見送る覚悟
死が老人だけに訪れると思うのは間違いだ。死は最初からそこにいる。
へルマン・ファイフェル
朝陽は休日になると朝から病院へ向かった。夕海はその度に申し訳なさそうな表情を浮かべていたが気を追うことなく来続けた。
「別に毎日来なくてもいいんだよ?」
廊下からバルコニーに向かう途中に夕海は俯き加減で朝陽を窺った。
「気を遣わせている?」
「ううん、全然。嬉しいけれどね」
そんな会話がもう何度も繰り返された。
以前は頻繁にクラスメイトが見舞いに来ていたが次第にその回数も減り、夕海の話し相手は限られていた。
「お姉ちゃん」
同じ病院で入院している最近仲良くなったという中学生の女の子が声をかけてきた。朝陽は夕海から話を聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
「あれ? 彼氏?」
「違うわよ、バカ」
即答されたことに朝陽はただ苦笑いをするしかなかった。
「残念だったね、朝陽さん」
「いや…… あれ? どうして俺の名前を知ってるの」
「だって、お姉ちゃんの話すことと言ったら朝陽さんのことばかりなんだもん」
そういうと夕海はわー、っと会話を遮り、女の子の口を押えた。
その様子を微笑ましく見つめていた朝陽だったが、女の子の頭の上の数字が気になって仕方がなかった。
病院に来るたびに多くの人の残り時間を見てしまう。そのことが辛く胸を打ち付けたが、どこかで慣れてしまっている自分がいた。仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせるとあの男の『キリがない』という言葉を思い出した。
彼はおそらく桁違いの数の命を看取ってきたのだろう。その事実は彼の人格、いや神格を形作るには十分だっただと感じた。
朝陽は一つ深いため息をつくと、じゃれ合いながらバルコニーに出て行く二人を見送った。バルコニーは入院患者の憩いの場で暇を持て余している人はそこで集まり会話を楽しんでいた。
「こんにちは」
後方から呼びかける声がして朝陽は振り返った。すると、そこには随分疲れ果てた顔をした女性が立っていた。
「あの子の母親です。初めまして、朝陽くんよね」
朝陽は会釈をすると、当たり前のように頭上に目をやった。女性のカウントは通常通りに減りつつも時折数字が増えていた。
朝陽は初めて見る光景に思わず凝視してしまった。
「ごめんなさいね、お化粧もせずに……」
女性は冗談めいて言うと、優しく微笑んだ。しかし、その目の下には隈があり、随分とやつれた顔をしていた。その姿はあの日の夕海の母親と同じもので、もっと長い時間その苦難を抱えてきたような雰囲気だった。
「あ、いえ、すみません」
朝陽は慌てて目を逸らすと、その目で女の子を見た。
「娘さん、病気なんですね」
「わかるの?」
「ええ、何となく」
言葉とは裏腹に確信しているような朝陽の眼差しに、女性は悲しそうに目を伏せた。
「私の病気が遺伝してしまってね。私は一週間前に手術で良くなったけれど、子供が発症するのは稀な病気らしくてね。娘の幼い体には負担が強くて……」
女性は朝陽と並び、女の子を見ていた。
自分が代われたらいいのにと夕海が入院してすぐに夕海の母親が言葉を溢したことがあった。この人との姿はいちいち夕海の母親と重なった。
「残される方がつらいですか?」
残酷な質問を朝陽は女性に投げかけた。母親の時は心の準備をすることができなかった。しかし、夕海は目の前で弱っていく様子を見ていかなければならない。それは自分の身が日に日に削られていくような苦痛だった。母親の判断は正しかったのではないか、そう思うこともしばしばあった。
女性は朝陽の質問の意図を考えた。目の先は自分の娘だけでなく、同じように入院している女の子がいた。
女性は察するように一度目を伏せた。
「そうね、確かにつらいわね。でも、幸せなのかもしれない」
「幸せ?」
「親は子供より先に死ぬのが普通じゃない? 最愛の子供がこの先幸せに暮らしていけるかわからないまま死ななければならない。でも、私は見送ることができる。送り出せることができる。もしかしたら、これは親として凄く幸せなのかもしれない」
そう自分に言い聞かせているというように穏やかに微笑んだ。
それは母の笑顔だった。子供の幸せを心から願う母親の表情だった。
「夕海ちゃんのこと好きなのね」
女性の不意を突いた言葉に朝陽は顔を赤らめた。その様子を見て女性はクスクス笑った。
「わかるんですか?」
「ええ、何となく」
朝陽は一つ息を吐くと、頭を掻いた。
二人のやり取りに気が付いた夕海はニッコリと笑顔を見せた。
「おばさん、朝陽、こっちで話そう」
夕海が手招きをすると、女性は朝陽の背中を押した。
「いきましょう」
落ち着いた口調で放たれたその言葉に別の意味を感じながら、はい、と頷くと、朝陽は一歩足を進めた。
(この笑顔をきちんと見送れるだろうか)
確実に減り続ける数字を見ながら、朝陽は夕海に笑顔を返した。
夏が過ぎ、病室から見える木々は色を変えた。
夕海の病状は相変わらずだったが、一度に大きな数字が動くこともなくなった。
「今度手術をすることになったの」
相変わらず二人はベッドの端に座り、外を眺めていた。
「それで良くなったりはしないんだけれど、少しは長く生きられるようになるかもって……」
「きっと成功するよ」
朝陽は夕海の手を握った。すると、夕海の手は震えていた。
「ねぇ…… 神様がいるなら、私の病気治してもらえないかな?」
夕海は冗談とも本気とも取れるような曖昧な表情で呟いた。しかし、その声は不安に押しつぶされるかのように震えていた。
朝陽は何も答えることができず、その横でギュッと唇をかんで涙を堪えた。自分は何て無力なんだろうか、大切な人の気が休まる言葉一つも浮かんでこない自分を責めていた。
「うそ、私は大丈夫」
そう笑顔を作る夕海の姿を見て、朝陽はついに涙を溢した。
「夕海……」
「うん?」
夕海が言うより早く朝陽は夕海を抱きしめた。
「好きだよ、夕海」
「……うん」
二人は互いの鼓動を感じながら、支え合うように寄り添った。
次の日から朝陽は神様を探し回った。しかし、ザルで水を汲むような作業は手がかりを掴むことさえできなかった。
手術当日、朝陽は夕海の両親とともに運ばれていく夕海を見送った。
両親が医師に挨拶へ行っている中で夕海は耳打ちするように顔を近づけた。
「私のカウントどれくらい?」
無理をして笑顔を作る夕海に対して、朝陽は静かに首を横に振った。
「まだ大丈夫。手術が終わったらきっと回復しているよ」
「そうしたら、教えてくれる?」
「ああ」
朝陽は夕海の頭を撫でた。夕海はえへへ、と笑うと、朝陽の胸に頭を預けた。
「いってくるね」
「うん、大丈夫」
朝陽は念を押すように夕海の頭をそのままポンポンと叩いた。
夕海が手術室へ運ばれて、朝陽と夕海の両親は特に会話をすることもなく祈る様に手を合わせていた。しかし、手術開始から一時間程度しか経たないうちに手術室の中が慌ただしくなっていた。一同は動揺し、立ち上がるとそれぞれを見まわした。
手術室のドアが開くと、担当の医師が出てきた。眉間に皺の寄ったその表情はこれから話される内容が良くないことを語っていた。
「夕海さんの病状が体の奥深くまで進行していました。事前検査では見つけられないところまで進んでいたので手術を断念しました」
「延命もできないということでしょうか?」
夕海の母親が目に涙を溜めながら尋ねると、医師は残念そうに頷いた。
「手術をする方が寿命を短くするような状態です。残念ですが、これから先は見守ることしかできません」
その言葉に夕海の母親は崩れ落ち、止め処なく涙を流した。
朝陽もまた涙を溜めていた。中の夕海の様子を確認したい、数字が減っていないか確認したいと入口を窺っていると背中に視線を感じた。
朝陽が振り返ると、窓しかなかった。気のせいかと思ったが、遠くにあるデパートを見つけ、すぐさま走り出した。
その存在はきっと高いところから街を見渡しているだろう。ここ数日何となく勝手なイメージを浮かべて探し続けていた。
朝陽は息を大きく切らせながら街で一番大きなデパートの屋上に到着した。
「随分と探していたみたいだね」
ずっとそこにいたのか、朝陽が向かっているからここに現れたのか、男は待ち構えたようにそこにいた。
朝陽の顔がいつになく強張っていた。男はなだめるように微笑みかけるとベンチに誘導した。
「それで何か用かな?」
「なぁ、神様…… 夕海の病気を治して貰えないかな?」
朝陽はすがるような表情で男を見た。しかし、男は表情一つ崩すことはなかった。それどころか、見飽きたと言わんばかりに深く息を吐いた。
「夕海という子はどの子かな?」
冷静に言うその言葉に朝陽は驚きと憤りを感じた。
「俺の幼馴染の女の子だよ。いつも一緒にいてくれる……」
説明する途中で男の顔を見て察した。彼は人を見ているのであって、個を見ているわけではなかった。
「君はあそこに飛ぶ鳥の名前を知っているかね? 親が与えた名前を知っているかな?」
「いや……」
確信的な質問に朝陽は途方に暮れた。男は少し困った顔で話を続けた。
「そうだろう。私も一緒だよ。正直なところ君の名前さえ私は知らない」
「……助けてくれないのか?」
「ああ、気の毒だとは思うがね。そんなことをしていてはキリがない」
感情のこもらない坦々とした言葉に朝陽の気持ちは深く沈んでいった。
「キリがないなんて言わないでくれ。あんたにとっては何億のうちの一人かもしれなけれど、俺にとっては掛け替えのない一人なんだ」
「何億分の一ではないよ。その他の動物、虫、植物、生命のあるものがどれだけいると思う? その中でその子だけを助ける理由があるのかな?」
男の言葉に打ちひしがれる様に朝陽はその場で膝をついた。
「一秒間に人は一人から二人は死んでいる。こうしている間にもどれだけの人の命が亡くなっていることか……」
「それでも俺にとっては唯一の……」
「それは他の人にとっても同じだよ。飢餓で子供が死ぬのを見守るしかできない母親が神に祈らないと思うかい?」
朝陽の頭には病院で知り合った親子の姿が思い浮かんだ。朝陽はそれ以上言葉を発することができずに、ただ下を向いていた。
話が一段落すると、男は退屈そうに立ち上がった。朝陽は俯いたままで男が姿を消すのを見送ることもなかった。
こんなものか、男は残念そうに呟いた気がしたがそれも実際に言ったかは定かではなかった。
しばらく朝陽は沈んでいく夕日を呆然と眺めていた。
「大切な人が死ぬのをただ見守ることしかできないなんて……」
朝陽は涙を流し、この能力を初めて疎ましく思った。
『朝陽といると死ぬのも怖くなくなるくらい穏やかな気持ちになれる』
不意に夕海の言葉が脳裏に浮かんだ。
「帰らないと……」
朝陽は覚束ない足取りで病院へ向かった。
部屋に着くと、日の暮れた部屋で電気もつけずにいる夕海の姿があった。
夕海は朝陽に顔を向けた。
「ねぇ、私のカウントどれくらい?」
真っ直ぐ朝陽の姿を見据えて夕海は尋ねた。
朝陽は夕海の頭上に目をやった。その数字は手術前と比べて一番大きい位の数字が一つ減っていた。
朝陽は絶望するように目を伏せた。その態度で察した夕海は何も言わずに窓の外を見つめた。
街は夜に染まり、電気の明かりが所々寂しく点っていた。




