第三章 守護騎士の誇り
翌日鍛錬を放棄しなかったのもあって、アルトたちの無断外出は表沙汰にはならなかった。隊員の中では少なからず噂になったらしいが、表向きの処分はなかった。
「貴様がどこにいたかなど知らぬし、興味もない。……ただし、二度目の慈悲があると思うなよ」
しっかりシェンクには、釘を差されたが。
平和な日々が、しばらく続いた。アルトは相変わらず鍛錬に勤しみ、同僚たちは代わる代わる任務に出ては、夕食の席に着く顔ぶれも変わる。
シルヴィとの距離は、ほんの少しだけ縮まったような気がする。夕食の席は変わらないし、話しかけても愛想がないのもそう。けれども、立ち話をする機会は増えたし、気が向いたときにはなんと鍛錬をつけてくれるようになった。
「どういう風の吹き回し?」
初めて鍛錬につき合ってくれた時に、尋ねてみた。
「あなたがあんまりにも、不甲斐ないからよ。見てられなくなっただけ」
可愛げのない言葉だったが、それが彼女独自の言い回しなのだといい加減分かってきた頃である。
アルトにとって、初めての出撃命令が下されたのは、さらにもう一月経ってのことだった。
出撃命令が出されたのは、アルトの単独任務ではなかった。当時、ラムダに留まっていた第二十五隊の衛兵隊員は皆、ミズルカという廃村に派遣されることになったのだ。
ミズルカは元々小さな村であった。数家族が畑を耕し、細々と暮らす程度ではあったが、確かに人里として機能していた。しかし数年前に魔物の襲撃で多くの住人が死に、わずかに生き残った住人も移住を決断した。
結界内とは言え、住人が存在しない地域は監視の目も緩い。今回、廃村となったミズルカに大量の魔物が湧いている、という一報がミズルカに最寄りの守護騎士の拠点に寄せられたが、既に少人数の守護騎士で対処できる数を超えていた。そこで、珍しい大人数の任務が出されたのだ。
ミズルカの最寄りの拠点への移動は、千里石を用いて行われた。千里石とは、対の石との間で瞬間時に移動を行う道具である。守護騎士にだけ使用が可能な代物だ。ラムダと各地の拠点を繋ぐ、貴重な移動手段である。
ラムダからミズルカへ派遣された守護騎士は、アルト達を含めて八名であった。拠点からの情報によると、魔物の数は多いが、いずれもよく見かける最下級の魔物である。
「相手は恐れるような敵ではなく、おまけに味方も数多い。足手まといが一人いたところで、どうとでもなるだろう」
派遣された守護騎士の中にはシェンクの姿があった。千里石によって移動した後、アルトの姿を見かけるなり声を掛けてきた。
「隊長一人で片がつきそうですね」
シェンクの勇名はラムダ支部中に轟いている。アルトとしては、素直な感想を述べたつもりだったのだが、シェンクにはそうと聞こえなかったらしい。
「部下の仕事は、上司を働かせないことだ。分かっているか、足手まとい?」
元から恐ろしい形相が、更に凄みを増す。
「た、隊長は拠点で昼寝でもしててください……」
敵よりもおっかない味方である。アルトは震え上がった。戦場で彼が後方に控えているぐらいなら、見えないところにいてくれたほうがましだ。
「何を馬鹿なことを仰ってるんですか。四の五の言わずに、働いてください」
アルトから遅れて千里石を通ってきたシルヴィが隣に並ぶ。
隊長になんて口の利き方! アルトの顔から血の気が引くが、シェンクは不機嫌そうに鼻を鳴らしただけであった。
「お前は俺のお目付役のつもりか? シルヴィ、貴様の役割は何だ? 答えてみろ」
シェンクが顎をしゃくって、シルヴィに答えを促す。彼の値踏みするような視線を受け、怯むことなく答えた。
「あなたに忠実な部下を演じることではありません。ただ一つ、魔物を殺すことです」
逆に挑むような目つきで、シルヴィはシェンクを見返す。
するとシェンクは、その小さな目を鋭く細めた。
「上官の一番の仕事が、何か知っているか?」
シルヴィから目を逸らすと、低い声で呟いた。
「責任をとることだ。……部下はただ、忠実な手足でさえあればよい」
シェンクの厳めしい顔が、苦々しさを帯びる。
彼の発言がアルトには不思議に思われた。発現の意図が掴めない。聞き返そうとしたが、その前にシェンクはさっと踵を返してしまった。
隣のシルヴィの表情を伺う。美しい眉を顰め、軽く唇を噛みしめている。不服げな表情を露わにするのは、シルヴィにしては珍しいことだった。
「機嫌悪そうだな?」
とりあえず聞いてみるが、
「そうだと思うなら話しかけないで」
すげなく拒絶され、彼女もまた歩き去ってしまった。
程なくして、八名の守護騎士の一団はミズルカにたどり着いた。
魔物の存在が確認されたのは、遺棄された廃屋が立ち並ぶ一角であった。その内の一軒、かつては教会だった石造りの建物に魔物がひしめいているという。
「魔物どもの住処に押し入るために、丁重なノックは不要だろう」
気取られないよう、教会から距離を取ってシェンクが立つ。巨人のような両手に重厚な籠手を付けている。彼は不敵な笑みを浮かべ、握った拳を打ち合わせる。
右手の甲に太陽が意匠化された魔法陣が浮かぶ。魔法陣から漏れ出た橙色の光が、打ち合わされた拳から舞う。
シェンクの拳が振り抜かれる。魔法陣の光を纏った拳は足下を打ち付け、地面を盛大に叩き割る。拳を介して光は割れた地面を伝い、獲物に忍び寄る蛇のように魔物がひしめく教会の建物に向かって走る。
光が教会の石壁に激突すると、建物全体が異常な振動に包まれる。地面の揺れに耐えかね、堅牢な石壁は積み木のように一瞬にして崩れ落ちる。
石壁の直撃を受け、魔物たちの絶叫が空に響きわたる。
多くの魔物が石壁の下敷きにされた。しかし、全ての魔物が動きを止めたわけではない。崩れた石壁と死んだ仲間を撥ね除け、二十ほどの魔物が姿を現す。
いずれも人型の魔物であった。一見すると小柄の子供のように見えるが、やはり異形の化け物である。
肌は血が通っているとはとても思えないほど白く、口は笹の形をした耳に達するまで裂けている。
【妖魔】と呼ばれる種類の魔物だ。肉体的な強さはさほどでもない。動きは鈍重で、【魔犬】のような凶悪な牙や爪も持ち合わせていない。だが、不思議な呪文と共に繰り出す術は侮れない。彼らの術を受けると、体が痺れ、満足に動かせなくなるという。そうして完全に獲物の動きを封じたところで、頭から人間を食う化け物である。
魔物の証である紅の瞳に怒りを宿し、【妖魔】達はシェンクに視線を集中させた。同胞に甚大な被害を出した守護騎士を見据え、【妖魔】達は恐ろしい呪文を唱えようとした。
しかし、その暇は与えられなかった。シェンクの後方に控えていた二名の守護騎士が一斉に手の甲に魔法陣を浮かび上がらせ、力を解き放つ。守護騎士エイミーの弓矢が雨霰と降り注ぎ、迸るバルボアの雷光が【妖魔】たちを襲う。
半数以上の【妖魔】達は断末魔の絶叫と共に地面に倒れ伏した。だが、全てではなかった。致命傷を逃れた五匹の【妖魔】が詠唱を続けている。
【妖魔】の呪文はわずか数秒で完成する。裂けた唇が呪文の完成を告げようとしたが、一匹たりとも叶わなかった。残った守護騎士たちの手によって、【妖魔】は命を落としていた。ルークの槌が頭を叩き潰し、エルンの大斧が首を切り払い、それぞれ一匹ずつ片づけた。
残りの三匹を片づけたのは、ディードであった。ただし、一人で、ではない。彼は三人に分裂し、それぞれで一体ずつ切り捨てたのだ。
ディートは【三つ首】の異名を取るアンリ家の血筋の守護騎士だ。アンリ家は数々の戦いで目立った手柄を立てた守護騎士を数多く輩出しており、守護騎士の中でも一際名のしれた一族であり、王家との縁も深いという。
【妖魔】の叫び声が収まり、ミズルカ村は再び静寂を取り戻した。
注意深く周囲を伺いつつも、守護騎士たちは各の得物を下ろし、手の甲の魔法陣は輝きを失う。例外は、アルトとシルヴィの二人だけであった。
「俺が助太刀するまでもない雑魚だったらしいな」
剣の柄にやっただけの手を腰に戻しながら、隣に立つシルヴィに言った。
「雑魚はあなたでしょ。助太刀も出来ないぐらいに」
冷ややかにシルヴィが言う。辛辣な言葉は、深々と胸をえぐる。
「先輩方の顔を立ててやったんだよ。俺が最初から活躍しちゃいけないだろ」
負け惜しみを言うのも、少々心苦しい。
小規模の地震を起こし、教会を一撃で倒壊させたシェンク。広範囲の敵を一気に薙払った二人の守護騎士に、わずかな倒しこぼしを瞬く間に片づけた三人の守護騎士たち。鍛錬で他の守護騎士の力もある程度は見ていたが、シルヴィ以外の実戦を見るのは初めてである。
アルトはまだ戦いの場に足を踏み入れることさえ、かなわない。あの輪の中に入ることが出来るのは、一体いつなのだろう? 実力の差を、否が応でも痛感させられた。
シルヴィと立ち話をしているうちに、他の守護騎士たちは皆、魔物の死体が転がる教会跡で作業を始めている。せめて後始末ぐらいは、一人前にこなさねば。アルトは教会跡に駆け寄った。
アルトが力に目覚めた事件を受けて、ラムダの守護騎士たちは魔物たちの死体の扱いに神経質になっていた。魔物たちの屍が、より上位の魔物を呼び出す材料になる可能性がある。ミズルカに潜伏している魔物たちはこれだけではないが、死体を捨て置くわけには行かない。
既にアルトとシルヴィを除く守護騎士たちは、教会跡での作業を始めていた。僅かながらでも息があるものにはとどめを刺し、瓦礫をどかして不審なものはないかと目を光らせている。
二人に真っ先に声を掛けてきたのはディートだった。
「威勢がいいのは口先だけだったな。全く、予想通りだ」
勝ち誇った表情を向けてくる。対するアルトの表情は、苦みを帯びている。
「なんとでも言いな。言えば言うほど、あんたの大人げなさが際だつだけだが」
隊長や広範囲への攻撃に向いた二名を除けば、ディートは最大の戦果をあげている。仲違いをしてから彼と言い争うことが増えたが、普段のように滑らかに舌が回らない。それはディートにしても同じで、アルトに勝ち誇る意味を見いだせなかったらしい。
「まあ、いい。初陣の相手を詰るだけ無駄だ。……だがな、お前はそうではなかろう?」
彼の視線は隣の人物へと移った。
「剣を抜きもしないで、ここに立っている。もはや駆け出しとは言えない年数続けているはずなのに、何故なのかい?」
彼が見据えるのは、細剣の柄にさえ触れなかったシルヴィの姿であった。
「抜く必要がないと判断した。その通りだったでしょう」
シルヴィの素っ気ない簡潔な答えに、ディードは不満げに眉をひそめた。
「前線で戦うことは王家の自分には相応しくないとでも? どう思っているのかな、聞かせてくれないかね、お姫様?」
お姫様、という言葉もったいをつけてディートが言う。
シルヴィは黙っている。唇を硬く引き結び、何も言うまいとしている。どうやら、聞き流すつもりらしい。だが、指ぬきの手袋で隠された右手は、怒りを堪えるように拳を握っている。
シルヴィが何も言わないなら、自分がディートを黙らせる。喉まで声が出掛かったところで、割って入る声があった。
「よしなよ、ディート。言いがかりは見苦しい」
ルークの冷静な声だった。意外な相手に、ディートも少し驚いたようだ。
「君には関係なかろう。口を挟まないでくれたまえ」
反論する声にも、戸惑いが見られる。ルークは瓦礫をどかす手を止めないまま、答えた。
「関係あるさ。同じ隊の諍いを見過ごすわけにはいかない」
ルークは淡々と答える。挑発されればディートは激高するが、落ち着いた態度で諭されると、彼は弱い。肩をいからせながらも引き下がり、検分の作業に戻った。
シルヴィがつかつかと、瓦礫を乗り越えて歩みを進める。作業の手を止めないルークの傍らに立ち、声を掛ける。
その声はアルトには届かない。何を言っているのか、どんな表情を浮かべているのか、距離がある上に彼女の背中しか見えないので分からない。振り返ったルークの表情は、かすかに伺えた。その端正な顔立ちは、舞台に怖じ気づいた役者のようにこわばっているように思えた。
遠い二人を、つくづくと眺めていた。そのため、アルト自身の周囲まで気が回らなかった。
「焼け木杭に火がつくとは、まさにこのこと。ルークの奴、最近やたらと積極的だ」
エルンが傍らに立っていた。振り返ると、彼はアルトを見上げ、白い歯を見せて笑う。
「間違いなく、お前のおかげだ。いや、お前のせいというべきか? まあ、いずれにせよ、お前がシルヴィ嬢を口説きに行ったのが原因だったわけだが……」
そう言うと、エルンは意味ありげにアルトに視線を送る。言葉にはしていないが、彼は問いかけている。
アルトの答えは決まっている。
「口説いちゃいない。あれは懲罰だ」
憮然として言い返す。
シルヴィが無断外出をしたアルトを追って、夜の街に飛び出したことは衛兵隊の中で随分広まっている。魔物との戦いの他に何の関心もないはずの、あのシルヴィが、である。噂を知る者は皆、揃って彼女との関係をはやし立てるのだが、アルトには彼らの態度は不快でしかない。
「仮に向こうから近づいてこられたって、迷惑だよ。俺はこれ以上近づきたいとは思ってない」
同じ隊の仲間、という距離でアルトはいいと思っている。隣り合えば、少しぐらい話はする。訓練も付き合ってくれる。それは純粋に嬉しい。けれども、彼女の秘めたる謎や決意まで踏み込みたいとは思えない。
シルヴィに近づくには、相応の覚悟が必要だ。いつかユーリィが語った言葉が枷となって、アルトの足にはまっている。もし実際に周囲の連中が推測しているような関係なら、覚悟を決めなければなるまい。でも、アルトにはその覚悟はない。
エルンは作業の手を止め、足下に広がる崩れた瓦礫の山を見下ろしている。彼はややあって、口を開いた。
「そっか。なら、心置きなく言える。彼女は諦めろ。ルークに譲ってやってくれ」
彼はひっそりと安堵のため息をつく。
「五年前にはっきり拒絶された時に、終わったと俺は……いや、多分あいつも思っていたんだろうけどな。案外、諦め切れてなかったみたいだ」
エルンが顔を上げる。彼の視線の先には、ルークの背がある。シルヴィの姿は彼の傍らに、既になかった。少し探せば、別のところで作業を開始している。兄の孤独な背中に、エルンは肩をすくめる。
「あいつは人がいいからさ。強気に出るってことが、全然出来ない。だから、前もずっと見てるだけだった。でもさ、それだけじゃダメだって危機感を覚えて、今は頑張ってるわけでさ」
ルークに視線を向けていたエルンが、アルトを振り返る。
「そのちっぽけな勇気を、ちょっとでも後押ししてやりたくなるのが弟としての性じゃん?」
エルンの苦笑には、呆れ以上にルークに対する親愛に満ちていた。
強い兄弟の絆は、アルトには存在しないものだ。彼は太陽の光をまぶしがるように、目を細めた。
「随分とまあ、麗しい兄弟愛だことで」
皮肉のように言ったが、実際は、羨ましい、と言い損ねただけなのだ。アルトが言い損ねたことは、エルンにも伝わったらしい。エルンは屈んで、止めていた作業を再開した。
「だろ?」
少し照れくさそうにはにかむ彼の表情が伺えた。こんな相手がいるなんて羨ましいものだ、とアルトは改めて思った。
が、エルンの微笑はすぐに引っ込められた。瓦礫をどかせ、下敷きになっていた魔物の死骸に目を見張る。
「どうした?」
アルトは魔物の死骸をひょいとのぞき込む。そして、一目見た内にエルンの並々ならぬ驚きを共有する。
瓦礫の直撃を受けて、【妖魔】は緑の血を頭部から垂れ流して死んでいる。鉱石をはめ込んだような紅の瞳は輝きを失い、濁っている。ただ、その死体を夜の闇を切り取ったような、黒い靄が覆っている。
この光景を見たことが、ある。ルーイエで目にした光景がアルトの頭の中でちらと過ぎった瞬間、声が響いた。
「気をつけて! 魔物が蘇るわ!」
シルヴィの警告の声が、教会跡に響く。そう、それだ! 慌てて剣に手を伸ばし、魔法陣を浮かび上がらせようとするが、その頃にはエルンが魔法陣の加護の元、斧を抜いて魔物の死体に刃を振るっていた。
斧の長大な刃は、浮かび上がった魔物を掠めただけであった。死体を覆う黒い靄にわずかに届いたが、手応えはない。死体はアルトたちの頭を飛び越え、教会の跡地の中央部分にまで飛んでいく。
振り返れば、全ての隊員が得物を抜いて立っていた。その手には魔法陣が輝き、跡地の中央を鋭く見据えている。頭を瓦礫で潰されようが、弓矢を全身に受けようが、首を飛ばされていようと関係ない。黒い靄に包まれ、死体は一点に集い、空中を漂っている。
「バルボア、エイミー両名はその場で射撃! 他は待機! 靄が晴れ次第、突撃せよ!」
シェンクの叫び声が響く。
早速、遠距離戦に長けた二人に守護騎士が容赦なく魔物の死体に攻撃を仕掛けている。バルボアは錫杖を掲げ、雷を立て続けに降らせ、エイミーは休むことなく弓矢をつがえる。だが黒の膜に阻まれ、弾かれるだけであった。
「お前が言っていたのは、こいつのことか」
エルンが目の前の光景に顔をひきつらせながら、ぼやいた。
「魔法陣の力を使っても、この靄がある内は傷一つつかない……ということだったね」
大槌を構えたルークが、守護騎士二名の攻撃を受けても晴れぬ黒い靄を前にして苦しげにつぶやく。すると、ルークの近くにいたディートが不敵に唇をつり上げる。
「靄があるうちにいかなる攻撃も通じぬのであれば、晴れると同時に首をとればよい。簡単なことではないか」
不安と緊張の表情を湛えた面々の中で、ディートは朗々とした声で語る。
「ディート、驕るな!」
すかさずシェンクの叱咤が飛んだ。
「靄が晴れて、姿を現すのは【妖魔】の上位種だ。下位種よりも厄介に決まっている。驕る者は、魔物より先に首が飛ぶ!」
辺り一帯に響きわたるような声の一喝で、ディートは亀のように首をすくめる。
元々【妖魔】の出現例が少ないのだ。その上位種は記録にさえ、残っていないのである。警戒するのは当然のことと言えるだろう。
とは言え、下位種と同じ系統の力であれば、この状況下ではこちらの方が圧倒的に有利である。【妖魔】は力を使うには、詠唱が必要としていた。上位種も同じであれば、八名もの守護騎士に取り囲まれているこの状況下では、詠唱している間に倒せる。ディートの主張にも一理あるのだ。
他の隊員に習って、アルトも剣を抜き、黒い靄に覆われた死体の群を見据えていた。二十もの魔物の死骸が空中に浮かび上がる様は、不気味で恐怖を覚えるのももっともな光景である。だが、不思議とアルトに恐れはなかった。ここにいるのが彼一人だけであれば、恐れおののいていたことだろうが、彼の他に七人も手練れの守護騎士が揃っている。
上位種が出たところで、数の暴力には勝てまい。そしてルーイエの時のように非戦闘員はいない。手こずることはあっても、負けることはなかろう。
雷と矢が滝のように降り注ぐ中、黒い靄が生き物のように蠢き、一つの球体へと姿を変える。死体の山が球体の内部に飲み込まれ、暗闇の中に溶けていく。
まもなく、黒い球体にヒビが入る。雛が卵の殻を割るように、魔物が姿を現す。
尖った耳に、口まで裂けた唇。先ほど倒した【妖魔】たちとは大きさが違った。あれは幼児程度の大きさであったが、平均的な成人男性ほどもある。加えて、紅の瞳は眼窩から今にもこぼれ落ちそうなほど巨大化している。
黒い靄の残滓が、姿を現したばかりの魔物を頭上から降り注ぐ雷と矢の雨から守っている。【妖魔】の掃討に絶大な威力を発揮した二人の力は、未だに魔物をとらえていない。だが、魔物が姿を現すと同時に、残りの守護騎士たちが駆け出す。
「一番槍の栄誉は私が頂く!」
真っ先に飛び出したのは、ディートだった。剣を掲げるその右手には、紫の光を放つ魔法陣――三つの人間の頭を模した魔法陣が輝く。
ディートの剣は魔物に届く寸前であった。にも関わらず、魔物の動きは鈍重であった。ゆっくりと振り返り、こぼれ落ちそうな紅の瞳でディートを一瞥したのみであった。
勝った、とアルトは思った。ディートの剣が魔物の首を撥ねれば終わりだ。魔物に避けるすべはない、これで終わりだ。
だが、待ちわびた瞬間は一向に訪れなかった。ディートの歩みは魔物の眼前で止まり、振るった刃が魔物の首に突き立てられることなく、皮膚を浅く斬ったところで止まっていた。
一体、何をしているのだろう? アルトは目を疑った。ディートは何故、魔物にとどめを刺さない? あれほど勢いよく駆けていったのに?
「立ち止まるな、さっさと殺せ!」
苛立ったエルンが叫ぶ。動かぬディートに痺れを切らし、彼の足に魔法陣の光が走る。そして、一直線に魔物に向かって駆けていく。魔物はのろのろと、突撃してくるエルンを振り返った。すると、糸が切れたようにエルンの足が止まる。ディートと同じく、彼は棒立ちになって動かない。斧を持つ腕がだらりと下がった。
何が、起こっている? 得体の知れない恐怖に駆られ、アルトは足を止める。詠唱する素振りも、あるいは他の不審な動作もなかった。突き出された槍の穂先に突撃するような度胸は、アルトには備わっていなかった。だが、恐れを知らない熟練の守護騎士は、足を止めたアルトの脇をすり抜けて前進する。
「よくも二人を!」
アルトを追い越したルークが槌を振り上げ、魔物に迫る。魔法陣の輝きを帯びた槌が、魔物の頭を砕こうとしたその刹那であった。シルヴィが叫んだ。
「魔物の目を見るな!」
彼女の警告と同時に、魔物がルークを振り返る。その紅の双眸が彼をとらえた瞬間、彼は動きを止めた。
間に合わなかった。それでも、シルヴィは構わず警告を続ける。
「そいつの力は詠唱なんかいらない、あいつと目を合わせた瞬間に発動する!」
慌てて魔物から目を逸らし、足元に視線を落とした。とにかく、魔物を見てはいけない。なら、どうすればいい? 逃げるしかないのか? いや、しかし突然動きを止めた三人をどうすれば……? アルトには顔を上げないことが精一杯だった。
「俺が奴を転倒させる! 動けるものは、起きあがる前にトドメをさせ!」
凄みのある上官の声が降ってきた。顔を上げれば、シェンクの手甲の魔法陣が鮮やかに輝いていた。一撃で教会跡地を瓦礫の山に変えたときと同じように、拳が打ち合わされる。
上官の言葉で、アルトは落ち着きを取り戻す。そわそわと周囲を伺っていたが、魔物の目を見ないようにその足下に視線を向ける。剣を握る手は震えている。
アルトは一人ではない、頼りになる仲間がいるのだ。やるべきことを示されたのだから、まずは言われたままに動くのだ。不安と一緒に口の中で粘つく唾をごくり、と飲み干す。その音とシェンクの声が重なる。新たな指示ではなかったし、味方を鼓舞する声でもない。言葉にならない短い悲鳴であった。
アルトは耳を疑った。聞き違いだと思って、視線を魔物の足下からシェンクの方へとやった。
だが、聞き違いではなかった。シェンクの背から一本の矢が生えていた。彼の分厚い背を抉り、赤く染まった矢の先端が腹から突き出ていた。
シェンクの手が血をこぼす傷口を押さえつける。苦悶に顔を歪めながら、地面に膝を折る。
「隊長!」
膝を折ったシェンクの傷口からしたたり落ちる血は、大きな血溜まりを地面に作っている。
「くそ……魔物め……」
歯を食いしばりながら、シェンクがやっとの思いで疑問を吐き出す。そこまでが彼の限界であった。彼の巨体は力なく地面へと伏す。
アルトは呆然と、シェンクに弓を射た犯人の顔を見た。
「エイミー……」
見間違うような距離ではない。同じ隊の弓使い、エイミーはうずくまるシェンクの背に弓を向けている。
彼の尋常ならざる様子は、すぐさま察せられた。その目には、理性の光がない。焦点は合わず、どこを見ているか定かではない。だが濁った瞳とは裏腹に、彼の手は正確に動き、次の矢を弓につがえ、放つ。放たれた矢の狙いは正確で、シェンクの無防備な首筋を貫こうとするが、光の膜が突如立ち上がり、彼に代わって矢を受け、粉々に砕ける。
思いもよらぬ展開ばかりが続き、アルトはまともに動けない。砕け散る結界の破片を呆然と眺めていると、シルヴィが彼の眼前に降り立つ。
「あの魔物に操られてるのよ! 私とあなた、倒れた隊長の他は全員!」
叫ぶシルヴィの前方に、黄金の光の膜が立ち上がる。立て続けに展開された結界は、雷の閃光と共に砕け散り、破片をまき散らす。
輝く破片の向こう側には、エルンとディートの姿がうつろな目をして迫る。その手には魔法陣が宿り、得物を構え、駆け出す。シルヴィは右手の細剣を構えたまま、左手で投擲用の短剣を抜いた。
「死ななければいい! だから躊躇うんじゃないわよ!」
シルヴィの左手から、投擲用の短剣が放たれる。黄金の光を纏った白刃は、剣を抜いて走り寄ってくるディートめがけて飛来する。ディートの剣が短剣をはたき落とすと同時に、彼の魔法陣が一層輝きを増す。シルヴィは空いた左手で受け流し用の短剣を抜く。
「来る!」
疾風のごとき、細剣の一撃が繰り出される。ためらいなく放たれた一撃が、ディートの胸へと吸い込まれていく様が刻一刻と、目に焼き付けられ、アルト自身に迫った静かな殺気を感じて、ようやく目を逸らした。
巨人の拳のような、斧の一撃がアルトの前を過ぎる。後方に飛びすさり、巨大な刃に叩き潰されることは辛くも避けたが、その風圧で吹き飛ばされる。空中で姿勢を崩す。地面を靴底が長々と削り、うっすらと地表に砂煙を巻き上げる。
「エルン……!」
己の身の丈を越えるような大斧を構え、エルンは霧に覆われたような瞳でアルトを見据える。普段の活発な少年の姿はそこにない。今の彼は魔物に操られ、殺戮に走る人形だ。
空いた距離を埋めるべく、エルンが駆け出す。やむなく、アルトも剣を構える。迎え撃つべく、得物を片手に迫り来る仲間を正面から見据える。
再び繰り出された斧の一撃を、アルトは一歩後退して回避。軸足を後方に残して、剣と共にアルトは踏み込む。
剣と斧がぶつかり合う、耳障りな金属音が響く。
エルンの濁った瞳と視線が交錯する。だが、得物にせよ視線にせよ、両者が交わったのはわずかな時間のことであった。力比べで勝てるわけがない。エルンの腕力に抵抗せずに、アルトは剣を引き、後方へ逃れる。
距離を置いて、再び両者がにらみ合う。エルンは悠然とアルトを見据え、そしてアルトは注意深くエルンの様子を伺う。彼の右手の甲には、駆ける牡牛が描かれた魔法陣が輝く。このロイド家に伝わる魔法陣は、守護騎士の中でも飛びぬけて優れた怪力を与える。それゆえに、優男然としたルークや少年のようなエルンであっても、他の守護騎士では抱えるのが精一杯という大振りの得物を易々と扱う。
エルンとは何度も戦った。だが、勝ったのはほんの一度か二度のことで、いずれも幸運に見舞われてのことである。アルトの剣の技量は確かに上がっているが、それでもエルンを容易く打ち負かすほどではない。エルンの斧はほとんど確実にアルトの剣を防ぐが、アルトの剣は確実と呼べるほどエルンの斧を防げない。
とはいえ、負けないだけなら、そう難しいことではない。得物の関係で、エルンの移動速度は比較的軽装のアルトには及ばない。逃げ回るだけで勝てるなら、悪くない勝負だが、現実は違う。
負傷したシェンクを放置すれば命に関わる。一刻も早く、手当をしなければならない。だから、エルンにいつまでも関わり合っている暇はないのだ。他の四人も併せて、鎮圧しなければならないのだから。
前方で、守護騎士同士の激しい戦いが繰り広げられている。しかも、恐るべき人数差による戦いである。弓矢と雷が間断なく襲いかかり、三人の剣士、『三つ首の』力を使った三人のディートが躍り掛かる。それをたった一人でシルヴィは凌いでいる。
彼女の剣の技術は衛兵隊の中でも抜きんでている、と聞いていたし、鍛錬の中でも薄々感じていたことではある。だが実際にこうして見せつけられるまで、実感はなかった。三方からディートに切りかかられても、右手の細剣と左手の短剣で華麗に受け流しながら、雷と弓矢を足裁きと結界でかわしていく。まるで舞っているかのようである。突き出される剣も、降り注ぐ雷と矢も彼女の舞を彩る小道具に見えてくるほどだ。
シルヴィの強さは理解している。その内ディートの包囲を抜け、残る二人も沈黙させてしまうかもしれない。三人をあっさり片づけ、アルトを助けに来てくれるかもしれない。思わずすがりたくなるほど、強い。
しかし、アルトは既に学んでいるのだ。夢を見るのではなく、現実を見なければならないのだ、と。彼女の助けを待つのではなく、自分の足でまずは歩き出さなければならない。
無言のにらみ合いに痺れを切らしたのか、エルンが駆け出す。アルトは剣を握る手に力を込める。手の甲の魔法陣も、同調して鮮やかさを増していく。
握りしめる手を伝い、剣の刃は翡翠の光を纏う。アルトは迫るエルンを威嚇するように、剣を掲げる。正面から太刀打ちできないのであれば、搦め手で攻めるのみ!
剣の刃は、砂の地面に突き立てられる。切っ先を中心に、地面に鳥と大剣をあしらった魔法陣が浮かび上がる。突き立てた刃を媒介にして地面の魔法陣に力を注ぐと、急いで瞼を下ろす。
地面の魔法陣が、輝きを強める。翡翠の輝きは風を巻き起こし、地表から上空へと渦を巻いて立ち上る。最初はそよ風のようなささやかなものであったが、やがて木々がざわめくほどの竜巻へと姿を変え、大量の砂煙を巻き起こす。
風はエルンの体を傷つけられないが、風に巻き上げられ濃密に漂う砂粒は、容赦なく彼の目に飛び込む。目をかばって、空いた手で覆い、彼はその場で立ち尽くす。
これはルークに勝った日に使った手だ。エルンにまともな意識があったら、恐らく易々と防がれただろう。だが、魔物に操られている状態で過去の経験を生かして戦えるとは限らない。賭けであったが、成功した。
アルトの姿は上空にあった。竜巻でルークを足止めしている内に舞い上がった空から、砂煙に覆われる地表を見下ろした。
飛んだ方向は前方。エルンを置き去りにし、更にディートたち相手に剣を交えるシルヴィの頭上を飛び越える。その先の瓦礫の山を越えて降り立ったのは、【妖魔】たちの死体から生み出された魔物の背後。
エルンを打ち負かすことが、勝利の条件ではない。彼を操っている諸悪の根元を倒したとき、戦いは終わる。
魔物が振り返る前に、あの紅の瞳と目を合わせる前に、片をつけなければならない。アルトは着地と同時に、魔物の背に飛びかかる。剣を振りかざし、その首を狙う。魔物の動きは鈍重でアルトの存在に気付いて振り返ろうとしたが、刃が首を飛ばす方が圧倒的に速い。
けれども、魔物の首まで刃は届かなかった。突然、わき腹に激痛が走り、手から力が抜けた。剣が空しく手から滑り落ちる。
わき腹をえぐったのは、魔法陣の輝きを帯びた拳であった。まるで風に流された羽のように、アルトの体は宙に浮き、吹き飛んでいく。苦心して詰めた魔物との距離は、あっという間に開いていった。
アルトの体は瓦礫の山に叩きつけられる。固い地面に頭を打ちつけ、衝撃で視界が真っ白に染まる。
歯を食いしばって、全身を苛む激痛をこらえる。固く瞑ってしまった瞼をこじ開けると、視界はぼやけていていた。風景の輪郭はにじみ、青い空と広がる瓦礫の山との境界線は曖昧であった。
突如、目に染みるような青い空に陰りが差した。目を凝らすと、視界は霧が晴れたようにはっきりとした。陰ったのは、太陽の光が遮られたためであった。ルークの長身が太陽を遮っていた。彼はアルトに覆い被さり、魔法陣が輝く拳を握りしめている。
ルークの濁った紅の瞳が冷たくアルトを見据えた。
「おいおい、待ち伏せなんて卑怯だろ……?」
姿が見えないと思ったが、魔物の護衛に残っていたわけだ。精一杯の強がりを吐いてみるが、ルークの表情は微動だにしない。
ルークの輝く拳が、アルトの首へとぬっと伸ばされる。
五人を相手に戦うシルヴィの戦いは、薄氷の上を歩くようなものであった。いつ三人のディートの剣を流し損ねるか、あるいは遠距離から攻撃を仕掛ける二人の雷か矢を受けるか分からない。彼らの絶え間ない攻撃を流すのがやっとだ。
早く彼らを片づけなければならない。瀕死のシェンクを手当し、エルンに苦戦するアルトの助太刀をしなければならない。そう、こんなところで足踏みしている場合ではないのだ。
襲いかかる三つの剣をくぐり抜けて、シルヴィはディートから大きく距離をとる。
三人のディートがすかさず、シルヴィを追う。彼らの殺気を感じながら、シルヴィは構わず駆け出す。足に魔法陣の力を流し込み、草原を駆ける馬のように走る。彼女が狙うのは、遠距離攻撃を担う二人の守護騎士である。
雷と矢が霰と降り注ぎ、シルヴィの行く手を阻む。しかし、彼女の跳躍を止めるに至らない。雷は結界で防ぎ、矢は剣ではたき落とす。掠る程度のものは、無視して前に進む。
シルヴィの接近を悟り、エイミーは弓を捨てる。突撃するシルヴィを迎え撃つべく剣を抜き、鋭い踏み込みと共に突き出す。
しかし突き出された剣の刃は、流れるシルヴィの金髪を幾筋か断ち切ったのみ。彼女は身を低くし、エイミーのがら空きになった胴体へ飛び込む。左手の短剣は右股に刃を突き立てmエイミーの口から苦悶の声が上がり、刺された足がふらつく。
シルヴィは負傷したエイミーの足を引っかけ、転倒させる。無防備に地面に倒れ込んだ彼の右手、弓を引くのに欠かせない右手に細剣の切っ先を突き立てる。
振り返ると、バルボアが錫杖を振り上げていた。武器ではないにせよ、守護騎士の力で繰り出された一撃を舐めてかかるわけにはいかない。右腕を掲げて防御する隙、エイミーの太股に短剣を置き去りにして、左手で新たに短刀を抜く。錫杖を受け止め、払いのけると同時に、抜いた短刀をひらめかせる。幅広の刃は、易々とバルボアの曇った両方の瞳を切り裂いた。
血が吹き出る目元を抑え、バルボアが絶叫する。その拍子に錫杖が彼の手から落ち、すかさずシルヴィに蹴飛ばされた。光を失った彼には遠くに転がった錫杖は到底見つけられまいし、雷を制御することは更に難しいだろう。
二人の悲鳴に、シルヴィは堪えるように唇を噛みしめる。傷はラムダに帰れば治す手はある。彼らには悪いが、しばらく大人しくしていてもらうためには必要な負傷だった。
一見残酷なようだが、これでも上手くいった方なのだ。下手をすれば、彼らの命を奪いかねなかった。できるだけ避けたい博打であったが、もはや贅沢を言っていられる場合ではない。
同胞の血で染まった剣の刃から、シルヴィは目を逸らさずにはいられない。魔物は数多斬ってきたが、人間を斬ったのは初めてである。エイミーの太股と手を貫き、バルボアの目を斬った感触が、未だにシルヴィの手に残っている。
刃を振って血を落とし、シルヴィは顔を上げる。彼女に立ち止まる暇はない。同胞を操る魔物を仕留める為に、二人を斬ったのだから。
目を合わせないよう気を払いつつ、全ての元凶である魔物の方角を見た。ここでシルヴィまで魔物の視線の餌食になるわけにはいかないので、慎重に慎重を重ねた。まさか、そんな間抜けを犯すとは思っていないが。
顔を上げた瞬間、彼女の隻眼が見開かれた。魔物は別方向を向いていたので、原因ではない。彼女が驚いたのは、魔物から少し離れたところで行われている戦い……いや、そう呼ぶには一方的過ぎた。
地面に仰向けに横たわるアルトの姿があった。彼の上には、アルトの身動きを封じるべく、ルークが覆い被さっている。彼の腕はアルトの首に伸び、容赦なく締め上げている。
守護騎士の力なしには決して伺えぬ距離であったが、アルトの苦痛に歪む顔は見えた。エルンの拘束をふりほどこうともがいているが、効果を上げている様子はない。あのまま放置すれば、間違いなく絞め殺される。
早く、今すぐ助けなくては! シルヴィは駆けだした。赤い血に塗れた細剣と短剣を握りしめ、進む足取りに躊躇いはない。
だが、踏み出した足はすぐに止まる。シルヴィの前方を遮る者の姿があり、無視して通り過ぎわけにはいかない。
斧を手にしたエルンが立っていた。彼の虚ろに陰る瞳からは、何の感情も読みとれない。ただ静かにシルヴィを見据えている。
背後からは、複数人の気配が迫る。……誰かなど言うまでもない。三人に分裂したディートが追いかけてきたのだ。
四人は動かない。ただ、無言でシルヴィを囲んでいる。集団で狩りを行う獣のように、彼らは足並みをそろえて飛びかかるべき瞬間を伺っている。
シルヴィは瞬時に把握した。彼らを突破しなければ、アルトの元へは行けない。そして彼らを突破できる頃には、アルトが絞め殺される方が確実に早い。
遠距離戦が専門であったエイミーやバルボアのように、エルンやディートを鎮圧するのは簡単な話ではない。彼らは剣と斧の間合いが専門なのだ。シルヴィに容易く隙を見せる技量だったならば、既に魔物に殺されている。例え手加減なしで相手したとしても、素早く事が済むとは限らないし、そもそもシルヴィが返り討ちに遭う可能性だってある。
どうすべきか? 何を最優先して、決断を下すか? シルヴィは自問する。優先すべきは自分の命か? 違う、と即座に答えが出る。それこそ一番どうでもいいことだった。悩むまでもない。
では、他の隊員の……隊長、ルークやディート、そしてアルトの命か? 彼らの命の優先度は高い。だが、決して一番じゃない。彼らの命が尊いのはまた別の理由があり、それこそがシルヴィの最優先すべき規範である。
答えは、最初から決まっている。
シルヴィは左手の短剣を地面に落とした。その空いた手を顔に添える。指先で触れているのは、右眼を覆う黒い眼帯であった
動きを見せたシルヴィに、ディートたちとエルンが動きを見せる。照らし合わせたように、彼らは一斉に駆けだした。
迫り来る刃を前に、シルヴィの左手が動いた。顔に添えられた手が、音を立てて眼帯を引きちぎった。
眼帯の下にあった右目は、未だ瞼で閉ざされている。外傷はなく、左目との差異は一見した程度では明らかではない。彼女は引き裂いた眼帯を投げ捨て、背後を振り返った。
三人のディートが白刃をきらめかせ、迫っている。三方に散っているが、彼らの目が捉える獲物は同一だ。
シルヴィは棒立ちで彼らを待ち受ける。左手に新たな得物を抜くこともなく、細剣を持つ右手とてだらりと下がったままだ。右目を閉じたまま、左目だけでディートたちを見据えている。
三対の虚ろな瞳は、揃ってシルヴィの端正な顔を見上げている。それを確認し、ついに彼女は五年ぶりに右目を開けた。それは左の目と違った。澄んだ青の目ではない。紅の瞳……鉱石のような魔物の瞳。伝説に歌われる瞳が、永い眠りから目を覚ます。
紅の瞳は、駆け寄るディートたちを見た。そして、ディートたちも紅の瞳を見据えていた。視線が交錯したとき、ディートの剣を覆う魔法陣の光が突如消えた。
消えたのは、剣が纏う光だけではなかった。手足を強化する輝きも、ついには手の甲の輝き、三つの首が描かれたアンリ家の魔法陣も例外ではなかった。
魔法陣の消滅と共に、三人いたディートの内二人がその場で膝を突く。全身が光の粒子に分解され、まるで炎を吹き消したように、跡形も残らなかった。
ただ一人残った本物のディートに、もはや守護騎士の力は残っていなかった。守護騎士とってはひどくゆっくりとした速度で突き出された剣は、黄金の光を帯びたシルヴィの細剣にあっけなく弾き飛ばされた。がら空きになった胴体に、細剣の護拳が手加減されて打ち込まれる。急所を捉え、ディートは崩れ落ちる。どれだけ剣の腕が立とうとも、一般人と守護騎士では全く勝負にならない。
エルンの斧が、背後からシルヴィに襲いかかる。魔法陣の光を纏った一撃を、シルヴィは見もしないで回避する。空振りした斧は、その足下の地面に命中。一撃を受けて、決して砕けそうもない頑丈な石の地面が破片となって周囲に飛び散る。後方に飛びすさったシルヴィも破片までは避けきれない。鋭く尖った破片が彼女の体を掠める。
斧使いがシルヴィに与えた傷はそれだけに留まった。彼女の視線が飛び、エルンもまたシルヴィの目を見た。魔法陣は消し飛び、彼の体から守護騎士の力は消え失せる。
石をも砕く驚異的な身体能力は失せ、動きの鈍ったエルンの体を、薄く光を纏った拳が打ち据える。顎を撃ち抜かれ、彼は意識を失う。
気絶し、地面に崩れ落ちるエルンを、シルヴィは黙って見下ろす。
あまり口交流はなかったけれども、明るく、人なつっこい青年だったことは知っている。ルークと一緒にいる姿をよく見かけたが、彼らはもう二度と並んで戦場に立つことはない。エルンは、もう二度とシルヴィを許しやしないだろう。彼が何よりも大事にしているものを……守護騎士の誇りと絆を奪い取った女を、生涯恨み続けるだろう。
前方から金属を擦り合わせたような、甲高い奇怪な音が響く。目線を少しだけあげると、魔物が体を揺すってこちらに視線を向けていることに気付いた。
『バケモノ、バケモノ! オマエハ、人間ナンカジャナイ! 人間ノフリシタ、バケモノダ!』
言葉を覚えた幼児のように、辿々しい言葉だった。だが、シルヴィを苛む武器としての扱い方は手慣れている。仲間の血で汚れた細剣を握りしめるシルヴィを指さし、魔物は不快な声でけたたましく笑った。
『オマエハ誰モ救エナイ! 近ヅク者ヲ皆傷ツケ、殺スダケ……!』
魔物の笑い声は、ぷつりと途切れた。眩いばかりの光を纏った短刀が、【妖魔】の奇怪な鼻面を文字通り消し飛ばした。恐るべき速度で繰り出された剣の太刀筋を追うことは困難で、光の粒子の残滓が辛うじてその手がかりを残していた。
斬り飛ばした魔物の首を探すのは、後回しだ。シルヴィは振り返ることさえしなかった。死体の戯れ言に耳を貸す暇などない。第一、誰も救えなかったわけじゃない。
払った犠牲は大きい。だが、シルヴィの決断で魔物は死に、隊員は皆その影響から逃れたはずである。
それでもまだ安心しきれない。エルンに首を絞められていたアルトの安否が気にかかった。眼帯を付け直す暇はなく、右目を閉じて彼らがいる方向に顔を向けた。
ルークは相変わらず、アルトの上に跨がっていた。アルトはぴくりとも動かない。彼の首から手を離し、ルークはゆっくりと振り返った。
無事か、と尋ねようとした。だが、その顔を見た瞬間に、シルヴィは問うのをやめた。
彼の瞳には未だ、理性の光が戻っていない。虚ろな目で、エルンは不気味に笑いかける。魔物は死んだが、死して尚魔物の呪縛は解けないのだと、誇示するように。
魔物の死で、全てが解決するとシルヴィは信じて疑っていなかった。慌てて、右目を開いた。紅の瞳がルークの方を向いときには、既に遅かった。
魔法陣の光を帯びたルークの指は、両目を貫いていた。バルボアとは比較にならない傷であった。深々と刺さった指を抜くと、血が滝のように溢れ出す。彼の目は、もはや何も映さないだろう。誰が見ても明白な事実は、シルヴィの紅の瞳の力も及ばぬことを意味している。
誰も救えない、と魔物は言った。あのときから、ルークの行動を決めていたのだ。死にゆく魔物は、最期に趣味の悪い置きみやげを置いていったのだ……!
ルークは再び、アルトに向き直る。己の血で塗れた指を、アルトの首元へ再び伸ばす。
間に合え! ……シルヴィは強く念じた。魔法陣の力を全身に張り巡らせ、跳躍する。
切っ先を赤く染めた細剣を握る手は、微かに震えていた。
頬に、水滴が飛んだ。肌を刺激され、アルトは意識を取り戻す。
ルークに締め落とされ、少しばかり意識が飛んでいた。今は、首もとに掛かる圧力はない。試しに息を吸い込むと、激しくむせてしまった。
「起きなさい。……生きてるんでしょう」
すこぶる不機嫌そうな、シルヴィの声が聞こえる。寝起きを叩き起こされたところで、これほど不機嫌には振る舞えないだろう。
そういえば、全く同じ台詞をいつか彼女の口から聞いたような気がする。そう、二月前のことである。彼女と初めて出会った日……劇の後だ。謎の男に連れて行かれた小屋に魔物が現れ、もはやこれが最期と思ったとき……彼女が現れた。
あのときと、よく似ている。彼女の台詞も、意識が途切れたことも……量こそ違うが、顔に温かい液体を被って目が覚めたことも。
ぞっと、怖気が走る。あの生温かい感触が……生命が今し方絶えたばかりの温もりが、思い起こされたせいで。そして、今、頬に撥ね飛んだ液体もまた、同じ温度を持っていることに気がついて。
慌てて、重たい瞼を引き上げる。開けた瞬間は目の前がぼやけて何も見えなかったが、まもなく目の前の景色がはっきりとした像を結ぶ。
「あなたが無事で、良かったわ」
喜びのかけらもない表情で、シルヴィが言っていた。眼帯を外し、右目は硬く瞼を閉ざしている。シルヴィの眼帯の下を見たことはこれが初めてであったが、アルトが目を奪われたのはそこではない。
見上げるルークの胸から、シルヴィの細剣の刃が突き出ている。血で赤く染まった切っ先を、アルトは呆然と見上げていた。
奇妙な戦いが一段落したが、休む暇はなかった。一番に重傷を負ったシェンクの手当を行い、気絶させたエルンとディートも残っていた廃屋に運び込んだ。
しばらくして、バルボアとエイミーは理性を取り戻した。魔物の死後時間が経ち、ようやく魔物の術が解けたらしい。魔物の影響下にあるうちは暴れるので、手出しできなかったため、彼らの手当てが出来たのはそれからだ。
ミズルカにはまだ魔物が存在するはず。だが、その姿は今のところ見えない。意識を失っている者が多く、移動するにも支障がある。ひとまず、魔物の襲撃には十分警戒しつつも、皆が目を覚ますまで待つことになった。
休憩をしていると、雨が降り出した。空には分厚い雲が立ちこめ、雨粒は激しく屋根を打ち付ける。雨漏りがひどく、あちこちに住人が残していった椀や皿を置いて凌いだ。
廃屋に七人もの人間が集まると、狭苦しかった。意識のない三人は床に横たえられているが、そうすると意識のある四人にまともなスペースが残らない。部屋の隅で膝を抱え、それでも出来る限りの距離を保って座り込んでいる。
シルヴィは目を瞑って壁にもたれている。誰よりも戦い、戦いが終わった後も意識のないシェンクに代わって、残った人間を指揮したのは彼女だ。疲労は相当のものであろうが、寝入っているようには見えない。目を瞑ってはいるが、万が一に備えて眠るつもりはないのだろう。
聞きたいことは様々あった。その全てを問いかける時間も、許してくれる雰囲気もなかったが、アルトが目を覚ますまでに起こった出来事は一通り説明してくれた。バルボアとエイミーを行動不能にするために、傷を負わせたこと。エルンとディートを気絶させ、魔物を殺したが、アルトを手に掛けようとしたルークを止めることはできず、命を奪ったことを。
「全ては私の力が足りなかったせい。あなたたちの怒りも、悲しみも、何もかも……受け止める」
シルヴィの言葉を聞いていたのは、アルトだけではない。意識があったバルボアも、エイミーも聞こえていたはずだが、何も言わなかった。
当然だ、とアルトは思った。一体どうしてこの状況でシルヴィを声高に責められるだろう? 確かに、シルヴィの剣がバルボアとエイミーに傷を与え、エルンとディートの意識を、そしてルークの命を奪ったことは事実である。けれども裏返せば、それらを代価に他のものを守り抜いたということだ。
ルークの死はアルトにも衝撃的だった。初めてと言っていい、年齢の近い友人のような存在だった。彼の控えめな笑顔をもう見ることは叶わないなんて、俄に信じがたい。何よりも、彼の死に様は惨たらしすぎた。両目を潰され、彼の端正な顔立ちはもはや記憶の中にしかない。何より、密かな想い人の刃によって命を落とすなど、一体どんな性質の悪い冗談なのだろう。アルトは涙を堪えられなかった。
ルークを殺したのは魔物だ。シルヴィは選んだに過ぎないのだ。ルークか、アルトか、いずれかしか救えないあの場面で、アルトを選んだにすぎない。
シルヴィがいなければ、ここに皆の姿はなかった。魔物に操られ、相打ちの果ての全滅。そんな最悪の結末を避けられたのは、彼女の決断があったからこそだ。
そんなことは皆が分かっている。だから、何も言わない。胸にどんな想いを秘めていようが、口には出せない。彼女を責めることはもちろん、意図的にぼかしている事実も、指摘するにもはばかられる。
シルヴィの右目の眼帯。バルボアとエイミーが無言で問いかけているのは、その正体であった。
アルトだってそうだ。シルヴィは今まで頑なに外さなかった眼帯を外していた。だが、決して瞼を開けることなく、再び眼帯の下に隠されてしまった。シルヴィがあやふやにしか言わなかったエルンとディートの対処法はそこにある、と気付かない程の愚か者はいない。
雨は激しくなる一方だった。屋根を叩く雨音は増し、雷鳴が空に轟く。シェンクの治療のためにも戻れるものなら、一刻も早く拠点に戻りたいところだが、この天候では難しい。
天気の回復を待つ内に、気絶していたエルンが目を覚ました。彼は目を覚ますなり、周囲を一瞥した。バルボアにエイミー、まだ眠っているシェンクとディート、それからアルト、最後にシルヴィ。廃屋に集まった面子の顔を確認すると、彼はまだ幼い少年のような顔を曇らせた。
「アルト。……何が起こったのか、全て聞かせろ」
震える指先で、エルンは目頭を押さえた。聞かずとも、全てを悟ったらしかった。
請われるがままに、アルトは語った。先ほど聞いたことをそのまま話した。エルンが話に口を挟むことはなかった。黙って、うつむいて床を見つめているばかりであった。ルークの死を伝えたとき、ようやく彼は口を開いた。
「ルークはどこにいる? 会わせてくれ」
床に横たわっていたエルンが立ち上がる。アルトは慌てて彼の前に立ちはだかる。
「やめとけ。今はそんな場合じゃない」
アルトの脳裏に、ルークの痛々しい亡骸の記憶がちらつく。胸を細剣の刃で貫かれ、そして目を激しく損壊した彼の最期の姿。エルンに知らせる必要はない。知らないで済むなら、それが一番いいはずだ。
「邪魔をするな。どけ」
エルンが亡霊のような声で言った。そのまま押し通ろうとする彼の肩を、アルトは手荒に掴んだ。
「ミズルカにはまだ魔物が潜んでいる。お前を一人で行かせられねえ」
肩を掴まれ、エルンは足を止めた。同時に彼は低く、短く笑った。
「俺の命に守る価値なんてねえよ。守護騎士の力は、もうない」
エルンの右手に魔法陣はない。つい今朝まで巨人の腕を模したロイド家の魔法陣が刻まれていたのに、跡形もなく消え去っている。
アルトは声を失った。違う、と言いたかった。でも、悲しいエルンの笑い声に気圧されて、声は出てこなかった。
それでも掴んだ肩は離さなかった。エルンを死なせるわけにはいかないから、彼がなんと言おうとこれだけは譲れない。ルークに会わせてやるわけには、いかない。
エルンが振り返る。目に暗い怒りの炎が宿っていた。彼にもまた、譲るつもりはないのだとアルトは悟る。いくら止めようとも、魔物に足を食いちぎられようともルークの元へ行く。
二人の視線がかち合い、目に見えぬ火花を散らす。いつ着火して、爆発するかも分からない。重苦しい沈黙が広がる中、シルヴィの声が、稟と響いた。
「行かせてあげなさい」
一同の視線が彼女に集中する。身を預けていた壁から背を浮かせて、シルヴィは歩き出す。
「私が案内する。アルトはここから離れないで」
そう言って、雨よけの外套を手に取る。
アルトは一瞬、言葉に詰まる。シルヴィがそんなことを言い出すとは思えなかったし、何よりもまずいと思った。
「待て。それなら俺が……」
「お前はいい。引っ込め」
アルトを押しのけ、エルンが歩み出る。
「でも……!」
ほとんど反射的に声を荒らげたが、続く言葉はない。
続けられるわけがなかったからだ。ルークはシルヴィの剣で命を落としたのだから辛かろう、などと彼女の前では言えない。
アルトの声無き声は、エルンにも届いたようだ。彼は理解している、とばかりに首を横に振った。
「だからこそ、シルヴィに来てほしい」
ぞっとするほど、冷たい声だった。外で降りしきる雨を被っても、きっとエルンの声ほどには冷たくないだろう。エルンがシルヴィに向ける感情がはっきりと声に表されている。
本当に良いのか? アルトはシルヴィに視線で問いかける。だが、彼女はアルトには目もくれない。黙ってエルンを見つめる顔は、彼の声を耳にしても何の変化もない。
エルンが望み、シルヴィが何も言わないなら、アルトがしゃしゃり出るわけにはいかない。
「十分、気をつけろよ」
やむなく、道を譲る。
シルヴィは雨が降りしきる野外に出て行く。エルンも彼女の後を追って、やがて二人の後ろ姿は見えなくなった。
二人が出て行き、廃屋に再び静けさが戻る。雨音だけが、廃屋に響く。
シルヴィとエルンが出て行った後、アルトは部屋の隅に座って考えていた。彼ら二人の間に、何事もなければ良いが、と。
シルヴィの背を追うエルンの目は、尋常ではなかった。あれは仇を見る目だ。機会さえあれば、兄の仇討ちにさえ発展しかねない。そんな目をしていた。
エルンの変貌が、アルトには悲しかった。明るい青年が別人のように変わり果ててしまったことが、惜しくてならない。だが、その気持ちを想像することは出来る。ルークを失って、アルトはとても悲しい。彼の喪失を思うだけで、目頭が熱くなってくる。けれども、エルンの悲しみはその程度では済まない。人生を共に過ごしてきた兄弟を失った悲しみは、二月前に出会ったばかりのアルトとは比較にならないだろう。
「あの女が奪ったものは、何か? それは大切な我らの同胞の一人の命と、それから私とルークの守護騎士の力……命よりも大事な力だ」
アルトは顔を上げ、声の主に視線をやった。
声の主はディートだった。横たえられていたはずだが、身を起こし、特徴的な口髭を撫でつけた。
「お前もいい加減、気付いたことであろう」
偶然、目があった。ディートはアルトに薄い笑みを向けた。
「お前は紛い物に過ぎぬ。あの女こそが、現代に蘇った『裏切り者』なのだ、と」
アルトは、逃げるように目を逸らした。
「『紅の魔眼』か……」
キルヒアナ初代女王の結界の力を奪った異形の瞳。エルンとディートの手から魔法陣が消え、守護騎士の力が失われたことを確信したとき、彼女の右目の正体は察せられた。
「我がアンリ家は王家との縁も深い。ゆえに、私は知っていたのだよ。『紅の魔眼』は王都の宝物庫にはない。我らのそばにあったことを」
ディートは一度言葉を切ると、アルトから戸口へ視線をやった。
「そうであろう、シルヴィア王女よ?」
戸口には、シルヴィの姿があった。
挑むような目つきのディートに、彼女は答えない。雨滴が滴り落ちる外套をまとったまま、戸口に立ち尽くしている。それでも、ディートは物言わぬシルヴィに語りかける。
「貴様は守護騎士ではない。盗品を振りかざすだけの偽物だ」
「盗品……?」
シェンクが以前認めたように、シルヴィがキルヒアナ王家の姫君だということは確かである。魔法陣から判断して彼女は王族であろうと察したのに、それは彼女自身の力ではないと言う。
つまり、ディートが言わんとしているのは。
「ミルディン殿下の力は、貴様ごときには使いこなせまいよ」
シルヴィが力を奪った相手は王族、血の繋がった血族なのだと。
聞いたことがない王子の名前だった。バルボアもエイミーも首を傾げている。ざわめく一同を見渡しながら、ディートは皮肉げに唇をつり上げた。
「貴様等が知らないのも無理はない。何せ、王国の守護者として力を認められはしたが、世間に名を明かされなかったお方だからな。この女が、その邪な瞳を手に入れ、王子の尊い結界の力を奪ったせいでな」
一人一人の顔に目をやるディートの視線は、シルヴィのところで止まった。
「邪眼をその身に宿してでも、結界の力を手にする栄誉を手に入れたかったのか? 王国の守護者としての生は、王族の定め。義務を果たせぬ我が身を嘆く、という心境を理解できぬとは言わぬ」
ディートの声が少しだけ、柔らかくなる。守護騎士の誇りに対して、彼は誰よりも頑なであるが故だろう。
王家の守護騎士は、他の守護騎士と比べてさえ尋常ではない人命を預かっている。彼ら一人一人に、数万人の命がかかっている。禄に休む暇もなく、とてつもない重圧であろうが、その見返りにこの世で最も尊ばれる命の一つとなる。その力を得た理由が、多少強引でも奪った力の希少さ故に経緯は重視されまい。王国の守護者として迎えられることになるだろう。
守護騎士の名誉欲しさに、魔眼を手に入れ、家族から力を奪う。確かに、ディートの説明は筋が通っている。というより、他の理由などあるだろうか? 結界の力を欲する理由など早々考えられない。ディートはもちろん、バルボアもエイミーも、シルヴィに注ぐ視線は揃って厳しい。
ただ一人、アルトだけが別の目でシルヴィを見つめている。
「全部、嘘だよな?」
張りつめた空気に似つかわしくない、気の抜けたつぶやきが口からこぼれ落ちた。
シルヴィに向けられていた三人の視線が、アルトに集まる。
「この女の色香に惑わされているのかね? まったく哀れな奴だ」
ディートが唇を歪めてあざ笑う。しかし、アルトはシルヴィだけをまっすぐに見つめている。
「黙っていろ、ディート。俺が聞きたいのはシルヴィの答えだけだ」
アルトは振り返りさえしない。他の者の存在など、どうでもいい。アルトの言いしれぬ気迫に、ディートは口をつぐみ、他の二人も身を硬くした。
「シルヴィ、答えろ。ディートの話は本当か? それとも嘘か?」
一拍置いて、シルヴィの返答を待った。だが、当然のように彼女は口を閉ざし、石像となってたたずんでいる。
何がそこまで、彼女の唇を重くさせているのだろう? アルトには分からない。分かるのは、己の気持ちだけ。
「俺はあんたを信じる。それだけで信じるに足るんだ、他の物は何もいらない」
必死になって、アルトは訴えかける。鍵の掛かった扉のように開かぬ唇に、曇った鏡のような瞳に。
「だって、お前はそういうのを鼻で笑う方だよな? 名誉で魔物は殺せねえし、腹を膨らませることさえ出来ない。なあ、そうだろう?」
こわばる頬で無理矢理笑いかけても、シルヴィは何も答えない。アルトを見返す左目にも、何の感情を宿さない。
どうして、ここまで頑なに答えを拒むのだろう? 何故、いつもアルトには何も語ってくれないのだろう? 焦りが、募る。
初めて出会ったときから、そうだ。助けを呼びに行かせる、という名目でアルトを街の外に逃そうとした。真意を隠して、一人で魔物相手に散ろうとしていた。
もう一つは、あの忘れもしない夜のこと。唐突な心変わりの理由が気まぐれとは思えない。アルトはまだ知らない。明らかに何か事情があるのに、彼女がまだ語ってくれていないから。
そうして、今日のこの場。シルヴィはまた何も語らない。正面から問いつめてさえ、語ろうとしない。
何故だろう? アルトは自問した。どうして彼女は何も語ろうとしないのか? 分からなければ、きっとシルヴィは沈黙を守り続けるだろう。
分厚い書物から一節の言葉を探すみたいに、過去の記憶を手繰る。アルトは考える。シルヴィの唇に掛かった鍵を外す手段を探した。
引っかかる記憶が、一つあった。これならば、もしや、と思った。そう、それは赤毛の少女の言葉だ。
「覚悟は、出来ている」
口に出した瞬間、これだ、とアルトは思った。
彼女の深いところにまで、踏み込みたくない。やっかいごとに巻き込まれたくない。そんな想いがシルヴィにも伝わって、彼女もアルトを巻き込むまいと遠ざけ、何も語るまいとする。
直感は当たった。シルヴィの表情に、わずかながらも変化があった。
青い瞳が怯えた様子で、見張られる。唇がかすかに動く。その先を言わないで。そう言っているように見えた。もしそれが本当なら、言わないわけにはいかない。
でも、ここから先を言葉にするのに、少し躊躇った。
ここまで言ってしまったら、もう後戻りは出来ない。全て受け入れるしかなくなる。これからは、真実から目を逸らすことは許されない。どんな不都合な事実が提示されようとも、アルトにはシルヴィを信じる以外の選択……見捨てることも、見なかったふりをすることは出来ない。
虚構に逃れるな、真実を見ろ。これを強者の義務と言ったのはシルヴィだった。しかし改めて思うが、この言葉を実行し続けるのは、並大抵のことではない。
出来るだろうか? 彼女のように、なれるだろうか? 自分に問いかけようとして、やめた。
その代わり、彼女の手を取った。握った手の小ささに今更驚きながら、アルトは口を開いた。
「他の誰が疑おうが、誰を敵に回そうが……俺はお前の味方をする」
彼女に語りかける方が先だ。自問するのは後でいい。
シルヴィの青い瞳が、いっぱいに見開かれる。取り澄ました鉄仮面をかぶり続けていた彼女から、恐怖の感情が剥き出しになる。
歯の根が噛み合わないほどに、彼女の唇は震えていた。声にならない声が一瞬漏れ出て、その後ようやく待ちわびた彼女の声が聞こえてきた。
彼女は、叫んだ。
「……違わない!」
しとしとと降りしきる雨音に包まれる廃屋の中で、シルヴィの声ははっきりと響いた。
でも、アルトには聞きとれなかった。違う、以外の返事を想定していなかったから。今度は彼が石像となって、動きを止めた。
握った手に鋭い痛みが走る。強引に手を振り払われた、と分かった瞬間に、シルヴィの視線が真正面からかち合う。
「全てはディートの言うとおり。私は愚かな罪人よ」
先ほど見た怯えた表情は、その欠片すら残っていない。深々と被り直した鉄仮面のごとき表情が、冷たくアルトを見据えている。
何があったのだ? アルトには分からない。開けたはずの鍵が、なぜだかより一層硬く閉ざされているようなものだった。
縋るようにシルヴィを見るが、彼女は既にアルトを見ていない。見据えているのは、背後の三人である。
「やはり、な。……守護騎士の仮面を被った化け物め」
こみ上げる笑いを堪えるように、ディートがつぶやいた。続いて、一つ咳払いが落ちる。
「事情はまあ、よいとしよう。幼き頃の過ちというものは誰にでもある。だが一つ問いたい。お前は何故、今まで衛兵隊の中で暮らしていたのだ?」
今まで沈黙を守っていた、バルボアの声であった。
「結界の力を持つならば、王族の努めを果たすべきだ。お前が望んだ栄誉は、衛兵隊では叶えられまい?」
衛兵隊の中でも、既に何度も密かに噂されてきたことである。シルヴィはバルボアを見据え、答える。
「ご存じの通り、私の結界の力は不完全です。増幅陣で補っても尚、王族の努めを果たすことは出来ません。『紅の魔眼』は両目を揃えてこそ、完全な力を発揮できるのですが、私はこの通り……ですから」
シルヴィは眼帯に覆われていない左目を瞬かせる。
「王家の努めがこなせない私に出来ることは、他家の守護騎士と同じように、体を張って市民たちの盾となり剣となるのみです。そのためには、衛兵隊が一番都合が良かった」
「お前の瞳は守護騎士の力を奪う。いかな眼帯で隠しているとは言え、ふとした事故で他の騎士の力を奪いかねない」
バルボアは顔を上げた。包帯で覆われた目は、今の彼に外界を見る力を与えていない。だが、彼はシルヴィの方を正確に向いていた。
「私はお前が優れた守護騎士であることを知っている。誇り高く、民を護るためならば命をも惜しまない。実に模範的な守護騎士だ。だからこそ、問いかけたいのだが」
彼の声は険しく、非難の色が浮かぶ。
「我々の命よりも大事な力を奪うかもしれない。ミルディン王子を襲った悲劇が再び起きるかもしれない。それを理解しても尚、お前が衛兵隊に留まる理由は一体何だ?」
今度は全員の視線がシルヴィに集中する。
彼女は毅然とした立ち姿を崩さなかった。揺るぎない眼差しで、バルボアを見つめ返していた。
「バルボア殿。理由など、簡単なことです」
シルヴィは抑揚に乏しい声で告げた。
「幼い頃、私は目覚めたばかりのミルディンの力を奪いました。心から、己の為した罪を悔いました。王家の貴重な結界の力を私が摘んでしまった、その罪がどれほどのものか私は知っています」
シルヴィは魔法陣が描かれた右手を胸の前に構えた。長い睫に縁取られた瞳を半ばまで閉ざした。
「力を失ったミルディンの分まで私が戦おうと思いました。生涯を罪滅ぼしに捧げる、と決めたのです。衛兵隊での暮らしを選んだのはそのため」
迷いもごまかしもない口調で、シルヴィは語った。
「私が生きているのは、魔物を殺すためです。それだけです。他に私が生かされる理由はない」
誰も口を開かなかった。シルヴィの告白に、黙って耳を傾けていた。
アルトは混乱する頭の中で、散らかった情報の断片が繋ぎ合わされ、ようやく全体像が見えてきた。
シルヴィが態度を豹変させた、あの手紙。送り主のミル、という正体不明の人物がようやく判明した。何故、彼女が差出人の名前だけで態度をああも変えたのか、ようやく理解が及んだ。罪滅ぼし……シルヴィは魔物との戦い以外に時間を費やそうとした己を許さなかったのだ。
その瞬間、アルトは腹の底からふつふつと怒りの感情がこみ上げてくるのを感じた。
まだアルトは信じられない。ディートの話が本当だとは思えない。けれども、嘘ではないとシルヴィは言う。疑問はつきない。嘘だというシルヴィの言葉を嘘だと思う。だが、真偽の問うよりも先に悔やむことがある。
もっと早くに知るべきだった。あの時、手紙を見つけた彼女を追求しなければならなかった。そうすれば、彼女の秘密をもっと早くから知ることが出来た。彼女の思わぬ罪の肯定に、こうしてたじろがずに済んだのに。
何故、知らなかった? 何故、知ろうとしなかった? どうして、今まで覚悟を決めなかったのだ? 怒りの矛先を向けるのは、ディート相手でも、シルヴィ相手でもない。選択を今まで避け続けたアルト自身に対してだ!
怒りで目の前が一瞬、前が見えなくなった。鞘を剣の刃が走る音を聞いたのは、目が眩んだのとほとんど同時だった。
白銀の刃が、シルヴィの胸を貫いていた。彼女は正面から刺されたのではない。背後からだ。
「何が、罪滅ぼしだ」
青年のうめき声が、聞こえた。誰の声か、聞き間違えようもない。
「そんなもの、お前の自己満足だ。お前の罪は増すばかりだよ」
シルヴィの青い瞳が見開かれていた。己の胸の傷を見下ろし、そして突き出た短剣の刃を見た。彼女の唇が何か言い掛けたが、その瞬間、エルンは無慈悲に短剣を引き抜いた。
瓶の栓を抜いたように、傷口から血が吹き出す。シルヴィの体は支えを失い、膝から崩れ落ちる。横たわった地面に赤い染みが広がるが、エルンは黙って見下ろしている。
「お前の罪は、もう償うことは出来ない。……永久にな」
闇夜よりも尚深い暗闇が、エルンの瞳の中で蠢いていた。
アルトは駆け出した。血で汚れるのも厭わずに、床に膝をついた。
「シルヴィ! しっかりしろ、シルヴィ!」
地面に倒れたシルヴィを、アルトは抱き起こす。必死で呼びかけるが、反応はない。元から色白の肌が更に青ざめ、まるで雪のような色へと変わりつつある。
シルヴィの傷はシェンクと比べても、遙かに危険だった。まだ息はかすかにあるが、虫の息である。血は止めどなく傷口から溢れ出し、彼女の生命も同時に失われていく。
シェンクの手当に使った包帯を取り出す手間さえ、厭わしい。エルンが投げ捨てた短剣を拾って、自分の服の袖を破りとる。傷口に押し当てると、血を吸って瞬く間にあざやかな紅に染まる。
服の袖程度では全く追いつかない。アルトは背後を振り返った。
「てめえら、何ぼうっと突っ立ってやがる! 包帯をありったけ寄越せ、傷口を止める手伝いをしろ!」
まるででくの坊のように、三名はアルトを見下ろしていた。彼の怒声を聞いて尚、誰も動こうとしない。
アルトは痺れを切らして、もう一度叫ぼうとした。考えつく限りの罵倒を、役に立たない彼らに投げつけてやろうとした。すると、バルボアが静かに首を横に振った。
「ここに治癒の術を使える者はいない。彼女は助からん」
喉まで出掛かった声が、再び腹の底へと落ちていった。次の言葉はなかなか出て来なかった。
負った傷が深すぎた。傷口を押さえる程度では、もはや気休めにしかならない。医者がこの場にいたところで、同じ判断を下しただろう。治癒の力を持つ守護騎士がこの場にいない以上、彼女の命を救う術はない。
傷口を押さえる手から力が抜けた。彼女の体に触れるのが、急に怖くなった。彼女が死んだ瞬間を知ってしまいそうで、目を逸らしたいとさえ思った。
力が入らなくなった手にシルヴィの手が重ねられた。氷のように冷たい手に驚き、彼女を振り返る。シルヴィは弱々しく微笑した。
「ありがとう。でも、もういいから」
困ったような、呆れたような笑みであった。
「もう、いいから……って」
アルトは呆然として、呟いた。シルヴィははにかむようにして、もう一度笑った。
「誰からも理解されなくていい、と私は思っていた。そのはずだったの。でも、違ったみたいね」
凍てつくような手が、アルトの手を握った。
「嬉しかった。……私のこと、信じてくれて。本当に、嬉しかった」
「違うだろ」
シルヴィの冷たい手を、アルトは力一杯握りしめた。
「俺は今だって、お前のことを信じているよ。だから、嬉しかった、じゃない。嬉しい、だろ」
下らない言葉遊びをしている場合じゃない。けど、重要な違いだった。無視するには、あまりにも大きな違いであった。
シルヴィはアルトの指摘に答えない。ただ、黙って微笑するばかりだった。
「お願いよ。あなたは生きて。何があっても、生き続けて。……もう守ってあげられなくて、ごめん、ね……」
その言葉を最後に、シルヴィの手から力が抜けた。口元の微笑はほどけ、瞼は閉ざされ、健やかな寝顔のようになった。アルトはおそるおそる、シルヴィの肩を揺すった。
「おい。……何だよ。守ってやれなくて、ごめん……だって?」
返事はなかった。シルヴィは身じろぎもせず、瞼を閉ざしたまま。
アルトはもう一度、シルヴィの肩を揺すった。何度も、何度も彼女の体を揺らした。
「起きろよ! 目を開けろよ! ふざけんじゃねえよ! 俺のこと、何だと思ってやがる? 俺は守護騎士だよ、あんたと対等な立場だ!」
有らん限りの声で叫んだ。例え眠っていても、少し遠い場所に行っても、届くように。
「最初に会ったときとは違う、ガキ扱いするんじゃねえ! 俺だって、あんたを守りたいって思ってたんだよ!」
何度も肩を揺すった。長く、諦めきれずに何度も。やかましい、とつれなく切り捨てられ、蹴られることさえも心待ちにしたが、いずれも無かった。
彼女は静かに眠るばかりであった。
「あ……」
声がまともに出なかった。さっきの叫び声で喉を使いつぶしてしまったみたいに、ひゅうひゅうと吐息の音がしただけだった。声の代わりに、涙が出てきた。視界がにじんで、前が禄に見えなくなった。シルヴィの安らかな寝顔も、分からなくなった。
嘘だ、と思った。こんな馬鹿げたことがあっていいはずがない。だって、彼女は命がけで戦った。魔物を殺し、守護騎士たちを魔物の支配から解放した。少し手荒な方法を使ったけれども、命あっての物種というではないか? 何故、誰よりも誇り高い守護騎士であった彼女が、守護騎士に殺害されなければならない?
アルトは否定していた。目の前の光景を、シルヴィの死を、決して受け入れなかった。
あってはならない。絶対に彼女が殺されるなんてことが、起こってはいけない……。アルトは心の内で獣のような咆哮を上げた。
彼女を救う力を寄越せ! ……もう一度、奇跡を!
『ならば授けましょう。その娘の命を救う術を、あなたに与えましょう』
竪琴の調べのような美しい声。その声がアルトの頭に直接語りかけてきたのは、二回目だった。
翡翠の光が、突如として左手を包み込む。
魔法陣が左手に描かれていく。鳥の姿が描かれ、その背景には緻密な魔法文字が書き込まれていく。まるで誰かが羽ペンを猛烈な早さで走らせているように、もう一つの魔法陣が刻まれていく。
これがシルヴィの命を救う手段なのだ。アルトは即座に理解した。この光に身を委ねておけばいい。一度経験したことだから、冷静だった。
背後でざわめきが起こる。アルトの輝く左手を指さし、口々に何かを言っている。
だが、一人だけ別の反応を見せる者がいる。
「アルト。シルヴィを救うつもりか?」
エルンは無表情に問い、血に塗れた短剣を握り直した。アルトは彼を睨みつけた。
「ああ、そのつもりだ。邪魔するなら、容赦しない」
右手を突き出すと、鳥と大剣をあしらった魔法陣が輝きを帯びる。目も眩むような鮮烈な光から、彼の命を奪うに十分すぎると、容易に理解できたであろう。
エルンは眉一つ動かさない。恐れることなく、鮮烈な翡翠の光を見下ろしている。彼は唐突に、背を向けた。
「そうかよ。……勝手にしろ」
彼の足下に短剣が転がった。エルンの虚ろな笑い声が、雨音と共に響く。
「だから、お前が選ばれたんだろうな。あいつじゃなくて……」
それだけぽつりと言い残すと、彼は雨の止まぬ戸外へ歩きだした。
姿を消したルークを気に掛ける余裕など、アルトにはなかった。シルヴィを救う手段が手に入る瞬間を、今か今かと待ちわびていた。
左手の魔法陣は着々と完成に近づいていた。鳥の背景を覆う魔法文字もあらかた描き込まれている。わずかに残った空白を、見えざるペンの筆先が埋めようとした。
魔法陣の完成を今か今かとアルトは待ち受けていた。完成と同時にその力を使うために、右手で他の守護騎士を牽制しつつも、左手からも目を離さなかった。
それでも、その瞬間が訪れるまで気付かなかった。左手に巻き付いた感触――植物の蔦が手のひらに絡みつき、アルトの左手の自由を奪う。絡まった蔦をぐっと引き寄せる力が働き、体を浮遊感が包み込んだ。
何が起こっているか、アルトには分からなかった。自分を引っ張る蔦の出所も、正体もこの一瞬の出来事では掴みようがなかった。けれど、一つだけ理解していたことがある。今、シルヴィの傍を離れるわけにはいかない。まだ自由が残されていた右手が、シルヴィの冷たい手を取った。
右手を伸ばすと同時に、まるで釣り糸に掛かった魚のようにアルトは蔦に引かれた。抵抗する暇もなく、廃屋の戸口を出て、雨滴が全身を濡らす。湿った空気と雨を切り裂き、空中を突き進む。左腕に絡まった蔦から急速に力が失われると、地面に背中からつっこんだ。地面はぬかるんでおり、落下の痛みは大したことがなかったが、泥が滑る嫌な感触が背中から腰まで広がる。
目を開けると、シルヴィがアルトの胸の中で安らかな寝顔を晒していた。蔦で引っ張られる間、右手で体ごと抱き寄せ、着地の際にも放さなかった。その甲斐あってなんとか離れずに済んだ。アルトの右手からほんの少し力が抜ける。
だが、安堵できる状況にはほど遠い。アルトの左手には依然として蔦が食い込んでいる。シルヴィを右手で抱えたまま身を起こすと、彼の目の前に人影がある。目深にフードを被り、その下の顔を伺い知ることは出来ないが、小柄な体格とフードからこぼれ落ちる長い深紅の髪からすると女性らしい。
「どうやら、間に合ったみたいね。手遅れか、と思った」
果たして、目の前の人影から聞こえてきたのは女の声だった。息を弾ませ、降りしきる雨にかき消されそうなほどに弱々しい声であった。
フードの女の右手には魔法陣の青い光が宿っている。女の魔法陣から、蔦が伸び、アルトの左手に絡みついている。彼の左手には先ほどまで新たな魔法陣が描かれようとしていたが、幻であったかのように、今は消え失せている。
シルヴィを救う、唯一の方法だった。奇跡として授かった希望の光を奪われ、アルトはただ、呆然と蔦が巻き付いた左手を見つめていた。
「俺がそんなに憎いのか? そんなに恨んでいるのか?」
乾いた声が唇からこぼれた。
「お前は……一体、何者だ?」
アルトはフードの女を睨みつける。
女は暫く黙っていた。雨の中、何も言わずにアルトを見下ろしていたが、突如歩き出した。
女を睨みつけながら、シルヴィを抱く右手に力を込める。もはや救えないと分かっていても、それでも彼女を手放すつもりは毛頭無かった。
アルトに警戒心が芽生えたことを悟ってか、女は足を止めた。そしてまた、しばらくの間黙りこんだ。
「誤解よ。あなたを憎むことも、恨むことも、あたしにはありえないわ」
女は手を伸ばす。その動きにアルトが身構えるが、女は構わなかった。かざした右手の魔法陣が眩い光を放ち、胸の中で眠るシルヴィの傷口へと降り注ぐ。
血に塗れた無惨な傷跡は跡形もなく、消えた。シルヴィの冷え切った体に、かすかに温もりが宿った。彼女の青ざめた唇は赤みを取り戻し、小さな寝息をたてている。
シルヴィは命の危機から救われた。アルトはその恩人であるフード姿の女を見上げた。
「あんたは……一体、何者だ?」
先ほどと同じ問いかけを口にする。すると、フードから覗いた口元が笑みの形を引き結ぶ。
「いい加減、声を聞いただけで分かってほしいわ」
女は楽しそうに声を弾ませた。しばし逡巡するような間があって、女は魔法陣の輝きが残る右手を胸の前にかざした。
「多くの人々はあたしのことを……『蒼の騎士』と呼ぶわね」
彼女の右手に宿る光は、目も醒めるような澄んだ蒼の光であった。二つ名の由来となった魔法陣の輝きにアルトは言葉を失っていると、女の左手がフードを引き下ろした。見覚えのある少女の顔が現れ、アルトはあっと声をあげる。
少女は楽しげに微笑しながら、言葉を続けた。
「ねえ、アルト? これ以上の自己紹介は必要かしら?」
まとめた深紅の髪が現れ、茶色の瞳がアルトを見下ろす。酒場で出会った少女ユーリィ。フードの女の正体は彼女に他ならなかった。
ユーリィの手引きで、アルトは近くの精霊教団の隠れ家に向かうことになった。息を吹き返したとは言え、まだ意識が戻っていないシルヴィを休ませられる場所が必要だったのだ。
廃屋は安心して休ませられる環境ではない。拠点に戻るという手もあったが、馬を飛ばしても数時間掛かる距離で、やはり他の守護騎士の存在が気にかかる。『紅の魔眼』を持つシルヴィをどう扱うか、動きが読めない。
今の状況をアルトが説明するまでもなく、ユーリィが一つ提案を持ちかけてきた。
「ねえ、教団の隠れ家へいらっしゃいよ。拠点より近いし、何よりその子の身の安全は保障するわ。あたしの意志に逆らえるやつはいないもの」
アルトは、彼女の言葉に嘘偽りがあるとは思えなかった。
ユーリィは守護騎士の力を身につけている。キルヒアナ騎士団に所属しない守護騎士は、『蒼の騎士』ただ一人だけだ。加えて二つ名通りの蒼い輝きを放つ魔法陣を持ち、死の間際にあったシルヴィを瞬く間に蘇らせた力量を考えれば、疑う余地はない。
無論、ユーリィ自身に対する信用もアルトには十分あった。シルヴィの命を救ってくれた、その一点だけで、ひとまず彼女に敵意がないことは信じても良いと思った。それ以上の信頼を寄せるのは、今の段階では難しいが。
「ユーリィ、あんたには山ほど聞きたいことがある。シルヴィの意識が戻るまで、色々と聞かせてくれるだろうな?」
彼女には秘密が多すぎた。疑惑の目を向けると、ユーリィは微笑した。
「ええ、そうね。あたしもあなたとゆっくりお話しする時間、欲しいもの」
そう言うと、あの酒場で出会った日のようにつくづくとアルトの顔を見つめるのであった。
折り返し地点を過ぎました。明日、残りを投稿します。4章とエピローグで完結予定。