第百九十九話 2人の演奏会
ここは、エルヴィント帝国北西にある貴族街の一画。
子爵家にしては大きな屋敷では、今まさに引越しの真っ最中だった。
「はぁ....」
盛大に溜息を吐いたのは、家令を勤めるセレスタン。
犬耳族特有の三角耳と尻尾は垂れ下がり、表情には疲労の色が濃くみえる。
「セレスタンさん、こちらにサインを」
「ああ、はい....」
引越し業者に羊皮紙を手渡され、セレスタンはそれにサインをする。
なぜ引越しをしなければならないのか。
それは、浅はかな当主のせい。
香月カオル伯爵との決闘が決まった、ヘルマン・ラ・フィン子爵は、全ての私財を投げうって屈強な冒険者を雇い入れた。
そのため、ヘルマンは自身の屋敷を立ち退かなければならない。
現在は、下級貴族が多く集まる、貴族街の西方の一画に居を移した。
子爵家にしては、みすぼらしい家。
もう、屋敷とはとても呼べないようなところ。
周囲は下級貴族の男爵や準男爵が住んでいるような、そんなところだ。
「では、お荷物を運ばせていただきます」
「わかりました。お願いします....」
ヘルマンの最後の家臣であるセレスタンは、荷物を運ぶ業者を見送る。
そして、住みなれた屋敷を見上げ、もう一度溜息を吐いた。
「はぁ....」
思えば、この屋敷に住んだのは、たった数ヶ月であった。
先代のアベラルド・ラ・フィン伯爵の醜行により、転がり落ちる様にフィン家は落ちぶれていった。
領地を失い、選帝侯からも外され、公爵から伯爵となり、いまや子爵の爵位すら怪しい。
このまま、フィン家が潰れていくのを、セレスタンはただ見ていなければいけないのか。
家臣はもう、セレスタン1人しかいない。
侍女のメイドも、料理をするコックも、給金が払えなくなり辞めていった。
いまや、セレスタンの給金すらも満足に払えないだろう。
それでも、セレスタンには辞める事はできない。
それは、先代のアベラルドが、事故で大怪我を負ったセレスタンを救ってくれたから。
大恩には報いなければならない。
それが、セレスタンという人物なのだ。
「あと11日.....」
セレスタンはボソリと呟いた。
それは、カオルとヘルマンの決闘まで残された日時。
だが、正直それまでもつのかわからない。
ヘルマンの呼び声に集まった、総勢30名弱の冒険者達の為に、なけなしのお金で貸し切っている宿屋。
フィン家にはもう、お金が無いのだ。
サインをしたものの、引越しの費用も払えるかわからない。
万が一踏み倒すような事になれば.....考えただけでも恐ろしいだろう。
(ヘルマン様、死なないかな.....)
とんでもない事が頭を過ぎる。
先代アベラルドに恩はあれど、ヘルマンにはまったくないのだ。
アベラルドの子供だからと言われても、とても尊敬できない主人に、セレスタンは辟易としていた。
せめて、フィン家の最後だけは見届けようと、セレスタンは思っている。
それが、亡きアベラルドへの、最後の恩返しなのだから。
(お腹空いたなぁ.....)
空腹で鳴るお腹。
空を見上げ、流れる雲に故郷を想い、楽しかった日々を想い出していた。
欠け行く月が、夜空にぼんやりと浮かぶ。
寝室で目覚めたカオルは、隣で眠る家族達にそっと口付けをして、宮殿の東部にある演奏室へと足を運んでいた。
そこには、エルミアから贈られた豪華なピアノが設置されている。
美しい木目に、大輪のバラが彫り込まれ、一目で高価だとわかる造形。
そして、奏でられる音色はとても格調高く、音楽に携わった事がある者ならば、たった一音だけで聞き惚れるだろう。
カオルは、『蜃気楼の丸薬』で大人の姿へと変身し、アイテム箱から適当に服を取り出しそれを羽織った。
エルフの里で久方ぶりにピアノに触れてから、カオルはピアノの素晴らしさを思い出していた。
それは、亡き両親への思い。
ピアノを弾く事が好きだった母親。
その母親が奏でる音楽を、父親も好きだった。
そして、物心を付く前から当然の様にカオルもピアノを弾かされていた。
カオルは好きだった。
ピアノを弾く母親に寄り添う父親。
2人の間に挟まれたカオル。
そのかけがえのない時間が、とても好きだった。
静かな音色が奏でられる。
カオルの指が鍵盤の上を奔り、奏でられた曲は、ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』。
カオルの父親が好み、母親が弾いて聴かせたあの難曲。
手の小さな子供のカオルには、弾けない曲である。
カオルも、この曲が好きだった。
第1楽章の哀愁漂う旋律から、第2楽章の軽やかな音色へと流れていく。
そして、第3楽章の爽快ともいえる疾走感。
幸せだった思い出が、この曲には込められている。
両親と過ごしたの時間が。
「ふぅ.....」
終曲と共に、息を吐く。
けれど、それはほんの一瞬。
カオルはすぐに曲を奏でた。
ショパンバラード第1番ト短調。
ショパンは、カオルの母親が愛した作曲家である。
バラード第1番ト短調は、ソナタ形式の変形で書かれた大曲で、ショパンのバラード4曲中、極めて人気の高い作品と言われる。
この曲が作成された当時、ショパンは激動の時代の中に身を置いていた。
1830年の11月。
ロシアからの支配を受ける事を危惧した、時のプロシア大王は、オーストリアと共にポーランド分割を提案する。
そして、都合5度にわたりポーランドは蜂起するのだが、その全てが失敗に終わり、長い年月をロシアの植民地として支配される事になる。
そんな時代背景の中作曲されたバラード第1番ト短調には、劇的な要素が多く、聴く者の心に強い印象を与えるもの。
カオルは、この曲が好きだった。
力強い意思が感じられ、勇気を貰えるようなそんな気さえしていた。
やがて、曲は終わる。
ピアノの詩人といわれた、ショパンの曲が。
「ん~っ」
大きく伸びをして、一息入れる。
そして、また弾こうと鍵盤に触れた時、不意に視線を感じた。
「ご主人!」
演奏室の扉を開き、メイドのアイナがカオルに駆け寄る。
扉を閉め忘れる程慌てている様子から、どうやら、ベットの上にカオルが居ない事に気付き、宮殿中を探していたようだ。
「アイナ、起きちゃったの?」
「ん!」
椅子に座るカオルに、ギュッと抱き付くアイナ。
カオルはアイナの頭を撫でて、笑い掛けた。
「ごめんね?ちょっと、ピアノが弾きたくなっちゃって....」
「ん!」
「いいよ」と言う代わりに、カオルの胸に顔を擦りつけるアイナ。
とても可愛らしい、いつもの仕草に、カオルはもう一度アイナの頭を撫でた。
「ご主人!」
「うん?」
「アイナもぴあの!」
ピアノを指差し「教えろ」と言うアイナ。
初めてピアノを見た時から興味があり、ずっとカオルにお願いしたかったのだ。
「アイナも弾いてみたいの?」
「ん!」
「それじゃぁ、きらきら星を弾いてみようか♪」
「ん!!」
アイナを膝の上に乗せて、カオルはピアノを弾かせた。
もちろん、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』の一節だけ。
歌いながら、一音一音丁寧に。
そして、アイナも歌った。
あざとく、拙い言葉で。
カオルは楽しかった。
あの日の母親が、自分にしてくれたように。
今度は、自分がアイナにそれをしてあげる。
楽しく笑い合い、歌って、見詰め合って、また笑う。
そんな時間が、とても嬉しかった。
「ご主人!つぎ!」
「う~ん....それじゃぁ、アイナにボクの左手の代わりをしてもらおうかな?」
「ん!!」
自身満々に答えるアイナ。
カオルは微笑んで、ヨハン・パッヘルベルの『カノン』を教えた。
右手はカオルがメロディーを。
左手はアイナがコードを。
協力して2人で弾く。
もちろん、初心者のアイナは何度も失敗した。
その度にカオルは手を止めて、お互いに笑い合った。
幸せな時間だった。
このまま時が止まればと、幼いアイナが思うほどに。
「ねぇ、アイナ?」
「なに?ご主人」
「ボクは今。とっても幸せだよ」
「ん!」
それは、アイナに言ったと同時に、今は亡き両親への言葉だった。
大好きな両親を失ってしまったけれど、カオルは今幸せだと。
そう、言葉に出した。
そんなピアノの音を、アーシェラとフロリアは聴いていた。
「良い音色ね」
「はい。お母様」
カオルに用意された客室で、アーシェラとフロリアは同じベットで横になっていた。
アーシェラが皇帝に即位し、フロリアが産まれたあの激動とも言える過去と同じ様に。
2人で寄り添い、手を繋いで。
「私はね。1人の男性としてではなく、1人の人間として、カオルが好きよ」
「はい」
「だから、いつか必ず、リアとカオルの子供を抱き締めたいと思ってるの。リアは、私のお願いを叶えてね?」
「わかっています。私もカオル様が好きです。1人の男性として」
「そう。お願いね.....」
「はい」
繋がれた手に、力が篭る。
それは、アーシェラのものなのか、フロリアのものなのかはわからない。
もしかしたら、2人のものなのかもしれない。
カオルへの、2人の想いは意味が違う。
それでも、好きには違いはない。
それを、お互いの手を通して感じ合った。
母娘の2人は、同じ気持ちだ。
『いつか、カオルの子供を』
たったそれだけの話し。
単純でいて、とても難しい、そんな話し。
「それにしても、誰が弾いているのかしら?」
「わかりません....エルミアでしょうか?」
「...そうね。エルフの王女だものね」
アーシェラとフロリアは知らない。
カオルがピアノを弾ける事を。
「....私も習っておくべきでしょうか?」
「そうね。でも、今から習い始めてもこんなに上手くなれるかしら?」
「....では、違うアプローチを考えます」
「そうしなさい。裁縫なんて良いかもしれないわ。
リアはヌイグルミが縫えるのだから、わからないところをカオルに聞けばいいわね。きっと、カオルの事だから、親切に教えてくれるわ」
「さすがお母様です♪」
「がんばりなさい。リアは、私の大切な娘なんだから。幸せになるのよ?」
「はい♪」
策士アーシェラ。
カオルの婚約者とは違う土俵で、カオルへのアプローチを考えていた。
この後。
フロリアが何度もカオルの下を訪れて、縫製の勉強を始めるのだが、それは後の話し。
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