飯も食ってきたよ」
アルトが振り返った。その顔には屈託のない笑みが浮かぶ。
「あんたが寝てる内に食っておかないとな。さもなくば、食堂から食えるものが消える」
「私をあなたは一体なんだと思っているの?」
シルヴィは掛けられた毛布を畳んで、窓辺に歩き出した。
「おっかない守護騎士様だ。力なき一般市民を威嚇するなよな」
アルトの隣に並ぶ。彼の手元を見ると、炎の魔法陣はおろか、鳥と大剣を描いた魔法陣さえも消えている。シルヴィの視線に気付いて、アルトは肩をすくめた。
「ま、一番面倒な力は相変わらず、残っているんだけどな」
ちら、とシルヴィはアルトの横顔をのぞき見た。困り果てている、という表情ではない。厄介なものだろう、と苦笑を浮かべている程度である。シルヴィは素早く、アルトから目を逸らした。
「ところで。炎の狼に化けたときのこと、覚えてるの?」
ラムダの町並みを見下ろしながら、シルヴィが言った。
「ぼんやりと、な。何だ、……俺に覚えてられちゃ困ることでもあったか? それならぜひとも思い出さなきゃいけな……いてっ! 市民を守る勤めを忘れたか!」
「聞かれたことだけを答えるのが、市民の勤めよ」
シルヴィは冷ややかに言って、アルトの爪先を踏みにじる。アルトが悲鳴を上げるが、彼女の耳を素通りしている。
「私の目を……右目を見たのは、覚えている?」
アルトの爪先から足を離す。
「記憶にはないね。でも守護騎士の力を失っている以上、見たんだろうな」
靴についた足跡を払いながら、アルトが答えた。
「残念なことだ。伝承に歌われる『紅の魔眼』を目にする、貴重な機会だったのにな」
楽しみにしていた出し物を見逃した客のような口振りである。シルヴィは再び、アルトの表情を伺う。彼は靴の汚れに意識を向けているようで、シルヴィの仕草には気付いていない。これなら、それほどおかしな会話の流れにならない。シルヴィはまたラムダの街並みに目をやった。
「なら……見せてあげましょうか? 今なら……守護騎士の力も、ないし」
靴を払うアルトの手が、止まった。その言葉を待っていたように、靴の汚れを払うために屈めていた腰が伸びる。あざ笑うように目を細め、窓枠に肘を突き、シルヴィを見上げた。
「なら、とっとと見せな。あんたの気まぐれが続いているうちにね」
嫌に挑発的な物言いだ。常ならば、臑を蹴り飛ばすところだが、今回は見逃す。
「ちゃんと今度は記憶に焼き付けておくのよ」
シルヴィは、右目を覆う眼帯に手をかけた。紐を外し取り外すと、一度目を瞑ってから顔を上げた。
「どうぞ。……気が済むまで、見てちょうだい」
ぶっきらぼうに言い放つ。見上げると、アルトの表情が正面からよく見えた。
翡翠の瞳は、食い入るようにシルヴィの紅の瞳を見つめていた。彼は何も言わなかった。普段の軽薄さとは打って変わって、真剣な表情でじっとシルヴィを見つめている。彼女の右目を、守護騎士の力を奪う『紅の魔眼』を間違いなく見ている。そして『紅の魔眼』もまた彼を捉えている。
この時をシルヴィは待っていた。会話をそれとなく誘導して、この状況を作り上げた。見つめられるよう、望んだのは彼女だ。だが、あんまりにも熱心に見つめられるものだから、顔を少し背けた。
「何よ、まさか立ったまま寝てるんじゃないでしょうね?」
咎めるように言う。すると、アルトが喉を鳴らして笑う。
「起きてる。ちゃんと見てるよ。あんたが望むとおりにね」
シルヴィは、目を見開いてアルトの狐のような笑みを見た。会話を誘導したつもりで、実際は誘導されていたのだ。悔しさのあまり、軽く唇を噛んだ。
「いつから、分かってたの?」
「最初からだよ。逆に聞くけど、俺が誘導かけていたことに気付いたのはいつ? まさか、ついさっきまで気付いてなかった? いくら何でもそりゃねえよな、どんな間抜けでも?」
顔を見ずとも、笑いを堪えているのがすぐに分かった。シルヴィは黙殺して、眼帯をかけ直した。
「あなたにもう用事はない。さようなら」
シルヴィは冷ややかに言い放って歩き出す。すると、アルトが前方に回り込んで立ちはだかる。
「『いつから』と聞いたからには、『どうして』まで聞くべきだろ?」
シルヴィはやむなく、足を止めた。
「あなたの得意げな顔を見ながら、ご丁寧な解説なんて聞きたくないの。苛々してくるわ」
「好き勝手言ってくれるな。なら、俺も言わせてもらうけどさ」
すかさず、アルトは口を挟んだ。片方瞑った翡翠の瞳で、じろとシルヴィを睨む。
「あんたの悲劇のヒロインぶった辛気くさい面を拝んでいるのだって、相当苛々してくるぜ?」
細剣を突き出すように踏み込み、素早くアルトの襟首を掴み上げた。襟首をたぐり寄せて、シルヴィは短剣の刃を突き付けるように、彼を見上げた。
「回りくどい芝居はもう結構。言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
屈強な戦士でも怯むであろう視線に、アルトはたじろぐことさえない。
「何度試したって無駄だ。『紅の魔眼』では絶対に奪えない。救世主の力は守護騎士の力じゃなくて、精霊が気まぐれで与える力に過ぎないんだ」
彼がシルヴィを見下ろす目は、向けられている視線とは対照的に穏やかであった。
「諦めな。あんたに俺の力は奪えない」
彼の翡翠の瞳に、全てを見透かされている。もはや彼を黙らせることも、シルヴィが沈黙を守ることも何の意味もない。
体中を駆けめぐった衝動は、潮が引いていくように消えていく。まるで蝶が飛び立つように、シルヴィの指はアルトの襟首から離れる。
「ミルディンの時のようにはいかない、ということね」
シルヴィは己の敗北を悟った。そして、問われるがままに語りだした。
話し終えたシルヴィを見送り、アルトは寝台に腰を下ろした。傍らの椅子には、毛布が丁寧に折り畳んで置いてある。目を覚ましたとき、隣で眠っていた彼女に掛けてやったものだ。
隣で彼女が眠っていてくれて、心底良かったと思う。そうでなければ、彼女の姿を求めて、兵営をうろつく羽目になっただろう。無事な姿を確認するまで、安堵できなかったはずだ。食堂に行って腹を満たしつつ、ミズルカでの事件の顛末を一通り聞く余裕などなかったに違いない。
真っ先に尋ねたのは、廃屋に置き去りにされた守護騎士の顛末だった。エイミーとバルボアの傷は癒え、療養期間が明けたら、すぐに任務に戻るらしい。一方、ディートは騎士団の牢獄に入れられている。王家から箝口令が出ているシルヴィの秘密を軽々しく喋った罪によるものらしい。騎士団の法に則って裁きを受けた後、アンリ家に帰される予定だと聞いた。
ルークの葬儀も早々に済んだらしい。彼の誠実さは、衛兵隊の中でも愛されていた。二五隊の面々の他にも、多くの守護騎士が参加したようだ。参列できなかったのはアルトとしても残念だったが、日が昇ってから墓に花でも持って行ってやろうと考えている。
気がかりなのは、エルンだ。ミズルカで姿を眩ませて以降、未だに行方しれずらしい。どこかで生きていてくれれば、とアルトは思う。今はまだ、心の整理がつかないかもしれない。兄を亡くし、彼の人生を形作ってきた力を失い、しかもそれを兄の密かな想い人に奪われた悲しみは、容易く癒えない。でも、時間はどんな傷だって癒してくれるはず。いつか再び会って、笑いあえる日が来ることを願って止まない。
一方、シルヴィのミズルカでの攻防に対する処罰はなく――というより、魔眼の存在はやはりこれまで通り秘密とされる。迂闊に口外すれば、今度は王の名において裁きを受ける羽目になるのだ。
シルヴィにとって都合のよい処遇が決まったのは、アンリ家の圧力にも屈せず、シェンクが陰で奔走してくれたおかげであった。恐らく、今までも陰ながらシルヴィを支えていたのは彼であろう。外見と高圧的な態度と裏腹に、案外彼は情の深い人物だ。
しかし、彼にさえシルヴィは全てを語らなかったようだ。いや、一番大事なことに限って何も語らなかった、と言った方が正確か。精霊教団や『蒼の騎士』については詳しく報告をあげているらしいが、肝心の救世主の存在については何も知らせていないようだ。
「守護騎士の力が無くなったのなら、お前も守護騎士団からはお払い箱だな。なに、もし行き場所がないなら小間使いとしてこき使ってやる」
「えっと……隊長の手を煩わせないよう、努力します」
さもなくば、食堂でこんな間の抜けたやりとりをする必要はなかっただろう。
それで、おかしいと思ったのだ。魔物に対抗するには、救世主の存在を利用しない手はない。なのに、シルヴィはアルトの力を黙っている。不自然きわまりない。シルヴィは魔物を殺すことが己の役割だ、と言っていたが……どうも違うのではないか?
食堂で情報を仕入れた時点では、あやふやな疑惑に過ぎなかった。もしや、シェンク以外の誰かに報告済みなのかもしれない? いや、あるいは生真面目な彼女らしく、アルトに一言断ってから報告するのかもしれない? まずは直接シルヴィに問いただそう、と思っていた。そう、ほんの数時間前まで彼女の真意に、全く至っていなかったから。
気付いたのは、部屋に戻ってきてからだ。彼女の手に握られた手紙……ミルディン王子から送られた手紙が、ふと目に付いたのだ。
他人の手紙を読むのは、褒められたことではない。でも、あのときは自制心が及ばなかった。シルヴィのことを少しでも、理解したい。その一心で眠っている彼女の手から手紙を抜き取り、目を通した。
手紙はシルヴィの安否を気遣う箇所もあったが、大部分は貴族の日記の切り抜きみたいなものだった。こんな手紙のために、シルヴィはあんなにも取り乱したのか? 期待に反して内容は平凡で、アルトは心底気落ちした。手紙と共に贈られたらしい、金髪の少女が描かれた絵が目に入るまでは。
一見して、モデルはシルヴィだと分かった。ただし、アルトが良く知る彼女ではない。絵の中の彼女は少し幼かったし、何よりも幸せそうに微笑んでいた。
そこで、はたと思ったのだ。力を奪われたミルディン王子は、決してシルヴィを憎んでなどいない。むしろ、その逆だ。彼女の幸せを誰よりも願っているのだ、と。
手紙をまめに送ってきて、それをシルヴィも大事にしている。その二点だけ分かれば、あとは想像が及ぶ範囲だったのに、アルトはこの時になって初めて気付いた。シルヴィはミルディン王子のために、『紅の魔眼』を己の右目と引き替えに得た。ミルディン王子の力とともに、王家の守護騎士が背負うべき役割と責任を奪うために。
アルトの推測は、外れではなかった。
「ミルディンは母違いの弟なの。弟と言っても、誕生日が数日早いというだけの話だけれども。でも、やっぱりあの子は弟というしかないわね。引っ込み思案で、気弱で、あまり器用な子ではなかった」
眠っていた椅子に腰掛けて、シルヴィは語った。ミルディン王子からの手紙を膝に置いて、懐かしげに目を細めた。
「けど、誰よりも絵が上手かった。好きだったからでしょうね。勉強をしているのかと思ったら、大概落書きをしてて、先生に怒られて……何回見つかっても、直らなかった。ついにはミルに紙とペンを与えるなって、お触れが出たぐらいよ」
ミルディン王子の話をするシルヴィの表情は、いつになく優しい。彼が描いた少女と同一人物であることを、改めて思い知らされた。
シルヴィの幸せな過去の話は長く続かなかった。彼女の明るい表情に、陰りが差す。
「大人たちは、こぞって守護騎士の勤めは光栄なことなのだと、王族が果たす最も尊い勤めなのだと、彼に言い聞かせた。そういう奴らはあの子が張った結界の中で、平和な暮らしを満喫するだけなのだから、気楽なものよね」
シルヴィの唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「結界が途切れれば、その瞬間に数え切れないほどの民の命が失われる。まともに背負うには、重すぎる責任……ミルは弱虫だけど人はいいから、表向きは奴らの望むように振る舞った。泣いたのは、私の前だけ。それも別れの前日に、一回だけ。その日の晩の事よ。私は宝物庫に忍び込み、『紅の魔眼』を探しだした」
シルヴィの手が、眼帯に覆われた瞳に触れる。
「本当は、両目に入れなければならなかった。でも、私は右目だけしか入れられなかった。えぐり出した己の右目が、床に転がったのを見た瞬間、もう短剣が握れなかった」
押さえる眼帯の下に、彼女の瞳はない。名誉の負傷ではない。幼い少女が、愛する弟のために己の手でこしらえた空っぽの眼窩なのだ。
シルヴィは深く息を吐いた。海の底よりも深くから吐き出されたような、ため息だった。
「私の臆病さのせいで、ミルは徒に力を失うことになった。私は彼の代わりになれなかった」
アルトは椅子の隣の寝台に腰掛けて、シルヴィの告白に耳を傾けていた。憂いを帯びた彼女の横顔を見つめていたが、その内見飽きたように目を逸らした。
「でも、俺は良かったと思う。シルヴィに弱さがあって、本当に良かった」
アルトの言葉に、シルヴィが素早く目を上げた。
「どうして?」
瞳には敵意さえ宿る。しかし、アルトはまるで視線に気づいていないように目を逸らしたままだ。
「そうでなきゃ、ずっと気づかなかっただろうから。お前は強いから、俺の助けなんていらない。そう思いこんでいたら、きっと知ろうとは思わなかっただろう。お前がどうして、俺の力を奪おうとしたのか」
アルトの目が見つめているのは、シルヴィの右手にはまった指ぬきの手袋……その下に隠れた魔法陣だ。四本の杖が描かれた、本来ならばミルディン王子が持つべきであった魔法陣。
彼のように、力を奪われたくない。アルトは切に思う。
「覚悟はもう決めたんだ。俺は戦う」
アルトは視線を上げた。シルヴィの美しい顔を、そこに浮かぶ表情を見た。
「あなたに戦う理由はない……」
視線の先には、冷ややかな鉄仮面はない。あったのは、怯えた表情でこちらを伺う少女の姿だけ。ミズルカで被り直したはずの鉄仮面をまた被り損ねて、その下の素顔を晒している。
「確かに、『紅の魔眼』はだめだった。でも、他の手段を探すから。あなたの力も、責任も全て、私が引き受けるから」
頬は青ざめ、唇は震えている。か細い声の哀願を、しかしアルトには聞くつもりがない。
「嫌だね。お前が奪おうとした力も、責任も全ては俺のものだ」
アルトの唇は勝利の愉悦に歪む。悲しげに目を伏せ、声をこらえるシルヴィの横顔を見て、ざまあみやがれと心の中で快哉を叫ぶ。
別段、シルヴィの澄まし顔以外の表情を見れたから嬉しいわけじゃない。彼女の下らない望みを、ようやく終わらせられる。そう思えば、喜びも一塩ではないか。
「贖罪ってのはな、教会でお祈りするときだけで十分なんだよ」
寝台から立ち上がり、部屋の中央に置いたテーブルまで歩く。
「無駄に傷ついたり死に急いだり、一人で全て抱え込もうとも、罪は償えない」
置いてあった手ぬぐいを取ると、シルヴィに差し出す。
シルヴィは顔を上げない。項垂れた顔を、長い髪で幕のように隠している。やれやれ、とアルトは思った。どこまで強情なのだろう。沈黙が既に答えなのだから、開き直って認めればいいのに。
彼女がアルトから力を奪おうとした理由は、一言で表すのは難しい。過剰な責任感だとか、優しさだとかそんな風に言ってもいいかもしれないが、根本にあるのは、過去の罪に対する罰だ。ミルディン王子は勿論、他の大人たちも誰も表立って彼女に罰を与えない。だから彼女は自分自身を進んで苦難に追いやる。様々な罰を課し、それを罪の償いとしようとしている。
染みついてもう取れなくなった汚れを、いつまでも洗い落とそうとしているような偏狭さ。なんとまあ、不器用な少女だろう。アルトは苦々しく笑わざるを得ない。でも、アルトがシルヴィに魅かれるのは、彼女の美しさや強さなんかじゃなくてきっとそこだ。
不器用な少女は、やはり要領悪く黙り込んでいる。さて、この重たい口をなんとかするにはどうしたものか。アルトは軽く思案する。
「俺に戦う理由はない、とあんたはさっき言ったな? ところがどっこい、立派な理由があるんだなこりゃ」
にやにや笑って言うが、シルヴィはぴくりとも動かない。遮られないので、アルトはその先を続ける。
「手間のかかる阿呆が一匹いてな、そいつの世話をしてやらないといけない。それは頭でっかちで、向こう見ずでしかも凶暴かつ大喰いの眼帯……」
あざ笑うように、言い放つ。すると、その瞬間手ぬぐいを持つ手に鋭い痛みが走った。
「いって!」
声と共に痛みに手を引っ込めると、その瞬間に手ぬぐいがかっさらわれた。
驚いて顔をあげると、シルヴィが、った手ぬぐいを掴んでこちらを向いている。
「あら失礼。やかましい小蠅が目の前を横切ったものだから、つい」
眉間に皺を寄せて、じろりとアルトをやぶにらみしている。まるで拗ねた子供みたいな顔をしている。おかしくなって、アルトは声を上げて笑った。
「おいおい、反応するってことは認めるってことだぜ? 俺は誰もあんたのことだとは言ってねえけど?」
「うるさい小蠅。それ以上喋ると捻りつぶすわよ」
いつもなら冷たい一瞥がついてくるような一言だったが、この時はなかった。
シルヴィが手ぬぐいに顔を埋めてしまったので、視線が飛んでこようがなかったのだ。
手ぬぐいから顔を上げたシルヴィの目は、少し赤らんでいた。就寝の挨拶を済ますと、足早に彼女は去った。恐らく、顔をじっくり見られたくなかったからだろうと思う。少々残念だが、今後に期待しよう。『紅の魔眼』を目にするよりは、泣き顔を見る機会の方が多いはず。
己の目にこそ、『紅の魔眼』はあるべきだ。アルトはそう思う。そうすれば、偽物の『裏切り者』ではなくて、本物の『裏切り者』になれる。フォルカが初代女王・ジールの力を、シルヴィがミルディン王子の力を奪ったように、アルトはシルヴィの力を奪うことが出来るのに。
だが、現実に『紅の魔眼』を持つのはシルヴィだ。だから、やり方を変えなければならない。アルトはアルトのやり方で、事を成し遂げなければならない。
方法は既に見つけている。だが、途方もない手段でどこから手をつけていいものやら……。
さて、何から始めるのが良いだろう? 何気なく後ろを振り返る。すると、部屋の中に人影があった。しかもそれがフードを被ったユーリィだったから、アルトは腰を抜かした。
「なっ……ユーリィ、お前いつの間に? いや、その前にどこから……?」
「ついさっき窓からお邪魔させてもらったわ。だって玄関から入れてくれそうにないんだもの」
ユーリィの右手に青の魔法陣が輝く。守護騎士の力を使えば、落ちたら大けがを免れない高さの部屋に進入するぐらい訳のないことであろう。
ずかずかとユーリィは歩を進める。断りもなく、寝台に腰を下ろしたアルトの隣に座ると、腕を無理矢理絡められた。引き抜こうとするが、ユーリィの手には魔法陣が輝いている。アルトは力で抵抗するのは諦めた。
「離せよ」
「嫌よ」
ユーリィは即答した。
「本当はあたし、あなたをここから連れ去りたいのよ。それをこの程度で我慢してあげているの。あなただって我慢なさいな」
アルトにぴったりとしなだれかかりながら、ユーリィが言う。……アルトは再度ため息をつく。
「俺が言うのも、なんだけどさ。お前、本当俺のこと好きみたいだな?」
呆れた声で言うと、ユーリィは嬉しそうに笑った。
「そうよ。あたし、あなたのこと大好きよ」
「五年前から?」
皮肉っぽくアルトが言ったが、
「うん、そう」
ユーリィは屈託のない笑顔で答えた。
「そうそう、一つ謝っておくわね。教団の隠れ里を破壊して、住人を全員殺したのはあたし。……嘘ついて、ごめんね?」
悲惨な過去を語っているくせに、彼女の顔は不思議なことに晴れやかだった。
「もう知ってるよ。けど、お前が結局何で俺に執着しているのか、それはさっぱりだけどな」
視線で話を促すと、ユーリィはにっこり笑って語りだした。
「一週間経って、制御可能なレベルまで力を消耗して、あたしは人の姿を取り戻した。そのとき、あなたはあたしの傍にいたわ。魔物となったあたしを見捨てずに、廃墟となった跡地に留まっていたのね」
ユーリィは、アルトの手に自らの指を絡める。
「あなたはあたしを魔物にしてしまったことに、そしてそのせいで隠れ里の住人の命が失われてしまったことに、ひどく心を痛めていた」
絡めた手をユーリィはぎゅっと握りしめる。まるでその手を離すまいとしているみたいに。
「自責の念で、あなたの精神は壊れる寸前だった。あなたは真剣に世界を救うつもりだったもの、当然のことだわ」
ユーリィがぽつりと呟いた。彼女の脳裏には、五年前途方に暮れているアルトの姿が描き出されているのだろうか?
今のアルトには、当時の記憶はない。だが、ペトラが垣間見せてくれた記憶を失う前の自分の姿を見ると、何となくイメージは出来るのだ。
自分こそが、世界を救う。選ばれた者としての強い自覚と正義感に満ちあふれた目をしていた。無邪気な子供故になせる強さだと言って良い。無論、それは強いが脆く、悲惨な結果に耐える事は出来ない。
「あたしがこの人を守るの。この誰よりも誇り高くて、優しい人を守る。そう決めたのが、あの時だったのだけれど」
ユーリィの唇に悲しげな微笑が浮かんだ。
「二日後、あなたは川に身を投げてしまったわ。あたしが見ている前で、記憶もその身も全て投げ出して、あたしの前から去ってしまった」
そして、川を下って後はアルトが覚えている範疇の話になる、というわけだ。……アルトは空いた手で額を押さえた。
「なあ、ユーリィ。記憶を失い、しかも五年もの時間が経過しているんだ。お前が好きだったアルトはもうこの世にいないんだよ」
五年の歳月は容易に人を変える。加えて、記憶まで失っているのだ。ユーリィが惹かれたアルトとここにいるアルトは別人。そう伝えたつもりだったのだが、ユーリィは首を横に振る。
「言ったじゃない。記憶が無かろうが、時間が経っていようが、やっぱりあなたはあなたなのよ」
ユーリィの空いていた手がアルトの頬に触れる。
「だって、あなた世界を救うつもりでしょう? 力の代償を知っても尚、救世主としての義務を果たすつもりなのでしょう?」
顔を逸らそうとするが、ユーリィの手が邪魔で動かせない。アルトは頬に掛かったユーリィの手を払った。
「何故、知っている?」
アルトは呻くように言った。ユーリィは首を横に振った。
「あなたのことはよく知っているもの。というより、初代様と似ているのは、髪と瞳の色だけではないみたいね?」
「初代様?」
耳慣れない言葉である。ユーリィはにっこり笑った。
「あら、そこは思い出していないのね? 初代様って、初代の救世主のこと。……あなたに分かりやすい表現を借りるなら、『裏切り者』フォルカのことよ」
「……へ?」
無論、記憶にはそんな知識どこにもない。目をぱちくりさせていると、ユーリィはおかしそうに声を弾ませた。
「キルヒアナ王家の威厳を保つには、結界の力よりも尚尊い救世主なんていたら困るのよ。今や失われた伝説として、細々と精霊教団の中枢で受け継がれるのみよ。あんまり大っぴらに言うと、王国から弾圧されちゃうからね?」
「え、えっと、それ、猫かぶりに次ぐ得意技、口から出任せじゃないだろうな?」
滑らかに話すユーリィとは対照的に、アルトの口調はたどたどしい。
ユーリィは不満げに頬を膨らませる。
「得意技じゃないし、後、猫も被ってないわよ! それと、出任せだと思うならば、精霊教団の幹部をとっつかまえて聞くか、気合いを入れて昔の記憶を取り戻すかしてちょうだい。裏がとれると思うわ」
きっぱりとユーリィが言う。この態度からすると、どうも本当らしい。
「キルヒアナが禄でもない国で、精霊教団がまともに見えてきたぜ……」
後世の人間が、キルヒアナの伝承を大量に書き換えているのは知ってたが、まさかこれほどまでとは知らなかった。守護騎士にも伝わっていない以上、都合の悪い真実として歴史の闇に葬られたのだろう。
「本当、キルヒアナの歴史学者と政治家はろくでなし揃いよ。初代様が『紅の魔眼』を使ったのは、女王ジールを守護騎士の勤めから解放したかっただけ。ジールに与えた結界の力を奪い、彼女を普通の人間に戻そうとした結果なのよ?」
ユーリィはじろりとアルトを睨む。
「ジールを愛するが故の行動だったと伝わっている。まさか、動機までそっくりってことはないでしょうね?」
ユーリィの目が鋭くアルトを睨むが、彼はそろりと目を逸らす。
「んなわけねーだろ」
手ぬぐいに顔を埋めるシルヴィの顔が見たかったのは、弱みを握りたかっただけだ。そう、他意はないのだ、ありえないのだ……否定しながら、アルトは自分に言い聞かせる。
頬に突き刺さるユーリィの視線は、なかなか逸れない。彼女は長い間、無言でアルトを見つめていたが、やがて諦めたように目を背けた。
「私、余計なことしたわ」
ぽつりとユーリィがつぶやいた。彼女の嘆息が部屋に響く。
「ねえ、アルト。あの女が戦いたいなら、戦わせればいいんじゃないの? あなたが世界を救って、戦いを終わらせなければいけない理由なんて、どこにあるの?」
彼女は深く己の行動を後悔しているらしい。悔やんでも悔やみきれない悔しさが声ににじみ出ている。
「お前の忠告がなければ、俺はそう思っていただろうよ。ありがとうな、ユーリィ。お前じゃなきゃ、あの言葉は出てこなかった」
アルトは彼女に心からの礼を言った。なぜなら彼に覚悟が足りないと指摘したのは、ユーリィだったから。
「ちっとも嬉しくない」
ユーリィは唇を不服げに尖らせる。
「私はあなたを戦わせたくなかったの。一緒に、平和なところで暮らしたかった。なのに、あなたは私のせいで戦う決意を固めてしまった」
ユーリィは激しく首を横に振った。こんな現実、認めないという風に。
それきり、ユーリィは黙ってしまった。悔恨に顔を曇らせて、塞ぎ込んでいる。彼女が長らく沈黙するのは、初めてかもしれない。
今までユーリィを突き動かしてきたのは、間違いなくアルトなのだ。彼に対する想いだけで、五年間生きてきた。彼女は、アルトの敵ではない。
「なあ、ユーリィ。お前さ、俺に協力してくれないか?」
呼びかけると、ユーリィはこわごわと顔を上げ、目を細める。まどろみから醒めたばかりのような彼女に、ゆっくりと語りかける。
「俺だって戦いたくて、戦うわけじゃない。魔物との戦いが終われば、こんな厄介な力は捨てるさ。早く、戦いなんて終わらせたい。お前の協力があれば、きっとはかどるだろう?」
三百年以上、魔物との戦いの歴史は続いているが、人類が持つ彼らの知識はあまりにも乏しい。対して、ユーリィは魔物を操る術さえ心得ている。彼女の守護騎士の力だけではなく、その知識も人間にとって大きな武器となるだろう。
ユーリィはじっとアルトを見つめていた。まだ夢から覚めきっていないような目で、彼を見上げていた。ふいに、彼女は甘えるように彼の胸に顔を埋めた。
急な動作にアルトはたじろぐ。速まった鼓動の音を聞かれそうで、慌てて彼女を引きはがそうとした。
「ちょっと心が揺れるわね」
聞こえてきた声は楽しげで、悔恨を欠片も感じさせない。アルトの手が、ぴたりと止まる。
「今日からこうして、あなたと堂々と一緒にいられるのはとても嬉しいんだけれども」
ユーリィは上目遣いで、胸の中からアルトを見上げた。
「でも、人間に勝ち目がないとあたしは知っているわ。魔物たちは人間よりも遙かに優れているの。あなたたちが知っている魔物は、下っ端もいいところなのよ。人間が勝って戦いが終わるよりも、魔物が勝って戦いが終わる方にあたしは賭けるわ」
彼女の唇には余裕の笑みが浮かぶ。
そうだ、ユーリィはこうでなければならない。アルトは一度動きを止めた手で、彼女を胸の内から引きはがす。
「へえ。そんなこと言って良いのか? 後で泣いて謝っても、お前を仲間に入れてやらんぞ?」
「結構よ。まあ、あたしはいつでもアルトのこと、待ってるけどね? もうだめだと思ったら、呼んで。迎えに来るからね」
アルトは鼻で笑った。
「ああ、一昨日きやがれ」
アルトは追い払う仕草をする。ユーリィはしょんぼりと肩を落としながらも、窓の方へ向かった。名残惜しげに後ろを振り返りながらも、ユーリィは窓に昇った。ああ、やっとこの嵐が去る。アルトは深々と息を吐く。
そう、去り際と思って油断したのがまずかった。
ユーリィが消えた窓を見ていたはずが、天井が視界に広がっていた。おまけに肩を押さえつけられ、胸と腰の上に誰かいる。突然の事態に目を白黒させていると、ユーリィの笑顔を見上げていた。
「ねえ、アルト。あたし、忘れ物取りに来たの」
「だ、だったらとっとっと持って帰れよ!」
ユーリィに肩を押さえられた上で、下敷きにされているため、ろくに身動きがとれない。手や腕は散々触られたので、少々耐性が出来ているが、この体勢にはない。布越しに伝わってくるユーリィの体の感触に、心臓が早鐘を打つ。唇をつり上げて、ユーリィは意地の悪い笑みを浮かべた。
「あらそう。それじゃあ、ご遠慮なく」
そう言うと、目を閉じたユーリィの顔が近づいてくる。忘れ物ってそういう意味かよ! アルトは懸命にもがくが、残念ながらユーリィの右手には青い魔法陣が灯っている。こんな下らないことに守護騎士の力を使うな! 声を大にして言いたいところであったが、その余裕もない。
ユーリィの吐息が顔にかかる。鼻がぶつかるような距離にまで彼女の顔が近づいている。……もう無理! 逃げられない! 半ば覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた時だった。扉をノックする音が部屋に響いた。
「アルト、まだ起きてる? 入っても良いかしら?」
シルヴィの声だった。救いの女神がきた! アルトはとっさに声を大にして叫んだ。
「助けてくれ! 敵襲だ!」
口をついて出てきたのは嘘ではない。言葉を選んだだけである。
エルンの策略は見事にはまった。シルヴィは扉を蹴破らんばかりの勢いで部屋に転がり込んできた。
「敵はどこ? 細剣の餌食に、してくれ……え?」
存在しない敵を求めて、シルヴィはきょろきょろと部屋の中を見渡したが、寝台の上の二人を目にして、彼女は動きを止めた。ユーリィがアルトを押し倒したまま、シルヴィを振り返った。ちんぴらみたいな舌打ちの音をアルトは聞いた。
「邪魔な女が来たわ。残念だけど、ここまでみたいね」
ユーリィがアルトの上から下りる。重石が消えたので、アルトが身を起こすと、シルヴィが細剣を抜いてユーリィに切っ先を向けていた。
「あ、あなた何しに来たのよ! も、目的が何だか知らないけど、兵営への侵入は犯罪よ!」
シルヴィが向ける細剣の切っ先が震え、彼女の白い頬にはほんのりと朱が差している。
「あなたみたいな眼帯ブスには一生関係のないことよ」
ユーリィはシルヴィに向かって、べえっと舌を突き出した。シルヴィの整った眉が跳ね上がる。
「がんた……何ですって、もう一回言ってみなさい! この猫かぶり女!」
細剣の切っ先がぴたりとユーリィを差す。しかし、ユーリィはひらりと身軽な動作で窓に飛び移った。シルヴィを無視して、アルトを振り返った。
「忘れ物はまた日を改めて取りに来るわね?」
「死んでも渡さねえ」
寝台の上で観戦を決め込んでいたアルトが即答する。ユーリィは残念そうに肩をすくめた後、夜のラムダの街に身を踊らせた。
「待ちなさい!」
シルヴィも引き続いて窓から身を乗り出す。アルトは慌てて彼女に駆け寄った。
「あんたも待て! あいつはどうせ追いかけても捕まらねえから!」
ユーリィの守護騎士の力を考えれば、正攻法では捕まえられそうもない。窓から飛び降りようとしていたシルヴィだったが、渋々窓から下りた。
「あなたを窓から突き落とせば、助けに戻って来るかしら」
真顔で物騒なことを言う。ちょっとやりかねない雰囲気に、アルトは冷や汗をかいた。
「そう追いかけまわさなくてもいいだろ。あいつはもうしばらく、手出ししてこないさ」
ユーリィの狙いは、あくまでアルトを魔物の世界に連れて行くことである。ペトラの力を使う、と脅せばユーリィはアルトに手出しがしづらい。大がかりな魔物の召還を使って尚、ミズルカで魔物の世界へ繋がる門を開くことに失敗している。門を開くことは並大抵のことでは出来ないだろうから、すぐに動きがあるとは思えないのだ。
「第一、あなたはあの女に甘過ぎよ。……鼻の下伸ばしてんじゃないわよ」
細剣を仕舞いながら、シルヴィの青い瞳がきっとアルトを睨みつける。事実無根だ! アルトは慌てた。
「伸ばしてねえ! 向こうが勝手にすり寄ってくるだけ!」
「へえ」
シルヴィの声が冷たい。
「だったら、そう思われないようきちんと行動で示してくれるかしら」
シルヴィは毛布の傍らで屈む。拾い上げた手紙を懐にしまった。どうやらシルヴィがわざわざ戻ってきた用事は、この落とし物の手紙らしい。
「それじゃあね。今度こそ、おやすみなさい」
あからさまに不機嫌そうな声でシルヴィが言った。何でここまで機嫌が悪いんだ? アルトは不思議に思った。普段は何を言われても、涼しい顔で聞き流すくせに。叩きつけるようにして扉を閉めようとしている彼女の背に、アルトはぽつりと呟いた。
「ひょっとして……嫉妬?」
考えが勝手に口から零れ出ていた。要するに独り言みたいなものだったのだが……シルヴィの足がぴたりと止まった。
「あなた、自惚れるのも大概にしなさいよ?」
腰の細剣にシルヴィの手が伸びていた。その声は氷水に浸したように、冷ややかであった。殺気さえ、声に含まれているようである。アルトは布団を頭から被って縮こまった。
「なんでもない! 今のは寝言!」
「……それでよろしい」
ちん、と細剣の柄が鞘に当たる音がした。続いて扉が開く音がして、足音が響く。やがて部屋の中に静寂が満ちる。アルトはやっと一息つくことが出来た。
ついさっき目覚めたばかりのはずなのに、もう疲労で眠気が襲ってきた。
寝台に横たわって、頭から布団を被る。すると、直接アルトの意識に語りかけてくる声がする。
『大変ですね、人間は』
美しい声が含み笑いをしている。アルトはむっとして、声の主を睨んだ。もっとも、どこにも姿は見えないのだが。
「嘘つき精霊様にゃあ、分かるまいよ」
ユーリィ以上にペトラは信用ならない。
『嘘などついておりませんて。言ったでしょう、ワタクシは人間を愛していると。愚かで、過ちを犯す滑稽な人間が好きでたまらないのです』
姿が見えていれば、ペトラはその美しい顔をくしゃくしゃに歪めて笑っていたことだろう。
「確かに嘘はついていなかったな。一番大事なところを黙ってただけで」
ペトラは竪琴をかき鳴らしたような声で笑った。頬を撫でるそよ風程度にも、アルトの嫌みは通じていないだろう。
『精々あがきなさい。必ず助けてあげますから。ワタクシがこれはおもしろい、と感じたときだけはね』
ペトラの声が遠ざかる。どうやら、アルトに語りかけるのを止めたらしい。
あんな輩に今後、力を借りなければならない、というのはアルトにとって業腹であった。いつ、何時、戯れで力を暴走させるやら分からない。ある意味魔物以上に厄介な敵、と言ってもいいかもしれない。
精霊の導きなど、全く頼れやしない。人間でも味方と呼んでいい人間は限られて、頼りになるのは、己と信頼できる僅かな人たちだけ。
どこまでも分の悪い勝負である。五年ほど経ってある程度成長しているから、自分がどこまで無謀なことをやろうとしているのか、それなりに理解しているつもりである。
アルトは布団の中で、ふんと鼻を鳴らす。
「今に見てろ。世界を救う話ほどおもしろいものはないさ。目を離して悔しがるなよ、ペトラ」
話していないときでも、ペトラはアルトの言葉に耳を澄ましている。嘲笑は返ってこなかったが、聞こえないだけできっと腹を抱えて大笑いをしている頃であろう。
以上で「精霊の導きによりて」は完結です。思いっきり続きがありそうな終わりをしていますが、続ける予定は残念ながらありません。
もともと某ラノベ大賞に投稿していた作品でして、あっさり落選していたのですが、それでも愛着のある作品なのでなろうに掲載しました。
もう次の投稿作品を書かなければいけないので、この作品にいつまでもかかわっていられないのですが、やっぱり続きを書きたかったです。ちなみに、髪の色が真っ白で記憶喪失なアルトという主人公が出てくるけど、魔物は出てこず、血の繋がらない妹と絆を深めていく話は書きました。(文学フリマで「はじまりの前に、おわりの前に」というタイトルで売ってます)
さて、今後は「人食い魔女の死」を少しずつアップしていこうかと思います。年末に終わらせるつもりが、一行たりとも進んでいないという体たらくなので頑張ります。詐欺してすみませんでした。