第四章 真実はいずこに
村を離れるに当たって、後に残していく仲間たちのことが気にかからなかったと言えば、嘘になる。傷を負ったエイミー、バルボア、力を失ったディートの三名と意識を失ったままのシェンク……何よりも、行方を眩ませたエルン。村にはまだ魔物が残っている。彼らの身の安全を考えると、シルヴィはユーリィに託して、アルトは残った方が良かったかもしれない。
ミズルカを旅立つ直前にユーリィに告げると、彼女は快活に笑って、その必要はないと言った。
「あたしが何故、ここに来たか分かる? 『蒼の騎士』として魔物退治に来ていたのよ。あなたたちが休んでいる間に全部倒したわ」
「なら、いいけど」
アルトだって、シルヴィの傍を離れたくないし、好き好んで廃屋へ戻ろうとは思っていない。必要がないならば、残るつもりなど毛頭ない。
雨はいつの間にかあがっていた。時刻は夕暮れで、燃えるような太陽が地平線の彼方へ沈んでいこうとしている。廃屋の方を振り返るが、戸外に出ている者の姿はない。移動手段の馬も近場に繋がれたままだから、村の外に出たとは考えづらい。
シルヴィのことを気遣っていたシェンクはさておき、敵意を向けたディートはもちろん、懐疑的だったバルボアやエイミーに対して複雑な想いがある。何よりも、シルヴィを刺したエルンは許し難い。彼らのことなどどうでもいい、と切り捨ててもいいのかもしれない。
だが、彼らとて戦友である。やはり見捨てると思えば、良心が痛まないと言えば嘘になる。
どうか無事で、と祈るような想いで廃屋を一瞥してからアルトはその場を後にした。
意識のないシルヴィを負ぶって、アルトはユーリィの後を追った。まともに歩けば小一時間は掛かるというので、途中守護騎士の力を用いて先を急いだ。
たどり着いたのは、廃村となったミズルカから小一時間馬を走らせた距離にあった。規模はそこそこ大きく、賑わいもあるため、小さな町と形容すべきかもしれない。良質な鉱石が取れるため、ラムダから少々距離はあるが、経済的には潤っているという。
血と泥にまみれたアルトとシルヴィの姿はひどく目立つ。人目に付かない裏道をたどり、ユーリィに案内されたのは、門番が立つ豪奢な屋敷である。隠れ家と形容するには、あまりにも立派すぎる。アルトが呆然と屋敷を見上げていると、ユーリィはくすくすと忍び笑いをした。
「教団がどうして強い影響力を持っているか、知っている? それはもちろん、救いを求める権力者の庇護があるからよ」
ユーリィが見張りの男たちの前に姿を現すと、彼らは恭しく一礼をして二人を通した。
玄関に入ると、五人ほど使用人の女たちが待ちかまえていた。女たちが清潔な手ぬぐいで雨や泥を拭ってくれるのにたじろいでいると、その内の一人がアルトの背中のシルヴィを預けるよう要求した。アルトは首を横に振った。
「悪いけど、シルヴィは預けられない。完全に信用しきったわけじゃないんでね」
すると、ユーリィが口を挟んできた。
「何はともあれ着替えをさせてあげたいんだけどね。あなたその場にいたいの?」
意地の悪い笑みを浮かべて、ユーリィが言った。アルトはたじろいだ。
「いや、それはちょっと」
「じゃ、大人しく引き渡しなさい。それともなに、ベッドも一緒じゃなきゃ嫌とかごねるつもり?」
ユーリィの顔が悪魔に見えた。アルトはそっぽを向いた。
「誰がごねるか!」
自然と声が大きくなる。ユーリィは楽しげに笑う。
「心配しないでよ、またちゃんと会わせてあげるから」
アルトはじっとユーリィの笑みを見つめた。そうだ、隠れ家についてから文句を言うのは遅すぎる。ひとまず信用すると決めたのだった。
「絶対、だぞ」
召使いの女にシルヴィを手渡す。背中が軽くなると同時に、不安も同時に募ってきた。シルヴィを恭しく運んでいく召使いたちを見送っていると、不意に腕に温もりを感じる。ユーリィが腕を絡ませ、アルトを見上げていた。
「ちゃんとアルトの部屋も用意してるから。さ、早く行こう?」
屈託のない笑みを浮かべたユーリィにぐいと腕を引かれる。
「お、おいちょっと……」
抵抗する余裕もなく、アルトはユーリィに引きずられていった。
ユーリィに案内された部屋は立派な屋敷に似つかわしく、調度品は見るからに豪勢であった。豪勢な部屋に気後れしながらも、アルトは足を踏み入れる。きちんと畳んだ替えの衣服と清潔な手ぬぐいが棚の上に置かれている。雨に濡れたあげく、泥まみれなのだ。汚れた衣服を脱ぎ捨て、体を拭いて着替えたいのは山々なのだが……部屋に当然のように入ってきたユーリィに視線を送るが、彼女はむしろずかずかとアルトに近寄ってきた。
「あ、そうだ。ここ、お風呂あるのよ。鉱山で湧いている温泉なんですって。……行く?」
ユーリィ満面の笑みで言う。アルトの表情は渋い。
「んー……そりゃ、行きたいのはやまやまだけど」
彼はぼりぼりと頭を掻いて、じろりとユーリィを見た。
「一人で、行きたいんだけど?」
声に力を入れて言う。するとユーリィは全く動じた様子なく、自然な動きで再びアルトの腕を取った。
「あらそう。じゃあ、お風呂まで案内してあげるね? 場所分からないでしょ?」
アルトは額を抑えた。
「中まで入ってくるなよ……」
ユーリィの瞳はまるで獲物を狙う猛禽類のごとく、である。その視線の意味に気づかないほどアルトだって鈍感ではない。
「やあね、そんなはしたないことしないわ。じゃ、とりあえず着替える? ボタンはずしたりするの、手伝ってあげよっか?」
「人の話を聞けよ」
アルトが嘆息する。
「仕方ないじゃない。だってアルトと一緒にいられるの、すごく久しぶりなんだもの」
ユーリィはアルトの腕にぎゅっとしがみつく。
「それにね、嫉妬しちゃったから。あたしだって、あなたから離れたくないんだもの」
ユーリィは頬を膨らませる。彼女が言う、嫉妬の対象が誰かなど聞くまでもないだろう。
その甘ったるい声に、出会った当日ならどきりとしただろうが、今日のアルトは酒の一滴も入っていないし、冷静だった。
「じゃあ、誤解を招かないように説明しようか。シルヴィは俺のことを命がけで二度も守ってくれた恩人でね。俺は彼女に恩義を感じている。手放したくないって言ったのには、そういうしかるべき理由があるんだが」
アルトは腕に取り縋るユーリィを鋭く見下ろす。
「お前には何の理由がある? 温泉よりも着替えよりも、俺は先にそちらを話して欲しいね」
部屋の中に沈黙が満ちる。張りつめた空気が漂う中、ユーリィは静かにアルトから腕を離した。そしてゆっくりと数歩分アルトから距離を取った。
「それもそうね。ごめんなさいね……あなたは何も覚えていないのに馴れ馴れしすぎたわ」
彼女は悲しげに微笑した。
「でも、どうか怒らないで欲しいの。あたしにだって、相応の理由があるの。あたしにとって、あなたは誰よりも大切な人なのよ」
そう切り出すと、彼女はぽつぽつと語り始めた。
精霊教団は各地にキルヒアナ王国の統治が及ばぬ隠れ里を作っていた。アルトとユーリィはその内の一つの隠れ里で育てられていた。とある一つの目的のため、英雄候補という美名の他、実験台あるいは生け贄とも呼ばれる役割であった。守護騎士の加護を救世主から授かるための子供たちであった。
十年前、精霊教団の幹部たちは歓喜に湧いていた。それは救世主が、教団の手によって保護されたからだ。人々に守護騎士の力を与える力を持った、伝説上にしか存在しないと思われていた人材である。
「救世主って……存在したのか?」
救世主の伝説など、アルトはまともに信じていなかった。所詮教団の戯言だと思っていたのだが、ユーリィは否定した。
「ええ、本物よ。だって、私のこの力は救世主様から授かったものよ」
ユーリィは右手の甲の魔法陣を撫でる。蔦と舞い散る花びらがあしらわれた魔法陣である。
「守護騎士団の八十の一族にしたってそう。建国当時の救世主様によって、力を与えられた一族の末裔なのよ。救世主様が全ての守護騎士の父。例外はないわ」
「なら、俺のこの力も救世主によって与えられたもの、ということだな?」
アルトは右手に刻印された魔法陣をかざす。ユーリィが頷く。
「そうよ。あなたもまた、救世主から力を授けられた人間なのよ」
「それで現在、救世主様とやらはご存命で?」
「亡くなったわ」
ユーリィの答えは簡潔だった。
「だろうな」
ある程度、予想はしていたことである。アルトは驚かなかった。
「生きていたら、新しい守護騎士なんてそう珍しいものじゃなくなってるはず。生きててこの有様じゃ、救世主様は何をしてるのやら」
守護騎士はいくらいても足りない。新たな守護騎士を生み出せる力があるならば、人の世のためにせっせと力を使うのが道理であろう。
皮肉げにアルトがつぶやくと、ユーリィは首を横に振った。
「死んでくれてよかったわ。だって救世主様の力は、あなたが思っているのとは全然違うのよ」
「どういうことだ?」
思わせぶりなユーリィの言葉にアルトが反応する。彼女は目を細めた。
「あの人が亡くなったのは、五年前のことだったわね……」
ユーリィは再び語り始めた。救世主が保護されたのは今から数えて十年よりも前の話だったが、長らくその力の使い方は不明だった。しかし五年前、ようやく救世主は力の使い方を思い出す。そして実験台として選ばれたのが、ユーリィとアルトだった。
守護騎士の力を授ける儀式は成功した。二人の幼い子供たちは力を得て、そのうち一人は授かった力を扱いきれずに、暴走させた。
「暴走した力は多くの住人……そして儀式を執り行った救世主様も巻き込んで、隠れ里を一夜にして滅ぼしたわ」
語るユーリィの表情は暗かった。
「力を暴走させた人物は、自らの力をひどく憎んだわ。そして、多くの人々を死に追いやった自分自身の存在を疎み、川に身を投げた」
ユーリィはそこで一度言葉を切った。彼女の明るい茶色の瞳は、憂いを湛えていた。
「まともに向き合うには、辛すぎる過去だもの。全てを忘れてしまったとしても、自分を守るために必要なことだったのでしょう。あたしはそう思うわ」
ユーリィの憂いを湛えた瞳は、まっすぐにアルトへ向けられていた。
アルトはユーリィが話す間、ずっと口をつぐんでいた。硬く瞼を閉ざし、腕組みしていた。今は薄く瞳をあけているが、どこを見つめているともしれない。
何も知らぬまま『裏切り者』と呼ばれ続けるのと、多くの人間を殺害した罪人だと自覚するのと、どちらがましだろうか。アルトはそんなことを考えていた。
「あたし、何か温かい飲み物でも入れてくるね」
ユーリィは席を立ち、そそくさと部屋を出ていった。
一人、その場に取り残される。静まりかえった部屋の中で、アルトはようやく一息つく。
確かに覚悟はしていたが、予想よりもずっと深刻であった。聞くんじゃなかった。心の底から思った。これならまだ、胸に靄を抱えながらも、何も知らされずに生きていける方がどれだけ幸せだろう。
だが、後悔したって仕方ない。もう知ってしまった以上、知らない振りは出来ない。
これから償いをしなければならない、とアルトは思った。彼の脳裏には、金髪をなびかせる少女の姿が浮かんでいた。
「罪滅ぼし、ね……」
ああならなければ、いけないのだろうか? 魔物との戦いに全てを捧げ、他のものは全て余計と切り捨てなければ、罪滅ぼしにならないのだろうか?
そこにユーリィが戻ってきた。不安げにアルトとの様子をうかがいながら、盆の上に白磁のティーポットとカップを載せている。カップには既に琥珀色のお茶が注がれており、ユーリィはその内の一つをアルトに差し出した。
「はい、これ。気分が落ち着くお茶だよ」
「ふーん。珍しい茶だな」
手渡されたカップから立ち上る匂いを嗅ぐ。お茶にさほど詳しい訳ではないが、妙に甘ったるい匂いには覚えがない。
「東方の珍しい茶葉だって。街道を通って、遠路はるばるここまでやってきたらしいよ」
「へえ。貧乏人には縁がないな」
遠方の品物は輸送に手間がかかるため、非常に高い値段を付けられる。特に東方は魔物の土地との境目で、交通路の整備があまり進んでおらず、尚更その傾向が強い。
「こんなご立派なお屋敷建てて、高い茶葉なんぞ常備してるんだから、ここのお屋敷の住人はよっぽどの金持ちと見た。そういえば、見てねえな?」
見たのは召使いの姿ばかりである。家の主人、およびその家族の姿はちらとも見ていない。一応礼の一つでも言った方がいいのだろうか、とぼんやり考えたが、
「ちょっと今、旅行中なのよ。留守だけど、好きに使っていいって言われているから」
「家族総出でバカンス? やっぱり金持ちは違うな、無駄な金を使うことにご熱心だ」
どうやら無理らしい。なら、別に悩む必要もないか、と考えたが……よく考えたら、教団の内通者である。礼を言う前に、むしろ守護騎士団に通報した方がいいのでは? ……とあちこちに思考が飛んでいると、
「ねえ、アルト。お茶が冷めるんだけど」
渋い表情のユーリィにたしなめられた。
それもそうだ。ようやくお茶に口を付けると、香りと同じく味も砂糖を一山放り込んだみたいに甘みが強かった。余計に気分が落ち着かねえぞ、と文句を言いたかったが、気を使って持ってきてくれたユーリィに言えるはずがない。
「そう、ちょっと聞きたいことがあるんだ。俺の守護騎士の力についてなんだけど」
話を切り出すと同時に、アルトはカップをテーブルに置いた。
「さっきユーリィは、俺の力は五年前に救世主から与えられたものだと言った。それで少し変だなって思ったんだけどさ」
アルトは己の右手の甲に視線を落とした。
「俺、二つ守護騎士の力が二つ授けられたってことだよな。ユーリィもそうなのか?」
「ううん、あたしは一つだけど」
ユーリィは力なく首を横に振った。
「あなたが二つ力を持つ理由は分からない。あたしも結局、実験台の一人に過ぎないのよ。救世主様じゃないし、研究者ですらない。あなたの質問全てには答えられない」
申し訳なさそうにユーリィがうつむく。それも言われてみれば、そうだ。
儀式から五年も経って守護騎士の力に目覚めた理由も聞きたかったが、この様子ではユーリィは知るまい。質問を変えることにした。
「じゃあ、二回目に力が目覚めたことなんだけどさ」
アルトは何も描かれていない左手の甲を上にして、ユーリィに見せる。
「ユーリィ、俺に二つ目の力が目覚めるときに割り込んできたよな? あれは何故だ?」
「それは……」
ユーリィが一瞬、口ごもったが、
「五年前の悲劇を繰り返さない為よ」
きっぱりと答えた。アルトは腕組みをした。
「右手の時は大丈夫だったみたいだが?」
「それは運が良かっただけよ」
ユーリィの声に力が入った。
声の強さにアルトは思わず彼女の顔を見返す。視線を感じて、ユーリィは忽ち我に返った。
「ごめんなさい、声を荒らげることじゃないわね。でも、分かってほしいの」
申し訳なさそうに、ユーリィは小さく背を丸めた。
「あなたに五年前と同じ苦しみを味わわせたくなかった。その一心だったの。あたしのせいであの女の子が救えなくて、あなたの怒りを買うことになっても構わなかった。悲劇から救えるものなら、それでいいと思った」
アルトは瞑目する。
「ふむ……」
一度目で失敗した以上、二度目に問題が起こらなかったとしても、三度目があれば止めに入る。ユーリィはアルトに並々ならぬ好意を寄せている。それはもう疑いようもないぐらい示されている。だから、止めに入った理由は理解できる。
だが、まだ彼女に聞きたいことは山のように残っている。
「一度目はルーイエで、二度目はラムダで俺に会ったよな? あれは偶然か?」
それにしては、出来すぎているような。言外に含みを持たせて言うと、ユーリィは微笑んだ。
「いいえ。私はずっと、あなたの行方を追っていたの。一度目も二度目も、白髪の少年の行方を聞きつけて街を訪れていた。精霊教団の一員として、十年前に姿を眩ませた実験材料を探していたのよ」
「へえ。それは連れ去るつもりで?」
「ええ。一回目はうっかり見送っちゃったけど、二回目は抵抗されないように酒で潰したところでお連れ様がぞろぞろとやってきたから諦めたんだけどね」
悪意を込めた質問をするが、悪びれることなくユーリィはすらすらと答える。シルヴィと比べても百倍ぐらい嘘の上手そうな奴だ。アルトは目を細める。
「うっかり? あのときの俺は一般人だったんだぞ? 守護騎士の力で強引に引っ張っていけば良かったんじゃねえの?」
「そうなのよ。まさか、力が目覚めるなんて思いもしなかったから。あの時誘拐出来ていれば、よかったのにねえ」
ユーリィは子供っぽく、舌をつきだす。この様子では話の不備を延々とつついても、大した収穫はなさそうだ。
「ふーん。じゃ、あの日、俺をとんでもない金額で買おうとした男は何なんだ?」
さっさと次の質問に移った方が、いくらか有益。そう思って話題を変える。
「アルトを買おうとした? 知らないわ。精霊教団の人かしら? 精霊教団の内部でも、あちこちであなたを探しているからね、私が知らない人かもしれない」
とぼけているのか、それとも本当に知らないのか。何食わぬ顔の下で何を考えているのか、読めない。
今のところ、ユーリィの説明そのものに不可解な点や矛盾はない。だが、何となく引っかかった。彼女に聞きたいことは百とある。だが、全て聞いても決して彼女に対する疑念は晴れないような――腹を割って話してくれている、という実感は得られないような気がする。
思い当たる理由は一つ、ある。
「なあ、ユーリィ。馬鹿な質問だと思うだろうが、誤魔化さずに教えてほしい」
アルトは一度、言葉を切った。短く息を吐いてから、続けた。
「お前は俺をどう思っているんだ?」
一見ふざけた質問に思えるかもしれない。だが、お遊びでも何でもない、これは真面目な質問である。
「さっき、ユーリィは俺のことを誰よりも大切な人だって言っていたよな? それは同じ実験台としての仲間意識か? それとも苦しみのあまり、記憶を失った俺への同情?」
アルトはじっとユーリィを見つめるが、彼女は黙っている。唇を硬く引き結び、薄く開けた瞳はテーブルの上に視線をさまよわせている。
「俺にはどれも少し違うように思える。そんな生やさしいものじゃなくて……」
「執念と呼ぶべきものなのでしょうね」
アルトの言葉を引き取って、ユーリィが言った。声とともに、彼女が立ち上がる気配がした。
「あなたが言うとおり、あたしがあなたに向ける感情はそんな生やさしいものじゃない。分かってくれているみたいで、とても嬉しいわ」
ユーリィは席を立つと歩き出す。アルトの傍らに立ち、座ったままの彼を見下ろした。中腰になると、アルトの耳元に唇を近づけた。
「でも、それ以上のことは知らなくていい」
耳に唇が触れるような距離で、ユーリィが囁いた。
「は? ユーリィ、何を……」
アルトがユーリィを振り返ろうとしたその瞬間、急に目の前の風景が霞み、次いで出掛かった声が途切れた。猛烈な眠気が、霧のように頭の中に広がっていく。
体から力が抜ける。ぐらりと上半身が傾いで、ソファーに倒れていこうとするところで、ユーリィの腕がアルトを支えた。
「てめえ……一服盛りやがったな……」
さっき飲まされた、あの妙に甘ったるいお茶が原因だ。ぴんと来たが、今気がついたところで遅かった。ユーリィを睨もうとしても、瞼は鉄の重石を取り付けたかのように重く、腕を払いのけようとするが、指はぴくりとも動かない。
ユーリィの腕がアルトを抱き寄せ、胸にぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫。何も心配しないで。あたしに何もかも任せて、少しだけ眠っていて」
細い指先がアルトの髪を愛おしげに撫でる。まるで赤子をあやしつけるような動作は、こんな状況に置いても不思議と心地よく、ますます眠気が膨れ上がっていく。
「あいつには……手を……出すな……」
瞼が落ちきり、意識が暗闇に沈むまでにそう時間は掛からなかった。
シルヴィが目を開けると、まずその暗さに驚いた。瞼を開けたはずなのに、まるで目を瞑っているかのように何も見えない。その次に驚いたことは、金属の感触だった。金属の冷たさは肌の温もりを奪い、手首と足首にずしりとその重みがのし掛かる。
暗さに目が慣れると、少しずつ周囲が見えてきた。部屋に明かりはない。ろうそくの炎どころか、窓一つ見あたらない。周囲には大量の木箱が積み上げられ、石の床に敷いた麻布に横たわっていることに気づいた。
「倉庫……?」
死後の世界と思いこむには、手と足の枷の存在が生々しすぎた。どう考えても死に至る負傷だったはずなのだが、自分は生きている。しかも体に疲労感はなく、傷を負う前よりもむしろ調子がいいぐらいだ。何故倉庫に放り込まれているのか、さっぱり分からない。
最後の景色はミズルカの廃屋だったはずだ。倒れた彼女を遠巻きに眺める同僚たち、そして何よりも最後の瞬間まで彼女の手を握っていた青年の姿……いずれも影も形も見あたらない。
「アルト……?」
シルヴィの唇から、無意識に彼の名前がこぼれ落ちる。しかし、彼女の声はむなしく部屋の中で響くばかりで返事はなかった。
彼も今は、自分の側にいないらしい。暗闇と手枷に動じなかったシルヴィの心に、不意に心細さがわき上がる。意識が途切れるまであった、彼の手のぬくもりが今はすっかり失われている。
「目が覚めたか?」
聞いたことがない男性の声だった。声からして若い男ではなく、中年程度であろうと推測される。
「ここはどこなの? 教えてくださる?」
彼も枷をつけられているらしく、鎖がこすれる音が聞こえてきた。
「お前は気を失っている状態でここに運ばれてきたのだったな。ここはわしの自宅じゃ。地下の倉庫に、こうして閉じこめられておる。やはり、お前もあやつにここに放り込まれたのか?」
「あやつ……?」
シルヴィには男性の言う人物に全く心当たりがない。身を起こして周囲を見渡すと、積み上げた木箱の陰に男性の姿があった。肥えた体に仕立ての良い服を身につけ、丸い指には高価そうな指輪がいくつもはまっている。暗闇の中、かろうじて見えた彼の顔には強い怒りの表情が刻まれている。
「あの女に、だ!」
男が体をぶるりとふるわせ、手を縛る鎖が鳴る。
「三日前、嫌々ながらも家に上げた途端、この様じゃ! わしはこの通り、ああ、妻や子供たちは一体どんな目に遭わされておるか!」
男は感情的になってわめき立てる。男の話は、シルヴィにはいまいち理解出来ない。
「ちょっと落ち着いて。私は何も分からないの。あの女って誰?」
「あいつは、あいつじゃ! 分からないか、貴様!」
男が声を荒らげる。鎖が擦れる音を騒々しく奏でながら、彼は叫んだ。
「あの小娘……『蒼の騎士』じゃ!」
「『蒼の騎士』ですって?」
シルヴィは目を見張った。精霊教団の最重要人物の名前に驚愕せずにはいられない。キルヒアナ騎士団が全力でその行方を追っている人物である。
「ちょっとあなた、詳しく話しなさい! ここはどこ、そして『蒼の騎士』が何故ここに? 教えなさい!」
シルヴィが物々しい剣幕で問いかけると、男性もさすがに違和感を覚えたらしい。
「貴様……教団の者ではないのか?」
シルヴィから逃れるように、木箱に身を寄せた。その問いに答える代わりに、シルヴィの右手の甲に四本杖をあしらった魔法陣の輝きがともる。
「守護騎士に聞かれたことは、素直に答えるのが一般市民の勤めよ」
魔法陣から放たれた光が、シルヴィの腕と足に流れこむ。彼女が手足に力を込めると、手枷と足枷は二つに割れて弾け飛んだ。立ち上がると同時に、足下に転がった枷の残骸を蹴りつける。
「勤めを怠れば、どうなるか分かっているわね?」
砕けた鉄製の枷が男の足下に転がる。男が腰を抜かし、悲鳴を上げる。
「こ、ここはマーリン、その筆頭役人の館だ! あ、あいつが何をしにきたかなんて知るもんか!」
「この館、私以外に誰か連れてこられたの?」
シルヴィは男に詰め寄る。愛用の細剣の重みは腰にあった。それを抜き放つと、男の短い首に突きつける。
「わしはユーリエルの奴に三日前にここに放り込まれたっきりじゃ! あんた以外の人間は見ておらん!」
男は太った体を震わせながら、シルヴィを怯えた目で見上げた。
彼から聞くべき情報はない。魔法陣の光で照らし出された部屋を一瞥し、扉を見つける。開けようとするが、当然のように鍵が掛かっている。無論、シルヴィに鍵開けの技術などないし、あったところで時間を費やすつもりはない。足に魔法陣の力を込め、蹴りを放つ。すると、木製の扉は粉々に吹き飛んだ。
柔らかな絨毯が敷き詰められた廊下に出ると、シルヴィは守護騎士の力を使用したまま駆け抜ける。無人の廊下を進み、階段を上る。玄関口に面しており、フード付きの上着を羽織った女の後ろ姿が見えた。
「そこの女、止まりなさい! 両手をあげて、こちらを向きなさい」
シルヴィは細剣を突きつけながら、女の後ろ姿に呼びかけた。すると、女の笑い声が玄関ホールにこだまする。
「ごめんなさいね、両手はあげられないわ。あげちゃったら、床に落としてしまうもの」
確かに女の両手には、人間を抱えている。比較的小柄な彼女よりも大きい。見覚えのある白髪の少年の姿を認めたとき、シルヴィは息が詰まるような感覚に襲われた。
女はゆっくりとこちらを振り返った。アルトを抱える両腕には青い光を纏い、その源は右手の甲の蔦と花をあしらった魔法陣にある。炎のような紅の髪が揺れ、茶色の瞳がシルヴィを見た。
「お久しぶりね、守護騎士様。出来ることなら、二度と会いたくなかった」
目があった瞬間、婉然と女が微笑む。シルヴィは無表情に、もう一度細剣の切っ先を女に突きつける。
「あなたに言うのは、二度目ね。……彼を離しなさい」
「なぜ?」
女は笑いながら言った。二カ月前の夜のように。
「五年もずっと離ればなれだったのよ? もう二度と離れたくないし、誰にも渡さない」
腕の中で眠るアルトを見つめている。その表情は、我が子を慈しむ母親のように優しい。
会話に応じる気は微塵もないらしい。シルヴィは細剣を握る手に力を込めた。
「返す気がないのなら、奪い返すだけよ」
眩いばかりの黄金の光をまとい、細剣を構え、一本の矢のように女……『蒼の騎士』へ向かって飛ぶ……はずであった。
シルヴィの足が床を蹴ると同時に、『蒼の騎士』の右手の魔法陣が輝きを放つ。シルヴィの体が床を離れ、そのまま加速を続けようとしたが、右足首に紐状のものがぐるりと巻き付く。まるで床から生えた腕に足首を捕まれたようだった。シルヴィの体は床に叩きつけられ、全身に激痛が走る。
痛みに呻く間さえなく、足に絡みついた蔦が全身を縛り上げる。右足に限らず、左足を絡め取り、魔法陣が輝く右腕が軋むほどにねじり上げる。全身を締め付ける痛みに、声にならない悲鳴をあげると、今度は喉を蔦が締め付ける。
「アルトが怪我したら、どうするの? あんた殺すわよ?」
『蒼の騎士』のぞっとするほど冷たい声を、シルヴィは酸欠で混濁する意識の中で聞いた。
お前の手に渡すわけには行かない! 叫びたかったが、首を締め付ける蔦で声を出すことはおろか、呼吸をすることさえままならなかった。両手を延ばして蔦を外そうとするが、右手はおかしな角度に固定されて動かないし、届いた左手は蔦の表面をむなしくひっかくばかりである。シルヴィが再び死を覚悟したところで、不意に蔦の力が緩んだ。突然蔦の戒めから解放され、床に叩きつけられた。
窒息死寸前まで締め付けられた喉を押さえて、激しくせき込む。そうして身動きがとれない内に、女の声が聞こえてきた。
「お仕置きはこの程度にしておいてあげるわ。万が一、あんたが死んだと知ったら、アルトが悲しむからね」
涙で滲む目をこじ開けると、何故か立ち去ったはずの『蒼の騎士』がアルトを抱えたまま目の前にいる。
これが最後のチャンス。シルヴィは震える手で、手放してしまった細剣に手を伸ばす。何の気まぐれか知らないが、戻ってきたのならみすみす逃がす手はない。細剣の柄に指が触れる。震える手が柄を掴もうと手を開くと、その真上からブーツを履いた足に踏みつけられた。指が砕けそうな痛みに悲鳴をあげるシルヴィを、『蒼の騎士』は冷ややかな目で見下ろしながら、足の力を緩めない。
「あたしは、あんたを殺したくてたまらないんだけどね。涙ながらに殺してくれと頼んでくるまで痛めつけ、それからぶっ殺してやりたいのは山々なんだけど」
言い終わると同時に、『蒼の騎士』はシルヴィの手から足を退ける。その足で細剣を遠くに蹴飛ばす。シルヴィの目が細剣を追い、ふらつく足で立ち上がろうとした。そこに、『蒼の騎士』の爪先が顎を勢いよく捉えた。顎を蹴飛ばされ、後頭部を床に打ち付け、意識は今にもばらばらになって吹き飛んでしまいそうだった。
「アルトを戦いに巻き込んだあんたのことを……あたしは絶対に許さない」
呪詛を紡ぐような声が朦朧とした意識の中で、響いた。耳にこびり付いて一生離れそうにないほどの、怨嗟が込められている。シルヴィはぼんやりとしか見えない女の顔を、必死に睨みつける。
「あら、そう。どうぞ、ご自由に」
シルヴィは引き攣る唇で、不敵に笑う。くっきりと赤い跡を残した首もとや、今にも砕けそうな指の痛みが、シルヴィから言葉を奪おうとする。それでも尚、彼女は『蒼の騎士』に語り掛ける。
「恨みたければ、恨めばいい。あなたの許しなど、いらない。私は誰の許しも乞わない」
真正面から、女の恨みを受け止める。
霞む目に、女の表情はぼやけてほとんど映らない。だが、煮え立つような怒りは見ずとも伝わってくる。極大に膨れあがった敵意は、針のようにシルヴィの体を突き刺す。
「お前は、最低の人間だ……!」
女の低いつぶやきが聞こえた。
足音が廊下に反響する。アルトを抱えた女の姿が遠ざかる。追わねば、と焦る気持ちとは裏腹に、痛めつけられた体はシルヴィの思うとおりに動かなかった。待て、と叫ぼうにもうまく息が吸えない。
ぼろぼろの体を押して、ふらりと立ち上がると、たちまち目眩がして、壁にもたれる。顔を上げられるようになった頃には、既に『蒼の騎士』の姿はない。立ち上がるのが、遅すぎたのだ。このまま、放っておくほうがいいのかもしれない。シルヴィは痛む体を、再び壁に預けながら思う。
女が戦うのは、アルトを守るためだ。だから、アルトを戦いに巻き込んだシルヴィを心の底から憎む。恨まれて当然だ、と分かっている。本当に彼のことを想って行動しているのはシルヴィではない。あの女なのだ。シルヴィ自身、己の偽りを分かっている。初めて会った夜に、あの女も見抜いている。
守護騎士だから、戦わなければならないのではない。それはあくまで建前に過ぎない。本当は戦うと決めたから、戦うのだ。分かっているけれど、シルヴィは知らないふりをする。理想と義務に殉じる生真面目な騎士と呼ばれても、否定しない。実際は違って、己の小さな願いのために戦い続けているのに。だが、あの愛情と憎悪を宿した目は、シルヴィの偽りを見抜き、矛盾を決して許さない。
確かにアルトを何度か守ったのは事実。でも、彼のためではなくて、全てはシルヴィ自身の幸福のために過ぎない。彼のために戦ったことなど、一度もないのだ。
そんなシルヴィを、アルトはどうしてだか信じてくれた。体から命が流れ出てゆく際に、握ってくれた手のひらの温かみを忘れてはいない。死の間際で嬉しかったのも、彼を守りたいと思ったのも、全部嘘じゃない。でも、息を吹き返したシルヴィはやはり彼のためだけに戦おうとは思っていない。それでもシルヴィは、あの女の前に立ちはだかって本当によいのだろうか?
壁により掛かって、目を閉じていた。その背後に、人の気配を感じた。
「あの……手当を、させましょうか?」
振り返ると、仕立てのよいドレスを纏った中年の女性が立っていた。この館の主の妻らしかった。傍らには、先ほどの太った男が控えている。
「私が何者か、分かっているでしょう? 教団の者じゃないわよ」
「無論ですよ、キルヒアナ騎士団の守護騎士様。あなたは本来、私たち教団を弾圧する敵です」
妻が答える。彼女の手の中には、『蒼の騎士』に蹴飛ばされた細剣がある。女はシルヴィの元へ歩み寄ってくると、細剣を差し出した。
「ですが、今は争っている場合ではありません。『蒼の騎士』……いえ、そんな大層な名前で呼ぶのは止めましょう。血迷ったユーリエルを止めるには、守護騎士の力を持つあなたにしか出来ませんから」
「ユーリエル? それは……『蒼の騎士』のこと?」
『蒼の騎士』は救世主と精霊に次ぐ教団の象徴であったはずだ。それをわざわざ呼び捨てにするのだから、彼らも本気だということを見せたいらしい。
「そうだ。あんたにはあの小娘を追ってほしい。力付くでも構わん、それにどんな報酬でも出す。とにかく奴を止めてくれ」
倉庫から彼も脱出していたらしい。館の主が憮然とした様子で言う。
シルヴィは押し黙る。あの女を追うべきか、否か、考えている。
彼のためを考えるなら、追わない方がよい。だが、シルヴィの行動を決めるのは、シルヴィ自身の意志だ。
「頼まれるまでもないこと。協力してくれるなら拒みはしない」
シルヴィは夫人が差し出す細剣を受け取った。己の意志に従うならば、他に答えはない。
「でも、その理由は聞かせなさい。教団の敵である私を頼る理由とは、一体何?」
ありがたい話だけに、その裏を知らずにいることは極めて危険なことのように思われた。シルヴィが問いかけると、館の主はきらびやかな指輪がはまった手を組みながら、厳かな口調で言った。
「この世で最も尊い命を救うためだ。どんな犠牲だって払おう」
ここは教会の聖堂らしかった。目にも鮮やかな赤の絨毯は祭壇の上まで覆い、天井には見事なフレスコ画が描かれている。跪く鎧姿の男に、彼の頭に手をかざすローブ姿の男。そして、彼の手から透き通った体の女が姿を現している。額から角を生やし、先端が尖った耳は女が人ならざる身であることの証左。見知らぬ、だが奇妙なことにどこか懐かしい風景のように思われた。
『ここは夢ではありません。この世界はワタクシの住処。アナタを招くのに、随分と時間が掛かってしまいました』
聞き覚えのある声が響いて、アルトはすぐに顔を上げた。この特徴的な……竪琴をかき鳴らしたような美しい声。力が目覚める度に、頭に直接語りかけてきたあの声だ。
しかし、今回は普通に耳を通してその声を聞いている。きょろきょろと周囲を伺うと、声の主は予想通りの場所にいた。
『お久しぶりです、アルト。それとも、一応初めましてと言うべきかしら? アナタの好きな方で構いませんよ』
「え、いや、あの……それはどっちでもいいんだけどさ」
アルトは怖々と、女の体を指さした。
「あんたは魔物……か?」
女は額から角を生やし、鋭く尖った耳を持つ。そして、その艶めかしい線を描く体は向こう側が透けて見える。指さされた女は声を弾ませて笑う。
『無論、違いますよ』
「じゃ、化けて出た人間?」
『失礼な。ワタクシを勝手に殺さないでくださいまし。こんな身ですが、まだ死んだことはないのですよ』
異形の女はにっこりと微笑してみせた。
『やはり初めまして、と言うべきのようですね。そういうわけで、改めまして。ワタクシの名はペトラ。以降はお見知り置きを』
半透明の体を折って、ペトラと名乗った女がお辞儀する。
「え、えっと、ペトラ? あんたは魔物でもなければ、人でもない。なら、あんたは……」
アルトは天井を見上げる。鎧の男、ローブ姿の男、そして目の前の女と寸分違わぬ異形の女の姿が描かれている。この三者が意味するところは、なんとなく予想がつく。
『そうです。ワタクシは精霊。この世の理を司る四大精霊のうちの一柱。そして、アルト。アナタは……』
ペトラの透き通った手がアルトの頬に指を伸ばす
『精霊を体に宿し、そして力なき人々に守護騎士の加護を与えるただ一人の存在。人々は救世主と呼ぶのでしたね』
実体のないペトラの指が頬に触れた感触はない。だが、その手で激しく殴られたような衝撃を受けた。
「救世主は死んだ。そして、俺は単なる実験台に過ぎなかった。そうユーリィは言っていたけれど?」
ペトラの繊細な線を描く眉が顰められる。
『あれは何一つ、真実を語っていませんよ。自分にとって都合良い嘘を並べ立て、アナタを欺いたのです。アルト、まさかあの女を信じているなどと言いませんね?』
「いや……」
アルトは苦りきった表情を見せる。
「一服盛られて、尚信用するほど俺は馬鹿じゃないよ。……それにさ」
魔法陣が描かれた右手にアルトは視線を落とす。
「俺が救世主だというのなら、記憶を失ってから五年たった後で力に目覚めるというのも、続けざまに二つ目の力が芽生えようとしたのも、俺が実験台としたらなんだか変な話だけど、救世主だとすれば全部説明が付く。俺は自分で自分に力を宿したってわけなんだな」
他にも説明できることがある。あの不審な男の正体はやはり精霊教団の使いであり、慇懃な態度は救世主に向けられた忠誠心であったとすれば、辻褄が合う。
ペトラは嬉しそうに笑う。
『正解。まったくその通りです』
実体のない手でペトラはアルトの頭を撫でる。当然、髪に触れることも出来ず、通り抜けるばかりである。
『あの女はとんだ不届き者です。アナタのおかげで守護騎士の力を得たというのに、それを隠してアナタを自らと同じ立場と偽ったのです。おまけに隠れ里を滅ぼした犯人に仕立て上げるし……いいですか、アルト。あの女を二度と信用してはなりませんよ』
ペトラはアルトに険しい表情を向ける。
「ん……」
が、アルトは生返事をよこす。
「いや、ユーリィが色々嘘ついたってのは、はっきりした。でも……理由は?」
『知らずとも良いのです』
ぴしゃりとペトラが遮った。
『あの女が何を企んでいるかなど、知ったことではありません。分かっていないようですから、もう一度言います。あの女は反逆者です。アナタの敵です。そして、敵は倒すものです』
ペトラがアルトを見下ろす目は鋭い。
『ですが、あれは手練れです。今のアナタでは勝てるとは思えません。だから、ワタクシがアナタにまた新たなる力を授けましょう』
アルトの左手に、透き通った手のひらが重ねられる。
『ワタクシはアナタが望みさえすれば、いかなる力であれ授けることが出来ます。ですから、目を覚ましたら望みなさい。あの女を上回る力を寄越せと真摯に願えば、ワタクシは必ずや力を授けましょう』
アルトは己の手のひらに重ねられた精霊の手を、じっと見つめていた。
ペトラがもたらした力は、一度目は確かにアルトの命を救った。二度目はユーリィに邪魔されて発現しなかったが、きっとシルヴィの命を救っただろう。彼女の力は本物だ。既に二度、この目で見たことである。三度目が起きることを想像するのは容易いことだ。
アルトは視線をあげた。額に角を生やした異形の女の顔を見上げた。
「なあ、ペトラ。俺は自分の記憶を取り戻した訳じゃない。ユーリィやお前が話したことは、整理が追いついていないんだ。自分が一体何者なのかまだよく分からないし、何を信じていいのか、何を疑えばいいのか、全く分からない」
ペトラは唇を綻ばせ、黙ってアルトの話に耳を傾けている。まるで子供の話に耳を傾ける母親のような風情で、彼を見下ろしている。
「だから、お前にも訊ねたい。お前は何故、俺に手を貸す? お前は本当に俺の味方なのか?」
疑惑のまなざしを受けてなお、ペトラの微笑は揺るがない。
『アナタの味方、というのは少し違いますね。誰の味方、と問われれば、ワタクシは人間たちの味方です、と答える他ありません』
ペトラは透き通った両腕を天井に向けて、広げる。
『他の三体の精霊達は皆、滅ぼされようとしている人間達を見捨て、この世への干渉を全て絶ちました。武器を持たぬ人間達に、魔物に対抗する術を与え、生きる道を示したのはこのワタクシただ一人』
彼女の視線は、例のフレスコ画に注がれている。精霊が救世主に、救世主が守護騎士に力を授ける。彼女は目を細める。
『アナタを害することは、すなわち人間全体を害することに繋がります。ですから、結果的には、ワタクシはアナタの味方となる可能性が高いと言えましょう』
ペトラの視線は天井のフレスコ画にあったが、彼女の想いは別のところにあるようだ。切れ長の美しい瞳は、天上よりも遥か彼方を見上げているようだった。
「人間たちの味方、か……」
ペトラの返答は心強いとも、心細いとも言えなかった。理由の分からないユーリィの愛情よりも、人ならざる精霊らしくもっともらしいと思う反面、掴みどころのなさが不安を掻き立てる。アルトの声を聞き、ペトラは天井を見上げるのを止めた。
『詳しくお話ししてあげたいところですが、生憎アナタがここに留まれる時間は限られています。もう、そろそろのようです』
ペトラの透き通った体が、その末端から光の粒子へと分解されていく。周囲の聖堂の景色もぼやけ、段々と色が褪せていく。
「ちょっと待ってくれ! 聞きたいこと、まだ残っているんだ! ユーリィは嘘しか言っていないと言ったな、ならお前が真実を教えろよ!」
アルトは慌てて、ペトラに取りすがった。
「それに、シルヴィのことだって知ってるんだろ! あいつは今どこにいる? 無事なのか、教えてくれよ!」
散りゆく光の粒子に手を伸ばすが、ペトラの姿の崩壊は止まらない。
『あなたは選ばれし救世主なのです。例え姿が見えなくなっても、ワタクシの加護はいつでもアナタと共にあることをどうか忘れないで』
ペトラの全身は光の粒子となって、散っていく。同時に聖堂は色を無くし、視界は真っ黒に塗りつぶされる。再び意識が閉ざされていった。
目を開けると、一面に星空が広がっていた。頬を湿った風が撫でていき、ここが屋外であることを認識する。瞼をこすろうとすると、腕に自由が利かない。蔦が手首に絡みつき、動きを阻害しているためであった。
「ごめんなさいね。本当はこんなひどいこと、したくないの。でも、あなたが暴れては困るから」
ユーリィの顔が目覚めたアルトの視界に映った。その表情は憂いを湛え、悲しげに彼を見つめている。
「終わったら、すぐに外してあげる。だから、それまではどうか大人しくしていて」
アルトの右手首に、ユーリィが指を走らせた。ア肌を撫でる指の柔らかな感触に嫌悪感が走り、顔をしかめる。
「ユーリィ。俺をどうするつもりだ?」
自由が利かないのは、腕だけに限らない。足や腰にも巻き付いている。一本や二本では利かず、幾重にも厳重にアルトを締め上げている。
「どうするもこうするも。あたしと一緒にここから逃げるのよ」
ユーリィは顔をしかめるアルトとは対照的に、柔らかな微笑を浮かべた。
「ここにいれば、あなたは否応無く戦わされることになる。だから、逃げるの。あなたが戦わなくても、戦うことを決して求められない楽園へ」
「戦わなくてもいい、楽園……?」
アルトは眉を顰める。何をこの女は言っているのだろう、と思った。この世界には魔物が蔓延っている。守護騎士が戦いから逃げるわけにはいかないのに。ユーリィは何が嬉しいのか微笑を絶やさない。
「そう。ここにいれば、誰も彼もあなたに戦うことを求めるでしょう。だから、逃げるの。遊んで、笑って、永遠に戦わずとも生きていけるところへ」
彼女のつぶやきと同時に、アルトの体を縛り付ける蔦の力が緩む。腕をユーリィに引かれ、身を起こす。すると夜の闇に閉ざされていた周囲の景色がアルトの目に飛び込んできた。
遺棄された小屋が建ち並ぶ廃村――ここはミズルカだった。アルトたちは屋根の上から、地上を見下ろしている。目の前の光景から、そのことを理解するのにしばらく時間が掛かった。
足下に暗闇は存在しなかった。何故ならば、辺り一帯を赤い光が埋め尽くしており、まるで絨毯を敷き詰めたようであった。これが魔物の瞳の光の群であったと気づいた瞬間、アルトは驚きの声を漏らすことさえ、出来なかった。
魔物の種類は様々であった。力が発現した当時に戦った【黒犬】やこのミズルカで倒した【妖魔】はもちろん、未だかつて見たことのない種類のものも多かった。岩を積み上げたような化け物に、武器を携えた人骨があれば、鋭い牙を剥く四足獣がいる……ここがキルヒアナ王家の結界の中とは到底思えない光景が広がっていた。
ユーリィの歓声が、魔物達がひしめくミズルカに響きわたる。
「さあ、行きましょう。魔物達の世界へ!」
シルヴィが館を起ったのは夕暮れ時だった。『蒼の騎士』と遭遇したのが昼頃で、一通りの手当を受けると夕闇が迫る時刻になっていた。借り受けた馬を全力で走らせているが、マーリンからミズルカに到着する頃には夜が来るだろう。
シルヴィがミズルカを目指す理由は単純であった。『蒼の騎士』の姿はマーリンの街中で目撃されており、彼女が向かった方向はすぐに判明した。加えて、館の住人たちが『蒼の騎士』が連日ミズルカに向かっていたことを証言した。そう、館の住人たちは手当の間に、シルヴィに問われるがままに全ての質問に答えたのだ。『蒼の騎士』のことのみならず、アルトの正体を含め。
精霊教団が崇めていた救世主とは、アルトのことだった。このことを知っているのは、教団の中でも一握りの幹部だけであった。五年前、隠れ里で行われた儀式に失敗し、救世主は行方をくらませた。方々で手を尽くして探し回っていたが、つい最近になってようやく白髪の少年の存在を掴んだ。彼を迎えに、使いの男――【黒犬】に食いちぎられて死んだ、あの不審な男――が出たが、精霊教団に保護される前に、キルヒアナ騎士団への入団が決まり、教団は手出しが出来なくなってしまった。
「あの方は、この世界を救うことが出来る唯一のお方。どうか、どうか救い出してください……」
出発の際、館の主人は床に跪いて見送った。当初の高圧的な態度は微塵もなく、藁にもすがる想いでシルヴィを頼っているのであった。
まさか、救世主が実在したなんて。しかも、あのアルトが救世主だったなんて。
この世で最も尊い命と言えば、キルヒアナ王家の結界使いのはずであった。彼らでさえ、この世界を守る以上のことは出来ない。新しく強大な力を持つ守護騎士を生み出すことが出来るなんて、しかもその正体が彼だなんて。俄に信じ難い。
アルトが元から、人類にとって貴重な人材であることは承知していた。シルヴィとは比較にならないほどの強力な力を持ち、魔物との戦いの歴史を変える逸材となりうることを理解していた。だが、予想を遙かに越えて、彼には高い価値があった。
何があっても、取り返さなければならない。どんな手を使ってでも、彼を救い出さなければならない。
そのためには、あの女と戦わなければならない。『蒼の騎士』として数々の武勲を打ち立て、先程為すすべもなく捻じ伏せられた相手に勝たなければならない。
館の住人にも、当然『蒼の騎士』のことを尋ねた。彼女の弱点を知らないか、と詰め寄ったのだ。しかし、彼らの返答は意外であった。彼女のことは、教団の中でも高い地位を占めている男でさえ、よく知らないのだという。
「『蒼の騎士』……ユーリエルが我々の前に姿を現したのは、ここ一、二年前の話じゃ。五年前、救世主様と同じく姿を眩まして以降、行方が知れなかった。姿を眩ましていた時期、何をしていたのか知っているのは本人だけじゃな。何を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張りよ。救世主様から力を授かった次の瞬間、意識を失った。その後のことは何も覚えていない、とな」
館の主人は気味悪そうに、『蒼の騎士』――ユーリエルという名の少女のことを語った。
『蒼の騎士』の名が広まったのは、彼女が教団に姿を現した時期と重なる。男が語るとおり、ユーリエルが教団に現れる前の足跡を知るのは至難の業であろう。
夜の帳が降りても、シルヴィは馬を走らせた。夜間に馬を走らせることは危険であったが、構っていられなかった。借り受けたランタンと魔法陣の輝きで道を照らし出し、休み無く馬を飛ばしていた。シルヴィの姿は当然、よく目立った。ミズルカへの道中で、対向したシェンク達にすぐさま発見されたのは当然のことだった。
「シルヴィ、貴様、無事だったのか!」
彼女の姿を認めるやいなや、シェンクが馬上から叫んだ。上官の懐かしいとさえ思える声を耳にして、シルヴィは馬の足を緩めた。
シェンクの周囲には、他の隊員の姿もあった。バルボア、それにディートとエイミーの姿もある。彼らがシルヴィを見る表情は複雑であったが、シェンクは純粋な安堵の色があった。少々迷ったが、彼らの元にシルヴィは歩みを進めた。
「隊長こそ、よくぞご無事で! ところでアルトを知りませんか?」
淡い期待を込めて、シェンクとその部下の顔ぶれをもう一度確かめるが、やはり白髪の青年の姿はない。
「アルトなら、さっきミズルカで……赤い髪の女と一緒に見たが……」
「何ですって? なら、早く行かなきゃ!」
シルヴィは馬を降り、右手の魔法陣が一層強い輝きを放つ。ミズルカまで距離は少しあるが、急ぐならば守護騎士の力で全力を出した方が速い。勢い込んで飛び立とうとしたシルヴィだったが、シェンクに腕を引かれた。
「待て! ミズルカには行くな。このまま、俺たちと合流しろ。そのままラムダに帰還するんだ」
シェンクが険しい表情で告げる。しかし、シルヴィは掴まれた腕を鋭く振り払った。
「アルトを見捨てろというの?」
敵意さえ込めて、シェンクを睨みつける。すると、そこで初めて上司が悔しげに唇を噛みしめ、苦渋の決断を下していることに気づいた。
「数が多すぎる。あの魔物の群を相手に、一体我々に何が出来る?」
シェンクは力なく、首を横に振る。未だかつて見たことがない弱り切った様子にシルヴィは呆然とする。ミズルカには一体、どれほどの魔物が潜んでいるというのか?
強く拳を握るシルヴィの右手に、魔法陣が輝く。黄金の光は彼女の足へと流れ込み、人並み外れた脚力を与える。彼女の一蹴りは、易々と彼女の体を夜空に運び、シェンク達の姿は後方に流れていく。
上司の制止の声が聞こえた。だが、シルヴィは止まらなかった。地面に着地する度に、前へ進むことを選び――間もなく、ミズルカの恐るべき光景を、空中から眼下に望む。
紅の瞳の群が、蠢いていた。一部の隙間もなく、ミズルカの村の地面に紅の光が暗闇の中で灯る。その光景は、地獄を描ければこんな絵になるであろうと思うほどに生々しい。
数を数えようと言う気にもならない。三桁は軽い。四桁いても全く不思議ではない。ここは双子姫が守る結界の中心部から相当離れているため、何匹か紛れ込むことはよくある。だが、この夥しい数の魔物が発生するなどあり得ないはず……。
魔物に取り囲まれた廃屋の屋根に、二人の人間の姿が見えた。一人はフードを被った女の姿。そして、もう一人は蔦の戒めを受けた少年……暗闇に浮かんだその白い髪は見間違えようもない。
彼の名前を今すぐ叫びたい衝動に駆られた。今すぐにでも安否を確認したい。だが、この無防備な空中でやれば確実に『蒼の騎士』の蔦に捉えられる。はやる心を抑えて、シルヴィは一度地面に降り立ち、気配を殺すことに専念する。
不意さえ打てれば、勝機はある。夜陰に紛れて、近づくしかない。冷静にアルトの救出手段を頭の中で考えている最中であった。
村中の魔物たちが、一斉に咆哮した。異形の化け物達の不揃いな叫びは、夜の静寂を打ち破り、空気を大きく震わせる。一体、何事だ? 空高く響きわたる魔物の声にシルヴィは思い切り顔をしかめる。
魔物たちの声はすぐに止んだ。わずかな余韻を引いて、再び村には静けさが戻る。音もなく草むらに身を隠したシルヴィは、ほっとして胸をなで下ろす。幸い魔物の姿はここにはない。まったく、良からぬ前兆かと緊張したものだ……。
その予感は、誤りでなかったことがすぐに判明する。一匹の魔物の絶叫が……断末魔が、響く。シルヴィが反応して顔を上げる。その次の瞬間、シルヴィは思わず耳を塞いだ。
魔物の最期の叫び声が村中からあがる。【黒犬】の遠吠え、【妖魔】の絹を裂くような甲高い声、【一角獣】の嘶き……数え切れないほどの魔物たちの声は、最悪のコーラスを奏でていた。耳を塞いでも尚、鼓膜を震わせる絶叫にシルヴィは歯を食いしばって耐えた。
魔物たちの悲鳴はそう長く続かなかった。生命力の高い【牛頭】の叫びが途切れ、ミズルカはまた静けさを取り戻した。
シルヴィは細剣を抜いた。抜いた細剣が震えていることに気づき、己の手が震えているせいだった。シルヴィは並大抵のことでは自分は動じないと思っていた。いいや、こんな時こそ、落ち着かなければならない。自分にそういい聞かせ、そろりと草むらから顔を出した。
村中に灯っていた紅の光は途絶えていた。地面にはささやかな月の光を受けて、数え切れぬほどの魔物の死体が折り重なっていた。【妖魔】の首に【黒犬】が食らいつき、【骸骨】が振り下ろした剣が【黒犬】の首をはねている。【牛頭】が抱える巨大な槌が【骸骨】の頭蓋を粉々に砕き、【石人形】に首を絞められ、【牛頭】は泡を吹いている……。
魔物が魔物を、殺している。人が人を殺すことはままあっても、魔物同士の殺戮は前例がない。
鼓動の音が耳に響く。戻った方がいい、今すぐ引き返せ。そう囁きかけるのは、本能の声だろうか? 足はまるで棒きれになったみたいに力が入らず、今にもその場で倒れてしまいそうだった。
いつまでもこうしてはいられない。細剣を杖代わりにして、なんとか歩き出す。すると、静かになったミズルカで再び声が聞こえてきた。
「あら、あなた……こんなところまで来るなんて、馬鹿ね」
夜空に響きわたるのは、女の含み笑いだった。
「折角、一度は見逃してあげたのに。どうあっても死にたいみたいね」
『蒼の騎士』は廃屋の上から、シルヴィを見下ろしていた。血の付いた刃物のように、冷ややかで残酷な笑みをたたえていた。
「なら、その願い……叶えてあげるわ」
ユーリエルという名の少女は、右手を掲げた。澄み渡る蒼の光が、シルヴィの目にも鮮やかに輝いた。
魔法陣から放たれる光は、自分の柔な結界では防ぎきれない。正面から相対した時点で、敗北だ。そうと知って尚、シルヴィは細剣を握る。その切っ先をまっすぐに女に突きつける。
「やれるものなら、やってみなさい! 私はシルヴィ! 『蒼の騎士』……ユーリエルとか言ったわね? いい加減にしなさい!」
黄金の光を纏った細剣の切っ先が震える。シルヴィの叫びに、ユーリエルは唇をゆがめる。
「おやおや、何であたしの名前知ってるのかな、シルヴィちゃん? もしや、あの豚野郎が喋ったのかな? まったく今度、会うことがあったらバラバラにして肉屋に売りつけてやらなきゃ。その隣にあんたの死体も並べておこうか?」
ユーリエルの魔法陣から、蔦がずるりと蛇のように姿を現す。一本や二本ではない。人間の腕ほどもある蔦が、夜空の月を覆い隠すほどに伸びている。
彼女の茶色の瞳が、かっと見開かれる。
「まあ、あんたの死体は地獄の底の方がお似合いかしら!」
魔法陣から蔦が、シルヴィめがけて殺到する。恐るべき速度で飛来し、辛くも黄金の障壁は間に合い、蔦の行く手を阻む。が、紙のように貫いて蔦は直進する。力の差に驚く暇など、どこにもない。左手で幅広の短刀を抜き、こちらも黄金の光を纏う。
上等だ。味方に刺されて死ぬよりは、敵にくびり殺される方がずっといい。強いて言えば、相手が魔物ではないことが不満だけれど……過ぎた我が儘と言うべきであろう。
死への覚悟を決めたシルヴィの視界に、翡翠の光がちらついた。そのことに気づいて、裂帛の声と共に繰り出した斬撃を慌てて外した。
シルヴィの黄金の刃は、アルトの白髪を一本断ち切ったところで止まった。彼の翡翠の瞳が、ちらっとシルヴィを見た。
「危ねえだろ。もっとちゃんと外してくれよ、当たるんじゃないかって滅茶苦茶ひやひやしたぜ」
唇を少し尖らせて、アルトが文句を言う。シルヴィは微笑した。
「あなたの鍛え方が足りないだけよ」
アルトはのどを鳴らして笑った。
「いいや。あんたの腕が錆び付いてるだけさ」
そう肩を大げさにそびやかして言うと、彼は前を向いた。
アルトが向き直ると、シルヴィを追う蔦が彼を前にして静止していた。まるでごく普通の植物のように、その場に止まっている。腕で払いのけると、蔦はあっけなく地面に転がった。
「ユーリィ。お前、すっげえ猫かぶり上手いな。こっちが地だな?」
廃屋の上に佇むユーリィを見上げる。彼女は苦虫を噛み潰したように、顔をゆがめていた。
「アルト……そこを退いて。あたしは、あなたを傷つけたくないの」
「嫌だね。俺だって、これ以上シルヴィを傷つけられたくないんだ」
アルトの右手の魔法陣が、眩い輝きを放つ。
「お前を殺すとは言わない。その代わり、この場から立ち去れ。俺とシルヴィの前に二度と姿を現すな」
彼の手に得物はない。だが、その気になれば戦うことは出来る。ユーリィとの勝敗は問題にはならない。アルトの抵抗に対して、彼女は強く出られないのだから。
ユーリィはじっとアルトを見つめていた。シルヴィの前に立ちはだかる彼を見つめ、悲しげに目を伏せた。
「あなたは分かっていない。その女はあなたに破滅をもたらすわ。あなたを戦いに誘い、絶望の淵に追いやる……」
今にも泣き出しそうな声だった。魔法陣の光が宿る右手は、強く握りしめられ、己の不手際を嘆くようであった。しかし、アルトにはいずれも同情を引こうとする演技のようにしか映らない。
「俺はあんたに何回か言ったはずだぜ。シルヴィは俺の命の恩人だ。こいつは命がけで俺のことを守ってくれたんだ。だったら、俺も同じ覚悟を返すまで」
背後に庇ったシルヴィが僅かに身動ぎをした。顔は見えなかったけれども、彼女の驚きの表情は目に浮かぶ様だ。
わざわざ振り返るつもりはなかった。屋根の上で佇むユーリィを、まっすぐに睨む。
「俺は地獄の底まで、こいつに付き合うって決めたんだ。そうさ、覚悟を決めたんだよ」
シルヴィが震える声で、アルトの名前をつぶやくのが彼にも聞こえた。
一方で、ユーリィは石のように黙りこくっている。目をそらして、唇をかみしめ、小さく俯いた。
「余計なことを吹き込んだ私が馬鹿だったみたいね。ともあれ、話が通じないなら、力付くで連れて行くまで」
ぽっかりと空いた眼窩のような、うつろな瞳であった。その空虚さに、アルトの背筋にぞっと怖気が走った。
大地が、揺れた。木々がざわめき、傾いた小屋がきしみを上げる。アルトは前のめりに転び掛け、後ろにかばっていたシルヴィが背中にぶつかり、彼の腕にしがみつく。二人そろって転倒しかけるが、何とか持ちこたえる。顔を上げると、屋根の上にいるユーリィが背を向けていた。
彼女の声が聞こえる。だが、何を言っているか分からなかった。抑揚のない淡々とした声で、まるで呪文を唱えているかのようである。異国の言葉だ、とアルトは理解した。それ以上のことは分からなかった。キルヒアナ以外の国はとうの昔に滅んでいる。いくつかの方言こそあれ、全く独立した言語の存在には思い当たらなかった。
ユーリィは一体、何をしているんだ? 不吉な胸騒ぎを覚え、彼女の後ろ姿を見上げていると、シルヴィに服の袖を引かれた。振り返ると、彼女は左手で地上を指さした。
「あれ……」
魔物の死体の山があった。思わず目を背けたくなるような凄惨な光景だった。アルトもあまり直視したくない。目を逸らそうとすると、たまたま目に付いた【黒犬】の死体が見えざる手に引っ張られているかのように、ゆっくりと動いていることに気づいた。
動いているのは、【黒犬】の死体だけではなかった。折り重なる死体は全て、動いていた。まるで磁石に引かれる砂鉄のように、一点に向けて死体が集まっていく。
シルヴィは投擲用の短剣を抜く。彼女の視線は屋上のユーリィに向けられていた。
「あいつの仕業ね。黙りなさい!」
罵声とともに、シルヴィが短剣を投擲する。狙いは違わずユーリィの元へ届くが、彼女は振り返りもしないで回避し、続けざまに屋根から飛び降りた。降り立った先は魔物の死体が詰み上がった頂上であった。
「あたしは、絶対にあんたを許さない」
ようやく聞き取れる言語で言い放つと、シルヴィに向けて、親指を下にしてみせた。
その瞬間、夥しい量の魔物の死体一つ一つが、紅の光を放つ。宝石を埋め込んだような瞳から光が放たれ、夜の闇を赤く染め上げる。目を焼くような強い光に、アルトとシルヴィは揃って腕で目をかばう。光にようやく目が慣れ、腕を退けると、ほんの数秒間の間に目の前の景色は大きく変貌を遂げていた。
埋もれていた土の地面が露わになっていて、魔物の死体は残らず消えていた。その代わり、先ほどまでは影も形も見あたらなかった、一匹の巨大な魔物が姿を現していた。
ラムダにある尖塔にも比肩するほどであった。頭部から伸びた山羊のような角だけでアルトの身長ほどもある。人間と似た体のつくりをしていた。二本の足で立ち上がり、先端が三つ叉に分かれた尻尾が生えている。両手には一つ一つが一振りの剣のような爪が生えており、引っかかれたら一溜まりもない。
ただし、楕円型の頭部は人間とは大きくかけ離れており、鼻も口もなかった。煌々と輝く紅の瞳だけが埋め込まれていた。普段相手にしている魔物と違うのは、大きさと異様な風貌だけに限らない。魔物としての格が、まるで違う。
巨大な魔物の肩に、ユーリィの姿があった。彼女は地上の二人を無表情に見下ろしている。魔物の耳に何事か囁きかけると、彼女の指はシルヴィを指した。魔物の爪はユーリィが示す通りに閃いた。
アルトはシルヴィに突き飛ばされた。背中に魔物の爪の風圧を感じて、全身が泡立つ。受け身をとって起きあがると、危うく難を逃れたシルヴィが魔物の巨体を睨みつけている。
「私、こいつの姿見たことあるわ。百年前の英雄の伝説を語った本だったわね。まさかこの目で拝むことになる日がこようとはね」
シルヴィの顔にはひきつった笑みがある。だが、彼女の右手の魔法陣の輝きに曇りはない。右手の細剣と左手で抜いた短刀が黄金の輝きを纏う。
「シルヴィ! 無茶だ、下がれ!」
アルトは声を大にして叫ぶ。しかし、シルヴィの細剣の輝きは増す一方である。彼女は振り返りもしない。
「魔物を前にして、私に逃げるという選択肢はない!」
絶叫と共に地面を蹴って、魔物に向かって跳躍する。再び襲いかかってきた魔物の鍵爪を辛くも避け、彼女を掴み損ねた指を足場にして、胴体に向かって飛ぶ。細剣がまともに魔物の肌に突き立てられる。緑色の体液に切っ先が濡れるが、かすり傷といって過言ではないだろう。シルヴィ一人で戦ってどうにかなる相手じゃない!
アルトは逃げるつもりだった。彼女が突撃さえしなければ、一度退いていた。得物はないし、この魔物がいかなる力を持っているのか明らかではない。危ない橋を渡るにも、分が悪すぎた。
だが、シルヴィが撤退しない以上、もはや彼とて逃げるわけにはいかない。……彼の右手の魔法陣が、翡翠の光を放つ。シルヴィに加勢すべく、地面を蹴ると――蹴った左足首に蔦が巻きつく。アルトが蔦の存在に気づいた時には、既に片足を蔦で引っ張られ、ぐらりと体が傾いでいた。
ふんばりが利かず転倒していく最中、腕に、腹に、全身に蔦が絡みつく。もがくことさえできないほどにきつく縛り上げられ、蔦はアルトの体を運んでいく。
「てめえ……何しやがる……」
アルトは眼前の少女を睨みつける。魔物の肩を下り、地上に降り立ったユーリィは痛ましげに目を伏せた。
「ごめんね。でも、少しだけ大人しくしていて」
ユーリィは蔦に絡められた彼の手を握った。
「お願いはしているけど、万が一のこともある。下手すると、あの子はあなたまで巻き込んでしまうし。……何よりも」
一度言葉を切ると、ユーリィは首を巡らせて背後を振り返った。
「あたしから離れないで。あなたを置いていっては、意味がないから」
彼女の視線の先には、ぽっかりと大穴を開けた地面がある。先ほどまでむき出しの土の地面があるばかりだったのだが、底の見通せぬ闇を湛えた穴が開いている。しかも、鼠が地面を食らっているのかのように、穴は徐々に広がっていく。今は子兎が一羽通れるか、というほどの大きさだが、人間が通れるまでに成長するまでさほど時間はかかるまい。
あの穴がどこに通じているか、それは先ほど彼女が語ったとおりであろう。五百年前に奪われた、魔物たちの世界。地面に広がりつつある穴から、ユーリィはアルトを連れて行こうとしている。
冗談ではない。今まで知り合った全ての人々との別れを意味しているのだ。魔物たちとの戦いを続ける守護騎士たち、そして誰よりもシルヴィを置いていかなければならない。
「誰が、行くか……!」
蔦に覆われたアルトの右手の甲が、わずかに輝きを放つ。生み出された光はゆっくりと手から腕へと流れていく……が、手首を通り過ぎた辺りで弾けて消えた。
突然、息が詰まった。呼吸ができない苦しさが、アルトを襲う。蔦が首を締め上げたのだ。
「ごめんね。あたしだって、こんなこと本当はしたくないのよ」
ユーリィの震える声が、ひどく遠く聞こえた。
蔦の締め付けは全く容赦がなかった。息を吸い込もうと喘ぐが、一向に吸えない。首の骨は軋み、視界はまるで絵の具に水を垂らしたかのようにぼやけた。首を絞める蔦に手を伸ばそうとするが、腕に巻き付いた蔦が指先を伸ばすことさえ許さない。
朦朧とする意識の中、アルトは歯を食いしばる。意識を失うわけにはいかない。目を覚ましたとき、そこは確実に人の世界ではない。懸命に、右手に力を集めようとする。だが、集中力をこの状態で発揮できるわけがない。魔法陣の光はむなしく明滅を繰り返すばかりで、一向にアルトに守護騎士の力を与えてくれる様子はない。
一度、蔦で縛り上げたアルトに逃げられている。ユーリィの方ももはや手段を選ぶつもりはないのだ。締め上げる力の加減を少しでも間違えれば、首の骨が折れるが、それでも蔦を緩めない。
悲鳴も上げられずにもがいていると、目の前が段々暗くなってきた。呼吸ができない苦しさが少しずつ和らぎ、夢うつつで微睡んでいるような眠気さえ頭をかすめる。身を包みこむ心地よい浮遊感に、アルトは戦慄した。
眠るわけにはいかない。彼は先ほどよりも一層、右手の魔法陣に力を入れる。魔法陣はますます激しく明滅を繰り返す。鮮やかな翡翠の光が立ち上り、そしてその直後には塵芥のように消え失せている。何度も繰り返すが、一秒と光は保たない。
「無駄よ、アルト。抵抗は止めて……」
ユーリィが声を震わせて、哀願する。だが、アルトは重たい瞼をこじ開け、ほとんど見えない目で精一杯の敵意を込めてユーリィを睨む。砕けそうなぐらい、歯を強く噛みしめた。
死ぬまで、お前には抵抗を続けてやる! アルトは声にならない叫びを上げた。いっそ絞め殺してくれ、とさえ思った。仲間を置いてこの世界から離れなければならないのなら、いっそ死んだ方がましだ! 使い物にならない力に、憤った。ユーリィから逃れられない自分を、呪った。
眠気で瞼がひどく重たい。紐を切られた緞帳のように、瞼が落ちていく。意識が飛ぶ寸前にあることを悟り、アルトは最後の力を振り絞った。
力をよこせ! 誰にも負けない力を、よこせ!
苦痛と怒りがありったけこめられた呪いであり、切なる祈りを捧げる。ほとんど暗闇で閉ざされつつある彼の脳裏には、祈りを受ける異形の女の艶やかな笑みがあった。アルトは声にならない声で、女の名を呼んだ。
俺の願いはこれでも足りないか? 答えろ、精霊ペトラ!
声にならぬ叫びに全ての力を使い果たして、アルトの意識は急速に暗闇へと閉ざされていく。瞼は落ちきり、猛烈な睡魔が彼を誘う。
精一杯、あらがった。それでも、だめだったのだ。悔しかった。情けないと思った。もし体が自由に動くならば、地面に拳を叩きつけ、地面が割れても、その手が砕けても、尚自らの無力さを悔やんだことだろう。何が、守護騎士だ! 何が救世主だ! 助けられ、守られるばかりで!
アルトが絶望と共に、意識を手放そうとした、その時だった。
竪琴の調べのような女の声が、彼の意識に直接語りかけてきた。
『アナタの祈りは届きました。その願いならば、十分です。さあ、あなたに力を授けましょう』
朝を告げる鳥の声のように、女の美しい声がアルトの暗闇を払う。まとわりつく眠気は飛び、鉛のように重い瞼が軽くなる。彼の翡翠の瞳は開かれ、目の前の光景を鮮やかに映し出す。
まっさきに目に映ったのは、燃えさかる炎のような光であった。燃えさかる炎と獣の牙が描かれた魔法陣が、彼の左手の甲に輝いている。紅の光は鮮やかで、夜の闇を赤く照らし出していた。
体を締め付ける蔦はなかった。無惨に焼け焦げて、足下に落ちていた。どれだけもがいてもびくともしなかった蔦であったが、燃え盛る炎に為すすべはない。
これが、ペトラがくれた新しい力。アルトは左手の魔法陣を静かに見下ろした。すると、照らし出された暗闇に紅の髪が踊った。
「使わせない!」
ユーリィの声が鋭く、響く。
炎の魔法陣が描かれた彼の手を、青い魔法陣が浮かぶ手が、爪が食い込むまで握りしめた。動きを封じられたアルトの手には、目も覚めるような青の輝きを纏った短剣の刃が迫りくる。この期に及んでも、まだ邪魔をするつもりか! ユーリィへの怒りが、一瞬で頭から爪先までを駆けめぐった。
アルトの左手に白銀の刃の切っ先が触れた。すると、その切っ先が肌に触れる寸前に、刃は白い煙と化す。彼の肌を貫こうとした刃は、残らず消え失せ、煙となって夜空に昇っていく。
ユーリィの目が、呆然と刃を失った短剣を見下ろす。アルトは冷たく、彼女を見つめた。
「手を離せ、ユーリィ。お前もこうなりたいか?」
ユーリィの魔法陣は未だに鮮やかに輝き、アルトの手を固く握りしめている。握りしめられた手からは、炎のように鮮やかな紅の光が揺らめいている。ユーリィは顔を上げた。
「構わないわ。あなたに例え、煙にされようともこの手は離せない」
彼女の瞳には魔法陣の輝きにも劣らぬ、強い意志の光があった。
「その力はあなたを滅ぼすの。だから、使わないで」
青と紅の魔法陣の光に照らし出された彼女の表情に、甘さはない。まるで、よく磨かれた鏡のように清らかに澄んでいた。だが、アルトにはもうその清らかさは信じられない。
「お前の言葉を信じる段階はとっくに過ぎている」
アルトは淡々と告げた。
「もう一度言う。今すぐ、手を離せ。さもなくば、お前の体ごと消し飛ばすぞ」
紅の魔法陣は一層輝きを増し、いまにもユーリィの体を焼き尽くそうとしていた。彼の辛抱も、いつまでも続かない。目はユーリィを見ていた。けれども、アルトの意識は背後に……巨大な魔物と戦うシルヴィに向けられていた。
魔物の咆哮や足音から、まだ交戦状態にあることは推測される。けれど、その音が途絶えたら? 辺りが急に静かになったら?
アルトは警告した。それでも、ユーリィは手を離さなかった。彼の瞳を真っ向に見据え、空いた手で己の胸を押さえた。澄ました表情が崩れ、うっすらと涙が浮かんだ。
「五年前の過ちを繰り返してはいけないの。どうかお願い。あたしを信じて!」
ユーリィの叫び声と共に、青い魔法陣が輝きを増す。光は瞬く間に両腕、足へと到達。目にも留まらぬ早さでアルトに足払いを掛け、掴んだ右手を引っ張って転ばせ、空いた手で隠し持っていた短剣を振るう……はずであった。
実際に地面に転がったのは、ユーリィの方だった。アルトの右手の魔法陣が輝き、風を纏った彼の拳が彼女を吹き飛ばす方が早かった。ユーリィは木の葉のように吹き飛ばされ、樹木に叩きつけられる。叩きつけられた樹木は、あまりの勢いに、乾いた音を立てて崩れる。もうもうと砂煙が舞う中、ユーリィの声は聞こえない。
気を失ったのだろう。アルトは安堵した。ユーリィは治癒の力を持っている。一撃で気絶させなければ、傷を癒してしまう可能性が高い。うまくいって良かった。
最後の妥協で、彼女を消し炭にする選択肢を後回しにした。左手で不意を打って、うまく行かなければ、火炎の魔法陣の力に頼るつもりでいた。
最初から問答無用で燃やしても良かったはずである。彼女はアルトを騙し、シルヴィに魔物をけしかけている。断じて味方ではない。情にほだされた、とは思いたくない。だが、彼女の想いは間違いなく本物だ。何のためらいもなく、消し炭には出来なかった。
それに、引っかかりを覚えるのも事実である。彼女が本当のことを語ったのは、果たしてアルトへの想いだけなのだろうか? 他にも何か、あるのではないか?
シルヴィの裂帛の声が聞こえてくる。ユーリィが倒れ伏す樹木を見つめていたアルトは、はっとして我に返る。そうだ、シルヴィの元へ早く行かなければならない。
紅の魔法陣から、光があふれ出す。炎のような光がアルトの全身を包み込む。
体に流れ込む力は、翡翠の魔法陣とは比べものにならなかった。この魔法陣はいかなる物体をも、それこそあの巨大な魔物さえも容易く灰燼へと返してしまうだろう。
今、助ける。アルトは眩いばかりの紅の光を纏い、巨大な魔物を振り返った。
アルトが魔物に魔法陣を刻み込んだ右手を突き出したとき、崩れた樹木の下でユーリエルが目を開けた。視界は頭部から垂れてきた血によって赤く染まり、全身は激痛に苛まれている。魔法陣の光は弱々しい光を放ち、治癒の術はもどかしいほどの速度でしか傷を癒さない。
ユーリエルの茶色の瞳は、まるで太陽のような輝きを体に纏ったアルトの後ろ姿を捉え……絶望に見開かれた。
「アルト……ペトラに……騙されないで」
か細い彼女の声がアルトにまで届くことは、なかった。
赤い絨毯が敷き詰められた床に、精霊と救世主と守護騎士が描かれた天井。アルトは再び、己の意識があの聖堂にあることに気づいた。
ミズルカで巨大な魔物に力を使おうとしていた、そこまでは覚えている。魔物を振り返ったところで、ふっつりと記憶が途切れているのだ。
一刻も早くシルヴィを助けなければならないというのに。不満に思うが、再びペトラに呼ばれたのだとしたら仕方がない。そう思って周囲を見渡すが、ペトラの姿はない。今度は自分がペトラのように透き通った体をしていて、空中から聖堂を見下ろしているのだった。
代わりに三人の人間の姿があった。一人は僧服の男であり、残りの二人は小さな子供であった。
そのうちの一人は、少女であった。紅の髪に茶色の瞳……どこかで見たことがある顔に、非常によく似ている。そう、つい先ほどまで剣を交えていた少女だ。
彼女はぼんやりと天井を見上げている。精霊達が描かれた天井の絵に見入っているのだ。
僧服の男の声が聖堂に低く響くと、少女は天井を見上げるのを止めた。彼女の視線は正面へ……簡素なローブを纏い、目深にフードを引き下ろした子供へと移される。彼女がその姿を捉えようとしたとき、その人物は手を突きだして視線を遮った。
「大丈夫、怖がらないで。恐ろしいことなんて、何も起こらないよ」
声変わりもしていない、まだ幼い少年の声だった。彼の声を耳にした途端、アルトは首を傾げた。似ている、どころではない気がする。聞いたことがある。遠い昔のことだけれども、何度も何度も聞いたことがあるはず。
アルトは床に降り立ち、フードが覆い隠す少年の顔をのぞき込んだ。
「本当だよ。僕のことを信じてくれ」
己の声を聞き間違えることはあるかもしれないが、顔を見間違えることはない。白髪に翡翠の瞳の少年。紛れもなく、これは幼少時の自分の姿。もっとも古い記憶の頃のものだ。
「精霊の導きに従い、この世界を救う。それが僕の使命。命に代えてでも、果たさければならない」
救世主としての自覚が、幼いながらも当時の自分にはあったのらしい。目の前の少年の声に迷いはなく、その幼さと相容れない威厳がある。
「だから、どうか君の力を貸してほしい」
小さなアルトは少女に――恐らく幼いユーリィに告げる。
ユーリィはしばらく小さなアルトの手を見つめていた。ややあって、彼女は答えた。
「じゃあ、信じる」
「ありがとう」
小さなアルトは大人びた笑みを見せる。
全てを彼に委ねるように、ユーリィは目を閉じる。小さなアルトはゆっくりとユーリィの頭に手を伸ばしていく。
「精霊ペトラよ、僕らに力を。この世界を救う力を、彼女に授けてください」
厳かな口調で小さなアルトが祈りを捧げる。
その様を、アルトは黙って見ていた。
幼いからこそ、こんなことが言えるのだ、とアルトは思った。力があったとしても世界を救う、など易々と言えやしない。己の無力さに歯噛みするような経験をこの少年はまだ知らないのだろう。五年前……小さなアルトは十歳程度の年齢であろう。会話からして、今アルトが目にしている記憶は、ユーリィに力を授けたときのことで間違いない。
アルトが救世主として、ペトラから力を借りて、ユーリィに守護騎士の力を与えていた。この記憶はペトラの正しさを、同時にユーリィの嘘を物語っている。
思い出すなら、もっと早くにしてほしかった。今更聞いても、ペトラの話の裏付けにしかならない。こんな緊急時にまったく思い出さないでほしいものである。苛立ちながら、小さなアルトを眺めていると、美しい声が聞こえてきた。
『どうです? 記憶を失う前の自分を見た感想は?』
透き通った異形の女の姿がある。どうやらこの記憶を見せているのは、ペトラらしい。アルトはじろりと彼女を睨みつけた。
「お前がこれを見せているのか? こんな偉そうなクソガキ様の姿より、俺はさっさと現実の方を見たいのだが?」
『あら、つれない反応ですね。アナタがずっと知りたがっていた記憶だというのに』
ペトラがくすくすと笑う。
『まあ、もう少し見ていなさい。そうすれば、分かりますよ。何故、ワタクシがこの記憶を今、アナタに見せてあげているのか、ということがね』
「ふうん……」
アルトは生返事をしながら、ペトラに向けた視線を小さなアルトに向けた。
ペトラの言い方だと、今までわざと記憶を伏せていたことになる。アルトが知りたがっていたことも分かっていたのに、五年間黙っていたのだ。聞きたいことは様々あったが、ぺトラは会話を拒んでいる。仕方なく、ひとまずは彼らのやりとりを全て見届けることにした。
小さなアルトの手は、ユーリィの頭に触れる。すると、青い光が彼女の全身を包み込む。
彼女の小さな手の甲に、青い光が魔法陣を描き出す。蔦と花が描かれ、その背景に魔法文字がびっしりと敷き詰められる。その様を小さなアルトは緊張の面もちで眺めていたが、アルトにとっては少し見慣れてきた光景である。
魔法文字の書き込みが終わり、魔法陣が完成する。現在のユーリィのものと寸分違わぬ魔法陣が描かれ、しかし小さなユーリィを覆う青い光は一向に止まない。
小さなアルトが、止まない光に不安げに表情を曇らせる。不安を覚えたのは、成長したアルトとて同じであった。いや、魔法陣が完成すれば光が静まることを知っているからこそ、余計に不安を感じている。
そして、その不安は杞憂に終わらなかった。
青い光は輝きを増し、ユーリィの姿を塗りつぶしてしまう。強い光に目がくらみ、幼いアルトも、傍らに立つ僧服の男も目をかばう。
「おい、ペトラ! これ、どういうことだよ!」
眩い光から目を守りながら、アルトは叫んだ。
『言ったでしょう、自分の目で確かめなさいと……』
ペトラは歌うような口調でつぶやいた。
光の輝きが薄れ、目を覆う腕をアルトが退ける。すると、幼いユーリィの姿が消えていた。
そのかわり、一体の異形の化け物が姿を現していた。聖堂の天井に触れようかというほどの、巨大な化け物であった。無数の蔦を触手のごとく生やし、毒々しい色合いの花を咲かせている。化け物が鱗粉のようにまき散らす光は、ユーリィを覆う光と同じ目も覚めるような鮮やかな、青。
幼いユーリィの姿が消えた理由、そして見たことがない魔物が現れた理由、更に成長したユーリィが語った本当のこと……アルトの頭の中で、全てが一本の線として繋がった。
「ま、さか……」
声を震わせるアルトをちらりと横目で見やって、ペトラは艶めいた微笑を口元に浮かべた。
『ワタクシがこの記憶を今、何故見せているのか、でしたね? それはアナタに教えてさしあげようと思ったのですよ、今、現実で何が起こっているのかを』
ペトラの透けた手が、同じく薄く透き通ったアルトの左手を撫でた。
『絶望しなさい。……五年前以上に、ワタクシを楽しませなさい』
精霊ペトラが浮かべる笑みは、暗い喜びに満ちていた。
アルトの左手の魔法陣が、炎のような光を巻き上げた。
ミズルカの夜空はまるで黄昏時のように照らし出された。
魔物の咆哮が二つ、響いた。そのうちの一つは断末魔の絶叫であった。
シルヴィが戦っていた魔物は、突如吹き上げてきた灼熱の炎に飲み込まれた。炎が魔物の巨体を包み込みその姿は見えないが、激痛を訴える魔物の咆哮が明るく照らし出された夜空に轟く。だが、長くは続かない。叫び声は衰えを増し、やがてはふいと途切れてしまった。
魔物の炎上は、シルヴィが魔物から距離を取った瞬間に起こった。至近距離の戦闘を続けていたならば、間違いなく巻き込まれていただろう。剣で刺そうが、結界の破片を巻こうが、びくともしなかった魔物が呆気なく沈黙していく様をシルヴィは複雑な心境で見たが、一方でそればかりに気を取られているわけにはいかなかった。
断末魔の叫びと時を同じくして、もう一つ響いた咆哮は――その誕生を告げる産声であった。
現れた化け物の姿は、先ほどの魔物よりも、更に一回り大きい。夜空に浮かぶ月を覆い隠すほどである。全身に炎を毛皮のように纏い、四本の足には聖堂の柱ほどもある黒い爪が並ぶ。象牙のような白い牙を裂けた口から覗かせ、炎の狼は遠吠えをあげる。無論、その顔には紅の瞳が煌々と輝きを放っている。
シルヴィの中で、静かに戦意は挫けた。ただただ、呆然と炎の狼を見上げている。あの巨大な魔物に勝てるわけが……いいや、剣を向けることさえ難しい。紅の魔法陣の光に包まれたアルトが、炎の狼に姿を変えるところを彼女は見てしまったのだから。
細剣を握る手にも力が入らない。熱に浮かされたようにぼんやりとしていると、足音が近づいてきた。
「ああなってしまっては、もう手遅れ。人の姿を取り戻すまで、彼は破壊を続けるでしょう。何せ、理性を失った魔物になってしまったのだから」
聞こえてきたのは、ユーリエルの声だった。振り返ると、彼女は怪我こそ粗方癒えていたが、全身を土と血で汚していた。
「精霊が新たに与えた力のせいよ。強力すぎる力をうまく制御できずに、暴走させた。その結果があれよ」
ユーリエルは力なく、首を横に振った。
「本人の意思で制御できる範囲まで、力を消費すれば戻ると思うわ。もっとも、どれだけ時間がかかるか分からないけどね。あたしの時でさえ、意識が戻るまでに一週間は掛かったから」
遠い目をして、ユーリエルが呟いた。シルヴィは大きく頭を振った。
「待って。話を整理させて。まず、あれはアルト。戻るのに時間は掛かる。じゃあ、どうすればいいのよ?」
シルヴィには、どれも唐突すぎる話だった。必死になってユーリエルの話を理解しようとするが、まるで現実味がなかった。ましてや、あの化け物がアルトだなんて。この目で直接見てさえも、一番ユーリエルの話の中で信じがたいことだった。
シルヴィの言葉を、ユーリエルが鼻で笑った。
「どうすればいい? そんなこと、あたしが聞きたいわよ。確実に言えるのは、このミズルカだけで被害が終わるはずはない、ということぐらいね」
ユーリエルは自暴自棄になって吐き捨てると、シルヴィに背を向けた。彼女の右手の魔法陣が、青い光を放つ。
「あんたを自分の手で殺した、とアルトが知ったら、もう生きていけないわ。だから、あんたもさっさと逃げなさい」
青の魔法陣がきらめき、ユーリエルが光を纏う。止める暇もなく、青の鱗粉をまき散らしながら、ユーリエルの姿はかき消えた。
残されたのは、シルヴィと魔物と化したアルトだけであった。
炎の獣は、持て余した己の力を存分に周囲に振るっていた。鍵爪を振るい、炎の吐息を吐き出す。生い茂る樹木も、倒壊した廃屋も、視界に入るもの全てが対象であった。爪を振るわれたものは粉々に砕け、燃えさかる炎の吐息が全てを灰に変えていく。炎の狼の鳴き声が、月下の廃れた村に広がっていく。
狼の瞳に理性は残っていない。手を出せば、殺される。狼に存在を悟られた段階で、シルヴィも爪と炎の餌食になるだろう。
ここから逃げて、周囲に触れ回る方が市民を守る守護騎士としては正しいあり方であろう。この恐るべき化け物を倒せないことは確定している。ユーリエルが残した情報で、多くの人命を救うことが出来るかも知れない。
逃げるべきだ。博打をするには、多くの市民の命が重すぎる。だが、そこまで分かっていて尚、彼女はミズルカに残ることを選ぶ。
シルヴィは細剣を鞘にしまった。そして、空いた手で右目を覆う眼帯を外し、懐にしまい込んだ。現れたのは、澄んだ青い瞳とは対照的な紅の瞳。
この目に物を見る力はない。だから、視界はやはり左目一つ分。だが、シルヴィが今頼りにしているのは、異形の瞳と畏れられる魔眼である。
今までの経験からすると、守護騎士には効いたが、魔物に効果はない。ならば、魔物に化けたアルトに効果はあるか? 疑問は残るが、可能性にかけてみる価値は十分にある。
とっさのひらめきではなかった。彼にこの目を使う日は遠くない、と常日頃から思っていたためだ。前から、隠された力があると知ってからだ。彼の力の正体を見極め、奪う価値があるならば、奪い取るつもりであった。明らかになった正体は、守護騎士の力を生む救世主の力だった。
シルヴィは力を欲していた。小手先の剣技ではなく、脆弱な結界の力ではなく、世界を変える圧倒的な力を求めていた。救世主の力ならば、十分すぎる。
彼女は赤と青の二つの瞳で、炎の狼を見上げた。
「あなた如きに、私をどうにか出来るとは思わないでね」
シルヴィは狼に不敵な笑みを送る。頬はひきつり、鏡があれば不細工な笑みが映ったことだろう。それでも、シルヴィは微笑し、恐怖に震える足を叱咤して、魔法陣から流し込んだ力を使って地面を蹴る。
真正面から行っては、殺してくれと頼むも同然。空中に舞い上がったシルヴィは、障壁を足場として展開。障壁を踏み割りながら、跳躍を繰り返し、音もなく獣の背後へと距離を詰めていく。
シルヴィの魔眼は、彼女の方から能動的に効果を及ぼせるものではない。魔眼は相手に見られることで、効果を発揮する。
狼の死角から忍びより、機会を窺って眼前に飛び出す。殺されるよりも早く、否が応でもシルヴィの魔眼が狼の視界に入るような場所に現れる。まともな戦いを挑むよりはずっと勝算は高いのだ。そうやって自分を鼓舞しながら、シルヴィは先を急ぐ。
足場の障壁は、やがて天に向かって掛けられた梯子のごとく、上空に伸びていく。通常の跳躍では決して届かない高度へ、巨大な狼さえも見下ろすような高度へ、シルヴィは駆け上がっていく。気づかれにくく、そして確実に眼前に姿を現すのならば、横や背後から飛び出すよりも、頭上から狙いを定めて落ちる方が良いと判断したのだ。
狼を見下ろす位置までたどり着いて、慎重に機会を窺った。狼は見境なく、建物や荒れ果てた畑を破壊している。その行動を観察していると、炎の吐息を吐いている最中が狙い目だと分かった。どうやら炎を吐くことに集中していて、周囲に注意を払っていない。無論、炎が直撃すればシルヴィは跡形もなく蒸発するだろうが、失敗すれば死ぬのは何をしても同じである。
狼が次に炎の吐息の狙いを定めたのは、村の郊外にある森だった。大量の樹木めがけて、息吹を吐き出そうとしている。またとない機会にシルヴィはためらわなかった。狼の眼前に落ちるよう最後の調整を行い、炎を吐く魔物に向かって、足場から飛び降りる。
黄金の光を右手からまき散らしながら、シルヴィは落ちる。耳を切り裂く風の音と、今にも心臓を食い破りそうな鼓動の音を聞きながら、炎の毛皮を纏う狼へとみるみる内に迫っていく。
狼は身を低くして、炎の吐息を森に向かって吐きかけている。たちまち息吹を受けた樹木は炎を纏い、草木が爆ぜる音が悲鳴のように響く。
狼には上空から迫り来るシルヴィに、気づいた様子は無かった。彼女は固唾を飲みながら、狼の眼を睨みつけていた。必要ならば、障壁を展開して落下地点の調整を行わなければならない。狼の瞳の位置を集中して観察していたため、下ばかり見ていた。
それが仇となった。
狼の視界に、もうじきシルヴィが映る。そのとき、シルヴィの頭上に影が差した。燃えさかる枝葉をつけた大木の上半分であった。幹が途中で半分に折れて、高度を随分下げたシルヴィの頭の上から降ってきたのだった。
とっさの行動だった。シルヴィは顔を上げてしまった。頭上に影が差した理由を探るために、ほとんど反射的に狼から顔を背けてしまった。燃えさかる木々が視界に映った瞬間、後悔が全身を駆けめぐった。頭上から何が降ってこようが、魔眼を使った後で防げば良いだけの話じゃないか!
今、まさにこの瞬間、魔物がシルヴィの存在に気づいたら? 爪を振り上げ、襲いかかってきたら? あるいは吐き出す炎の的をシルヴィへと変えたならば? せっかくのチャンスを自分でふいにした!
視界に狼の爪がぬっと現れた。遅かった! シルヴィの背筋に怖気が走った。
それでも尚、シルヴィは諦めなかった。まだ魔眼の力は使っていない。アルトの力さえ奪えれば、十分よくやったと言って良い。例え生還できなかったとしても、彼さえ元に戻せれば、彼女の死は犬死にならない。
狼へ向き直ろうとした。首を前に戻す、ほんのそれだけの動作がひどく時間がかかるように思えた。その半分ほど首を戻したところで、何やら頭上から鈍い音が聞こえた。
今度はシルヴィも頭上に視線を戻すことはしなかった。前に首を戻して、狼の顔を正面から見た。
狼は牙が並ぶ口を大きく開けたままだった。炎の吐息は止み、赤い舌の上で小さな炎が翻っているだけだった。振り上げられた前足の爪は、シルヴィの頭上……燃え盛る木々を打ち付け、粉々に砕いていた。
その紅の瞳は、シルヴィの魔眼へとまっすぐに注がれていた。まるで、彼女の到着をずっと待っていたみたいに。
狼の前足に、紅の魔法陣が浮かぶ。炎の毛並みが掻き消え、透き通った紅の光に戻る。光は魔物の体を包み込み、その姿を覆い隠してしまう。光の塊は生き物のように蠢きながら、少しずつ小さくなっていく。
シルヴィは無傷で着地した。遅れて降ってきた枝葉がぱらぱらと降ってきたが、頭上に張った障壁が全て受け止める。
彼女は、魔物であった紅い光の塊に微笑みかける。
「そこまでして、私の目が見たかったの? ……本当、馬鹿ね」
紅い光の中に、黒い人影が浮かび上がった。