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作者: 鏡 みち

私はこの時間を何があっても忘れない。

彼の、あの手を。

痩せてしまった彼でも私は愛した。


でも、あの日の眩しいほどの空は

忘れ去りたいと思うのは矛盾だろうか。

見上げる空が、憎らしい。

どうして、そんなに眩しいのかと。

どうして、そんなにも清々しいのかと。

澄み切った空気さえも憎らしい。


彼の癌を私が、知ったのは夏の盛りだったのに今は木々も色づく紅葉の季節だ.

「若い人は、進行も早いから」

医師の言葉が、今も頭の中でリアルに繰り返される。

私は一人、喪服のまま空を見上げている。

彼の、実家の庭で。

私は、庭で綺麗に紅葉している楓の葉を庭石に足を乗せ一枚だけ取りそっと両手で挟んだ。出棺も終えた、彼の実家は今までの人の数が嘘の様に少なくなる。

彼の棺には、写真を一枚だけ入れてもらった。ペアリングを、買った時の写真だ。

二人とも、今よりも少しだけ若い。

彼の母は、その写真を見ると涙していた。だが何故だろうか、私は涙一つ出ないのだ。

感情が無いー、心が壊れたのか。

彼の死を知った瞬間から、何も感じないのだから。

遺影も、位牌も無くなった祭壇を見ると私は走るようにその場を去った。

受け入れることが出来るはずが無い。


「じゃまた、金曜の夜な。」

昨日の夜、最後の電話だった。最後の彼の声。深夜には又、パソコンからのメールで

「今日は、ごめんな。体調が悪くて」と。

几帳面な彼らしいと思った。

まさかこれが最後だなんて思わずに私は「行けるか分かんないよ」と、乱暴に返信した。

そのメールを、彼はどんな気持ちで見ただろうか。


翌日からは、日常に嫌でももどる。

朝起きて、出社する。そして、仕事をいつものように淡々とこなす。

パソコンに向かって、ひたすら入力作業をしていると人影に気づいた。

「三咲、ちょっと良いか?」

同期の、今井だった。その後ろには、ミチが立っている。

「何?」

私は、振り返り二人を見た。眼鏡越しに今井が眉を顰めた。

きりの良いところで手を止めて、休憩ルームに移動した。

「大丈夫ですか?三咲さん」

ミチが、心配そうに言う。

タバコを取り出しながら、私は言い返した。

「大丈夫も何も、時間は止まらないでしょ。なら、流れる時間と一緒に私も進まないと」

フゥー、とタバコを吹き出した。

私の言葉を聞いた後で、タバコに火を点けた今井がスーツの裏ポケットにライターを戻しながら私の顔を覗くように見た。

「やせ我慢にしか聞こえねぇぞ」

今井も、ミチも私の彼氏の事をよく知っている。会社は違うが、帰りによく四人で飲んでいた。

「今井さん、そんな言い方しなくても」

一年後輩のミチが、今井の言い方を責めた。

「良いのよ、ミチ。ねぇ、話しはそれなわけ?」

「それって、おまえな」

今井は、ますます眉を顰めた。

「三咲さん、飲みたい時はいつでも誘ってくださいね!」

突然、ミチが声を張り上げた。

「はっ?」

「良いんです。一人が嫌な時も有るでしょ。そんな時です。」

「まっ、いつでも誘えよ。だが、当日なら昼頃には連絡くれ。誘いは三咲からだけじゃ無いからな」

今井は、それだけ言うとタバコを消し私達に背を向けて休憩ルームから出て行った。

「今井さん、昨日から三咲さんの事を気にしていました」

今井が居なくなった休憩ルームは、やけに広く感じた。タバコの煙を吸い取る機械音が煩い。

「夜、何か連絡は有ったかって、私に電話してきたんですよ」

「それは、珍しいわね。あの、野暮天男が」

私は、思わず笑っていた。

ミチはしつこく、「いつでも誘ってください」と言いながら自分の席に着いた。

私は、それからも仕事を淡々とこなした。いつもと同じように時々、後輩に指示し上司に書類を渡し。

私の日常は、彼が居なくとも変わらない。そう、人一人居なくなっても世の中変わらないのだと感じた。

午後七時、社屋の明かりが消されフロアーに人の数が少なくなった。

残業をしている人の机の上だけに明かりが付いている。

ふとテンキーを叩く手が止まり、私は知らぬ間に自分が涙している事に気付いた。

急いで、給湯室に走った。

この時間、意外に休憩ルームに人は居るからだ。咄嗟に、そんな事を考える自分に驚いた。

自分の目から溢れる涙に、自分で驚き給湯室で明かりも点けず流し台を背に座り込んでいた。

既にハンカチはその役割が馳せない。

ハンカチを、硬く握り締めた手の甲で頬を拭う。

明かりも無い、人の声すら無いこの空間が今まで押し込んでいた気持ちを更に引き出してしまったのかもしれない。

ここに人が居ないのが救いだ。

私はそう思っていた。

ひたすら泣き、涙も止まった頃に今井が給湯室の入り口から顔を見せた。

「落ち着いたか?」

給湯室の入り口に背を預けたまま、顔だけを覗かせ入ろうともせずいつもの口調だ。

「まだ居たの?」

「休憩ルームで、帰る前の一服をしていたらお前が駆け込むのが見えた」

「そう」

お互い、まるで事務報告のような淡々とした会話だ。でも、これが私には救いかもしれない。

こんな時、下手な慰めや同情は逆効果だ。少なくても、今の私には。

「私も、そろそろ帰るわ」

「そうか。じゃ、案山子屋で一杯どう?」

案山子屋は、四人でよく行った飲み屋だ。

「案山子屋?」

私は、立ち上がり今井の前に立った。

「場所が悪いか?」

今井が、読み取れない表情で私を伺う。

「フッー」

私は、溜め息を付いた。

「いいわ。行きましょう。飲み屋なんて何処も同じよ」

はき捨てるように言い、私は机に戻り帰り支度を済ませた。

正直、あまり行きたくはない。でも、何かが私の背を押す。

逃げてはいけないと、目を逸らしてはいけないと。

それが、今の自分にとって良いのかは分からないが。

今井と二人だけで案山子屋に来るのは、始めてかもしれない。

カウンター席で、ビールを飲みながらふと思った

「二人だけって始めてよね」

「そうかもな」

素っ気無い返事が返ってくる。

ガヤガヤと煩い居酒屋の中、二人には無言の時間が流れ、それぞれが好き勝手に一品料理を頼んでいた。

私は箸を置いた。それを、見計らったように今井がポツリと言った。

「どんなに、看病した人でも後であぁしたかった、こうしてあげれば良かったって後悔なんかが残るもんだぞ」

そう言うと、ジョッキを置き私を見た。

「お前の、看病とか愛情が足らなかったわけじゃない」

「どして!」

私は、それだけ言うのが精一杯で上着を取ると席を立った。

後から、今井が席を立つ気配を感じながら。

辛かった。毎回、病室に行くたびに彼の顔を見るのが。

腹水で、浮腫む体。でも、少しずつ間違いなく痩せてゆく体。なんて、矛盾しているのだろう。

ある日、会社帰りに病院に行った私を彼の母がロビーで待っていた。

「いつも有難う」

「いいえ」

ロビーの椅子に座り、彼の母は言いにくそうに続けた。

「三咲さん。お願いが有るの」

「はい」

「六時を過ぎたら、遠慮してもらえるかしら。お見舞いは、明るい時間にお願いー」

そう言うと、ハンカチを目頭に当てた。

「気付かなくて、申し訳ありませんでした。こんな時間に、ご迷惑ですよね」

「違うのよ、三咲さん!」

当てていたハンカチを、握り締め顔を上げた。

「あの子、きっと病気のせいね。夜は、とても苦しむのよ。痛みが出るの」

「えっ?」

「あなたが、いる時はそんなふうには見せないのにね。強がっているのよ」

私は、思い出していた。額に汗を掻いていた彼を。

「熱があるの?」と、聞く私に彼は「あぁー」と返事をしていた。

あれは、痛みの為の脂汗だったのだ。

「あの子、最近は涙まで見せるの。お願い、きっとそんな姿を見せたくないと思うの」

私は何も言い返せなかった。

エレベータに向かう彼の母の背を、私は見送った。

病室に行くことが出来なかった。

彼の、苦しむ顔を痛みに耐える涙を見たくはなかった。

私は、逃げた。最低だ。


「はぁー」

私は案山子屋を出て、信号を渡り広い公園のモニュメントの前まで走っていた。息を整えていると直ぐに、今井が追いついて来た。

少し厳しい顔で立っている。

「三咲、見舞いに行った時あいつがペアリング外していた時あるか?」

「―、どうしてそんな事を聞くの?」

「いいから、あるか?」

今井の口調がきつくなる。

「無いと思うけど」

「思うけど、か」

今井は、そう言うと落ちた前髪をかき上げた。

「三人で、見舞いに行った時があったろ?」

「えぇ」

「お前たちが、部屋から出て二人になった時あいつ左手見せて笑ってた」

私は、じっと今井の次の言葉を待つ自分に少し寂しさを感じていた。

彼は、私には話せない事を今井には話していたんだと。

「この指輪、今の俺には大きすぎるんだよ。でも、三咲が来る日は引き出しから出して指輪をするようにしているんだって、そう言ってたぞ」

私の背後には、モニュメントが有る。それをライトアップしているから、私たち二人は互いの表情が良く見えていた。

今井は辛そうな表情をしている。この男にしては珍しい。

私はただ今井とのこの時間が、瞬間が何故か堪らなく怖かった。

私は、いったいどんな表情を今井に見せているのだろうか。

「お前だけが、気遣っていたわけじゃない。あいつも、三咲に気遣っていたんだ。お互いに、思いやっていたわけだぞ」

私は自分の、指輪を触った。

「そう、大きすぎたの?あの指輪が?きつくて抜けないって言っていたのに」

喉が痛くなる。噛み締める口元が我慢できずに震えている。

今井が、私の頭に優しく手をのせた。

そうしている間も、私達の横を帰宅途中なのか何人もの人が通り過ぎていた。

「もう、泣かせないでよ。せっかく、我慢してるのに」

嗚咽が漏れ始める。

今井の、溜め息が聞こえた。

「あいつ、本当にお前の事よく知っていたんだな」

「何よ?」

「俺が死んだ後、三咲は泣くことも出来ないできっと自分を責めているはずだってさ」

今井は、その後に続いていた言葉を言わなかった。

「俺のことは忘れてほしい」と、続いていた。今井は、言えなかった。

「何よ、死ぬ前に悟ってー。馬鹿じゃないの」

私は、既に溢れる涙を抑えられなかった。そんな私を、今井は突然抱きしめた。

「泣いてやれ」

「えっ?」

私は、抱きしめられた事とその言葉に思わず聞き返した。

「泣いた分、供養になる。思い出した分もな。でも、後悔して責めるなよ。あいつが、三咲を気にしてこの世に居座るぞ」

私は、今井の懐でクスッと笑った。

「何だ?」

泣きはらした顔を上げた。

「今井、せっかく感動する事を言ったのに、居座るはないわ」

「―、悪かったな」

額をコッンと、今井の胸に当てた。

「いいの、ありがとう」


 土曜日、ミチと今井が私の部屋に来た。ビールやおつまみ等を持参だ。

「何時まで居るつもり?その量―」

「いいだろ、じゃまするぞ」

今井がさっさっと、スリッパを履き入って行く。

「お邪魔します」

ミチも、にっこり笑って続いた。

私は二人を無視して、台所でコップを出していた。すると、二人の居る部屋から居るはずの無い人の声が聞こえてきた。

コップを持つ手が僅かに震え始めた。

準備もできたのに、部屋へ行くことができない。

響いてくる彼の声に足を止められている。

「三咲、来いよ。去年のクリスマスの時のを見ている」

今井が、私の準備したコップを運んで行った。

一人残された私は、暫くして大きく深呼吸をして部屋へ足を進めた。

テレビ画面には、笑う私達が映っている。涙腺が、我慢を忘れたのか直ぐに涙が溢れてきた。

ミチがそっと、ハンドタオルを差し出して来た。ミチまでが、涙目だ。

夜も遅くなると、ミチはすっかり出来上がりソファで寝てしまっている。

私と今井は、敷物の上にそのまま座り今は普通にテレビ番組を見ていた。

「ねぇ、彼のだけど」

画面を見据えたまま、私は気がかりだった事を今井へ聞こうとした。

「何?」

今井が、私の方に顔を向けた。

「指輪は、どうしたのか気になって」

私の問いに、逡巡したのか今井は無言で私を見ている。

「鎖になるから、渡すなと言われた」

妙に、早口に今井は言うと顔をテレビに戻し私の視線から逃げたようだった。

「鎖だなんて、そんなこと」

「あいつなりの、思いやりだろうな。お前、指輪持っていて次の恋愛ができるか?」

私が何も言えずにいると、今井はビールを一口飲んだ。

「仮にしたとして、指輪どうするよ?」

「それは、処分なんてー」

私は、言葉に詰まった。

「とても出来ないかも」

それ以上、今井は何も言わず黙っていた。

次の恋愛も、指輪の処分も今の私には考えられない。

私の左手には、まだ彼とのペアリングが当然のように光っているから。


 今井が言った言葉が本当ならば、私はこの日、随分と彼の供養をしただろう。

忘れることも、認めることにももう少し時間はかかる。

でも、病床に就いた彼を思い出し涙しそして自分を責めるなら、別に楽しかった頃を思い出し笑おうと思う。

 私の部屋には四人で撮った写真の隅に、あの日の楓が一緒に写真たてに納まっている。

今でも思い出す。

「どんなに、看病した人でも後であぁしたかった、こうしてあげれば良かったって後悔なんかが残るもんだぞ」

そう言った、今井の言葉。

こんなに助けられた言葉は無い。

でも、愛情はわからない。彼の私へ向ける愛情と、私が彼に向けた愛情。

どちらが、多かったのか。いつか、わかる日が来るだろうか。



             完


















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