第一章 過去への扉
快晴の空の下に、多くの人々が集う。彼らの視線を集めるのは、舞台の上の役者たちの姿である。
「か弱き民たちを守り抜くのが、私の使命。この身が朽ち果てるまで、彼らの盾として戦い続けましょう」
古風なドレスを纏い、見た目ばかりは豪奢な冠を頂いた娘が高らかに宣言する。初代キルヒアナ女王を演じる彼女の演技は堂に入ったものである。おまけに見目麗しい娘であるから、常ならば観客の目を捉えて離さないのだが、この時ばかりはそうもいかなかった。
「愚かなる女王よ、何故分からぬか。そなたらの力はあまりにか弱い。我らに残された道は、奴ら……魔物どもに許しと慈悲を請うのみだ」
女王と相対する位置に、一人の青年が立っている。修道士が着るような黒のローブを纏っていた。その上目深にフードを被って髪を覆い、仮面を付けて顔を隠している。
娘の台詞に応じる青年の演技は、彼女と比べるまでもない。素人とまでは言わないが、優れた役者と呼ぶには不十分だ。にも関わらず、彼の方がより多くの観客の視線を集めている。人々が食い入るように見つめているのは、青年のフードと仮面であった。
観客たちの無言の催促に答えるように、青年の手が目深に下ろされたフードにかかる。
「そなたにそのつもりがないなら、この場で死んでもらう!」
声を張り上げると同時に、フードを引き上げ、仮面を投げ捨てる。雪の如き純白の髪が、まだ若い青年の顔には血のごとく赤い瞳が、それぞれ尋常ならざる色の髪と瞳が露わになる。
その瞬間、わっと歓声があがる。観客の誰もが、今まで見たことのない青年の風貌に驚く。さながら、珍獣の登場を喜ぶかのように。
観客のざわめきに、青年は耳を貸さない。舞台の床を蹴り、懐に差し入れた手で短剣を取り出す。彼の赤い瞳は、相対する娘の表情……裏切り者の狼藉に目を見張る女王の顔を見据えていた。
脳裏では、舞台の筋書きを思い返している。動揺して動けぬ女王の前に、舞台の袖から走り出てきた騎士たちが立ちはだかる。裏切り者は騎士たちに捕らえられ、魔物との徹底抗戦を決意する女王の演説を聞きながら、最期には自害して果てる。……キルヒアナの民であれば、誰もが知る伝説の一幕である。観客の期待に応えるべく、小さな逸脱さえも許されない。
だが、青年の視界に劇の脚本にはない影が映り込んだ。舞台に熱中する観客たちの背を追い越して、恐るべき速さで飛来する物体――その正体を悟った。
打ち合わせとは違って、全速力で女王に駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。芝居ではない驚きの表情で、娘は彼を見やるが、止まらない。張りぼての短剣を捨て、青年は彼女を両手で抱え、舞台の端へと転がっていく……。
主役が端へと引いた舞台の中央に、一人の女の後ろ姿が現れた。金糸を紡いだような素晴らしい髪が、騎士団の制服に掛かっている。彼女は首だけで背後を振り返り、観客にその顔を半分だけ晒した。
「劇の最中、ごめんなさいね。これじゃあ全く興ざめよね」
美しい少女であった。切れ長の青い瞳に、人形のごとく整った顔立ちは、怜悧な印象を見る者に与える。慈母の如きキルヒアナ初代女王の役にはそぐわないが、氷の女王の役であれば適役であろう。呆気にとられた数多くの観客たちの視線に一切動じることなく、彼女は淀みのない動作で舞台に突き刺さった細剣を引き抜き、血糊を払って鞘に収めた。
「つまらない現実に引き戻して、悪かったわね」
少女は舞台の袖へと歩き出す。舞台の中央には血の絨毯が広がり、巨大な犬型の生物――魔物が紅の瞳を見開いて、息絶えていた。
世界の大部分は魔物に支配されている。その大部分は既に魔物の領域であり、人間に残された領土はそう広くはない。魔物が出現し始めた三百年前までは、数多の国が領土を奪い合い、人間同士で争っていたが、今や一つの国が残るばかりである。魔物の侵入を防ぎ、力なき人々の生活を守ることが出来るのは、キルヒアナ王国の王族たちの結界のみであったからだ。魔物に滅ぼされるか、キルヒアナの傘下に入るか。数多くあった国家はそのいずれかの末路をたどった。
故に、キルヒアナ王国の民が王家に向ける忠誠心は並々ならぬものであった。民衆は地上に舞い降りた神のように、王家に連なる者たちとその力を崇拝した。
翻って、彼らは王家の敵対者には容赦がなかった。人類の敵である魔物はもちろん、王家に反旗を翻した者にも、この上ない憎悪を向けた。
劇は当然、中止の運びとなった。舞台から役者が去り、舞台道具が取り去られる。急な事件の片づけに追われる舞台袖では大勢の劇団員が行き交い、喧噪が飛び交う。
その中でも、一際激しい物音が響く。それは舞台衣装を纏ったままの青年が床に叩きつけられる音だった。
「汚れた手で俺の娘に触れやがって! 貴様、自分の身分を分かっているんだろうな?」
床に伏した青年に怒声を浴びせかけるのは、中年の男性だった。拳を振り抜いたばかりの右手に、左手には鞭を持つ。女王役の娘の父親であり、劇団の支配人であった。
「お前は見せ物用の獣だ! それ以上の価値はお前にはない。国家の反逆者として殺されないだけ、ありがたいと思え!」
周囲の者は冷やかな視線を向けているか、あるいは目もくれないかのいずれかである。青年に駆け寄る者も、激高する支配人を押さえる者もいない。
いつものことだ、と青年……アルトは床に倒れ伏しながら思う。彼の味方はどこにもいない。だから、黙って耐えるしかない。倒れ伏したまま頭を踏まれようが、鞭で背中の皮膚がぼろぼろになるまで叩かれようが、歯を食いしばって苦痛と屈辱を堪えるしかない。
支配人の罵声は絶え間なくアルトの耳に飛び込んできた。だが、支配人の声は吹きすさぶ嵐のうなり声のようにしか聞こえず、その意味などアルトにはほとんど分からない。
何も考えるな。何も感じるな。自分は石ころだと思って、ひたすらこの無為な時間を堪え忍べばよい。これは長年の経験で学び、身に着けた技術だった。
大半の支配人の言葉は、アルトに届かなかった。ただ、すべての言葉が意味をなさなかったわけではない。
「娘を助けて、一端の英雄を気取るつもりだったか? 『裏切り者』が英雄気取りなど、傑作だな!」
支配人の哄笑がアルトの霞がかった意識に響き、鮮やかに視界が開ける。死人のように微動だにしなかった彼が、わずかに身じろぎをした。
ゆっくりと、アルトは身を起こした。顔を上げて、支配人を見据える。唇は堅く引き結ばれ、一言も口を利かない。だが、その表情は言葉以上に彼の心境を雄弁に語る。
彼の無言の抗議は支配人にも届いた。支配人の鞭を握る左手がわなわなと震え、振り上げられる。
「反抗的な目をしやがって! ただじゃおかんからな!」
鞭がしなり、空気を切り裂く音がする。これから襲いかかるであろう苦痛に、青年の瞳が恐れと共に閉ざされる。……が、振り上げられた鞭がアルトの体を打ち据えることはついになかった。
恐る恐る彼が目を開けると、見事な金髪を垂らした少女の背中がある。少女の右手の甲を指ぬきの手袋が覆っているが、その下から目映い黄金の光が溢れ出している。
「鞭を下ろしなさい」
背筋を貫くような、冷ややかな声が響いた。
少女の前に展開した黄金の障壁が、鞭を受け止めていた。障壁は手袋の下で輝く光と同じ輝きを発している。
「騎士様、こいつは汚れているのですぞ。それをかばうなど……」
支配人がすっかり脅えた様子で言った。か細い反論を耳にするやいなや、少女は光を放つ右手で腰に吊った剣の柄に手をやった。
「鞭を下ろせと言ったのが聞こえなかった? ならば、剣を取りなさい。私がお相手してあげるわ」
鞘からわずかに抜かれた白刃が、煌めく。
「どれだけ持つか、見物ね。一合もったら誉めてあげるわ」
「き、騎士様の相手など、恐れ多い……」
支配人はぞっと青ざめて、大慌てで鞭を地面に投げ捨てた。少女が一瞥すると、ようやくわずかに抜かれた白刃が鞘に納まる。
同時に右手の光が止む。張り巡らされていた障壁が薄れ、空気にとけ込むようにして消え失せる。その神秘的な光景に目を奪われている間に、アルトの眼前には手袋が填まった手が差し出されていた。
「立てる?」
愛想のない声が降ってきた。可能か不可か問いかけるだけで、気遣いも心配するような素振りもない。アルトは答えなかった。差し出された手を取ることもしなければ、振り払うこともしなかった。ただただ、黙って差し出された手を見上げていた。
しばらくの間、少女の手は差し出されたままだった。だが、ついに痺れを切らして、強引にアルトの腕を掴んだ。
「行くわよ」
有無を言わさぬ口調であった。腕を引っ張る力は強く、逃れようもない。アルトは仕方なく、網に掛かった魚のように抗う術なく立ち上がった。
劇団員の視線を集めながら、少女に手を引かれるがままに歩いた。舞台を出ると、多くの人が行き交う広場がある。促されて、ベンチに腰を下ろす。立ったままの少女をアルトは無言で見上げた。
彼女の姿を正面からまじまじと見たのは、このときが始めてであった。輝くばかりの金髪や、すらりとした肢体を包む騎士団の制服……遠目で見た限りではその程度しか分からなかったが、こうして近づいてようやく気がついた。澄んだ青い瞳は左目だけで、もう片方は黒い眼帯に覆われている。眼帯は海の荒くれ者が好んでつけるようなもので、少女の品のある美貌にはどこまでも似つかわしくない。まさか、単なる装飾品としてつけているわけではあるまい? 思わず、アルトは少女の厳めしい眼帯を凝視してしまった。実用品であっておかしくない、と思い至るのに少々時間がかかった。
彼女は容姿こそ、貴族の令嬢のようであったが、身に纏う装束はドレスではなく、立派な騎士の出で立ちである。得物は細剣の一振りだけではなく、旅人が持ちそうな短剣から、刃が曲がりくねった見慣れぬ短刀まで揃え、護身用にしては仰々しすぎる。何よりも四本の杖と盾をあしらった紋章が縫い込まれた制服が、彼女が並の騎士ではなく、魔物と戦う力を備える唯一の騎士、守護騎士であることを表している。
魔物は人間とは比較にならない力を持つという。奴らは風のように機敏であり、鋼鉄の剣さえ弾き返すほど頑丈で、恐るべき獰猛さを備えている。魔法陣の加護を受け、人間離れした身体能力と特殊な能力を身につけた守護騎士であっても、魔物との戦いは容易ではないと聞く。戦いの最中、右目を失うことだってあるだろう。
アルトが少女を見つめているのと同様に、少女もまたアルトを見つめていた。青い隻眼を細めて、射るような目線を向けている。
「あなた、名前は?」
まるで不審者に尋問する衛兵のような口調である。
「そういうあんたは、どちら様?」
相手が偉い守護騎士様とあっても、高圧的な態度は気にくわない。ぞんざいに言い返すと、少女は整った眉を跳ね上げた。
「質問に、質問で返すのは失礼よ」
少女もまた、アルトの問いかけに応じず、ポーチを探り始めた。不敬罪で引っ張るために、手錠でも探し始めたか? アルトは冷めた目で少女の仕草を目で追う。
「私はシルヴィ。キルヒアナ王立守護騎士団ラムダ支部衛兵隊第二十五隊所属シルヴィア・トリン」
ポーチを探りながら、少女……シルヴィは決まりきった呪文を唱えるがごとく答えた。ポーチを探り終えると、小さな皮袋をアルトの眼前に突きつけた。
「打ち身によく効くわ。そのまま放っておいたら、ひどい顔になるわよ」
なるほど、皮袋の中身は塗り薬らしい。薬品らしい香りがつんと鼻を刺激する。
剣の刃のような少女の鋭い視線が、無言で受け取るように催促をする。
選択肢は自分にはない。アルトは深々と息を吐いた。少女の手からひったくるようにして、薬を受け取った。
「この男前の面が台無しになったら、たまらねえ。仕方ないから使ってやるよ」
罵倒や軽蔑は嫌いだったが、同じぐらい同情や哀れみを買うのも嫌いだった。施しを受けるなら、適正な値段の倍額を出してでも買うところである。
「あら、打ち身の薬って言ったでしょう。顔を変える薬じゃないのよ」
シルヴィという名の少女は悪びれた様子もなく、言い放つ。
一体、どういう意味だ。さすがに腹に据えかねて、向き直ろうとすると突然、彼のフードが目の前を遮る。力一杯、フードが引き下ろされたのだ。急な出来事に目を白黒させていると、耳元でささやき声が聞こえた。
「目立つでしょ。隠しておきなさい」
少女の言うとおりであった。広場に集まる人々から、己の風貌が少なからず視線を集めていることに気付いた。外出時は何よりも気にかけていることだというのに、間抜けなことに忘れていた。もう一度、自分の手でフードを下ろし直す。
「あんたは俺に触れても気にしないのかい? もしや守護騎士様のくせに、我が国の建国伝説もご存じないのかな?」
皮肉をたっぷり効かせて言う。すると、少女は唇をつり上げて不敵に笑う。
「失礼ね、守護騎士は皆、建国伝説は暗唱できるぐらい読み込んでいるの。だから、あなたみたいな半端者が『裏切り者』フォルカとは無関係だってことを分かってるだけよ」
少女はアルトの目を指さした。
「その髪は自前みたいだけど、瞳は偽物でしょう?」
「当たり前だ」
憮然としてアルトが答える。瞳に人差し指を差し入れると、色付きのレンズが外れる。瞳の色を変えるための劇の小道具であった。
「俺が本物の『裏切り者』なら、しけた劇団で役者なんかやってるわけがねえ」
言いながら、もう片方の目のレンズを外す。禍々しい血の色ではなく、鮮やかな翡翠の色の瞳が露わになる。翡翠の瞳はそう珍しいことではない。広場に行き交う人々の中でも容易に同じ色を見いだすことができるだろう。
キルヒアナの建国伝説に名を残す、フォルカ。キルヒアナ王国初代女王・ジールの信任厚く、右腕とも評された人物であった。しかし魔物との戦いが激化していく最中に女王を裏切った。魔物と手を結んで、この世界の全ての人間を滅ぼそうと目論んだ。
輝かしい栄光とおぞましい転落から、『裏切り者』と汚名で呼ばれるこの歴史上の人物は、生まれ持った豊かな白髪に、魔物のような紅の瞳の男として描かれる。劇で演じられる初代キルヒアナ女王の姿形は役者ごとによってまちまちだが、フォルカの姿だけは一定している。
「全く、迷惑な話だ。珍しい特徴の片方に該当しているからって、歴史上の大罪人と同列にされるなんてね」
アルトは嘆息した。
老人ならばともかく、まだ青年と呼ぶべき若さで雪のような色合いの髪を持つ者は、たしかに他に例がない。
歴史上の最大の悪人の生まれ変わりと揶揄したくなる気持ちが分からないわけではない。しかし、理解出来るかどうかと、許せるかどうかは全く別の問題である。
「なあ、あんた、信じられるか? 俺は冗談は言うが、嘘は絶対に言わないんだ。飢え死にしかけたときだって、パンの一欠片さえ盗まなかったんだ」
悪い奴らなど世の中に掃いて捨てるほどいる。だというのに、自分は一体、何をしたというのだ?
いつの間にか固く握りしめた拳が、震える。
唯一、心に響いた支配人の言葉がもう一度繰り返される。――娘を助けて、『裏切り者』が一端の英雄を気取るつもりだったか?
「俺は、『裏切り者』フォルカなんかじゃない。……俺はアルトだ」
支配人に言いたかったことが、今頃になって形になった。最後に付け加えた言葉はため息のように密やかで、人々の雑踏に紛れて、誰の耳にも届かなくてもおかしくなかった。
少し、時間があいた。二回、ゆっくりと瞬きをしてから、シルヴィはアルトを見た。
「そう。あなた、アルトって言うのね」
シルヴィの青い瞳は、アルトを見つめていた。
「あなたの勇気ある行動が、一人の命を救ったことを私は生涯忘れない。あなたの名前は覚えておくわ、口の悪い役者さん」
見つめ返せば、吸い込まれてしまいそうだった。陽光を浴びてきらめく大海原のように、鮮やかで深みのある瞳であった。
真摯なまなざしに耐えきれず、アルトはシルヴィの視線から逃げ出した。そっぽをむいてから、ちらりと彼女の表情を窺う。
「あんたは……その、やっぱり変わり者だな」
アルトの戸惑いは、歯切れの悪い口調に現れた。対するシルヴィは、心外だと言わんばかりに美しい弧を描く眉をひそめた。
「守護騎士ならば、誰だってこうするわ。臆せず魔物の前に立ちふさがることがどれほど難しいことか、よく知っているの」
シルヴィは手袋を嵌めた右手を、胸の前で握る。
「誇りなさい。あなたの勇気は本物よ。私が保証する。あなたは決して『裏切り者』などではない」
アルトは声が出なかった。
ずっと求めてきた言葉だった。しかし、今まで誰からも与えられなかった。金貨や宝石の山など、人々の喝采を浴びる名誉など、少女の一言には及ばない。アルトは軽く俯いて、目頭を押さえた。
「俺も覚えておくよ。守護騎士シルヴィの名前を、な」
震えそうになる声を振り絞って、アルトは言った。シルヴィは一拍開けて、口を開いた。
「覚えておくなら、正確に覚えて欲しいものだわ。私はシルヴィア・トリン。キルヒアナ王立守護騎士団ラムダ支部衛兵隊第二十……」
「所属を覚えるとは言っていない」
すらすらと淀みなく言うシルヴィを遮る。すると、横目でじろりと睨まれた。
「意気地なし」
不満げに唇を尖らしている。それがなんだかおかしくて、アルトは微笑した。
「御免被るよ。それ覚えたら、劇の台詞を代わりに忘れてしまいそうだ」
「そう、ならあなたの記憶力は鶏並ってところかしら」
素っ気なくシルヴィが言う。
人が下手に出れば調子に乗りやがって……騎士様だかなんだか知らないが、これは一言いってやらねばなるまい。
そう思った瞬間のことだった。
腹の音聞こえてきた。それもかわいらしいものではなく、地底から鳴り響くような豪快な音である。音の主の腹の虫は相当機嫌が悪いらしい。
アルトのものではない。目の前の少女を見やれば、アルトの視線から逃げるように顔を背けている。
「しゅ、守護騎士の力は体力の消耗が激しいの。お昼もまだだったし……仕方ないじゃない」
その表情はひきつり、見るからに気まずそうである。一言いってやろうと思っていたが、これを逃がす手はあるまい。
「俺には、あんたの腹の虫の音を覚えるのが精々だな」
アルトの唇に自然と悪い笑みが浮かぶ。シルヴィは唇をかみしめ、眼光鋭くアルトを睨む。
「覚えてなさい……」
墓場の亡者のようなうめき声が聞こえた。先ほどまでの毅然とした態度の少女に言われたなら、腰が抜けたかもしれないが、今は威厳の欠片もない。
「俺の鳥頭ではこれ以上覚えられない」
爽やかに笑い飛ばして、アルトはベンチから立ち上がる。
「何か買ってきてやるよ。そこで待ってな」
シルヴィを置いて、アルトは一人で歩き出した。
買ってきてやる、と言ったはいいものの、劇が終わった直後で持ち合わせがないことに、歩き始めてから気付いた。どの道、仰々しい舞台衣装のまま歩き回るわけにはいくまい。しばらく待たせることになるが、舞台裏に寄ってから、シルヴィの元に戻ることにした。
舞台裏では、団員がまだ片づけに追われていた。彼らの物言いたげな視線を浴びつつも、アルトは手早く着替えを済ませ、財布を持つ。人並みを突っ切って、一座を出ようとすると、不意に足が止まった。
「お客さん、正気かね? これほどの大金で、あいつを欲しがるなんて……」
困惑に満ちた支配人の声が聞こえる。周囲を見やると、人目をはばかっているのか、大道具の陰に支配人の大柄な背中を見つけた。
一体、何の話だろう? 興味をそそられたアルトは、距離を詰める。物陰の隙間から支配人の話し相手の姿をのぞき込む。
「余計な詮索は無用だ。……一刻も早く、引き渡せ」
話し相手は、旅人姿の男だった。精悍な顔つきで、よく日に焼けている。使い込んだ様子の旅装束に、腰に吊った長剣が目を引いた。彼は一般人ではあり得ない。荒事に長けた人間に間違いあるまい。
あの男は劇団の誰かを大金で引き取ろうとしているらしい。あの狡い支配人が値上げの交渉を忘れるほどの金額なのだから、相当だろう。きな臭いったら、ありゃしない。売られていく奴は、きっと禄な目に合うまい。アルトは心底、同情した。
だから、非常に驚いたのだ。支配人が漏らしたつぶやきに、動揺せずにいられなかった。
「あいつを……あの『裏切り者』を、ねえ……」
支配人が『裏切り者』と呼ぶ人物はただ一人である。
アルトは一瞬、気が遠くなった。ふらりと傾いだ体が身を潜めていた大道具にぶつかって、物音を立てる。
はっとして我に返ったときには、遅かった。支配人と旅装束の男は、アルトの目の前にいた。二人の視線に晒される中、アルトは血の気が引いていくのをはっきりと感じた。
「支配人、どういうことですか? 俺は……この男に売られていくんですか?」
支配人は腕組みして、答えなかった。苦り切った渋面でアルトを見下ろすばかりであった。
寝耳に水であった。いや、別段この劇団を離れることが惜しいわけではない。アルトはこの不吉な髪の色のため、珍しがられれば買われ、飽きられれば売られ、キルヒアナ建国伝説を扱う劇団や、あるいは下世話な見せ物小屋を渡り歩いてきた。金銭で我が身が取り引きされることには、慣れっこだった。だからその相場もだいたい見当がつくし、それは到底支配人を驚かせるほどの金額には届かない。更に言えば、このような物々しい風貌の男に買われた経験はまだない。
物言わぬ支配人から、アルトは旅装束の男に視線を移す。彼も支配人と同じく何も語らず、その上表情にいかなる感情ものぞかせない。草木でさえ、彼より感情豊かに思われるほどである。
「来い。さっさと行くぞ」
男の腕がぬっと蛇のように伸びた。アルトの腕を掴むと、旅装束を翻して歩き始める。
「俺は何も聞いてない、いくら何でも急すぎる!」
男の腕を振り払おうとするが、手枷に反抗するようなものだった。男の手の力は強く、肉どころか骨にまで食い込んでいるのではないかと思うほどである。
「いくら積んだか知らねえが、支度の時間ぐらい寄越せ! 離せよ!」
アルトは人目もはばからず叫んだ。まとめるような荷物はないが、広場にシルヴィを残してきたままなのだ。別れの挨拶もなしに、彼女と別れたくなかった。もう少しだけ、一緒に話をしたかった。
男は何も言わない。アルトがついに爪を立てて、男の腕を引きはがしに掛かっても、痛みさえ感じていない様子で歩いていく。暴れる青年を片手で引きずっていく異様な光景に、通行人の誰もが振り返ったが、剣呑な男の様子に恐れをなして呼び止めるものはいない。男は舞台を出ると広場を避け、人通りの少ない通りを選び、ついに貧民街にたどり着いた。そのうちのうらぶれた空き屋の扉をくぐったとき、アルトは恐怖で心臓が跳ね上がった。
家屋に足を踏み入れると、男はようやくアルトの腕から手を離した。離されても尚、アルトの腕には未だに鈍い痛みがある。振り払うと同時に、距離を取った。
「てめえ……俺をこれからどうするつもりだ?」
油断なく身構えて、旅装束の男に向き直った。
男は城門を守る衛兵のごとく、扉の前に立ちはだかる。凄むアルトを静かな眼差しで見つめる。視線を固定したしたまま、彼はアルトにゆっくりと歩み寄り――突然、アルトの視界から男が消えた。
いや、男は消えたのではなかった。男の姿を発見することはたやすかった。男は地面に片膝を付き、恭しく頭を垂れていたのだ。
「度重なる無礼を心よりお詫びいたします」
先ほどのまでの、乱暴な言葉遣いはどこにもない。アルトの前にいる男は、主君の前で跪く騎士と同じ丁重さで畏まっている。
「しかし、どうかご容赦ください。全てはあなたを一刻も早くお迎えしたかったが故なのです」
男は垂れた頭を上げて、アルトを見上げた。先程までの能面とは打って変わって、朗らかな笑みで満ちあふれていた。
「ご帰還を待ちわびておりました。おかえりなさいませ、アルト様」
男の恭しい声に、喜びに溢れた表情に、演技は感じられなかった。一流の役者だって、彼の喜びを表現することは出来ないだろう。
全て本物だ。そう悟ったとき、アルトの背中に冷たい汗が伝った。敵意よりも得体の知れない恭順さの方が、不気味でならなかった。
「どういう……ことだ?」
喉から声を絞り出して、疑問を口にする。
「俺はお前を知らない。俺はずっと一人だった。かしづかれる家臣に覚えはないし、そもそも帰る場所はない……」
一つずつ確かめるように、口に出していく。そう、目の前の男に見覚えはないのだ。物心ついたときには一人で、劇団や見せ物小屋をたらい回しにされ、『裏切り者』と蔑まれるだけの日々……。
そこで、アルトは気付いた。今になって、思い出したことがあったのだ。アルトの表情の変化に旅装束の男も気付いたらしかった。彼の喜びに満ちた表情に、陰りが差した。
「まさか、記憶がないのですか? あなたが我々と共にあったときのことを……」
男の言葉は、深々とアルトの胸に突き刺さった。急所を捉えていたのだった。
確かに、五年以上前の記憶はアルトになかった。一番最初の旅一座の主人に川縁で倒れていたところを拾われる以前に、我が身に何があったのかアルトは知らない。はっきりと覚えていたのは、自分の名前だけであった。
昔は失われた記憶を惜しむことも多かった。この世界のどこかに家族がいるはずで、『裏切り者』などと呼ばず、自分を愛してくれる誰かがいると夢想にふけることがあった。いつの間にやら、夢見ることさえ忘れ、空白の記憶に思いを馳せることがなくなって久しい。
しかし存在を思いだしさえすれば、あの頃、夢想へ傾けた情熱はいとも容易く蘇る。
アルトは片膝を立てたままの男に駆け寄った。彼もまた床に膝をつき、男の目前に座り込んだ。
「教えてくれ! あんたは……いや、俺は一体何者なんだ?」
アルトは激情に駆られるままに、叫んだ。燃えさかる郷愁に、全身が焼き尽くされそうだった。騎士の少女がくれたささやかな賞賛さえも、今の彼の頭からは飛んでいた。アルトの存在が認められるのが奇跡ではなく当たり前で、本当に安らげる居場所があると知ったならば、飛びつかずいられなかった。
男は驚きに目を見開いていた。彼もまた、混乱を脱するに時間がかかった。ややあって、彼の目に理性と哀れみの光が宿る。
「さぞかし、今までご苦労なさったことでしょう。ですが、もうそんな日々は終わりです」
男は軽く咳払いをした。そして居住まいを正して、もう一度アルトに向き直った。
「全て、私がお話ししましょう。あなたの正体を、そしてこの世界の真実を……」
食い入るように、男の唇を見つめた。紡がれる言葉を今か今か、と待ち焦がれた。わずかな時間だったに違いない。だが、彼にとってはまるで一昼夜にも等しい時間に思われた。
男の唇がわずかに開かれたとき、アルトは五年越しに開かれた過去への扉に歓喜し――次の瞬間には閉ざされたことに気づけなかった。
男の唇がなくなっていた。より正確に言うなら、首から上が消失していた。食いちぎられた生首は音を立てて、ちょうど床の上を転がっていたところだった。
胴体に残された首の断面から、噴水のごとく紅の液体が吹き上がる。アルトは頭から被った。白の髪も着替えたばかりの服も、土砂降りの雨を駆け抜けた直後のように塗れた。雨と違うのは、凍えるような冷たさが肌を刺すのではなく、今し方生命を失ったばかりの体液の生温かさが肌に染み込むことで、そのおぞまし全身に鳥肌が立つ。
首を失った男の背後には、一匹の獣がいた。
劇に乱入してきたものと同じ、巨大な犬型の魔物であった。口元は目にも鮮やかな血の滴を垂らし、凶悪な牙を覗かせている。何よりも恐怖を抱かせるのは、その瞳であった。おおよそ生物とは思えない、宝石を埋め込んだような無機質な瞳であった。鈍く輝く紅の瞳に射すくめられ、アルトは悲鳴さえ上げられなかった。
男の首を食いちぎったのは、眼前の魔物であった。亡骸の腰に下がった長剣に手を伸ばす暇もなく、男は殺された。当然のことではあるが。魔物の動きに追いつけるのは、守護騎士たちだけ。常人には、魔物の動きを捉えることは出来ない。
魔物の前に立つ、とはこういうことなのだ。アルトは始めて知った。色んな物語や噂話で耳にはしていた。迫り来る影も、本物の屍も今日見た。だが、真正面から相対するのは初めてであった。魔物の恐怖を本当に味わったのは、このときが初めてであった。
予め知っていたならば、到底女王役の少女を突き飛ばすなど出来なかっただろう。紅の瞳に魅入られたかのように、目は釘付けで指一本動かせなかった。
魔物が咆哮する。魔物の遠吠えは長く尾を曳き、このあばら屋に止まらず、町中に響きわたったことだろう。一見、無防備に吠えているようであっても、背を向けた瞬間に首を食いちぎられるに違いない……! 結局、アルトはただ震えていることしか出来ない。
吠えるのを止めると、魔物はアルトの方を向いた。無機質な紅の瞳が、再び彼を捉える。
体中の血は沸騰して、このままだと全身が張り裂けてしまいそうだった。いっそ早く殺してくれ! 言葉にならない叫びをアルトはあげた。どうせ死ぬなら、あの男のように、殺されたと知る前に死ねるものなら死なせてくれ!
アルトの声なき叫びを、もしかしたら魔物は聞いたのかもしれない。魔物は一度閉じた口から、見せびらかすように白い牙を覗かせた。そして、黒の毛皮に覆われた前足を進めた。
アルトが見たのはそこまでだった。魔物がついに自分を殺しにきた。恐怖とも安堵とも取れぬ感情に負けて、瞼を閉ざした。最後まで抗おうという勇気など投げ捨てて、現実から目を逸らした。瞼を閉ざせば、目の前は真っ暗になった。
暗闇の中、アルトは頭から液体……これまた、まだ命の残り香を残した生温かい体液を被った。先ほどと同じく、やはり土砂降りの雨を駆け抜けたような濡れぐあいだった。この量ならば、確実に致死量だろう、と覚醒とまどろみの境目にいるような頭で考えた。むせかえるような濃密な血の臭いにつつまれ、自らの意識が遠のき、消失する瞬間を待つ……。
「起きなさい! ……生きているんでしょう!」
聞き覚えのある少女の怒鳴り声が響いた。
頬をはたかれたかのように、アルトは目を覚ました。自らの血を浴びたとばかり思っていたが、男の鮮血を塗りつぶして、緑の体液が全身を濡らしている。男の死体に折り重なるようにして、首を失った魔物の死体が横たわっている。目の前の光景が理解できずに、幾度か目を瞬かせていた。すると、唐突に顎を掴まれ、顔を上げさせられた。
「返事ぐらいしなさい! 死んでるかと思ったじゃない!」
守護騎士の少女の顔が目に映る。魔物の血が撥ね跳び、白い頬を汚していたが、彼女の美貌を損なうことはなかった。
「あ……」
アルトの顎を掴む左手の反対、シルヴィの右手の甲が黄金の輝きを放っていた。光はその手で持つ短刀に注ぎ込まれ、緑の血液がべっとりとついた刃を明るく照らしている。
ようやく、アルトは現状を理解した。シルヴィに命を救われるのは、これで二回目だ。
「すまん。……ありがとうな」
これだけ言うのが精一杯だった。出来ることなら、もう少し言葉を飾り付ける努力をしたかったが、今の彼には難しかった。
シルヴィはアルトの顎を離して、彼の腕を引っ張り立ち上がらせる。悠長な動作ではない。おぼつかない足取りで立ち上がったアルトの腕を、尚も引っ張る。
「礼を言うのは、全部終わってからよ。……安堵するには早すぎる」
粉々に砕けた扉の残骸を踏みつぶしながら、シルヴィは足を進める。腕を引かれるまま、アルトもその後をついて行く。彼の足が、元々扉が隔てていた家の境界線をまたごうとしたその時、シルヴィの足が止まった。
次いで、彼女の腕が離れた。離した手は光を纏い、目にも留まらぬ速度でアルトの胸板に触れ、軽く押し留められた。アルトが家の敷居をまたぐことはなかった。
扉の代わりに、黄金の障壁が彼の行く手を遮った。透き通った障壁は通り抜けることはかなわないが、視界を遮りはしなかった。
シルヴィの後ろ姿が、障壁の向こう側にあった。血で塗れた短刀を左手で構え、右手で細剣を抜く。その表情は分からない。見える限りでも五匹の魔犬に囲まれ、あの不気味な紅の瞳に晒されている彼女の心境など想像しようもない。
「そこから決して出ないように。すぐに片づけるわ」
シルヴィの全身を、右手から立ち上る黄金の光が包み込む。光は彗星のごとく消え失せ、常人には捉えきれない世界での戦いが始まった。
数は七。種類は全て同一、魔犬の最下種【黒犬】だ。紅の瞳をぎらつかせ、半円状に取り囲む【黒犬】たちの群を冷たく睥睨しながら、シルヴィは相手の戦力を分析する。……この程度なら、取るに足りない敵だ。
一匹が突出して、シルヴィに迫る。名手が放つ弓矢の速度にも比肩する速さで、一般人には捉えきれないだろう。だが、全身の身体能力および感覚器官を、右手に宿した魔法陣で増幅したシルヴィの目には、迫り来る【黒犬】は克明に映る。
白い牙をひらめかせた【黒犬】の体は、シルヴィが振り下ろした左手の短刀によって、胴体を二分される。腹を両断された【黒犬】は、あばら屋の壁に衝突して、地面に落ちた。
獰猛な魔物たちだが、知性が存在しないわけではない。一匹が容易くしとめられたことに、魔物たちの間にわずかな動揺が走る。その隙をシルヴィは逃さない。
魔物たちの円陣を、駆け抜ける。斬撃に優れた左手の短刀は立て続けに二匹の【黒犬】の首を刎ね、右手の細剣は一匹の頭蓋を貫通。
反応のいい二体がシルヴィに躍り掛かる。一方は左手後方から、もう一方は右手前方から。
後方から襲いかかった方の処理は容易い。左手の短刀が翻って、魔物の体を上下に分断。生命を失った肉塊はそのまま飛来し、家屋の壁にぶつかって崩れ落ちる。
一方、右手の細剣は未だに【黒犬】の死体の頭蓋にその刃を埋め込んだままであった。左手の刃は間に合いそうにない。迫る【黒犬】の紅の瞳が輝きを増す。もしかすると、同胞の仇討ちを取ったと快哉を叫んだのかも知れない。
だとすれば、なんと愚かなことだろう。シルヴィのつま先に魔法陣の力が流れ込む。光を宿したつま先はブーツを透かして尚、その輝きを放つ。
輝くつま先が、死に絶えた魔物の亡骸を蹴り飛ばす。細剣の刃の戒めを外れ、亡骸は放物線を描いて飛び、シルヴィに襲いかかってきた同胞にぶつかる。同胞の死体を打ち据えられた【黒犬】は、短い悲鳴と共に怯んだ。熟練の守護騎士を前にしては、致命的な隙である。まもなく、振り下ろされた短刀が無慈悲に【黒犬】の体を断ち切り、同胞の肉塊と共に石畳に倒れた。
残されたのは、たったの二体。瞬く間に同胞のほとんどが斬り殺されて、尚立ち向かうほど魔犬の眷属は愚かではない。向かい合うシルヴィに背を向けて、逃げ出そうと駆けだす。一方は町の北側へ、もう一方は正反対の南側へ。
まとめて逃げ出すようなら、一太刀で二匹とも血の海に沈めてやったものを。【黒犬】の小賢しい足掻きに舌打ちした。シルヴィにとっては、赤子の手を捻るよりも容易い敵だが、一般市民にとってはそうではない。わずかな時間でも、魔物どもに自由に町を闊歩させてはならない。
こうなることを予め予期して、格下相手には極めて有効な曲刀を左手のみに留めておいたのだ。細剣を握るシルヴィの右手に光が集中する。光は白銀の刃に流れ込み、染め上げる。黄金に輝く細剣を逆手に持ち換えると、その切っ先は整備された石畳へ突き立てられる。
光を纏った剣が地面へと突き立てられる。すると、今度は剣を伝って地面へ光が移動する。蛇のように光が走り、地面へ吸い込まれて消える。
次の瞬間、地面に巨大な光の陣が浮かび上がる。精緻な魔法文字がびっしりと敷き詰められ、中心に四本の杖が描かれている魔法陣だ。
地面の魔法陣は、逃げ出した魔物の足下にも及んでいた。南北に別れた二匹は、いずれも地面に倒れ伏す。瞳の輝きは鈍り、呼吸は荒い。四肢は痙攣し、立ち上がる様子はない。
魔物に行動の自由はない。回復にも多少の時間がかかる。さっと確認を終え、シルヴィは地面に突き立てた剣を引き抜く。
地面に描かれた魔法陣が、跡形もなく消滅する。魔法陣の効果から解き放たれ、魔物たちの瞳に生気が戻る。四肢の痙攣が止み、立ち上がりかけた。が、一陣の風となってシルヴィの刃が駆け抜ける。南へ逃れようとした魔犬の首が、音を立てて地面に転がった。
残った一体が慌てて北へ、もっとも町の中で賑わう広場の方向へ逃れようとするが、魔法陣の影響から抜け切れていなかった。
よろめきながら駆ける魔物めがけて、シルヴィは引き抜いた細剣を突き出す。銀の刃は正確に紅の瞳を刺し貫き、二匹目もようやく動きを止める。
この場に、魔物の気配はない。しばらく周囲を伺うも、増援が来る様子もなく、また町の他の場所が襲撃にあっている様子もない。
魔物は全て倒したと判断して問題なかろう。シルヴィはようやく、右手で輝く魔法陣の光を収めた。
細剣と短刀についた血を拭ってから、鞘に収める。それでようやく戦いが終わったという気分になって、急に肩の力が抜けた。思い出したかのように、くう、と腹の虫が鳴いた。
「あんた、本当に腹が減っているんだな」
黄金の障壁が消えた家から、アルトが顔を出す。その呆れたような物言いに、シルヴィはむっとした。
「だから、言ったでしょ。守護騎士は力を使うと、その分消耗するの。……私が、特別食い意地張っているわけじゃないの。仕方ないのよ、これは」
外見に見合わぬ食欲をからかわれるのに、シルヴィは飽き飽きしていた。彼女の反応に、アルトは呆れ返ったらしい。げんなりとした様子で首を振った。
「この状況で飯が食いたいと思えること自体、俺には信じがたいね」
アルトは屋外を指さした。
どす黒く淀んだ紅の目が虚空を見上げる生首が飛び、生々しい内蔵を露出させた【黒犬】の死体があちこちに点在している。石畳を緑の血液が濡らし、小さな川を作って流れている。
見慣れた風景なのですっかり忘れていたが、一般人にとっては確かに衝撃的な光景だろう。
「でも守護騎士には必要な能力よ。いつでもどこでも、食べられて寝られる力はね」
肩をすくめると、青年は露骨に目をそらした。
「ああ、そう。……俺、守護騎士には何があってもなりたくねえな」
向こう一週間は肉が食べられそうになく、一月は安眠できそうにない顔をして、アルトは呻いた。
近隣の住民を呼んで、町の衛兵に使いをやった。散乱した死体の片づけに人手が必要だった。普段、民衆には威張り散らしている衛兵連中だが、守護騎士相手には強く出られないようだ。早々に駆けつけ、黙々と魔物の死体掃除に取り組んでいる。高圧的なシルヴィに低姿勢で応対する彼らの姿に、今回ばかりは哀愁を感じないわけではない。
一般人で非力な衛兵だが、守護騎士の大立ち回りの後処理だけが彼らの任務ではない。人間の死者の調査は彼らが本業である。
「ふうん。……この町の人間ではないことは確か、ね。それぐらいなら、死体を見ただけの私でも分かるわね」
衛兵が路上から死体を退かしはしたが、鼻を刺す濃密な臭いと淀んだ緑の体液が石畳に残る。その一画で、シルヴィは立っている。これもやはり衛兵に持ってこさせたパンにたっぷりとバターを塗って食べながら、彼らの仕事ぶりを横目で眺めている。ここも多少片づいたとは言え、どうしてここで食事をしているのやら、と思わずにはいられない。せめて死体と血と無縁な場所に移ればいいのに、シルヴィは移動の手間を惜しんで動かなかった。
「誓って言うが、俺はこの男が何者かは知らない。見たことのない顔だったし、教えてくれる寸前に死んだ」
シルヴィと広場で別れた後、起こったことは全て話した。この男に大金で売られたこと、ここまで乱暴に連れてこられたこと、そしてこのあばら屋に入ると態度を翻して、アルトを仕えるべき主君のように扱ったこと……五年前より前の記憶が失われていることまで、彼女に話した。男との会話は一文字一句として取りこぼしがないのではないか、と思うほどに尋ねられた。
衛兵たちの調査結果を耳に入れ、アルトから話を残らず聞き出しても、シルヴィは首を傾げるばかりである。
「この男、素性に繋がるものを何も持っていないのよね。持っていたのは、旅に必要な最低限の道具に、護身用には立派すぎる長剣に、大量の現金と換金用の宝石に、通行用手形……よくできた偽造品みたいだけど」
「胡散臭いこと、この上ないな」
アルトは顔をしかめた。男と対面していたときは、ついつい舞い上がってしまったが、こうして落ち着いてみると、怪しいことこの上ない人物である。全てを話す、などと言っていたが、適当なことを言ったらアルトが興奮し始めたので、話を合わせただけなのでは……要するに彼はペテン師に過ぎなかったのでは? あのまま彼について行っていたなら、一体どうなったことやら。いや、ペテンにしては、支配人に渡す金が多すぎるのが、やはり引っかかかるか。
少し目を離した隙に、シルヴィの手からパンの塊が消えている。まるで魔法でどこかに隠されたようである。次はこんがりと焼けた豚の足を手に取り、見た目だけは上品に歯を立てているところを見ると、パンの隠し場所は彼女の胃袋で間違いなさそうだ。量もさることながら、食べる速度も一般人とはけた違いである。
「結界に守られた町で魔物が出るのは、残念ながらままあることよ。でも、そうは言っても精々数年に一匹出るか出ないか、という頻度。一日の内に、一匹が二回で、それから八匹現れて……なんて異常だわ。何かしら原因があるはず」
食事に費やす間も、シルヴィは思考に時間を割いている。むしろいつ食べているのだろうと思うほど、彼女はよく喋りながら、状況を整理している。
「あの男は、魔物の出現の一回目には客席にいた、二回目は実際に襲われた、三回目は……その時点では死んでるな」
男を襲った二匹目が遠吠えで呼び寄せた、と言えば、三回目の魔物の出現も男と関連づけられないわけでもない。……とは言え、魔物が現れた時点で死んでいる以上、魔物が男を狙ったとは言いづらい……そう考えていると、珍しくシルヴィの口が食事も会話もしていないことに気付いた。青の隻眼は横目でじろりとアルトを睨んでいる。
「その考え方で行くと、あなたが一番関係がありそうなんだけどね」
「そうなんだよな」
なかなか悪くない考え方だと思うのが、いかんせん結論が気にくわなかった。
「俺はしがない一般市民だよ。胡散臭い男とも、おっかない魔物とも無関係さ。そうでなきゃ困るぜ」
アルトは、シルヴィとは違うのだ。魔物と戦う力はもちろんだが、社会的な身分も天と地の差だ。
守護騎士は王家に次いで尊ばれる存在であり、路頭に迷うことは決してあり得ない。対するアルトは、元いた劇団に戻れるかどうかも不透明で、禄な蓄えもないため明日からの暮らしに不安を抱かずにはいられない。
金もなければ、力になってくれる味方もいない。日々を食いつなぐのが精一杯で、得体の知れない事件にまで巻き込まれる余裕はない。
シルヴィは、切れ長の青い隻眼をすっと細めた。
「けれど、全くヒントがないわけじゃない。あなたとあの男の関係に……魔物との因果……」
シルヴィの澄んだ瞳が見つめる先は、アルトの頭部であった。キルヒアナの伝説に名を残す『裏切り者』と同じ色をした色の髪……雪のように白い髪。
アルトとて、言われるまでもなく分かっている。彼に何か特別なことがあるとすれば、この忌まわしい色の髪だけである。これがあるせいで、一般市民には似つかわしくない運命が待ち受けているのではないのかと予感してしまう。嫌な予感を振り払うように、アルトはぐしゃりと乱暴に髪をかきむしった。
「騎士様よ、嘘は全て許されないが、冗談にだって言っていいものと悪いものがあるぜ。あんたが今、口にしたのは後者だ」
「あなたは冗談の存在を認めているみたいだけど、私は認めない」
つまらなさそうに言うと、シルヴィは食い尽くした豚の足を皿に投げ捨てた。
「真実か、あるいは真実と推測されるものしか、私は口にしない。なぜなら、幸せな虚構と幻想に浸っていいのは弱者だけだから」
衛兵の差し入れはまだ残っていたが、彼女が手を伸ばした先は皿ではない。
「虚構に逃れるな、真実を見ろ。祈りを捨てて、剣を取れ。……これは強者の義務なのよ」
シルヴィのしなやかな指先が触れたのは、細剣の柄であった。鞘に納められた刃は見えない。だが、彼女の決意は抜身の刃だ。何にも遮られず、この目にはありありと示されている。
非力な一般市民としては、頼もしい守護騎士の姿と賞賛すべきであろう。人々の剣であり、盾たらんとする彼女の姿勢は美しく、立派だ。
だが、一抹の不安が拭えない。無邪気にほめそやすことが、アルトには出来なかった。理由は分からない。ただ、妙な胸騒ぎがする。
シルヴィの決意の言葉に、アルトは返すべき言葉が見つからない。その内に、衛兵たちのざわめきが二人の耳に届いた。
振り返ったシルヴィの隻眼に映った光景は、俄に信じがたかった。衛兵は、ある者は呆然と立ちすくみ、ある者は腰を抜かして石畳に座り込む。彼らは脅えた目を一点に向けていた。
胴体を二分されたもの、首から先を失ったもの、頭蓋を破壊されたもの……先の戦闘で葬った魔物たちの肉塊が、衛兵の手により山と積み上げられている。もはや永遠に動かぬ死体である。そのはずである。
闇夜を切り取ったような黒い靄に包まれ、さながら風にさらわれる綿毛のように、肉塊は宙に浮いていた。
突如、黒い靄が身震いしたかのように蠢く。まるで顎を開くように肉塊を飲み込む。
奇妙な光景を目にした衛兵たちは、微動だにしない。十人近くいる彼らは腰に揃いの剣を吊っていたが、抜刀したのはシルヴィただ一人であった。
鞘に添えた右手は細剣を抜き、左手には投擲用の短剣を構える。
「全員、逃げなさい!」
叫ぶと同時に、シルヴィの右手の魔法陣が輝きを帯びる。魔法陣が生み出す力は熱となって彼女の全身を駆けめぐり、一般的な人間の限界を越えた力を与える。
シルヴィの叫び声から一拍置いて、衛兵たちが悲鳴と共に駆け出す。高速で飛来する魔物の姿さえ正確に捉える今の彼女にとっては、亀が這うような速度であった。その遅さに苛立ちながら、左手の投擲用の短剣を放つ。
投じられた短剣の刃は、逃げまどう衛兵たちの合間を縫う。狙いは、黒い靄であった。それぞれ肉塊を食らった靄は寄り集まり、一つの球体となって宙に浮かんでいる。短剣は狙いを違わず命中したが、球体の表面に弾かれ地面に落ちる。
石の壁さえ貫く短剣が弾かれた。その事実に動揺する暇はない。空いた左手で新たな得物を抜く。
宙に浮かんだ黒い球体にヒビが入る。まるで卵の殻を割って這い出てきた雛のように、それは姿を現した。
【黒犬】と同じく、紅い瞳の四足獣であったが、大きさが違う。【黒犬】はせいぜい狼程度のものだったが、目の前の魔物は獅子よりも一回りは大きいほどである。加えて三つの首を備え、背中には蝙蝠のような羽を生やしている。直接相対したことはなかった。だが、書物で姿を見たことがある。【地獄犬】と呼ばれる、魔犬の眷属においても高位の種類である。
無闇と突っ込む気はない。シルヴィが知っているのは、あの魔物の姿と名前、最下種の【黒犬】とは比べものにならない強さと知能を誇ることだけ。出現例が極めて少なく、禄に記録が残っていないのである。
三つの首が、一斉に歯を剥く。短剣ほどもある牙が、ずらりと並んでいる。その奥、洞穴のような暗闇が広がる喉に、紅の明かりがぽつりと灯る。逃げまどう衛兵たちの背中を、シルヴィはちらりと見た。今、魔物の自由にさせるわけにはいかない。
魔法陣の光が細剣を包み込む。シルヴィは輝く細剣を構え、魔物には決して届かぬ刃を振るう。魔法陣が輝き、光の障壁がシルヴィと魔物の間に現れる。
ついに、三匹の口から深紅の炎が吹き出す。襲い掛かる炎の息吹は、もはや爆風と呼ぶにふさわしい。鋼鉄をも溶かすような炎は、渦を巻いて黄金の障壁に迫る。障壁から一メートル程度しか距離を開けていないシルヴィは、動かない。炎を防いだ直後に、障壁を解除し、隙だらけの【地獄犬】の首を狙って駆け出すつもりであった。
魔物が吐き出した炎が、障壁に触れる。黄金の障壁は炎を受け止めた。だが、その透き通った膜は悲鳴をあげ、ヒビが走る。思いもよらぬ光景に、シルヴィは目を疑った。
まもなく、障壁は澄んだ音を立てて砕け散る。耐えきれなくなった膜が砕け、放たれた炎が迫る。障壁から一番近いシルヴィと、その数メートル後ろで逃げまどう衛兵たちに向かって。
二つ目の障壁が炎を食い止める。炎の奔流はわずかな時間、流れを止めたが、長続きはしない。再び破られ、歩みを進める。すぐさま三つ目の障壁が立ち上がる。ほとんど衰えぬ炎の流れを食い止める。
強度の高い結界の連続発動は、負担が大きい。その上、新たな障壁を立てるごとに、強度が落ちていく。うなじを冷たい汗が滑り落ちる。結界の能力を己の肉体も同然に把握している彼女は、正確な計算を終えていた。連続で立てられる結界はあと一回が限界だということ、結界で稼げる時間がいかほどかということ……。
三つ目の障壁が、間もなく破られる。すかさず、四つ目の障壁が立ち上がる。
炎の行進は四度目の妨害を受けて、再度足を止める。シルヴィの体を焼き尽くすまで、もう後一歩というところである。四枚目が突破された次の瞬間に、炎はシルヴィに到達する。
それでも、彼女はぎりぎりまで動かなかった。四枚目の障壁が砕ける寸前になって、ようやくシルヴィは飛んだ。
障害物を全て突破した炎は、魔物に躍り掛るべく飛び上がったシルヴィを捉えることは出来なかった。石畳を溶かしながら進み、背を向けて逃げ出す衛兵たちの体を捉えた。
衛兵たちの絶叫は、上空のシルヴィにも届いた。人間とは思えない、獣のような咆哮が響きわたる。
彼らが逃げきる時間を稼げないことは、シルヴィには分かっていたことだ。覚悟はしていた。それでも、生きたまま体を焼かれる苦痛の叫び声に、シルヴィは胸が張り裂けそうだった。
憎き【地獄犬】はシルヴィの眼下にあった。ようやく、炎を吐き終えたばかりで、三つの首はまだ正面を向いていた。魔物を串刺しにせんと右手で細剣を構え、左手は三日月型の短刀を真下に投げつける。
三つ首はシルヴィの接近に極めて無防備であったが、背中の羽が反応した。投げつけた刃が到達する前に羽ばたき、【地獄犬】の体を前方に運ぶ。短刀は石畳に虚しく撥ね、シルヴィはやむなくそのまま地面に降り立ち、その背後を強襲することを選択する。彼女は軽やかに石畳を蹴り、羽ばたく【地獄犬】を追った。細剣を構え、鋭い刺突を繰り出そうと膝をたわめたところで、【地獄犬】が目指す先を見た。……呆然と立ち尽くすアルトに向かって、狡猾な魔物は翔けてゆく。
シルヴィは即座に、予定を変えた。確実に千載一遇のチャンスを物にするよりも、アルトの命を優先した。魔物が彼を襲っている間に襲いかかるのではなく、障壁で彼を守ってから襲いかかる。チャンスを捨てる訳ではない、ただ順番を入れ替えることにしただけ!
再び、魔法陣の光が細剣を包み込む。虚空に輝く細剣の刃を一閃。黄金の障壁がアルトの前に立ちはだかろうとした、その時だった。
「俺じゃない!」
アルトの鋭い叫び声が聞こえてきた。
俺じゃない? ……彼の言葉の意味が、即座には分からなかった。すぐには反応できなかった。だから、アルトの前に立てた障壁を解除しなかったし――彼に向かってまっすぐ飛んでいたはずの魔物が、翻ってシルヴィめがけて飛んでいる事実に反応できなかった。
【地獄犬】はアルトを狙うと見せかけて、油断したシルヴィに襲いかかるつもりだったのだ! 慌ててシルヴィは【地獄犬】に向き直った。障壁を立てても連続発動の制限を受けるため、突進を防ぐには強度が足りない可能性が高い。かといって、回避に動くには遅すぎた。……苦しい選択肢の内、シルヴィは後者を選び取った。
予想通り逃げ遅れ、魔物の牙がシルヴィの左肩を掠める。それだけでも、肩の肉がごっそりと削られ、耐え難い激痛に襲われる。
左肩の負傷と引き替えに、シルヴィは【地獄犬】から距離を取ることに辛くも成功する。しかし、その代償はあまりにも大きい。左腕はかろうじて食いちぎられずに残っている状態で、剣を振るうのはもはや不可能である。
出血で遠のきそうになる意識の中で、シルヴィは冷静さを保って分析する。長期戦には耐えられそうもない。やるならば、短期で片をつけねばなるまい。そう結論づけた時、魔物が立てる羽音が遠ざかった。
振り返れば、【地獄犬】は傷ついたシルヴィには目もくれずに、町の上空へと飛び上がる。三つの首が赤い瞳で見下ろすのは、北の方角であった。そちらには広場があり、多くの市民が集うこの町で最も人が集う場所である。【地獄犬】の狡猾さを、シルヴィは再び思い知らされた。
【黒犬】は最後の足掻きとして、南北に散って逃げようとしたが、【地獄犬】はそうではない。全て計算ずくなのだ。炎を吐いたときから、【地獄犬】の戦略は一貫している。弱者を盾にすればシルヴィの動きはコントロールできる、と理解して、とことん利用するつもりなのだ。
【地獄犬】は為すすべもない人々を蹂躙しながら、シルヴィから逃げ続ける。時間をかけて逃げ回り、シルヴィの体力が尽きたところを狙って殺す。真正面から戦っても、勝算は高いだろうに、決して敵を侮らない。
魔物が人々を襲っているところを奇襲する、などシルヴィには絶対に出来ない。一般市民を守ることが守護騎士の役割なのだ、みすみす見殺しには出来ない。かと言って、馬鹿正直に逃げ回る魔物の背を追うわけにもいかない。わずかな時間を思考に費やして、シルヴィはどう戦うか決めた。
決断した以上、足踏みしている時間は残されていなかった。
右手の甲の黄金の輝きが増していき、細剣の刃へと流れ込む。剣に力を注ぎながら、シルヴィは己の血で塗れた金髪を振り乱して、背後を振り返った。
全ての市民を守る。これは守護騎士としてのシルヴィの誓いであった。無論、全ての市民の中に彼も含まれている。
「アルト! 私が今から言うことをよく聞いて。魔物を倒すのに、あなたの協力が必要なのよ」
衛兵たちの死体の群の向こうに、白髪の青年が立っている。炎の余波で服の裾は焦げ、むき出しの肌には火傷の跡が見られるが、命に別状はなさそうだ。この非日常な空間に彼は明らかに戸惑っていた。
ひどく青ざめた顔であったが、無言のまま頷いた。少々放心しているようだが、指示さえあれば動けるだろう。
「私が乗り付けてきた馬は、この通りの一つ向こう側の宿屋にある。隣町には同僚がいる。馬を全速力で飛ばせば、一刻と掛からない。そこまでなんとしてでもたどり着くのよ」
「は……?」
守護騎士の力で感覚が鋭敏になってなかったら、気付かなかっただろう。アルトの翡翠の瞳が見開かれ、唇からは言葉にならない声が漏れていた。
言ったとおりに行動さえしてくれれば、いい。彼にはそれ以上何も求めない。シルヴィの決意に対する感想など、聞きたくもない。
シルヴィはアルトの答えを待たない。
「私が出来る限り、足止めをする。守護騎士として、最善を尽くす」
まばゆいばかりに魔法陣から光を流し込んだ細剣を、地面に振り下ろす。
刃を突き立てた地面に、巨大な四本杖の魔法陣が展開される。魔物の行動の自由を奪う結界の効果が発揮され、町の北に飛び立とうとした【地獄犬】が苦痛の咆哮と共に地面に落ちる。
シルヴィは右手で輝く細剣を決して離すまいと、握りしめる。この町の全ての民の命が掛かった剣を、彼女は最後まで手放すことを許されない。だから、彼一人の背中を押すためだけに、この右手を離すわけには行かない。
「あなたは市民として最善の行動をとりなさい。心配なんて、いらない。あなたのように、勇気ある市民ならば大丈夫」
逃げろと声高に叫んでも、勇敢な彼は動かない。むしろ意固地になって、この場に残りかねない。ならば、その背中を頼もしげに押してやることが最善手であろう。
シルヴィの読みは、当たった。
アルトの翡翠の瞳に知性の光が戻る。彼の見開かれた瞳は細められ、引き絞られた弓のごとくシルヴィを睨む。溢れそうになる声を押し殺すかのように、唇は噛みしめられている。
ふざけるな、と叫ぶ彼の言葉なき訴えは、シルヴィにも届いた。俺を臆病者にするな、と彼は全身全霊で主張している。それでも、結局、彼は小さく頷いた。
アルトは駆けだした。一目散に隣接した通りへ走り出す。振り返りもしない。みるみるうちに後ろ姿は小さくなっていく。路地裏の影に入って見えなくなるまで、追い続けた。
やり切った、とシルヴィは思った。守護騎士として出来ることは尽くした。魔物を殺せそうにないことは、確かに口惜しい。だが、仕方ないと割り切ることが出来た。
守護騎士としての、義務は果たした。ならば、きっと安らかに死ねるだろう。
隣の通りに飛び込んだアルトの目に映ったのは、逃げまどう人々の姿であった。魔物の出現は瞬く間に広がったらしく、皆が必死の形相で町の外を目指している。通りを一つ隔てたところに魔物が出ているのだ。遅れている子供や老人を省みることなく、隣人を突き飛ばそうが、形振り構わず人々は走る。
先を急ぐ誰もが、命を惜しんでいた。己の命を、あるいは己の家族の命が全てだった。他人の心配をする余裕など、彼らには砂粒ほどにもない。
すれ違う彼らの横顔の、なんと醜いことだろう! 男も女も、老いも若いも関係なかった。行き交うどの顔を見ても、どれも大差ない。自らの命を盾にして、魔物の前に立ちはだかったシルヴィの悲壮な美しさは、生まれ持った姿かたちの問題ではない。
思わず目を覆いたくなるような醜い光景であったが、アルトはただ、駆け抜けた。シルヴィの指示を繰り返し頭に描き、主人に命じられた犬のごとく走った。
そう、一刻も早く隣町に着くのだ。守護騎士の応援を呼び、あの化け物を退治してもらう。早ければ早いほど、魔物による町の被害を小さく済ませられる。何よりも、シルヴィが命を落とさずに済むかもしれない。
醜い人々の波を逆行し、悲鳴と怒号が入り交じる喧噪を縫う。指定された宿屋を目指し、わずかな距離を思えば、到着に時間がかかった。
開け放たれた戸から、人気のない宿屋が見えた。もぬけの殻であった。常ならば、客で賑わう一階の酒場部分もしんと静まりかえっていた。まだ湯気を立てている料理やなみなみとつがれたままの酒杯がテーブルには取り残され、蹴倒された椅子は床に横たわったままである。
人の姿は見あたらず、どうやら客も主人も残らず逃げたらしい。無人の酒場に用事はない。アルトは隣接した馬小屋に急いだ。人間に用事はない、用があるのは馬だ。
馬小屋に足を踏み入れると、こちらももぬけの空であった。宿泊客の馬で日頃はいっぱいなのだろうが、目に入る馬房はいずれも空である。逃げまどう群衆の中に荷物を満載にした驢馬や馬をつれた人の姿はちらほらあったし、逃げまどう人々をひき殺すことも厭わず馬車を全力で走らせる愚か者さえいた。
命の次に大事な物といえば、財産であろう。足も速く、荷物も載せられる馬がこぞって姿を消すのは、この状況では当然のこと。例え、それが己の所有物ではなかったとしても。
小屋には一頭だけ、馬が残っていた。鞍には守護騎士にのみ纏うことが許された四本の杖と盾を象った紋章が刻印されている。ところが、馬の傍らに立つ人物は到底騎士には見えない。物乞い風の、襤褸をまとった男であった。馬の背に過剰なほど、皮袋に包まれた荷物を積み上げている。案の定、荷物をくくりつける際にその内の一つを取り落としてしまう。価値の高そうな金貨が皮袋から吐き出され、馬小屋の床に散らばる。
金貨を拾おうと腰を屈めた男だったが、アルトの足音で顔を上げた。泥と垢で汚れた顔には、驚きと恐怖が浮かぶ。しかし、アルトと目が合うなり、男は安堵した様子であった。持ち主が取り返しにきたわけではなかった、と。
アルトは床にばらまかれた金貨に、目を奪われていた。そのまばゆい輝きに魅入られたのではない。この大量の金はどこからやってきたのだろう? 目の前の小汚い男のものでは決してあるまいし、まさか馬小屋の馬に大金を載せたまま放置する阿呆はいまい。つまり、この金は空になった宿屋から盗み出したもの……。
「こんな時に、この盗人が……」
腹の底がふつふつと煮え立つ。怒りに震える唇は禄な言葉を紡ぎ出せなかった。
男の唇に下卑た笑みが浮かび、欠けた歯がのぞいた。
「騎士様には感謝するぜ。おめえも、おこぼれに預かれてよかったな」
男はひらりと鞍にまたがり、馬上の人となった。アルトは顎を弾かれたように、金貨から顔を上げた。
「くそったれ!」
アルトが叫び、同時に馬に向かって走り出す。しかし、馬蹄の音が小屋に響くと、あっという間に馬は騎手と共に遠ざかる。
馬小屋を出て、その背を追う。アルトは叫んだ。喉が潰れんばかりに、声を張り上げる。
「魔物に喰われて死ね! 人間の屑、ろくでなし! ……あいつの代わりに、お前が死ね!」
舞台であれば、隅々まで響きわたるような怒号であったが、逃げまどう人々の足音や悲鳴にかき消され、既に小さくなった男の背に届いたかは定かではない。
一度罵倒が途切れると、もう声は出なかった。肩で息をしながら、握りしめた拳を震わせることしか出来ない。
こんな奴らのために、シルヴィは戦っているのだ。隣人を押し退けてでも生きようと足掻き、果てにはこれを好機と見て盗みに入る! こんな見下げた奴らのために、彼女は死ななければならない……。
元から小さな希望の光であったが、それさえ失われてしまえば、後に残るのは絶望の闇ばかりである。徒歩では、どうあがいても隣町まで半日は費やされる。その間彼女が持ちこたえる可能性はゼロに等しい。
もはや、もう一歩も動けそうになかった。足を踏み出すことの意味を失って尚、前に進める人間は果たしてどれだけいるのだろう? 少なくとも、アルトはそういう性質の人間ではなかった。
逃げたいとは思わなかった。逃げたところで、生き長らえたところで、一体どうするのだ? 誰もが自分のことを『裏切り者』と呼ぶ世界で、果たして生きていけるのだろうか? 俺はフォルカじゃない、アルトだ。そんな小さな誇りだけを支えに生きてきた。シルヴィを見捨て、それでも尚、自分は『裏切り者』ではないと言い返すことが出来るだろうか……?
「仕方ないわ。だって彼には力がない。弱いのだから、しょうがないの」
アルトの声ではない。女の声が間近で聞こえた。聞き覚えはない。振り返ろうとすると、手首を掴まれた。
「早く、逃げましょう。あなたが逃げることだって、罪じゃないのだから」
振り返ると、目深にフードを引き下ろした人影があった。旅装らしい全身を覆うマントの下は分からないが、アルトと比べても頭一つ分は背が低く、フードからこぼれ落ちる炎のような髪がやはり声の主は女性であること、女とは初対面であることを改めて確認させる。アルトはフードに隠れて見えない顔を睨みつけた。
「一緒にするな。反吐が出る」
掴まれた手首を振り払う。すると、女の手は抵抗の素振りすらなくあっさりと離れた。
「同じよ。だって、あなたも守護騎士ではないのでしょう?」
手は離したが、女の言葉はいっそう強くアルトを捕らえる。
「戦えなければ、ただの足手まとい。だったら、逃げてくれた方がまし。戦える人間からすれば、そう考えることでしょうね」
女の声は、水面に波紋一つたたぬ泉のようだった。脅したり、ことさら大げさに言っているわけではない。自明のことを当たり前に語っているだけだ。
反論しようという意志さえ湧いてこなかった。まるで心臓を射抜かれたように、アルトは黙り込んだ。
衛兵を守るためにシルヴィは何度も結界を張り直した。もっと早くに見捨てることは出来たはず。おそらく、最後まで粘ったのだろう。早々に見限れば、戦局は変わったかも知れない。
魔物のフェイントにも引っかかった。彼女の実力が足りなかったのではない、無力な市民を見捨てることが出来ない彼女の誇りが招いた負傷であった。
そして、今、この瞬間。自らの命を代償に、足手まといの市民が逃げだすための時間を稼いでいる。
彼女の献身にほとんどの市民が報いた。彼女が望んだように、先を争って町から逃げ出そうとしている。ところで、魔物との我慢比べを演じるシルヴィの目の前には、逃げろと言っても耳を貸さない足手まといがいた。
何故、アルトはここにいるのだろう? 自ら、逃げたのではない。あの場にいても何の役にも立てないことを受け入れられず、逃げるという賢い選択肢を自らの手で選べなかった。彼女が巧みに逃がしてくれたからこそ、自分はここにいる。
彼女自身、言っていたではないか。幸せな虚構と幻想に浸っていいのは弱者だけ、そのかわり強者は真実を見すえ、戦わなければならない、と。彼女は宣言通り、実行しただけなのだ。アルトには幸せな幻想を許し、彼女は一人で残酷な現実に立ち向かうことを選んだ。
気付かなければ、もう少しだけ幸せでいられた嘘を見破ってしまった。アルトは悄然とうなだれた。すると、再び、女はアルトの手を取った。
「行きましょう。あなたの居場所は、ここではないの」
女の手は、囚人を縛る鎖のようだった。もう二度と手放さない、固い決意が触れ合った手のひらから伝わってくるようだった。女は、アルトの手を握ったまま歩き出した。腕を引かれ、一歩、街の外へ向けて足を踏み出した。だが、二歩目はなかった。
「なら、どこに居場所があるんだよ!」
女の歩みに抗い、怒声とともにアルトの足は踏みとどまった。
動きの止まった女が振り返る。相変わらず、顔はフードに隠れている。ただし、薄く開かれた唇から容易く動揺を読みとることは出来た。アルトは憎しみさえ込めて女の唇を見つめ、声を振り絞った。
「俺は弱いから、仕方ない? あいつは強いから、当然のこと? そんな道理が通るか! なら、あいつは人間じゃねえってのか?」
「言ったでしょう、あなたは守護騎士じゃないのよ! 守護騎士は人間である前に守護騎士なのよ、あなたとは違う!」
女もまた、声高に応じた。彼女の隠れた瞳の視線が、俄に圧力を帯びる。アルトは頭を激しく横に振った。
「違わないさ! みっともなく逃げ出す俺たちと、あいつは別種の生き物じゃない。力と覚悟を備えただけの、ただの人間だ。人間一人見捨てて、どうして罪にならないと言える?」
アルトは深々と息を吐いた。まるで、体の中で猛り狂う炎を鎮めるように。
「罪を背負って尚、生きられるほど俺は強くない。あいつを見捨てれば、俺は自分を見捨てなければならなくなる」
興奮した声ではない。先ほどとは打って変わって、油断すれば雑踏に紛れて、聞き逃しかねない。神父の前で、静かに懺悔を行う信者のような声色であった。
ふっと、アルトの手を掴む力が緩んだ。先ほどまでの、何があっても離さないという決意に迷いが生じたのが分かった。今なら、逃げられる。鎖を引きちぎるように、アルトは掴まれた手を振り払った。女に背を向け、一目散に駆け出す。離れたアルトの手を女の指が掠めるが、歩みは止まらない。
「待って! あなたが自分自身を見捨てても、私はあなたを決して見捨てない! お願いだから、行かないで!」
女の懇願の声が、追いかけて来た。悲痛な響きを帯びた声であったが、彼は振り返ることも、足を緩めることもしなかった。
シルヴィの元へ、一刻も早く。
女は一人、その場に取り残された。続々とやってくる人波に紛れても尚、白髪の青年の背を追い続けた。視界から消えて見えなくなるまで、いや、消えた後も彼女は青年の姿を追って虚空を見上げた。
フードで隠された目元から、涙の筋が伸びてくる。女はそっと手で拭うと、ぽつりとつぶやいた。
「あなたはやっぱり変わらないのね、アルト」
唇を綻ばせて、女は駆けて行った青年の名を呼ぶ。
通りを埋め尽くす市民の姿は、一向に減らない。守護騎士が魔物の足止めをしている、という噂がすっかり町中に広がっているらしい。命だけでなく財産の持ち出しを試みる市民の姿が増えてきた。荷物を背負った驢馬や大切な食料である家畜まで連れているのだから、通りは更に混雑してきた。
にも関わらず、アルトの足は軽快だった。鼠のように人波をくぐり抜け、魔物とシルヴィがにらみ合う通りまで駆け抜ける。先ほどひどく長く感じた道のりは、あっという間であった。
体の問題ではなく、精神の問題であることは間違いないだろう。一人の少女を見捨てることに比べれば、いつかは動き出す恐ろしい魔物の前に立つことなど造作もない。
たどり着くと壁に飾った絵のように、目の前の状況に変化はなかった。石畳に展開する四本の杖の魔法陣の上で、三首の魔物が動きを止め、シルヴィは細剣を地面に突き立てている。いや、よく見れば、変化はあった。彼女の足下の紅の絨毯の面積が増えている。表情まで窺える距離まで行けば、きっとその美貌に刻まれた苦悶がより深まっていることが分かっただろう。
しかし、アルトはシルヴィに近づかなかった。周囲を気に掛ける余裕すら無くしている彼女の視界に入らないように気をつけて、アルトを大金で買った男と話した小屋に足を踏み入れた。
男の亡骸はまだ小屋に安置されていた。無惨な姿を覆い隠すべく、全身には布が被せられている。そちらに目が吸いよせられたが、すぐに壁際へと移った。
男の遺留品が一つずつ丁寧に並べられている。全て中身が引き出された背嚢、金貨が詰まった袋、簡素な食器、偽造だと言われていた手形の用紙……アルトの視線が止まったのは、鞘に収められたままの長剣であった。
アルトは剣を手に取った。鞘から抜き放つと、よく手入れされた白銀の刃が現れる。両手持ちの長剣であり、刀身に見合った重量を備えている。張りぼての短剣や剣しか握った記憶はないのだが、不思議なことに本物の剣の重さが初めてのように思えない。
空白の記憶の中で、剣を握っていた時期があるのかもしれない。頭の記憶は覚えていなくても、体の方には染み着いていたのかもしれない。
そうであればいい、とアルトは願う。微力ながらも、この後の魔物との戦いに役立てばよい、と。
武器を手に入れれば、もうこの小屋に用事はない。残された遺留品にも、男の死体にも目もくれず、アルトは剣を手に駆けだした。
足音も気配も今度は隠すつもりは無かった。さすがに、シルヴィが気付いた。右手の剣を杖にして体を支えたまま、彼女が振り返った。
「何故、戻ってきた!」
鋭く苛烈な声であった。普段ならば、雷に打たれたかのようにすくみ上がったかもしれない。だが、アルトは一切その歩みを緩めない。シルヴィの前を通り過ぎ、それでも止まらなかった。
「あんたと心中するためじゃない、生き延びるためだ!」
アルトはシルヴィを振り返らない。彼の目線にあるのは、魔法陣に捕らえられ、呻きをあげる三首の化け物だけ。
三対の紅の瞳の視線が、真っ向から突き刺さる。下級の魔物に対して、その禍々しさは比べようが無く、底知れぬ不気味さが漂う。視線だけで一般市民ならば殺せそうな視線が、三つもアルトに集中している。さすがに平然とはしていられず、胸に薄ら寒いものが走る。だが、下級の魔物一匹に恐れをなしたあの時とは心構えが違う。
「これでも食らいやがれ!」
長剣を、力一杯魔物に振り下ろす。動けない魔物に大剣は命中したが、鉄を斬ったような固い感触が返ってくる。当たり前のように、黒い毛皮には傷一つついていない。
魔物に刃をたたきつけた反動が、もろにかかる。手首がずきりと痛み、思わず取り落としそうになるが、
「まだまだ!」
構わずもう一度、振り下ろす。傷一つつかないが、魔物の瞳が憎しみに曇る。
「逃げなさい! 私の言うことを聞きなさい!」
シルヴィが甲高い声で叫ぶ。
またもや剣の刃は固い皮膚にはじき返され、たたらを踏みつつも、アルトは再度剣を振り下ろす。
「分からないとは言わせない、あなたにはどうしようもないの! 魔物に武器は通じないのよ!」
無論、分かっている。魔物は通常の生物よりも遙かに頑丈な体を持つ。守護騎士でなければ、傷一つ与えられない。物心のつかない子供でさえ、知っていることだ。
分かっていて、アルトは長剣を叩きつける。魔物の拘束がゆるんだ瞬間に死に至る行為を止めない。祈るような思いで、剣を振り下ろす。これは決して無為な行為ではない。アルトは自らを鼓舞すべく、魔物の前で不埒に笑う
「人を鶏頭と蔑んでおいて、よく言う! あんた自身が、俺を魔物の出現理由と関連がありそうだって睨んだのをもう忘れたのか? 魔物に狙われる理由なんて、一つしかないさ。俺の存在が、魔物どもにとって厄介だからに決まっている!」
裂帛の声とともに、アルトは剣を振り下ろす。肉を切った手応えはやはり、ない。だが、諦めない。その時が来るまで、待たなければならない。
「つまり、俺には隠された力があるってことさ! 魔物どもが危険だと判断せざるを得ない、とびっきりの力がな!」
ここに戻ってくるまでに、閃いたことだった。単なる仮説でも、奇跡を期待できるならば、逃す手はない。無策で戦いに赴くより、砂上の楼閣のような頼りない仮説でもあるだけましである。
「あなたの頭はどれだけおめでたいの? 鶏に失礼なぐらいかしらね? ……馬鹿を言うんじゃない! 夢を見るな、現実を見なさい!」
「お前こそ、現実を見ろ!」
アルトは叫んだ。
「魔物はいつか解放される、解き放たれればこの町は終わりだ! ここを滅ぼせば、次は隣町に攻めいる。一体、どれだけの犠牲が出ることだろう? あんたがここで俺一人を逃がして、この場に残ったところで魔物は止められない」
剣を握る手が、堅い魔物の毛皮に切りつけた反動で痺れる。それでも、アルトは構わず剣を振り上げる。
「どんなちっぽけな可能性だっていい、希望を捨てるな。最期の一瞬まで信じろ! それは断じて夢を見ることじゃない、それこそが現実を見るってことだ!」
剣が魔物の体を打ち据え、相変わらず手応えのない反応を返す。剣を握る手が痛みに軋み、唇を噛む。
この程度で根をあげるわけにはいかない。手首の痛みが一体どうした。アルトの傍には、左腕を半ば食いちぎられても尚、剣を手放そうとしない少女がいるというのに。
だらりと下がりそうになる腕を叱咤し、剣を構え直す。その時になって、背後から声が聞こえてきた。
「それも、そうね」
穏やかな声であった。先ほどまでの怒鳴り合いが嘘のように、落ち着きを取り戻していた。
「ここで死ねれば、守護騎士としての義務は果たした。やり切って、安らかに眠れる。……そんなわけないわね。あなたに諭されるまでもないことだわ」
背後のシルヴィの表情は伺えない。しかし、何となく想像はつくのだ。不敵に笑う、強者の顔。例え相手が高位の魔物であろうが、絶望的な状況であろうが、くじけることのない美貌。
その表情を、アルトは見たいと思った。守護騎士の仮面から、ようやく覗かせた素顔を目に焼き付けたかった。だから、振り返った。
そして、見てしまった。彼女の体はぐらりと傾ぎ、石畳に倒れていこうとする様を。
「えっ……」
アルトは目を疑った。
シルヴィは全ての力を使い果たして、地面に倒れ伏した。最後まで握りしめていた細剣の柄から手が離れ、魔法陣から光が消える。それは、魔物を縛る戒めが失われたことを意味していた。
そうなれば、当然、真っ先に狙われるのは。
魔法陣が与える苦痛に身を小さくしていた魔犬が、立ち上がる。三対の紅の双眸は、笑うように細められた。視線の先には、倒れたシルヴィの姿がある。
もはや慌てる必要もない、と判断したのだろうか。魔犬はゆっくりと踏み出す。一歩ずつ確かめるように、悠然と。
シルヴィが殺される。頭でようやく今の状況を理解すると、体が勝手に動いた。
「止まれ!」
アルトが振り下ろした大剣は過たず魔犬の胴体を打ち据える。だが、やはり傷は与えられない。魔犬は視線一つ動かさず、歩みは衰えない。そのかわり、背中の片翼が翻り、小蠅を払うようにアルトを打ち付けた。
紙のように吹き飛ばされ、石畳に叩きつけられる。意識が一瞬遠くなって、めまいがした。体がばらばらになってしまいそうな痛みに、体の芯に響く激痛にもだえた。
だが、飛びかけた意識が戻ると同時にアルトは手を伸ばした。傍らには、手放した剣が一緒に吹き飛ばされていた。痺れる腕を伸ばして拾い、杖にして立ち上がる。
魔物はシルヴィの傍らに立っていた。三つ首の化け物は、倒れた彼女を見下ろしていた。まるで手に入れた獲物を満足げに眺める猟師のように、つくづくと見つめていた。
「俺を狙えよ! てめえの狙いは俺だろう? かかってきたけりゃ、かかって来いよ!」
静まりかえった一帯に、アルトの挑発が響く。だが、魔物は動かない。何の力もない一般人からの挑発など、耳を貸す価値はないのだから。
シルヴィの震える手が地面に転がった細剣を掴もうとしているが、わずかに届かない。届いたところで、魔物に剣を突き立てる気力は彼女に残っていないだろう。
三つの首が、ゆっくりと顎を開く。短剣のような牙がずらりと並び、シルヴィの頭部など焼き菓子も同然にかみ砕くだろう。
アルトはただ、見ていた。悔しかった。情けなかった。あれだけの大言を吐いたくせに、何の役にも立たない。最期の一瞬まで希望を持て、と言ったのは舌の根も乾かぬ内のこと。だが、その難しさを今、この瞬間になって痛感している。
剣を片手に駆けていっても、剣は魔物に通じず、そもそもついたところで全てが終わっている。どう足掻いても、無駄にしかならない。足掻くことの意味を見失ったとき、底なしの沼に足を踏み入れたように動けなくなる。
何故、と問わずにはいられない。何故シルヴィが殺されようとしているところで、アルトが棒立ちになってその様を見物しなければならないのか。何故シルヴィには魔物と戦う守護騎士の力が与えられ、アルトには何も与えられなかったのか。
絶対におかしい。こんな不平等な世界はおかしい! 俺は絶対にこの世界を認めない、受け入れない! 世界の不平等に怒りを募らせ、不条理を呪う。煮えたぎった頭に、ふと聞きなれぬ声が響いた。
『ならば、その力を授けましょう』
竪琴の調べのような美しい声だった。見知らぬ女の声にアルトが身を固くすると、突如右手の甲に淡い緑の光が宿る。
精緻な魔法文字がびっしりと敷き詰められた円の中心には、鳥と大剣が描かれている。これは魔法陣だろうか? シルヴィの右手の甲に描かれていた陣を思い出し、アルトは自らの甲に浮き出た模様の正体を知る。
魔法陣から湧き出た光は、アルトの全身と握り込んだ大剣を包み込む。
光を纏った体は、羽のように軽い。体には力が満ちており、なんだって出来そうな自信さえ湧いてきた。
『選ばれし子よ、行きなさい。あなたが望めば、願いは叶えられるのです』
頭の中から聞こえる声が、アルトの不確かな自信を肯定する。
ならば、信じてみよう。彼は痛みが鈍く残る手で剣を握った。
地面を蹴れば、アルトが移動しているのではなくて、目的地の方からこちらに向かってきているような感覚に陥った。
軽やかにシルヴィの側へと降り立つと、今にも彼女の頭部を砕かんとしていた魔物が振り返った。感情の薄い瞳に、突如現れたアルトの存在が信じられないような驚きが宿っているように思われた。
翡翠の線が、魔物の首元に走る。首が、胴体から切り離される。骨と肉が剥き出しになった断面から、緑の体液がどろりとあふれる。地面に落ちた三つの首は、濁った紅の瞳で虚空を見上げている。アルトはそのさまを呆然と見下ろした。
一体、何があったんだ? 彼自身にも、よく分からなかった。頭の中の声が言ったとおり、願った端から全てが魔法の杖の一振りで叶えられていくかのようであった。
「それは……守護騎士の力」
今にも途切れそうな声が、足下から聞こえてきた。我に返って下を見れば、己の血で染めた石畳に横たわるシルヴィの隻眼が見上げていた。彼女の視線は、翡翠の輝きを放つ魔法陣に釘付けであった。
「あなたが特別な存在だということは……どうも、間違っていないみたいね」
シルヴィの青い瞳は、新しい守護騎士の誕生を喜ぶばかりではなかった。