第二章 城塞都市ラムダ
【地獄犬】を倒したアルトとシルヴィは、その日一日の残りを休養に当てた。シルヴィの怪我は酷く、医師の見立てでは左腕を切り落とすことになっただろうが、隣町からやってきた守護騎士の治癒術により切断は免れた。とは言え、大量の出血もあったため一日のみならず、しばらく療養が必要という。
守護騎士の力が目覚めたアルトは、即刻守護騎士団への入団を決められた。選択肢は与えられなかったが、与えられたところで他の選択肢がないのだ。結果は変わらなかっただろう。
シルヴィの療養とアルトの入団のため、城塞都市ラムダに向かうことになった。
シルヴィの体調を考慮しながら、十日に及ぶ御者付きの馬車の旅となった。
ラムダは城塞都市の名に恥じない、立派な城壁に囲まれている。一般の衛兵が守る門をくぐれば、活気に包まれた町並みが姿を現す。
「さすが、西部一の交易都市。こんなご立派な城壁は金満都市じゃなきゃ建てられまいし、維持も出来ないだろうな」
白髪が目立たぬよう、目深におろしたフードの下でアルトは目を細める。
「ここはキルヒアナ建国以前からの、交易の要衝だった。城壁に掛ける金はいくらでもあったし、その必要もあった。その名残ね。でも正直なところ、邪魔でしかないから早く取っ払ってほしいわね」
アルトが感心して見上げる城壁を、シルヴィはうんざりした目で見上げる。
「人間相手の戦争なんて、建国以来一度もないの。魔物相手に城壁なんて置物よ。この街を守っているのは、壁なんかじゃないわ」
シルヴィは中心街の方へ目を向ける。周囲の建物と比べて、飛び抜けて背が高く、目を引く塔をがそびえ立つ。
「王女様たちのお膝元だもの。ここでなら、魔物を恐れる必要などないわ」
この世界において、人の領域は限られている。魔物の領域において、人間が生き延びることは例え守護騎士であっても難しいだろう。
キルヒアナ王家が持つ、魔物の侵入を拒む結界が人々の生命線だった。結界の及ばぬ土地は魔物が跋扈しており、人の生存を許さない。人の領域とは、王族の結界に守られた範囲に他ならないのだ。
現在、王国内の主要都市十カ所に、守護騎士の力を持つ王族が配置されている。彼らは居住する都市と周辺の集落を対象に、不眠不休で結界を張り巡らせている。
しかし結界の力にも限界がある。結界の力は結界の中心地から離れるほど衰え、魔物の侵入を防ぐ効果が薄れる。そのため、都市から離れた集落ではたびたび低級の魔物が姿を現すが、都市に現れたという話は皆無である。ラムダに限らず、王族に守られた都市が他より栄えるのは、魔物の脅威から逃れたい人々が多く詰めかけるためであった。
アルトとシルヴィは、活気に満ちた大通りを歩く。時刻は昼下がりで、身分を問わない老若男女が行き交っている。買い物籠を下げた使用人や主婦、露天で声を張り上げる物売り、酒場から姿を現す職人たち、荷物を山のように積み込んだ商人の馬車……どこの都市でも見かける光景だが、ラムダは規模が違う。アルトはあたりを見回しながら、先をいくシルヴィの後を追った。
街の中心の広場にさしかかり、人の密度は更に増す。立ち話に興じる人の姿が目立ち、人波を縫うようにして進んでいく。
その一角に、人だかりが出来ていることにアルトは気付いた。興味をそそられて、足を止める。
人だかりの前には、一人の男が立っている。黒いローブ姿で胸元には、額に角をはやした異形の女の姿をあしらった紋章が刻まれている。
男は穏やかに、だが威厳のある口調で聴衆に語りかける。
「我々が敬い、崇めるべき方の名を知りなさい。我らが信じるべきは、精霊と救世主の他にないのです」
アルトには、男の言葉の意味がさっぱり分からない。信じるべき? 精霊と救世主? 聞いたことのない言葉に首を傾げる。
「あんなものに耳を貸すんじゃない。行くわよ」
シルヴィが毛虫でも見たかのように、顔をしかめる。
「何で? ……そもそも、あれは何なんだ?」
「知らないの? あいつらは精霊教団って名乗っている連中よ」
青の隻眼が、ローブ姿の男を睨む。目にありありと浮かぶのは、不信感ばかりである。
「精霊は救世主をこの世界に遣わし、魔物を滅ぼす。だから、精霊と救世主を信じなさい。……奴らが言っていることは、簡単に言うとこんなところね」
「へー……すっげえうさんくさいな」
滅ぼせるんだったら、その精霊様と救世主様とやらはもったいぶらずにさっさと魔物を滅ぼせばいいのに。独り言のようにつぶやくと、シルヴィも同感とばかりに頷く。ただし、その表情は苦々しい。
「でも残念ながら、そうは思えない人も多いみたいでね。信者も寄進も随分集めているらしいわ」
「へえ。そんなに羽振りがいいのかい?」
「ええ。……まあ、分からなくもない理由があってね」
シルヴィがため息をつく。周囲をはばかるように視線をやって、ようやく口を開いた。
「ご承知の通り、世代を減るごとに守護騎士の数は減少の一途を辿っている。八十の一族にしても、王家にしても」
「……ああ」
シルヴィが若干声を落とした理由が分かった。守護騎士の制服姿ではないものの、守護騎士の一人としてはあまり肯定したくない事実なのだろう。
建国から三百年の間に、守護騎士の数は大きく数を減らしている。魔物との戦いで命を落とす守護騎士の数は少なくないし、守護騎士の素質を持った子供の出生数が下がってきているという。
特に王家の守護騎士不足は深刻だ。結界が一瞬でも途切れれば、魔物の侵攻を許すことになる。十の都市において、不眠不休で結界が展開されているが、その人材にも余裕はない。王家の守護騎士不足を理由にいずれかの都市を放棄する日も遠くない、と囁かれているほどである。
「残念ながら、民衆の多くが不安を抱えている。このままでは、キルヒアナが滅ぶのではないか。誰が命と生活を守ってくれるのか、という風にね」
「なるほど、ね」
要するに、精霊教団が力を付けたのは民衆の不安に応える教えを広げたから、悪く言えば、不安につけ込んだから、というところらしい。
「けどさ、その手のうさんくさい団体なんて昔からあるだろ。今に始まったことじゃないだろうに……」
言い掛けたところで、シルヴィに肩を叩かれた。発言を中断すると、彼女は精霊教の宣教師を指さした。
振り返ると、宣教師が声量を上げて高らかに宣言するところだった。
「既に精霊に導かれ、救世主はこの地上に降り立っています。そして、我らに力を与えて下さいました。その証を――『蒼の騎士』の出現をあなたたちはもう知っているでしょう!」
今まで反応が薄かった聴衆の中から、ざわめきが起こる。「やはり、本当なの?」だとか「そうだよな……」だとか、男の言葉に心が動かされた様子が伝わってくる。またまた聞いたことがない言葉が出てきた。
「『蒼の騎士』というのは、精霊教団が誇る守護騎士の通り名よ」
アルトの感想を前もって予想していたらしい。シルヴィがすかさず説明してくれた。
「ふーん。……って、ん? 王国騎士団の守護騎士なんじゃねーの?」
八十の守護騎士の血族は全て、キルヒアナ王家に忠誠を誓い、守護騎士の力を発現させた人間を一人残さず、騎士団に入団させている。そのため、守護騎士は皆、キルヒアナ王立騎士団に所属していることを現す。間違っても、うさんくさい教団に手を貸すわけないと思うのだが。
「そう。いるはずがないの。でも、いたのよ。八十の血族、いずれにも属しない守護騎士が現れた。これは紛れもない事実」
シルヴィの表情が険しくなる。
「キルヒアナ王国建国以来、一度もなかったことが起きている。それが……八十の血族いずれにも属さない、新たな守護騎士の出現よ」
シルヴィは一度言葉を切って、アルトから視線をはずした。その瞳は宣教師の方を向いているが、群衆に遮られた彼の姿が見えているのかは定かではない。
「『蒼の騎士』は『精霊の使徒』を名乗り、守護騎士の力は救世主に与えられたものだと語った。そして、もう一人」
シルヴィの蒼の隻眼がアルトを正面から、捉える。
「アルト、あなたの力は一体誰から与えられたのかしら?」
城塞都市ラムダの守護者たる王女たちの住処が、同時に守護騎士団の拠点でもあった。シルヴィに連れられて門をくぐると、アルトの守護騎士としての生活が始まった。
由緒正しい八十の一族の他から、隊員を迎えるのは無論初めてのことであった。内部では相当、アルトの取り扱いに紛糾したらしいが、彼本人の知るところではない。とにかく、彼に告げられた所属名は、キルヒアナ王立守護騎士団ラムダ支部衛兵隊第二十五隊所属……シルヴィと同じであった。
ラムダの城門をくぐった日から、一月後。その夕刻、アルトの姿は練兵場にあった。
長剣を構え、向かい合う相手を見据えるまなざしは鋭い。右手には翡翠の光に包まれた魔法陣が浮かび、アルトに人間離れした身体能力を与えている。
向かい合う相手は、彼よりも年上の青年であった。長身で均整の取れた体つきである。女性を虜にするような甘い顔立ちは、得物である巨大な槌を操るにはふさわしくない。彼の右手にも魔法陣が輝き、油断無くアルトの前に立つ。ルークという名の若者であった。
二人がにらみ合う時間は、そう長くなかった。先に地面を蹴ったのは、アルトの方であった。常人の目には捕らえきれない速度で、踏み込みと同時に白銀の刃が繰り出される。懐に吸い込まれていこうとしたが、すかさず突き出された槌が受け止める。武器が打ち合わされ、甲高い金属音が響く。鍔迫り合いは一瞬であった。守護騎士の中でも怪力を誇るルーク相手に、力押しは無謀である。アルトは刃を引き、すかさず後退を選択する。
とはいえ、ただで引かせてくれる相手ではない。アルトが下がった分、ルークが前進する。
アルトの刃をルークは易々と受け止めるが、その逆は一度も成功した試しがない。真正面から受けて、練兵場の壁まで吹き飛ばされたことさえある。とは言え、無防備に食らえば鍛錬で大怪我を負うことになる。無理を押しても避けるか、受けきれないと分かっていても受けるか……さて、どうしたものか。
アルトの逡巡などお構いなしに、槌が脳天をも砕くような高さに振り上げられる。ルークの槌は、恐るべき威力を備えた一撃を放つ。反応が遅れたアルトの鼻先を通過し――練兵場の地面を派手に穿つ。
叩かれた地面から、砂利が吹き上がる。盛大に巻き上げられた砂利は、アルトの視界を砂埃で塗りつぶし、ルークの姿を隠す。
どうやら力押しの勝利にルークは飽きたらしい。彼らしくもない、奇策である。アルト程度なら小賢しい手を使うまでもなく、正面から叩き潰すだけで十分事足りるのだから。
アルトは砂煙が己の表情をルークから隠していることに安堵して、ほくそ笑んだ。これでようやく、一矢報いることが出来る、と。
右手の魔法陣がまばゆく輝く。魔法陣から放たれた光は彼の右腕を伝い、白銀の刃へと吸い込まれていく。
翡翠の光を纏った刃を、アルトは扇を広げるように、軽く一閃。刃はもうもうと舞う砂をわずかに切り裂いただけに終わり、無論、ルークを切った手応えはない。構いやしない、最初から狙いはそこにないのだから。
振り抜いた白銀の刃から、翡翠の光を帯びた刃、すなわちアルトが守護騎士の力で生み出した風の刃が放たれる。風の刃は放たれるや否や解け、空気中を漂う砂埃をアルトの視界から払いとばす……だけに飽きたらず、砂を巻き上げた張本人の顔面に吹き付ける。
砂をたっぷりと含んだ風を真正面から受け、目をつぶされては、熟練の戦士であっても隙は生まれる。その隙を狙って、アルトは長剣の刃を素早くルークの首もとに突きつけた。
「一勝は、一勝だ。くだらねえ言い訳は聞かねえぜ」
「言い訳? そんなみっともないことはしない、素直に負けを認めるよ」
ルークは敗北を認め、得物を地面に置いた。
「おめでとうアルト。僕との試合の連敗記録が三十二で止まってよかったね。さて、ところで次はどこまで伸びるかな?」
空いた手で目に入った砂を拭いながら、ルークが言った。
「うるせえやい。これから連敗記録を伸ばすのは、あんたの方だよ」
アルトは魔法陣の光を解除しながら、剣をしまう。苦々しい表情のアルトとは対照的に、ルークは楽しげに笑う。
「ああ、そんな日が来るといいね。期待しているよ、新人君」
立ち上がり、アルトの肩を叩く。本人は軽く叩いたつもりなのだろうが、アルトはバランスを崩して前につんのめる。ルークは笑いさざめきながら、顔を洗うべく水場へ向かっている。彼の広い後ろ姿を睨みつけながら、つぶやく。
「今に見てろ」
捨て台詞を吐く口元は、皮肉と親愛の笑みを象っている。
守護騎士団の一員となって以来、アルトは一人前の守護騎士になるべく、同僚たち……所属する第二十五隊の面子に代わる代わる戦闘技術や必要な知識を叩き込まれた。甘えも妥協も一切許さない隊員たちの指導は、苛酷を極めた。弱音を吐こうものなら、容赦なく鉄拳と怒声が飛ぶ。一体、何度訓練をさぼる口実を布団の中で考えたことだろう。
しかし、逃げようとは思わなかった。確かに訓練は辛く、厳しかったが、守護騎士団に入ったことを後悔した日は一度もない。
ルークが戻ると、ちょうど夕食の時刻を知らせる鐘が鳴った。鍛錬の時間は終わりである。練兵場にいた騎士たちは皆鍛錬の手を止め、食堂に向かう。アルトたちの姿もその中にあった。
「入って一か月の新入りに負けるたぁ、なっさけねーなあ、ルーク。こんな情けねえことを親父に報告したら、半殺しにされんぞ」
食堂で出されたパンをかじりながら口を開いたのは、第二十五隊の同僚エルンだ。アルトと比べてさえ頭一つ分身長が低く、顔立ちも少年と見紛うほどに幼い。長身で青年然としたルークの双子の弟というのだから驚きである。
「そうだね。経験者が語ると、説得力がある」
エルンの隣に腰掛けたルークがすまし顔で答える。
「一週間前に負けた際には、八割殺しだったからな」
対する、双子の弟の表情は苦々しい。歯噛みするエルンに、ルークが苦笑を見せる。
「アルトは全くの素人、というわけじゃないみたいだからね。剣術の基礎がちゃんと身についてる。飲み込みも悪くない。弱音は吐くけど、逃げはしない。……まあ、そりゃ僕らだって負けることもあるよね」
普段は手厳しいことばかり言われるが、決してそれだけではない。
守護騎士団に入るまでは、他人に認められ、誉められることなど一度もなかった。与えられるのは筋違いの罵倒の言葉か、あるいは口をきくことさえ許されないか。
けれども、今は惜しむことなく技術を伝え、その上素質と努力を認めてくれる人たちがいる。今の居場所がいかに恵まれているのか、昔の記憶と引き比べてみれば天と地の差である。
「しっかり頼むぜ、先輩方。追い越されるのが怖いからって手抜きしないでくれよな?」
にやりと挑発的に笑う。その時ちょうど、ルークの向かい側の席が引かれる。
「剣に関しては教師に恵まれたらしいが、口の利き方は教えてくれなかったらしい。一度顔を見てやりたいものだ」
初老の男性が夕食の盆を持って、腰を下ろす。痩身だが、やつれた印象はない。よく絞られた、鋼のような体躯と表現する方が適切であろう。彼は、アルトと同じく第二十五隊に所属する守護騎士バルボアであった。
彼は現役で留まる最年長の守護騎士だが、その働きに老いは感じられない。経験豊富な騎士として皆から慕われている。
アルトは肩をすくめる。さすがにアルトとて、バルボア相手にルークやエルンと同じ態度は取れない。
「出来るものなら俺も見たいですよ。しかし、わずかな手がかりさえもないんだから」
「相変わらず、か。研究室の奴らもお手上げかね?」
バルボアは、年齢を重ねて白く染まった眉をしかめる。
「残念ながら、何の進展もありませんね」
日々鍛錬を積む傍ら、アルトは時折研究室に出入りしていた。研究者たちに記憶にあることは全て語ったが、新しい情報は何一つ出ていない。
視界に映り込んだ己の白い髪の毛先が、ふと目に付いた。食事の手を止め、その内の一房をつまみ上げる。
「やっぱり、何も分からずに終わるのかな」
落胆の言葉が、ぽつりと口をつく。
たしかに、今の生活にアルトは満足している。ここを自分の居場所だと思っている。それでも、一度目の前を横切った過去の断片を無視することは出来ない。例え目の前が明るく開けていようとも、背後が暗闇に包まれていれば、胸にわだかまる恐怖は未だに去らない。
『裏切り者』と呼ばれ続けた、自分の正体。それを知らぬ内は、どれほど満ち足りた生活を送っていようとも、幸福とは思えないだろう。
「気長に待ちな。お前がいっぱしの守護騎士になるまでには、分かるだろ」
エルンが屈託なく笑う。隣のルークも同意とばかりに、深々と頷く。
「そもそも、その髪がどうかした? 気に入らないなら、染めるなり剃るなり好きにしたらいいよ。誰も止めないから」
ルークはその整った顔立ちで微笑する。誰もが心を許しそうな朗らかな笑みであったが、アルトの表情は晴れない。
「いや……そういう問題じゃなくてさ」
「ならば、どういう問題なのだ?」
バルボアの鋭いまなざしが、アルトを射抜く。
「キルヒアナ建国伝説をまとめた書物には、もう目を通しただろう? 『裏切り者』フォルカは年齢にあわぬ白髪の持ち主であったが、白髪に何らかの能力があったわけではない。フォルカに忌まわしい力を与えたのは紅の瞳の方だ」
バルボアの視線は、アルトの翡翠の瞳に向けられていた。
「『裏切り者』はもうこの世に現れることはない。何故なら、奴の『紅の魔眼』は、王都の宝物庫で眠っているから、な」
バルボアのまなざしは、鋭くはあるが、優しさに満ちている。まるで子を諭す親のようであった。
彼の言うとおりであった。市民の大部分は劇や詩で建国伝説を学ぶが、守護騎士は大昔の学者が纏めた書物で学ぶ。一般に流布している建国伝説では語られていない歴史的事実が多分に含まれている。
そのうちの一つが、フォルカの瞳であった。一般市民の間では、フォルカの生来の瞳が紅であると伝わっているが、事実ではない。彼は生まれ持った左右の瞳を抉り出し、魔物から譲り受けたとされる瞳を空いた眼窩に入れ、キルヒアナ初代女王・ジールの尊い結界の力を奪い取った。
女王は魔物に滅ぼされるのを待つばかりであった人類の救いの女神として、信奉されている。だが、実際は、人生の決して少なからぬ期間、彼女に結界の力はなかった。フォルカの裏切りの後は、彼女の力を引き継いだ子供たちに結界を任せ、自らは人類の救いの象徴を演じて、残りの人生を過ごした。
女王ジールは、今日においても民衆から非常に人気がある。そのため、彼女に守護騎士の力はなかったと明かすわけにはいかない。王家の威信に懸けて、この三百年間民衆には決して知らされてこなかった。
裏切りが発覚した後、フォルカは始末され、その亡骸は灰になるまで焼かれた。にも関わらず、忌まわしい紅の瞳は残った。炎に投じようが、金槌で叩こうが、恐るべき瞳は砕けなかった。処分に悩んだ女王は、王宮の宝物庫にフォルカの瞳……『紅の魔眼』を永久に封じることを決意した。女王の決定は今も守られ、宝物庫の奥深くに封じられているらしい。
アルトは『裏切り者』とは無関係。だから、気に掛ける必要性など皆無。バルボアが言いたいのは、そういうことである。
だが、『裏切り者』のことを除外しても尚、アルトには謎が多すぎる。失われた記憶、突然聞こえてきた女の声と授けられた力、彼を連れ戻しにやってきた男……これらを紐解くのが、小さな秘密とはとても思えない。ひょっとしたら、建国神話に顔を出すほどの大きな秘密が自分にはあるのかもしれない。
言葉にしがたい、漠然とした不安がアルトにはあった。温かな人々に肯定されて尚、自分を納得させることが出来ない。
「……ああ」
アルトに出来るのは、俯いて口を閉ざすことだけだった。納得したふりをすることさえ、今の彼には難しかった。
と、そこに再び椅子が引かれる音がする。アルトの向かい側の席に人影があった。
「下らぬ。貴様は守護騎士である、それだけ分かれば十分であろう」
食堂の喧噪の中でも、よく通る声だった。まだ若い顔に、よく手入れされた髭が不釣り合いである。彼は四人の視線を集めながら、席に腰を下ろした。
「魔法陣を授かったことを誇りに思うがよい。その他のことなど、取るに足らぬ些事に過ぎぬ」
アルトの方を見もしないで、彼は食事を始める。彼もまた、同じ隊に所属している守護騎士である。
「たまに、ディートはまともなことを言うな」
「いつも、貴様は一言余計だ」
エルンが感心した様子で言うと、ディートが憮然として言い返す。「ひどいなぁ、俺は褒めたのにこの仕打ち」とエルンが肩を竦めている。「ならば、ディートはいつもいいことを言う、に訂正したまえよ」とつまらなさそうにディートが言い、またエルンが口を挟み、今度はバルボアも会話に入っていく……。
夕食時のよくある光景だった。仲間たちとの温かな団欒は、日常の一部でしかなかった。会話の輪に入りたければ、勝手に入ればいいのだ。ここには、アルトに対する差別も迫害も存在しないのだから。かつてとは、違って。
「アルト、君が守護騎士だってことだけで、僕らには君を同胞と認めるには十分なんだ。それを、君は忘れちゃいけないよ」
ルークの声がした。振り返ると、生真面目な表情があった。
「僕らは力なき市民を守るために存在している。これは尊い使命なんだよ。何故なら僕らにしか出来ないことで、僕らがいなければ人間の世界は崩壊するから」
戦いの技術を授けるときのような、生真面目さであった。彼は教師の口調で続けた。
「この世界を守る、という義務が僕らを結びつける。それゆえに、恋人より、親子より、僕らの連帯の方が強い」
彼はぐるりとテーブルについた面々の顔を見回す。その終着点にアルトを選んで、やっと普段の気さくな微笑を見せた。
「だからさ、気が付いたら、わざわざこの小さなテーブルに寄り集まってきているわけで。……ほとんどの二十五隊の隊員とは、ここで飯食ったでしょ?」
ルークはテーブルに彫り込まれた文字を指さす。粗っぽい字で、二十五隊専用、と彫られている。ここのテーブルには行儀の悪い過去の隊員による落書きがあるので分かりやすいが、よそのテーブルも、彫刻はなくとも、暗黙の了解で隊ごとに分かれている。
衛兵隊に所属する守護騎士は、支部の管轄下である町や村に派遣されることが多く、ラムダに滞在する期間はそう長くない。おまけに単独任務がほとんどで、同じ隊の仲間と言えども、顔を合わせるのはラムダに帰還したわずかな時間だけ。そのわずかな時間を、夕食のみならず、皆がアルトの鍛錬に費やしてくれた。
守護騎士という共同体の繋がりは強い。唯一、魔物に太刀打ち出来る力と大きすぎる義務を共有した存在、それゆえの連帯感があるのだ。ルークが語ったことは、事実。……ただ、一人の例外をのぞけば。
アルトは、こっそりとルークから視線を外す。食堂の隅のテーブル……どの隊も使わない席に、見知った後ろ姿が一人で腰掛けている。輝くような黄金の髪が背中に掛かり、腰には細剣と数々の短剣を吊り下げている。
この一月の間、シルヴィの姿をこのテーブルで見かけた事がない。離れた席で、同伴の者もなく一人で手早く食事を済ませて立ち去るのだ。
アルトの視線の先にある少女の姿に気づいて、ルークの端整な顔立ちがたちまち苦みを帯びる。
「彼女だけはね……誘っても、絶対に来ないんだ。時間の無駄、の一点張りでね」
周囲を気にしたらしく、ルークが声を小さくする。
「ふーん……たかが飯を食うぐらいで?」
尋ねると、ルークは「分からないんだ」と言って首を振った。
「正直言えば、彼女とろくに話したことがないからね。君が一番彼女とよく話をしていると思うよ」
「三日前にちょろっと喋ったきりなんだが」
廊下ですれ違う際に、少々立ち話をしたぐらいなのだ。この程度で一番よく話をしている、と言われるほど、彼女は人と関わることを避けている。
ラムダにきてからと言うものの、シルヴィとは廊下ですれ違う以上の接触がない。他の隊員のように、夕食の場には来ないし、鍛錬に付き合ってくれることもない。左肩の傷のため、この一月はほとんどラムダで療養していたにも関わらず、である。
あの性格で単なる人見知り、とは到底思えない。シルヴィが意図的に他人を避けているのは確かだが、理由は分からない。
出会った初日のことが、頭を過ぎる。アルトを勇気ある人、と言って塗り薬を渡してくれた。勇ましく魔物を倒したと思えば、その直後に盛大な腹の虫が鳴くという間抜けな姿も見た。でも、やはり一番印象深いのは、やはりあの悲壮な覚悟を示した美しい横顔であった。過ぎる思い出に、アルトは深々と息を吐いた。
「確かに、あいつは愛想ないし、口も悪いけどさ。……ここ、来たらいいのにな」
雨滴のような、ささやかな声で付け加える。
もう少し、彼女と話してみたいのだ。それは、純粋に彼女のことを知りたいから。何を好み、どんな話をするのだとか、あるいは、彼女の不思議な境遇についてだとか……。
アルトの話を聞いているのは、ルークだけだと思っていた。しかし、ルークの相づちの代わりに思わぬ声が割り込んできた。
「勘弁していただきたいね。お姫様と同じ席なんて、恐れ多くて飯が喉を通るまいよ」
ディートの声であった。朗読でもしているかのような朗々とした声は、二十五隊の席の全員によく聞こえた。
落ち着いたバルボアの声が、やかましかったエルンの声が途絶えた。全員の視線が一斉に、ディートに集まった。皆、目を見開き、口を噤んでディートを見た。
ただ一人、アルトだけは別の反応であったが。彼は冷ややかにディートを見返した。
「理由は?」
ディートは顔を動かさずに、目だけを動かしてアルトを見た。その唇には、勝ち誇ったような笑みがある。
「簡単なことだ。あの罪深いお姫様と同じ席なんぞ、死んでもごめんだ、というだけだ」
「何をほざいてやがる」
顔の筋肉がひきつって、とっさに皮肉の一つも出せなかった。その様をディートは薄ら笑いと共に、見ている。
ディートが立ち上がった。挑発するように左手を突き出し、手招きする。その手には紫色の魔法陣の光が宿る。
「お望みなら、稽古をつけてやろう。光栄に思いたまえ、『三つ首』のアンリの一員の指導は貴重だよ」
所詮は格下、と言外に語る表情が語っている。
アルトの右手が輝き、翡翠の魔法陣が浮かび上がる。血相を変えたルークが、腰を浮かせて立ち上がった。
「待つんだ、アルト! 守護騎士の力をこんなところで――」
ルークの制止よりも、アルトの拳の方が速かった。翡翠の光を纏った拳は、完全に侮って、防御の構えさえみせないディートの面を捉えようとした、その刹那。視界からディートの姿が消えた。嵐に巻き込まれた枯葉のごとく、体を回転させながら、吹き飛んでいく彼の姿がちらと視界を掠めた直後、壁を激しく叩く鈍い音が響き、ディートの苦痛のうめきが続く。
ディートが立っていた位置の一歩下がったところに、先ほどまでは見えなかった姿がある。見上げるような大男である。筋骨隆々とした体を包んだ守護騎士団の制服の階級章は、彼が一般の守護騎士ではなく、隊を束ねる隊長格であることを表している。手甲に覆われた大きな拳には、太陽を象った魔法陣が輝く。
「そこで倒れている大馬鹿者が目を覚ましたら、伝えておけ。明日の朝、練兵場まで来い。新人が相手では物足りんだろうから、俺が直々に鍛錬してやる、とな」
凄みのきいた声は子供が聞けば、泣き出すに違いない。食堂の隅々まで声が響くと、彼はゆっくりと振り返った。
岩を削って作ったような顔立ちに、小さな目の眼光が異様である。視線だけで目があった者を震え上がらせるほどだ。現に目があったアルトは腰が抜けそうだった。
彼は第二十五隊隊長シェンク・ダルク。数々の強大な魔物を打ち倒した、ラムダで最も優秀な守護騎士の一人である。彼の実力には誰もが敬意を払う反面、味方に厳しく、苛烈な態度を取ることで恐れられている。
ディートに向けられた拳が、今度は自分に向けられるのではないか? 尻尾を巻いて、この場から逃げ出したいぐらい怖かったが、金縛りにあったかのように動けない。嫌な汗が背中を雨のように流れていく。
しかし、予想に反してシェンクの拳に浮かんだ魔法陣は消えた。彼は顎をしゃくって、食堂の外を示した。
「ついてこい」
それだけ言うと、彼はアルトを省みることなく歩き出す。大股で歩いていく上司の姿は、あっという間に小さくなっていく。ぽかんとしてシェンクの背中を見送っていると、ルークに肘でつつかれた。
「行ってらっしゃい。……ご愁傷さま」
ルークの目には哀れみの色があった。
シェンクと顔を合わせるのは、これが二回目である。一度目は所属が決まったときで、事務的な話を聞かされただけ。短い時間顔を合わせただけだが、とにかく彼の不興だけはなんとしてでも買うまいと誓ったことが鮮明に記憶に焼き付いている。
当然のことながら、守護騎士同士の私闘は御法度であり、鍛錬や魔物との戦いや緊急時を除けば、魔法陣の展開も厳しく制限されている。ディートとの諍いで、先に手を出したのは誰だろう? 挑発したとは言え、喧嘩を売られた側のディートでさえ、隊長の拳で壁まで吹き飛ばされたのだから、喧嘩を売った方のアルトと来たら……。
シェンクの後ろを衛兵に連行される罪人のように歩いた。会話もなければ、シェンクが振り返ることもない。仄かな蝋燭の光だけが頼りの薄暗い廊下を歩いていく。
先をいくシェンクの足が止まったのは、居住棟の一角であった。練兵場かあるいは地下牢を予想していたが、これはこれで意味深である。鍵を開けて、中に入ったシェンクに促され、覚悟を決めて足を踏み入れた。
部屋は相部屋ではなく、一人部屋であった。間違いなくシェンクの個室であろう。ラムダの管轄内を飛び回る一般兵とは違って、隊長となればラムダ内の勤務が多い。机の上には羊皮紙や書物が山のように積みあがり、案外書類仕事が多いらしい。
「そこに座ってろ」
シェンクが示したのは、部屋の中央に置かれたテーブルと椅子である。おっかなびっくり言われたとおり席に着くと、シェンクが戸棚から瓶と杯を二つ持って戻ってきた。彼は空いた杯を一つアルトに押しつけた。
「飲めるな?」
有無を言わさぬ口調に、口を挟める余地はない。
「え……あ、はい」
しどろもどろ答えると、手の中の杯に瓶が傾けられる。液体が注ぎ込まれる音がして、やがて止んだ。ぼんやりと注がれた液体の水面を眺めていると、今度はシェンクが自分の杯に注いでいる。酒瓶を置いたシェンクが無言で杯を軽く触れ合わせに来たが、その行為の意味を理解したのは、杯の中の揺れる水面から立ち上る香りに気づいてからだ。
明らかに酒の香りだったが、本当に毒ではないだろうな? 疑いの目で見るが、向かい合うシェンクは既に杯を傾けている。苦しみ出す様子はないので、アルトも恐る恐る口を付ける。すると、ほんの一口含んだだけで、口の中が灼けるような感覚に襲われる。吐きそうになったが、無理して飲み込む。強すぎる蒸留酒にむせているアルトを横目で見ながら、シェンクは水を飲むように杯をあけている。
「飲めるかと聞いただろうが、馬鹿者。上官の話はよく聞くことだ」
「何を、とは仰ってないでしょう。聞きようがありません」
酸を流し込まれたみたいに、痛む喉を押さえながら言う。シェンクの小さな瞳が、ぎろりとアルトを睨む。
「部下の仕事を教えてやろう。上司の命令を聞くことだ。例え、何も聞こえなかったとしてもな」
シェンクは空になった杯を置く。尋常ではない眼圧と派手なテーブルの音にアルトが竦み上がっていると、シェンクは分厚い唇をつり上げた。
「俺に口答えするか? そんな命知らずの部下はお前で二人目だ。そういえば、一人目は生意気な隻眼の小娘だったか」
どうやら、彼なりの笑顔らしい。何とも物騒な表情である。狼が笑ったとしても、彼の笑顔より分かりやすいだろう。
「よく、あいつ生きてますね」
彼女の性格を考えると、アルトの口答えとは比べものにならないのではないか。
「普通の部下ならば、この拳で捻りつぶしているところだがな。残念ながらそうもいかない。我らが信奉すべき、王家の姫君ゆえにな」
皮肉げに唇をゆがめ、シェンクが答える。
シルヴィの正体に気づくまで、ラムダに到着してから三日とかからなかった。この国で最も有名な守護騎士の魔法陣と能力なのだから、むしろ彼女と出会った初日で気づくべきであった。
「それがどうして、王家の遠縁トリン家の養女の扱いで衛兵隊に?」
守彼が無言で差し出した杯に、今度はアルトが酒瓶を傾ける。
「王家の守護騎士ならば、魔物除けの結界を張る役割が課せられるはずでしょう?」
キルヒアナ王家の守護騎士の重要性は他の八十の一族とは比較にならない。王国全土に渡って、結界を維持する人材は常に不足しており、衛兵隊に回す理由などどこにもないはずだ。
「その通り、通常ならばな」
酌を受けながら、シェンクが言った。
「しかしあれの力は、弱い。あらゆる手を尽くして、都市一つ覆うのがやっとというところだろう。そんな中途半端な結界しか張れない奴に、王家の勤めは任せられない。かといって、遊ばせておくのも勿体ない。ゆえに一般の守護騎士と同様の扱いをしているのだよ」
シェンクの杯をなみなみと満たし、アルトは酒瓶を傾けるのをやめた。
「確かに、守護騎士の力は個人差があります。でも、王家の結界は個人の資質は関係ないでしょう?」
増幅陣と呼ばれる、魔法陣の力を大幅に拡大する装置がある。新しいものを作り出す技術は既に散逸してしまい、現代に残っているのはキルヒアナの主要都市十カ所……王家の守護騎士たちが使っているものだけだ。
王家の守護騎士は増幅陣の力を借りることで、なんとか都市一つに限らぬ広大な土地に結界を張っているのだ。個人の素質が問題で、結界を張る勤めから外されたという話は聞いたことがない。
では、シルヴィが衛兵隊に回された理由は何だろう? 仮説と言うほどではないけれど、心当たりがないわけではない。
「あいつ……何か過去にあったんですか?」
ディートが言い放った、『罪深い』という単語。聞き流すには、その言葉が持つ意味は重すぎた。
シェンクは、満たされた杯の水面をじっと見つめている。木陰に静かに佇む獅子のような、静かな威圧感が漂う。
「俺の口からは、これ以上のことは語れない。知りたくば、自分の足で真実を探すことだ」
そう言うと、シェンクは満たされた杯をぐいとあおる。再びテーブルに置かれた杯は、底にわずか数滴分溜まっているばかりであった。
「そう、食堂での一件の懲罰を言い忘れていたな」
思い出したように、シェンクが言った。
言われて、アルトも気づいた。思いがけないシェンクの話ですっかり忘れていたが、そもそもここに呼ばれたのは、そのためではないか。
「罰はもう十分受けましたよ。喉が灼けるかと思いましたから」
蒸留酒が流れた喉を大げさにさすってみせる。が、シェンクは眉一つ動かさない。
「喧嘩をふっかけた貴様にはディートの奴よりも、重い罰を与えなければ示しがつかん。……何より、貴様上官が勧めた酒を懲罰扱いしたな?」
「の、喉が痛いのはちょっと風邪気味で……俺の勘違いですごめんなさい」
シェンクの物騒な視線に、アルトはたじろぐ。口を滑らせた、と後悔しても遅い。
ふん、と不機嫌そうにシェンクが鼻を鳴らす。
「良かろう。無用な私闘に加え、上官への口答えも罪状に加えておいてやる。心して聞くがいい」
シェンクの口から、懲罰の内容が伝えられる。アルトはそれを聞いて、天を仰いだ。
確かに、ディートに与えられた罰とは比較にならない罰であった。
翌日、鍛錬の後の夕食の場にディートの姿はなかった。目撃した隊員の話によると、朝の練兵場での地獄が原因である、ということだった。彼には不憫な出来事だっただろうが、アルトはほっとした。素直に彼と顔を合わせたくなかったし、おまけに彼がいたら他の仲間に相談が出来ない。
「昨晩はどうだったんだ?」
夕食の席で、この日初めて顔を合わせたエルンが気遣わしげに尋ねてきた。どう答えるか、アルトは少々悩んだ末、答えなかった。その代わり短い沈黙を挟んでから、逆に彼に聞いてみることにした。
「女を口説くには、どうするのがいいと思う?」
藪から棒に浴びせかけられた質問に、エルンは戸惑った。だが、それは一瞬のことであった。
「おやおや。どうした、アルト? お前、急に色気付いちゃって何があった?」
エルンはにやにやしながら、肘でアルトを小突く。アルトの話は隣の席のルークにも届いていたようで、エルンの隣の人物も食事の手を止めた。
「その質問は、相手が誰かというところがポイントだね。……で、誰なの?」
ルークの声は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように弾んでいる。
野次馬二名の楽しそうな表情が、アルトには恨めしい。鉛のように重たいため息を漏らしてつぶやいた。
「どこぞの無愛想な眼帯女のことだよ」
「……え?」
エルンとルークのみならず、同じ席に着いていた他の隊員も揃って目を丸くした。
事情は皆に話した。何も好き好んでのことではなく、シェンクに課された懲罰ゆえのことなのだ、と。どこでも構わないから、とにかく一度シルヴィを誘って街に連れ出せ、というのが正確な内容である。
アルトに年頃の女と出かけた経験はない。ここに来る前は言わずもがな、ラムダに来てからは鍛錬で手一杯で遊んでいる暇など全くない。
出かけろ、と言われてもどこに出掛ければいいのかさっぱり分からないし、その上相手が相手である。二十五隊のテーブルで夕食を取ることすら、面倒だと言うのだ。食堂どころか、兵営の外に出ようなんて耳を貸してくれるわけがない。
「睡眠薬を食事に混ぜて、担ぎ出すのが手っ取り早いんじゃねえかな?」
「エルン、街に連れ出すってそういう意味じゃないでしょう?」
名案が浮かんだ、とばかりに膝でを打つエルンを、たしなめるようにルークが言う。アルトは頭を抱えた。
「却下。もう少しまともに考えてくれよ」
「彼女の好きなものとか、アルトも知らない?」
ルークが比較的まともな意見を出すが、
「あいつの好きなもの? ……仕事?」
きらびやかな装飾品だとか、旨そうな食事に目を輝かせるところは全く想像できない。それよりは細剣をふるって、魔物の殺戮にいそしむ方が生き生きしていそうなものだ。すると、またエルンが得意げに膝を打った。
「なるほど、良い案が浮かんだぞ。街の路地に立って、あいつに聞こえるように叫ぶんだ。『敵襲だ! 魔物が出たぞ!』ってな。そうすりゃ、飛んでくるぜ」
「だからね、エルン。少しは君もまともに考えよう?」
あきれた様子でルークが言う。
「いいや、名案だな。睡眠薬は効く気がしないが、この作戦は非常に高い成功率が見込まれる、実にすばらしいアイデアだ」
アルトはまじめ腐った表情で言った。ただし、その翡翠の瞳はどこか遠い一点を見ている。
「ただし問題が一つだけある。存在しない魔物の代わりに、俺の首が飛ぶことだ」
焦点の合わない瞳はどこを見ているのか定かではないが、現実を見ていないのは確かである。
結局、その後もしばらく話をしたものの、「当たって砕けろ」という身も蓋もない結論に終わった。
「砕けるのは、俺の命なんだけどな。恐らく凶器はあいつの剣か、隊長の拳」
食堂を出て、ルークと二人で自室に戻る道すがらである。廊下を歩きながら、隊員の薄情さに愚痴をこぼす。
「挑戦者は多いんだよ? でも、成功者は誰一人としていなかったからね。そうそういい案は出ないさ」
苦笑混じりにつぶやくと同時に、ルークの目が夜の帳に覆われた窓の外を見やる。
「僕もそのうちの一人だったんだけどね。なかなか堪えたよ、『あなたは女にうつつを抜かす暇があるのね』と冷たい目で見られるのは、ね」
彼が今見ているのは、記憶の中のシルヴィの冷ややかな美貌であろう。アルトは彼の整った顔立ちに浮かぶ、寂しげな微笑をつくづくと見上げた。
「へえ、意外だな」
ルークが女性の方から目を付けられる話は枚挙に暇がないが、その逆は初めてである。しかも相手があのシルヴィときたら、興味も湧いてくる。
「あいつのどこに惹かれたんだ?」
元が生真面目な青年だから、浮ついた理由ではなさそうである。尋ねると、ルークはしばし思案してから、足を止めた。
「どこ……と聞かれると、少し難しいな」
ルークの顔に苦笑が浮かぶ。
「初めて会ったのは、六年前だね。僕は守護騎士として三年目で……彼女は最初の年だった」
アルトも同じく足を止め、ルークの話に耳を傾けた。
「彼女の存在は、すぐにラムダ支部全体で噂になった。守護騎士の魔法陣なんて隠しようがないから、王家のお姫様だということはすぐに周囲にバレた。あれこれ、良からぬ噂が立ったよ。家族を殺した罪でここに連れてこられたとか……ここに来たときから眼帯をしていたけど、罰として片目をつぶされたのだ、とかね。とにかく真実を知っているのは、一握りの上層部と本人だけさ」
ルークの口調は淀みない。
「おもしろ半分で近づく輩は多かったよ。単に綺麗なお姫様だから、だとか、彼女の秘密を暴き立ててやろう……だとか。だからだろうね、彼女は近づいてくる人間をまったく相手にしなかった。魔物との戦いに全てを捧げ、一人で戦い続けている」
彼は一度口をつぐむと、息を吐いた。
「とても寂しそうに、見えたんだ」
ルークの密やかな声が、静かな廊下に響いた。
「彼女だって、本当は一人でいたいわけじゃない。辛いときは、誰かとその苦しみを分かち合いたいだろうし、支え合っていきたい。そんな風に思っているように、僕の目には映ったんだ」
そう言うと、彼はおかしそうに笑った。
「どうして、ろくに話をしたこともない、そんな相手のことがどうして分かるだろう? 彼女がそんな風に思っていれば、という僕の願望を取り違えただけなんだろうね。色々言ったけど、やっぱり単に綺麗な子だから言い寄った、ってことなんだろうな」
アルトは黙って、彼の声に耳を傾けた。ルークはわざと軽い調子を取り繕っているように、わざと道化を演じているように思われた。
「どうだかな。案外、お前の推測は外れていないかもしれない」
「笑わないんだね、アルトは」
ルークの顔から、道化の笑みが失せる。窓から差し込む光に青白く照らされた彼の横顔は、いつになく冷ややかに見えた。
「俺だって、あいつのことは全然分からない。だから、お前の推測を否定できるような立場じゃない」
上背のあるルークを見上げながら、アルトは肩をすくめた。
「それは、あいつ自身だって同じだと思うよ。口先だけならともかく、心の底までどうだかは分からない。……シルヴィでさえ、お前のことを笑えないだろう」
ルークはしばし沈黙した。その内、ぴたりと足が止まる。アルトも合わせて止まると、何の前触れもなく、彼の怪力で背中を叩かれた。
「いって……!」
「早く、彼女を口説きに行っておいで」
抗議するまもなく、ルークが言った。
「結果は明日の朝食の場で聞く。逃げたら、明日の鍛錬のメニューが隊長方式に変わるから心してかかるように」
「隊長方式ってなんだよ!」
メニューの中身は不明だが、ろくでもないことだけは確かである。悲鳴をあげるアルトとは対照的に、ルークは朗らかに笑う。
「大丈夫だよ、心配するな。君ならきっとうまく行くから」
明るい笑みに見える。だが、その笑みの下で何を考えているのか、そこまで見透かすことは出来ない。
ルークと別れ、アルトは一人で歩き出した。と言っても、シルヴィの居場所など知る由もない。夜も遅いので、とりあえず私室にいるだろうと見当をつけ、ひとまず女性守護騎士の私室が集まっている一角に向かう。
逃げ出すつもりはなかった。あそこまでルークに言われて尚尻込みするほど、アルトは恥知らずではない。
多分、ルークはまだシルヴィのことを諦め切れていないのだ。すっぱり断られても、まだ未練がある。そんな気がする。
恋愛感情だけの問題ではないように、思われるのだ。守護騎士として……同じ義務を背負う仲間の一人として見捨てておけない、という気持ちがどこかで働いているのではないだろうか?
その点については、アルトも同じだ。シルヴィはアルトを救ってくれた。初めて出会った時は、一方的に守られる存在であったが、今は違う。彼女を守る力を、今のアルトは備えている。守られるだけの関係では、もはやあってはならない。
なんとかシルヴィの部屋を探し当てて、部屋をノックすると知らない女性が出てきた。シルヴィのルームメイトであった。
「あの子が部屋にいるのは、寝るときだけね。悪いけど、用事があるなら探して」
女は困惑気味に言った。
ルームメイトですら、シルヴィの行動を把握していないとは。おまけに居場所の目星すらないと言う。
消灯時間を過ぎているので、兵営の外に出るのは禁じられている。露見しなければ問題はないという程度の掟だが、生真面目なシルヴィが進んで掟を破るとは考えづらい。
兵営の中に限られるとは言え、それなりに広いのである。諦めて明日にするか、と思ったが、女がふと思い出したように言った。
「あの子を探しに行くなら、ちょうどいいわ。ついでに頼まれてくれない?」
女が部屋に一度戻って、差し出したのは封筒に包まれた手紙であった。
ルームメイトの女によると、この差出人から手紙が来たときは、声をかけて欲しいとシルヴィから言われているらしい。差出人や内容について何も知らないが、それでも届く度にむさぼるようにして目を通し、後で何度も読み返している姿から、相当大切な相手らしい、ということは察せられた、と女は言う。
「あの子、どこで何をやっているか知らないけど、いつも部屋に戻ってくるのが、夜も大分更けてからなのよ。早く読みたいだろうから、渡してあげて?」
頼まれると、断るのも忍びない。どの道、シルヴィに憂鬱な用件で声を掛けなければならないのだから、手みやげがある方がまだ気楽である。
歩きながら、受け取った手紙をしげしげと眺める。封筒の素材の良さからして、差出人は庶民ではないだろう。封筒には丁寧な字で『シルヴィア・トリンへ ミルより』と書いてあるだけで、他に手がかりはない。
一体誰だろう、とぼんやりと考える。ミル、という名前だけでは男か女かもはっきりしない。
女の話からすると、シルヴィにとって非常に重要な相手らしいが、全く想像がつかない。彼女が親しげに話す相手が、本当に存在するのだろうか? 中身を確かめてみたいという誘惑がないわけではない。
読めない手紙のことばかり、考えても仕方がない。当てはないが、とにかく虱潰しに兵営を回った。食堂に、資料室に、練兵場に……中庭の木陰まで隈無く探したが、見あたらない。誰かの私室にいるとは考えづらいので、残る候補は一カ所だけ。兵営の外れにある、小さな礼拝堂であった。
朝や昼には人の姿があるが、夜は誰も近寄らない。まさかこんなところにいるまい、と思っていたが、礼拝堂の扉を開けると、小さなランプの炎がわずかに照らし出された見慣れた後ろ姿があった。
扉が軋む音にさえ、彼女は気づいていなかった。床に膝を突き、力なく頭を垂れている。指貫の手袋を嵌めた右手と素手の左手を組み合わせ、無言で祈りを捧げている……。
シルヴィが纏う服が騎士団の制服ではなく修道着であれば、教会に飾られている絵画の一枚に、この光景が含まれていてもおかしくなかっただろう。目の前の厳かな光景にしばしの間目を奪われていた。
不意に、こつ、とアルトの靴が足音を立てた。自分で立てた物音に驚いているうちに、シルヴィが気づいた。両手を解き、振り返る。
「何か用?」
鋭く細められた青の隻眼は、不審に満ちている。突きつけられた視線から逃げるように、アルトは目を逸らした。
「えっと……あんたこそ、こんなところで何してるわけ?」
用件を切り出す気になれない。話を逸らそうとすると、シルヴィは黄金の髪をさらりとかきあげて立ち上がった。
「見て分からないなら、話しても分からないでしょうよ」
彼女の手には、王国教会のシンボルである十字架のペンダントが掛けられている。
礼拝堂で祈りを捧げていたことは、一見して明らかである。だが、見ただけで分かるのはそこまでだ。
「随分、熱心に祈っていたみたいだが……どうした?」
シルヴィは即答しなかった。一度瞑目して、答えるか迷うような素振りを見せてから、ようやく口を開いた。
「懺悔よ。私の無力さに対する、ね」
唇にはかすかな笑みが浮かぶ。悲しみに満ちた、自嘲の笑みであった。
アルトの脳裏に彼女と出会った日の光景が蘇る。そう、【地獄犬】が炎を吐いたときのことだ。シルヴィの結界は灼熱の炎を防げず、後方にいた衛兵たちは残らず焼き尽くされた。あの惨たらしい場面は、彼らの更に後方にいたアルトの目にも焼き付いて離れない。
だが、あの当時とは違う視点で、今はあの光景を恐ろしいと思う。視覚的な恐ろしさではなく、もっと別の意味での恐ろしさを。
「そっか。怖いよな、誰かの命の責任を負わなくちゃいけないなんて。ひょっとしたら、自分が死ぬことより怖いかもしれない」
シルヴィの悲しげな笑みは、他人事ではない。アルトの唇にも、彼女と同じ笑みが閃く。
「俺もあんたと同じ立場だなんて、考えたくないよ」
アルトはゆっくりと歩みを進める。祈りの十字架を下げたシルヴィの元へ、一歩ずつ踏みしめるように。
「それが守護騎士の義務の一つだもの。逃げることは、決して許されない」
シルヴィが決まりきった聖句を唱えるような口調で、つぶやいた。
腕を目一杯のばせば、シルヴィに届く距離まで歩いて、アルトは足を止めた。
小さなランプは、彼女の白い顔を赤々と照らし出した。まるで、よくできた人形のような顔立ちだった。何が起こっても、澄ました顔か冷笑的な笑み以外を知らないような気がした。
でも、そんなわけがない。彼女だって一人の人間なのだから。シルヴィの澄みきった青い瞳を見つめながら、アルトは口を開いた。
「かといって、全てを受け止めるには俺たちの背負うものは大きすぎる。そうは思わないか?」
シルヴィは答えなかった。アルトの問いかけに、わずかに俯いただけだった。
彼女ならば、違うと思えば必ず反論するだろう。アルトは沈黙を肯定の合図と取った。
いや、当然のことと言えるかもしれない。彼女はどの守護騎士よりも、真摯に己の無力さと向き合っている。その辛さを、一人で背負いきれないほどであることを誰よりも知っているはずだ。
ルークの推測は、間違っていない。
アルトはこわごわと、手を伸ばした。シルヴィが握りしめる十字架を、彼女の手ごと包み込んで、そっと掴んだ。
「全部、一人で持たなくてもいいだろ。少しぐらい、分けたって構わないさ」
だから、守護騎士は守護騎士であるだけで同胞になれる。重すぎる使命を分かち合うために、数少ない仲間たちと手を取り合うために。
伸ばした手は振り払われなかった。シルヴィは身じろぎもしないで、じっとしていた。
掴んだ手のひらから、シルヴィの手のひらの温もりがじんわりと伝わってくる。温もりの他にも伝わってくるものはあった。剣を握る者の証とも言える硬くなった皮膚、しなやかな指先、アルトの手よりも一回りは小さな手のひら……そういうものを一つ一つ感じていくうちに、シルヴィの手から伝わる熱が頬にまで上った。アルトは、はっと我に返った。
どうして俺は、シルヴィの手を握っているのだ? 掴まれたのではない。自分から、彼女の手を取ったのである。アルト自身にも全然、理由が分からなかった。ただ、傷ついた子猫に思わずそうするように、気がついたら手をのばしていた。それ以上の説明が出来ない。
猛獣より獰猛な手とは言え、一応女の手である。そうそう気安く触っていいものじゃない。アルトは慌てて手を引っ込めようとしたが、脳裏に響く声がそれを押しとどめた。
お前は、ここに一体何をしにきたのだ? またとない、絶好のチャンス。今を逃せば、次はない。そんな機会を、お前は棒に振るのか? ……答えは決まっている。
アルトはシルヴィの手を握ったまま、そしてその温もりを感じないように念じながら、深く息を吸い込んだ。そうでもしなければ、シルヴィの手を放り出して、礼拝堂から逃げ出しただろう。覚悟を決めて、シルヴィの手を包む力を強める。
すると、何事、と問いかけるようにシルヴィが顔を上げた。幸い、その表情に不快感はなさそうだ。あるのは、純粋な疑問だ。握りしめる手のひらが平手打ちに姿を変えないうちに、事を済まさなければならない。
「場所、変えないか。ここじゃなくて……ちょっと、外に」
顔から火が出そうとは、まさにこのことであった。恐らく、今まともに日の下で顔を見られたら、熱でも出したかと疑われるに違いない。
これは懲罰のせい、俺がやっているのは演技で、劇の一部で、俺の自発的な意志による言葉では決してありえない。自分をこの場に繋ぎ止める縄を編むように、何度も同じ言葉を頭の中で繰り返す……。
耳が痛くなるような沈黙が、永遠に続くかと思われた。だが、その時間も終わりがついにやってきた。
「少しぐらいなら……いいわよ」
静寂を破ったのは、ため息のような声だった。
「ほ……本当?」
聞き間違いでは、と思った。にわかに信じ難いことであった。
「気が向いたから、あなたのわがままに付き合ってあげる。それだけのことよ」
凛とした声で肯定されては、もう一度聞き返すことは出来ない。
いやだが、しかし。あの誰とも打ち解けないシルヴィがこうもあっさり、アルトの誘いに応じるなんて、やはりおかしいのでは? 何か悪いものでも食べたのでは? とんとん拍子で進む話に、アルトは追いつけない。ぼんやり突っ立っていると、シルヴィに手を引っ張られた。
「行くと決めたら、さっさと出る。ぐずぐずしていたら、朝が来るわ」
立場が逆転して、アルトの手を引いてシルヴィが歩きだす。
「え、あ……おう」
馬車の車輪になったように、ただ腕を引かれるがままに、アルトは足を前に動かすだけであった。意識と体が分かたれているように思われて、夢でも見ているような気分だった。
そのせいで、礼拝堂の階段に気づかなかった。踏み出した足が空を切る嫌な感触に気づいたときには、もう遅い。大きく体勢を崩し、支えを求めて、ほとんど反射的に前を行く彼女の腕を引っ張る。
唐突に腕を引っ張られては、例え歴戦の戦士であってもたまらない。シルヴィが驚いた様子で振り返ると同時に、二人して階段を踏み外した。
階段は五段程度で、高さは大したことがない。それでも最後の段から落ちたとき、アルトは襲いかかる衝撃に無意識のうちに硬く目を瞑った。
が、思いの外、痛みは小さかった。軽く打ち付けただけで、すぐに立ち上がれそうなぐらいだった。しかし、ここの地面ってこんなに起伏が激しかったか? なんだか妙に柔らかい上に、生温かいような……? 疑問が脳裏にひらめくうちに、背中に回った腕が解かれる。戒めが外れると同時に、目を開け、体を起こす。
「ちょっと、あなたね……」
シルヴィの苛立った声が聞こえると同時に、視界が鮮明になった。アルトはその光景の意味が分からず、目を瞬かせる。
「いい加減、早く退きなさい。あんまりぐずぐずしていると、蹴飛ばすわよ」
不機嫌そうなシルヴィの顔が、見える。右手には魔法陣が浮かび、彼女が横たわる地面に結界の黄金の光が輝いている。その様をアルトは見下ろしていた。シルヴィの脚の上にまたがった状態で。状況を理解すると、瞬時にアルトは後方へ飛びすさった。
「ちょ、な、なにが……」
顔が火で炙られたように熱い。体を起こす前、どこに頭を埋めていたのだ? あの奇妙なぐらい柔らかい感触はまさか? 皮膚に染み込んだ体温と感触の記憶が脳裏に蘇るうちに、シルヴィが身を起こした。わずかに赤みを帯びた頬を隠すように、彼女はついと顔を背けた。
「もう一歩、私の反応が遅かったら、怪我をしていたわよ」
シルヴィの右手から光が消え、同時に地面に展開されていた結界が消える。背中に腕の感触があったことも合わせて考えると、シルヴィがかばってくれた結果らしい。とっさに地面に結界を展開し、アルトを抱えて階段を転がり落ちたようだ。
何と無様なことだろう。穴があったら、もう二度と出られないぐらい奥に隠れたい。己の失態にもだえていると、目の前にシルヴィが立っていた。
「前ぐらい、ちゃんと見なさい。分かったわね?」
右手が差し出されている。呆然として、シルヴィの手を眺めていたが、アルトは彼女の手を取らずに立ち上がった。
「分かってるよ」
ぶっきらぼうに答える。表情を見られたくないので、髪を弄るふりをして手で顔を覆う。指の隙間から、シルヴィが不満げに手を引っ込めるのが見えた。
「だったら、もっと慎重に行動しなさい。足下に気をつけるだけに限らずにね」
引っ込めた手で、長い髪をけだるげにかきあげる。露わになった頬は、青白く月明かりに照らされた。
「ディートとの騒ぎも……ううん、最初に会った時から、そう。あなたって、本当に馬鹿ね」
唇を尖らせて、不満を露わにしている。でも、これは紛れもなく優しい微笑だった。人形にはとても真似できやしない、豊かな表情であった。
今まで、忘れていた。シルヴィは並大抵の少女では、太刀打ち出来ないような美貌の持ち主だった。厳つい眼帯程度で、損なわれるものではない。鉄仮面のような表情に厚く阻まれていたが、今や取り外されて素顔を見せている。
己の表情を隠す手の力が、抜けた。少し恥ずかしそうに目を逸らす少女の横顔を追うのに、邪魔だったから。
時間が凍り付いたかのように、二人とも動かなかった。互いに口を利かず、目を逸らし合っていた。自分は決して動こうとはしなかったが、ひたすら相手の反応を伺っていた。アルトは紛れもなくそうだったし、きっとシルヴィもそうだったろう。
動いたのは、シルヴィだった。彼女の視線が動いた瞬間、アルトは身構えた。彼女の一挙一動に神経を尖らせていた。シルヴィの背は、地面に屈み込んでいた。
「これ、あなたの?」
彼女が地面からつまみ上げたのは、白い封筒に包まれた手紙であった。長らく存在を忘れていた。アルトはその存在をようやく思い出した。
「ああ、それはあんた宛だよ。俺は頼まれただけさ、早く届けてやってくれって、あんたのルームメイトにな」
シルヴィを見つけた瞬間に、渡すべきであったものである。階段を転がり落ちるうちに落としたのだろう、気づかずに立ち去ったら、置き去りにするところであった。シルヴィが見つけてくれて、アルトは安堵すべきであったのだろうが、正直なところ、今それどころじゃなかった。
「なあ……そろそろ、行こうぜ。街に出るなら、早いうちに」
そろり、とシルヴィの後ろ姿に近づく。胸が早鐘を打ち、頭の中にまで響いていた。
複雑なことは考えたくない。もう少し彼女に近づいて、いくらか彼女のことを知ってから、考えればいい。懲罰のせいだろうが、好意のせいだろうが、なんだって構わない。シルヴィに向き合う時間が与えられるならば、名目は問わない。とにかく、この機会を逃したくない。
アルトのはやる気持ちとは裏腹に、シルヴィはなかなか答えなかった。背を向けたまま、微動だにしない。
彼女の声が聞こえてくるまで、たっぷり時間がかかった。
「ごめんなさい。……やっぱり、私は行かない」
夜の闇に紛れて、消えてしまいそうな声だった。
それでも、確かにアルトの耳にも届いた。けれど、その意味がすぐには分からなかった。まるで異国の言葉のように思われたのだ。
シルヴィが立ち上がる。靴が地面を踏みしめる、かすかな物音が聞こえる。
「ううん、行けないと言うべきね。行ってはならない。許されるわけがないもの」
鈴を転がしたような、澄んだ声であった。アルトに語りかけている、というよりは自分自身に言い聞かせているようであった。
「行ってはならない? ……許されない? 何を言っているんだ?」
シルヴィの独白めいた言葉は、アルトには理解し難い。
「あなたは、知らなくていいことよ」
答える声には、明確な拒絶があった。了解なく踏み込めば、誰であっても容赦しないであろう。
まるで、暗闇から急に剣を突きつけられたかのようだった。声は出ず、足も動かない。ゆっくりと遠ざかるシルヴィの後ろ姿を、アルトは追うことが出来ない。
魔法陣が刻まれた右手には、拾い上げた封筒が硬く握りしめられていた。
シルヴィの後ろ姿を見送った後、アルトはそのまま一人で夜の街へと繰り出していた。
すごすごと自室に戻って眠れる気がしなかったし、かといって誰かと騒ぎたい気分でもない。一人になりたかった。知り合いが誰もいないところで、酒でも飲みたい気分だった。
全く土地勘がないので、人通りが多そうなところを選んで適当に歩いている。国内でも有数の規模の都市だけあって、夜遅くの時間にも明かりが絶えることはない。
一人きりでラムダの街を歩くのは、初めてだった。兵営から出た回数がそもそも数えるほどだったし、そのいずれも同僚が傍にいた。
そういえば、一番最初にラムダを共に歩いたのはシルヴィだった。どこで下手を打ったのか分からないが、今日がその二回目にはならなかった。もしかすると、後にも先にも機会はないのかもしれない。
何がまずかったのだろう? 人混みを歩きながら、アルトはそればかり考えている。最初、彼女は乗り気だった。でも、急に態度が変わった。
階段を落ちた後のいざこざで、腹を立てたわけではなさそうだ。貴重な微笑さえ、見せていたのだ。原因は他にあると見ていい。となると、思い当たるのはただ一つである。アルトが運んできた手紙だ。
しかし、そうだと考えると不思議なものである。シルヴィに手紙に目を通した様子はなかったし、封蝋に開けられた痕跡もなかった。手紙の中身に何かしらショックを受けて態度を変えた、というのならば、まだ理解が及ぶ。だが、宛先と送り主が書かれただけの封筒にそこまでの力があるとは考えにくいのだが……。
考えに更けるうちに、当初の目的を半ば忘れて、ラムダの街をぶらぶらと歩いていた。服の袖を引っ張られて、ようやく我に返った。
「ねえ、お兄さん。……あなた、とっても目立ってるわよ」
振り返ると、一人の少女がアルトの傍らに立っていた。炎のような深紅の髪を後頭部で纏め、茶色の瞳を笑みの形に細めている。全身を覆う旅装用の外套を腕に抱えているが、身につけている服の仕立ては良く、良家の子女が家を抜け出して来たかのようであった。
間違いなく、見知らぬ顔である。だが、どこかで聞いた気がする声のような。記憶の糸を手繰っていると、突如頭の上から布を被せられた。視界が布で覆われ、前が何も見えない。
「ちょっ……何しやがる!」
突然頭から布を被せられて、怒らないわけがない。布をむしり取ろうとすると、その手を掴まれた。
「大人しく被ってて! その髪の色じゃ仕方ないでしょ」
少女の鋭い声が飛び、アルトの手が止まる。街に繰り出す際に、一度私室に戻って騎士団の制服から着替えたが、髪を隠すのは忘れていた。
ラムダに来てからは隠す必要性がほとんどなかった。一月という時間は、身についた習慣が消えるには十分らしい。少女が被せてきたのは、フード付きのローブであった。視界を確保出来る程度にフードを調整しながら、まるでどこかの誰かさんのようだ、と思う。前にもこのようなことがあった。
「お気遣い、どうも。にしても、随分手荒なことで」
皮肉っぽく唇を尖らせると、少女は不満げに頬を膨らませた。
「私は何回も呼んだのよ? あなたは本当に人の話を聞かないのね」
少女はじろりとアルトを睨む。
不愉快な態度である。一応、彼女はアルトにとって親切な人なのだが、少々親切が過ぎる。
「本当に、って失礼な。この人混みじゃ、聞こえなかったんだよ。それを昔からの癖のように言わないで欲しいものだね、見知らぬお嬢さんよ」
まるで古くからの顔なじみのように、苦言を呈される謂われはない。嫌みを混ぜて言い返すと、少女はにんまりと笑った。
「残念だけど、あたし、あなたのお知り合いよ」
「知り合い……?」
思わぬ答えに、アルトは目を丸くした。もう一度少女の顔をよく観察してみるが、やはり思い当たる節はない。まじまじと少女を見つめていると、陽気な声でからりと笑った。
「忘れっぽいのね。親切な人の制止を振り切って、魔物に突っ込んでいったことも、もうお忘れかしら?」
女が含みのある微笑を浮かべる。だが、アルトにはその意味がすぐには分からない。
「制止された……? 魔物に突っ込んだ? ……あっ!」
該当する記憶が脳裏に蘇って、アルトは声を上げる。驚くアルトに、少女は満足げに微笑んだ。
「私はユーリィ。お久しぶりね、無鉄砲な英雄さん。今度は顔と名前をちゃんと覚えて帰ってね?」
初めて出会った日もそうだったように、少女は魔法陣が刻まれたアルトの右手を取った。
日中にはそれなりの人数で賑わう練兵場であったが、夜もとっぷりと更けたこの時間には、シルヴィ一人であった。
魔法陣から発せられる黄金の光をまとい、シルヴィは架空の魔物に向けて、刃を振るい続ける。両手に握る得物は、細剣から短剣へ、短剣から短刀へ、あるいは投擲用の短剣へ……と目まぐるしく入れ替わる。
通常、守護騎士の一族では、能力が発現する可能性がある子供たちは、物心ついた頃から武器の扱いを仕込まれ、守護騎士としての鍛錬を開始する。だが、シルヴィが守護騎士として鍛錬を始めたのは、精々六年前のことである。
それゆえ、シルヴィがラムダにやってきたばかりの頃は素人と蔑まれたが、今や彼女をそのように謗る者はいない。彼女ほど多彩に武器を使う守護騎士は、王国全土で見渡しても例がなく、その技術においても抜きんでたものがある。正直なところ、並の守護騎士では稽古相手にもならないぐらいだ。
それでも尚、シルヴィは己のことを優れた守護騎士だとは思えない。血の滲むような努力を重ねて修得した剣の技術など、所詮大きな欠点を補うためのささやかな足掻きに過ぎない。
曲芸のように入れ替わる短剣を仕舞い、黄金の光を纏う細剣を地面に突き立てる。練兵場の地面に王家のシンボルである四本の杖の魔法陣が展開される。
魔法陣は、練兵場全体を覆うに至らない。持てる全ての気力を費やして、魔法陣の拡大を試みるが、何度念じようとも、彼女の限界は変わらない。諦めて細剣を引き抜くと、魔法陣の輝きは失せる。鞘に剣を戻すと、彼女は小さく息を吐いた。
他の兄弟であれば、増幅陣なしでもこのラムダを覆うほどの力は備えている。結界を張るのがシルヴィでなければ、【地獄犬】の吐息で焼け死んだ衛兵たちは助かった。兄弟たちの半分以下しかない結界の力では、守れるものも守れない……。
シルヴィはその場で、倒れ込んだ。人目があるうちならはばかるが、生憎今は彼女の他は誰もいない。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かび上がる少年の顔がある。シルヴィは薄く目を開けて、満天の星空を見上げた。
「新たな守護騎士の力……か」
アルトの過去や力の秘密は、ほとんど明らかになっていない。ただ、衛兵隊や研究室の連中は彼一人にそこまで大きな期待を寄せていないらしい。謎の人物の声を聞いた、という彼の証言は聞き入れず、今まで見落とされていた守護騎士の一族の生き残り、という形で結論を下そうとしている。
だが、それでいいのだろうか? 『蒼の騎士』という先例もある。新たな守護騎士の発見を、いつまでも認めないで良いのか?
少なくとも、アルトの力が通常の守護騎士と何ら変わらぬものとは思えない。彼の奇妙な証言は嘘や幻聴ではない、と力の目覚めを間近で見届けた彼女には、思えてならない。
彼を捜し求めていた謎の人物の存在、不思議な力の目覚めは否定しようもない。魔物に追われている可能性だってあるのだ。
彼の力は何にも代え難いものかもしれない。世界を変えることさえ、出来るかもしれない。そう、それだけなのだ。それ以上の意味は、シルヴィにはない。
薄く開けた瞳を、再び閉じる。見たくない現実から、今、一瞬ぐらい目を背けてもいいだろう。
「不覚だわ……」
アルトが伸ばしてきた手を振り払うどころか、率先して受け入れた自分の姿は、瞼を落としたぐらいでは遮ることが出来なかった。
勘違いしてはならない、とシルヴィは己に言い聞かせる。彼が貴重な力を持つならば、守らなければならない、というだけだ。それは他の誰のためでもなく、シルヴィ自身のためである。
決意を胸に宿し、瞳を開ける。暗闇に沈む視界に瞬く星空が浮かび上がる。ただし、シルヴィに外の光景を見せてくれるのは左目だけだ。眼帯の下に隠された右目は、未来永劫見通せぬ暗闇だけを見せつける。
懐に仕舞った、開封された手紙の重みが胸にずしりと圧し掛かる。
ユーリィに連れられて、アルトは手身近な酒場に入った。無碍に追い払う理由もない上に、連れて行かれた先は少々値段の張る酒場である。おごってくれるというので、ありがたく厚意に甘えることにした。
「今日は飲みましょ? 再会を祝して、好きなだけどうぞ」
店員を呼びつけた直後、ユーリィはアルトを振り返った。その得意げな表情に、アルトは頷いた。
「なら、遠慮なく」
シルヴィほどではないが、守護騎士の力に目覚めてから腹が減る速度が増した。食堂の食事だけでは、腹一杯とはいかない。
まもなく、当座の酒と料理が来た。酒杯を軽く触れ合わせて、乾杯をする。アルトが早速酒に口を付けていると、ユーリィは自分の酒杯を置いていた。アルトの横顔をじっと観察しているのだ。
「えっと、何か俺の顔についている?」
「いいえ」
ユーリィは頬杖を付きながら言った。視線は未だに離れない。アルトは苦笑した。
「俺って、見とれるほどかっこよかったか?」
「うーん、中の上ってところかな。悪くはないけど、珍しい髪をのぞけば、取り立てて評価するところはないわね」
じろじろ顔を見てくるので、もしや酒も飲まないうちに酔っているのかと思ったが、冷静な品評からするとやはり素面らしい。
「飯が冷めるぜ。早く食えよ」
冗談には冗談で返すのが、礼儀だろうに。憮然として言い返す。すると、ユーリィがくすくすと笑う。
「でも、好きな顔だわ」
唇の端を持ち上げ、艶然と微笑する。頬杖をついたまま、見上げる瞳はアルトのまなざしだけを見つめている。他の何ものも目に入らぬ、といった様子で。
変わった髪のせいで、好奇心に満ちた無遠慮な視線に晒されることは何度もあった。だが、ユーリィの視線は珍獣を見る目ではない。
「そいつは、どうも」
落ち着かないせいか、返す言葉にも芸がない。逃げるように顔を背けたが、火照りを感じる頬にはまだユーリィの熱い視線を感じる。頑なに顔を背けるアルトの耳に、くすぐったっているような笑い声が響く。
「あらあら、耳の先まで赤くしちゃって」
「やかましい。それ以上見るなら、見物料をよこせ」
荒っぽく吐き捨てると、ようやく頬をなぞる視線が消える。指で撫でられたって、これほどの意識することはないだろう。アルトはほっとしたが、まだ心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、落ち着きを取り戻していない。
守護騎士団では鍛錬に明け暮れるばかりであったし、劇団にいたころは人間扱いされること自体が稀だった。ユーリィの熱い眼差しにどう向き合っていいものか、測り兼ねた。
ちらとユーリィの表情を盗み見るも、やはり楽しげな微笑があるばかり。会話もないのに、ただアルトの隣に座っていることがこれ以上ないほど愉快らしかった。沈黙に気まずさを覚えた様子はない。
得体のしれない女だ、とつくづく思う。彼女の態度を理解出来ないし、持て余している。それでも、不思議と嫌悪感は湧いてこない。あるのは戸惑いばかりだ。
「ねえ、さっきは心ここにあらずって感じで歩いていたけど、どうしたの? なあに、喧嘩でもした?」
ふと、ユーリィが思い出したように口を開いた。
「何で、知ってるんだ?」
名乗りもしないうちから、アルトの名前を知っていたし、衛兵隊に入ったことまで掴んでいた。ラムダでは知らないうちに有名人になっている、という話だったが、こうも何でも見抜かれると少々気持ち悪い。首を傾げるアルトに、ユーリィは陽気に笑いかけた。
「そりゃあ、私はあなたのこと、よく知っているもの。勢いで行動するし、一回言い出したら人の話は聞かないし……」
「はいはい、よくご存じで」
会ったのが今日を入れて、二回目のくせに知ったような口を利く。的外れなら、文句のつけようもあるが、残念ながら少々自覚しているところなので、ぐうの音も出ない。
「俺もあんたぐらい、鋭かったら良かったんだけどな。全然、だめだ」
自嘲の笑みが、唇の端からこぼれる。すると、ユーリィの目つきが変わった。
「どうしたの? 言ってごらんよ?」
茶化すような素振りはない。先程まであった熱っぽさは鳴りを潜め、彼女の瞳が冷静さを取り戻す。気づかわしげな声に背中を押されて、アルトは飲み込もうとした言葉を続けた。
「あいつが何を考えてるのか、さっぱり分からねえんだ……」
一般人に話すとまずい事柄以外は、素直にシルヴィのことを語った。彼女が守護騎士の力に目覚めたきっかけであること。衛兵隊で孤立していること。声を掛けて最初は乗り気であったが、手紙を目にして急に態度が変わったこと……。
エルンやルーク、他の隊員が相手ならば、ここまで詳細に話さなかっただろう。これは誰かと共有すべき話題ではなくて、自分の胸にそっと秘めておくものだ。
シルヴィの秘密の一端に関わることには、間違いない。だから、あまり大っぴらにしない方がいい。話す機会があったとしても、衛兵隊の誰かではなく、事情を知り得ない無関係の他人に打ち明けるぐらいが関の山だ。
ユーリィは黙ってアルトの話に耳を傾けていた。全て話し終わった後も、しばらく口を開かなかったし、酒や料理にも手を伸ばさない。
「その女の子のことは、忘れた方がいいわ」
考え込んだ末に、ユーリィは口を開いた。
「傍から聞いているだけでも、分かる。その女の子が抱えている秘密は、きっと禄でもない。下手に首を突っ込めば、後戻りは出来ない。巻き込まれたらお終いよ」
ユーリィの茶色の瞳は、まっすぐにアルトを見据える。あの、熱に浮かされたような視線ではない。今の彼女の視線は、鋼鉄のようだ。壁を隔てても、尚遮れないのではないかと思うほどに強い。
「分かっているよ」
アルトは、ユーリィの目を直視できない。
「そのぐらいは、俺にも分かっているんだ。そう、分かってはいる……」
「じゃあ、覚悟は出来ているの?」
間髪入れずに、ユーリィが言った。
「彼女のために、全てを投げ出す覚悟はある? 何があっても、後悔しないと誓える?」
アルトは答えずに、逃げるように俯いた。
彼女のことを知りたい、とは思った。だが、覚悟はしたか? 彼女の秘密に踏み込み、何があっても見捨てない、と決意したか? 自問すれば、明らかなことである。
「いいや……」
彼女と向き合うのに、覚悟が必要だと指摘されて初めて気づいたのだ。決意を固める時間はなかったし、この場で即座にできることでもなかった。
今の環境は心地よかった。温かい同僚がいて、自分を認めてくれている。確かに魔物は恐ろしいが、『裏切り者』と呼ばれることのない生活は満ち足りている。シルヴィ一人のために、仮にその全てを投げ出す羽目になったら、きっと自分は彼女を恨むかもしれない。後戻りが出来なくなってから、悔いたところで遅い。
失われた己の記憶にしたって、そうだ。思い出せないうちはその欠落を恐れるが、取り戻したところで、幸福な記憶とは限らない。今が人生の絶頂期だとは思っていない。だが、間違いなく底辺をさまよう時期でもなく、それなりに幸せだと思っている。
知ってしまえば、もう後戻りは出来ない。退路のない道を行く勇気はない。
自分の臆病さに気落ちして、アルトは黙り込む。まだ残っている料理にも酒にも手をつけずに、ぼんやりとしている。
ユーリィは対照的だった。機嫌良さそうに酒杯に手を伸ばす。
「ねえ、アルト。知らない方が、幸せなこともあるのよ。月並みな言葉だけど、ううん、だからこそ真実を言い当てているの」
そう言うと彼女は空いた己の手を、アルトの右手に重ねた。
「覚えていて。……逃げることは、罪じゃない。ただ、仕方がないことなのよ」
重ねられた手を、アルトはじっと見つめた。彼女の手の甲まで覆う包帯の、ざらついた感触がいつまでも彼の手に残った。
シルヴィが鍛錬を済ませて練兵場を出た頃には、夜もとっぷりと更けており、そろそろ就寝の時間である。併設された浴場で軽く汗を流した後、私室に足を向ける。その道すがらで、知っている声が聞こえてきた。
「アルトの奴、なかなか帰ってこないけど、何してるんだろう……? もしかして、外泊? だとしたら、あいつやるなあ!」
「いや……彼に限って、それはないと思うんだけど……」
声の主が誰かは、すぐに分かった。同じ二十五隊の小柄な大斧使いと長身の大槌使い……エルンとルークだ。外見も性格も正反対だが、昔から二人で行動しているところをよく見かける。
彼ら二人の存在は、シルヴィの意識の琴線にも触れないが、会話に出てきた名前に思わず聞き耳を立てる。聞こえてきたのは、エルンの忍び笑いである。
「何だよ、ルーク。お前、まさか……妬いてるのか?」
エルンが声を潜める。
「嫉妬なんかしてない! 昔の話を蒸し返すな!」
ルークが声を荒らげる。大人しい彼が感情的に怒鳴るところを、シルヴィは初めて見た。やはり、相手が双子の弟だからだろうか。誰よりも近しい関係であるが所以か。
しかし、そんなことはどうでもいい。話の全容は掴めないが、シルヴィの関心の外にある話に違いない。
その場を立ち去ろうと、踵を返す。
「ひょっとして……アルト、一人で出かけたんじゃないかな?」
踏み出そうとした、シルヴィの足がぴたりと止まる。
「一回自室に戻って、外に出て行ったのは確からしいけど、その時異様に暗い顔してたらしいから……」
ルークのつぶやきが廊下に、反響する。
シルヴィは足音を立てることも構わず、歩き出した。エルンがまずシルヴィの接近に目を見張る。シルヴィは声を上げた。
「アルトが一人で出かけた、ですって?」
ルークがようやく、シルヴィの存在に気づいて振り返る。先に気づいていたエルンと同じく、その目を驚きに見開いている。ぽかんと開かれた唇から、言葉が出てくる気配はない。
反応の悪い連中だ。シルヴィは冷ややかな視線で、二人のとぼけた顔をみやった。
「彼をこんな真夜中、一人で街を歩かせて大丈夫だと思っているの?」
「や……まあ、子供じゃあるまいし……」
歯切れの悪い口調でエルンが言う。
「彼のこと、知っているんでしょ? なら誰かに狙われていても、おかしくないことは分かるわね?」
淡々とした声で指摘すると、二人は揃って押し黙る。
物言いたげな目をしていた。そんな可能性は低いだろうに、と訝り、あるいは、そういう問題ではない、と無言で訴えていた。だが、シルヴィには声にならぬ言葉を聞く耳の持ち合わせはない。
「探しに行くわよ。あなたたちも、手伝いなさい」
二人の返事を待たずに、シルヴィは歩き出した。
酒場を出たのは、深夜のことであった。
アルトはぐったりして、酒場の壁にもたれ掛かっている。
「くそ……明日、鍛錬行ける気がしねえ」
まだ意識は保っているけれども、酔いが回っているのは確実である。明日は間違いなく、二日酔いだ。傍らで、ユーリィはからからと笑う。
「まじめねえ。一日ぐらいさぼってもいいんじゃない?」
「お前が焚きつけたんだろうが……」
アルトは恨みがましくうめいたが、ユーリィが取り合う様子はない。涼しい顔で聞き流された。
元々、アルトはほどほどのところで酒は止めたのだ。翌日のことを考えて、羽目を外して飲むような真似はしなかったのだ。ところが、その程度しか飲めないのか、とユーリィにからかわれ、ムキになって張り合い、この有様である。
一刻も早く帰って、休まねば。重たい足を引きずって前に踏み出すと、ふらりとよろける。
「げっ……」
予想以上に酒が回っている。意識よりも足の方が深刻そうだ。
この千鳥足で兵営まで戻れるだろうか? 不安に思っていると、不意に腕を取られる。
「送っていってあげる」
ユーリィもアルトと変わらぬほど……いや、それ以上に飲んでいたはずだが、顔色一つ変えていない。足取りはしっかりしており、ふらつくアルトを支えるぐらい出来るだろう。
腕を絡められ、ぴったりとユーリィが寄り添う。布越しに伝わってくるぬくもりと感触に、酒のせいだけではない動悸がする。
「お、おう……」
ユーリィの先導に抵抗する理由も、余裕もない。腕を引かれるがままに、歩き出した。
酒場がひしめく一画を抜けると、溢れかえっていた人の姿は一気に姿を消す。通りに面した店は軒並み明かりが絶え、月の光で青白く照らされるばかりである。
二人の間には沈黙が広がるばかりであった。アルト何でもいいから、話がしたかった。蔦のようにからみついた腕が気にかかって、気を紛らわすきっかけが欲しかった。
そう思っていた矢先、ユーリィが絡めてきた腕の袖口から、手の甲を覆う包帯が目に付いた。そういえば、気にかかっていたのだ。ちょうどいい機会だ。
「その包帯、どうしたんだ? 怪我でもしたのか?」
指を怪我することなら珍しくないのだが、手の甲となると、あまり聞かない。指に包帯は巻いていないので、手全体を怪我したわけでもなさそうだ。
ユーリィがアルトを振り返った。彼女の唇は柔らかく微笑んでいる。
「知りたい?」
ただし、その茶色の瞳に笑みはない。
酒の火照りが、瞬時に冷める。冷水を頭から被っても、ここまでの効果はないだろう。まるで氷の手で心臓を直接触れられたようだった。
理由は分からない。ただひたすらに、嫌な予感がした。凍り付くアルトを差し置いて、ユーリィの左手が、右手の包帯に添えられる。
「これは怪我じゃないの。あんまり大っぴらに出来ないから、こうして隠しているだけ」
ユーリィは相も変わらず、微笑を浮かべる唇と笑わない瞳をアルトに向けている。
「あなたに、覚悟はあるの?」
からかうような問いかけに、アルトは答えられない。得体の知れない恐怖が、喉を締め付けて声が出ない。
周囲の静けさが、急に気にかかった。ここは人気のない通りで、アルトとユーリィの他は誰もいない。しかも、アルトはひどく酔っている。足下もおぼつかず、護身用の短剣もどこまで役に立つことだろう?
こんな状況に陥ったのは誰のせいだ? 人気のない通りに連れてきて、そして足もふらつくほどに酒を飲ませたのは誰だ?
いいや、何を恐れている? 周囲に助けがなくとも、例えこちらが酔っぱらっていても相手はただの女。守護騎士の力を持つアルトが恐れる相手ではない。
口の中に溜まった唾を、喉に絡みつく恐怖と一緒に飲み込む。
「御託はいい。見せるというなら、さっさと見せろ」
虚勢を張ったのではない。これは当然の態度だ。自分に言い聞かせる。震える語尾を、必死で聞き流す。
ユーリィの唇の微笑がいっそう深まる。
「そう。……精々、後悔しないようにね」
いよいよ、硬く巻かれた包帯に、彼女の指先がかかる。包帯の結び目に触れ、解き始める。固唾をのんで、その作業を見守っている。ついに結び目が解け、堅く巻き付けた包帯が解かれ、隠されていた肌が露わになるその刹那――上空から、声が降ってきた。
「アルト!」
声に反応して、顔を上げる。すると、数歩先に少女が降り立つ。その手の甲には黄金の魔法陣が輝く。
「シルヴィ……」
アルトの口から、安堵の吐息と共に少女の名前がこぼれ落ちる。大したことのない時間しか経っていないのに、彼女の怜悧な顔がひどく懐かしく思われた。
「戻るわよ」
いつにも増して、ぶっきらぼうな声だった。
普段ならその乱暴な物言いに、反感の一つも覚えるところだったが、この場は違う。
「ああ」
ユーリィの腕をすり抜け、シルヴィの元へ歩き出す。足取りはふらつくが、ゆっくり歩くことなら一人でも出来る。
しかし、一歩歩いたところで、再び歩みが止まる。左手の手首が、掴まれていた。
「待って。……行かないで」
掴まれた手首を、即座に振り払うことはためらわれた。
ユーリィのか細い声はまるで、小さな子供が出て行こうとする親を引き留めるようだった。彼女の甘く、切ない響きを帯びた声を振り切れず、アルトは足を止めた。
「彼の手を離しなさい」
代わりに、無慈悲に言い放ったのは、シルヴィだった。
「守護騎士には、尊い義務があるの。だから、あなたの勝手な都合で彼を引き留めることは許されない」
研がれたばかりの剣の刃のような声だった。常人ならば、喉元に剣を突き付けられたかのように口を噤むだろう。だが、ユーリィは違った。
彼女は、笑った。
「なぜ?」
月の光は、ユーリィの笑みを朧に照らし出す。屈託のない、晴れやかな笑顔は濃い暗闇の影を纏う。
シルヴィの秀麗な眉が、ぴくりと跳ねあがる。
「答えるまでもない。自分の頭で考えなさい」
「考えても、あたしには分からないわ。だって、あんまりにも馬鹿馬鹿しいんだもの」
冷ややかに切って捨てるシルヴィに、ユーリィは笑みを崩さない。
「力を持っていても、戦うかどうかはまた別の問題でしょう?」
猫が喉を鳴らすような、甘い笑い声が街路に響く。シルヴィの隻眼が、苛立ちに細められる。
「守護騎士が戦わなければ、この世界は滅びるのよ」
シルヴィが、感情を押し殺した抑揚のない声で答える。
その通りだ、とアルトは声に出さずにシルヴィに追従する。守護騎士が戦う理由が、他にあるだろうか? 現に、アルトが力に目覚めた日、ユーリィは言ったではないか。守護騎士は人間である前に、守護騎士なのだ、と。問わずとも、彼女だって分かっているはずでは?
苛立ちをにじませながらも、几帳面に答えたシルヴィに返ってきたのは、やはり嘲るような笑い声であった。
「それでも、選択肢は消えないわ」
ユーリィの声に、淀みはない。絶対の自信に満ち溢れている。
「ねえ、アルト。よく考えて。何故、あなたは戦うの? 理想や義務で誤魔化さずに、考えて」
シルヴィに向けられていた、形ばかりの笑みが今度はアルトを見た。彼女の茶色の瞳は答えを催促するが、アルトの唇は全く動こうとしない。シルヴィの答え以外に解答が出ないだけではなく、ユーリィの言い知れぬ威圧感が彼の唇を縫い付けて、閉ざしているのだ。何も答えられないでいると、ふいにアルトの手首を締め付ける手が離れた。
「ねえ、そうでしょう? あなたはきっとよくご存じだわ」
謎めいた微笑は再び、シルヴィを見ていた。シルヴィの青の隻眼は雨の日の湖のように敵意に濁り、ユーリィを睨んでいる。
「あなたに返す言葉は尽きた。早く行きなさい」
輝く魔法陣を宿した手で、シルヴィは細剣の柄に手を掛ける。彼女の忍耐が切れたらしく、次の返事は剣の刃ということらしい。
ユーリィは小さく肩を竦め、シルヴィに背を向けた。そのまま足音が遠ざかっていく。
完全に彼女の気配が遠のいてから、ようやく張りつめていた緊張の糸がほぐれた。
「すまない。手間かけさせたな」
多分、これまでで一番素直な謝罪であろう。川を下る水の流れのように、滑らかに口をついて出た。対する返事は、谷よりも深いため息である。
「全くだわ。あなた、自分の立場を分かってる? いつ、誰に狙われてもおかしくないってことを忘れないで」
シルヴィは黄金の髪を揺らしながら、歩き出した。
「探したのよ。余計な手間をかけさせないで」
言葉はきついが、声は柔らかい。シルヴィの中では、最大級のアルトの身を案じた表現であろう。
相応の言葉を返したい。けれども、アルトにしたって言葉の引き出しはそう多くない。
「ありがとうな」
声に出来たのは、たった一言だけ。伝えたいことは、こんな短い言葉ではとても言い表せそうになかった。
ユーリィとの間に割って入ってくれたことは感謝する。アルトを心配してラムダ中を駆け回ってくれたことは、とても嬉しい。でも、いなくなって探すぐらいなら、最初から一緒に出かけてくれれば良かったのに。
どれだけ届いたのか、推し量る術はない。シルヴィは答えなかった。そのかわり、沈黙していた右手の魔法陣が再び輝き出す。
「急ぎましょう。無断外出で罰せられるなんて、馬鹿馬鹿しい」
軽く地面を蹴ると同時に、シルヴィの姿は屋根の上へと舞い上がる。彼女が降り立った屋根の上には、手を振るエルンと肩を竦めるルークの姿もあった。探しに来てくれたのは、シルヴィだけではないのだ。仲間たちの心配が、アルトには純粋に嬉しかった。
そうだ、理想や義務が無くても、人は戦うことが出来る。
「戦う理由なんて、簡単なことだよな」
アルトも翡翠の魔法陣の輝きを宿し、先を行くシルヴィの背を追った。彼のつぶやきを耳にして、どんな顔をしているのか知る由もなく。
ユーリィは屋根の下から、守護騎士たちの放つ魔法陣の輝きを見上げていた。数は四つ。アルトとその同僚が三名。その目は鋭い。獲物を追う狩人の瞳であった。
彼はもうこれに懲りて、不用心な外出はしないだろう。今夜はまたとない好機であった。これを逃したのは惜しい。しかし、気を落とす必要はない。簡単な話だ。機会がないならば、作ればよいだけだ。
ユーリィは飛び交う四つの光のうち、一つに目を留める。それは、黄金の輝きであった。
「あいつが……彼が言っていた女ね」
誰もいない通りで、ユーリィは一人つぶやく。
「絶対に、許さないんだから……」
夜空の星々よりも鮮烈に、その瞳には憎しみの光が輝く。