第百八十九話 アナスタシアの勇気
香月伯爵領。
エルヴィント帝国の帝都から、馬に乗って1時間半ほどの距離に、その場所はある。
西側は海に面しており、領内には5つの魔境と3つのダンジョンを有している。
土地は広大であり、大きな河川が山から流れ、温暖な気候という事も相まって、実に過ごしやすい環境だ。
しかし、以前この地を治めていた貴族は、とても欲深で傲慢な者であった。
領民達に重税を課し、虐げ続けた。
そのために領民は他領に逃げ、誰も住む事ができなくなっていた。
そんな折に、希代の皇帝アーシェラ・ル・ネージュはその貴族を改易し、領地を没収した。
そして、新興貴族である香月伯爵にその領地を下賜し、今の香月伯爵領がある。
そんな香月伯爵領で、新たに開拓された街が存在する。
半径5キロ四方を厚く硬い堅固な外壁で取り囲み、海に面した一等地に豪奢な宮殿が建てられている。
街の唯一の出入り口近くには、大小様々な建物が連なり、所々にポツンと大きな岩の守護者『ゴーレム』が立ちはだかる。
その街の南部半分は拓けた農地であり、既に小さな芽が芽吹いていた。
「エリー!!カルア!!急いで!!」
「まって!!おねぇちゃんまだ髪が乾いてないの~!!」
「な、なんで私までーーー!?」
そんな素敵な街を、慌しく走る人影があった。
当主の香月カオルと、婚約者のカルアとエリーの3人である。
「早くしないと、アーシェラ様が来ちゃうんだって!!ファルフ!!行くよ!!」
「クワァ!!」
伝説の魔獣『グリフォン』の姿のファルフに乗って、カオル達3人は帝都へと向かった。
その理由は、遡るほど10分前。
いつもの時間に朝食を取っていたカオル達家族と、教皇アブリル他6人。
そこへ、カオルが持つ通信用魔導具に連絡があった。
「カオルかの?かねてより申し付けておった、領内視察じゃが、今日行くからの。準備しておくのじゃぞ?」
皇帝アーシェラからの通信。
しかも、こともあろうに当日とは、これいかに。
「え!?きょ、今日ですか!?」
「うむ、そうじゃ。昨夜言っておった聖騎士教会の教皇が来ておるのじゃろう?
ならば早い方が良いのじゃ。わらわも会った事が無いからの。楽しみじゃ♪
ではの?昼にはそちらに着くから、そのつもりでおるのじゃ」
「ちょ!!ちょっとアーシェラ様!?」
カオルが慌てて呼び掛けるも、通信は切れていた。
冷たい空気が流れる。
しかし、早く行動しなければいけない。
お昼と言えば12時だ。
今は8時前。
4時間しかない。
「ああっもう!!!ボクは、アーシェラ様が来るまでに準備します。
カルアとエリーはボクに着いてきて!!師匠とエルミアはアブリル達の相手をお願い。フラン!!アイナ!!昼食の用意をお願い!!」
「...わかった」
「まって!おねぇちゃんすぐ食べちゃうから!!」
「んぐっん!」
意訳:わかった
「はい。カオル様」
「ひゃ、ひゃい!」
「ん!」
「ああ!!人形君、みんなの手伝いをしてあげて!!」
「イエス、マイロード」
テキパキと家族に指示を送るカオル。
さすがは新興貴族家の当主だろう。
「教皇アブリル様、ファノメネル枢機卿、あと聖騎士さん達。
お聞きになった通り、12時にエルヴィント帝国の皇帝陛下が領内視察に参られます。それまでに、着替えだけは済ませておいてください。
ボクは、ちょっと出掛けて来ます。行くよ!カルア、エリー」
慌しく朝食を終え、カオルの後を追うカルアとエリー。
ファノメネルと聖騎士はポカンと口を開き、アブリルは料理を満足そうに頬張る。
その様子を、ヴァルカン達はヤレヤレと頭を振りながら見送った。
そして今。
魔獣サイズのファルフに乗ったカオルは、帝都南の入り口前へ降り立った。
「急ぐよ!!カルアとエリーはカイとメルを連れてきて、レジーナにはあとでボクから説明するから!!荷物が無理そうなら身1つでいいからね!!ボクはアーニャを連れてくる!!」
「ちょ、ちょっと!!なんでカイとメルを連れてくるのよ!!」
「いいから!!あとで全部説明するよ!!いいね!?」
「わ、わかった...」
「カルアも!!」
「うぅ....カオルちゃん、浮気しちゃダメよ?」
「しないよ!!2人とも、ボクの婚約者でしょ!!ボクが信じられないの!?」
「信じてるもん!!」
「わ、私も信じてるけど....」
「もう!!!」
カルアとエリーを抱き締め、カオルはチュッと口付ける。
耳元で「愛してる」と囁いて、2人を急かした。
「それじゃあとでね!!」
「もう♪カオルちゃんったら♪」
「ま、任せなさいよ!!」
たったこれだけでカオルに言い包められる2人は、本当にチョロイ。
いいのかそれで。
カルアとエリーと別れ、アナスタシアの家へとカオルは向かった。
昨日訪れたその場所は、何度見ても古びた家であった。
「アーニャ?いる~?」
1階の扉を叩き声を掛ける。
すると、中からゴソゴソと音が聞こえ、木製の車椅子に乗ったアナスタシアが現れた。
「香月伯爵様!!よかった...夢じゃなかった....」
安堵の表情を浮かべるアナスタシア。
左腕に嵌る腕輪をギュッと握り、カオルの顔を見上げた。
「あはは♪言ったでしょ?迎えに来るって」
「は、はい。だけど、香月伯爵様が帰られてから、アレは夢だったんじゃないかって....何度も腕輪を見て、夢じゃないって言い聞かせてたんですけど....」
悲しそうなアナスタシアを、カオルは優しく抱き締めた。
「もう一度言うよ。ボクは、アーニャが必要なんだ。だから、一緒に来て欲しい。ボクに力を貸してくれる?」
親愛の告白を、カオルはもう一度アナスタシアに告げた。
カオルが造る新しい街で、アナスタシアは縫製の教師をするのだ。
カオルが一目で気に入った、あの騎士服を作ったアナスタシアを、カオルは必要としている。
「はい!!香月伯爵様に、私の全てを捧げます!!」
アナスタシアは答えた。
昨日と同じ様に。
自らを捧げると。
「ありがとう♪嬉しいよ♪アーニャ♪」
「わ、私も....嬉しいです....」
見詰め合う2人。
カオルは、そっとアナスタシアの手に口付けた。
「ひゃう!?」
「これから、よろしくね?」
「は、はい....」
頬を染めるアナスタシア。
カオルは微笑んでみせた。
「それじゃ、荷造りをしようか。ここにある荷物は、全部持って行っていいんだよね?」
「そ、そうです。でも、いったいどうやって全部の荷物を?」
「見てて♪」
カオルはアイテム箱を取り出し、アナスタシアの荷物を全て魔法で浮かべる。
そして、次々にアイテム箱に仕舞っていった。
「す、すごいです.....」
アナスタシアは、あまりの光景に感動する。
それもそのはず、こんなことはカオルにしかできないのだから。
「ここの家って、借りてるの?」
「は、はい。ロラン叔父さんに....」
「え!?叔父さんって事は、アーニャのご両親の弟さんなんだ?」
「そ、そうです。お父さんの弟が、ロラン叔父さんです」
衝撃的な事実が判明した。
あの、衣料品店店主のロランが、アナスタシアの叔父であった。
あの、ラメル商会代表ジャンニと仲良く手を繋いでいた、あの、あのロランが、こんな可愛いアナスタシアの叔父とは。
「......ごめん。ボク、それ初耳だった」
「そうなのですか?私の事をロラン叔父さんに聞いたと言ってらっしゃったので、てっきり知ってるものと....」
カオルは心配になった。
なぜなら、ロランはジャンニと顔を近づけて.....
「うん。ロランさんの事は、ボクは忘れる事にするよ」
消し去った。
思い出してはいけない。
その闇は、とても深いのだから。
「えっと.....意味がよくわからなかったのですが....」
「なんでもないんだ♪アーニャはとても可愛いね♪」
有耶無耶にしたカオル。
それでいい。
あの闇に触れてはいけない。
「か、可愛いなんて、そんな.....」
カオルに篭絡済みのアナスタシア。
大丈夫だろうか?
婚約者が居るなんて知ったら、気絶しないだろうか?
「それじゃ、外に出ようか。そろそろ戻ってくるかもだし」
「は、はい?」
アナスタシアの車椅子を押して、カオルは合流場所の帝都南の外壁部へと向かった。
カオルが心配そうに声を掛けると、アナスタシアは楽しそうに声を弾ませて話した。
その姿は、とても足が不自由な人のものではなかった。
恋する乙女の様に、カオルの顔を覗き見て、モジモジと恥ずかしそうに俯く。
カオルは、なんと罪深い美少女なのだろうか。
いっそ、もげてしまったらどうだろうか。
「カオルちゃん♪」
カオルの姿を見つけ、カルアが駆け寄ってくる。
そこには、エリーの隣に、カイとメルの姿もあった。
「カイ!メル!急にごめんね!!」
「別にいいけどよ。突然で驚いたぜ」
「カイ....カオルは伯爵様なんだからね!!それに、雇って貰うご主人様に、なんて口を利くの!!」
姉さん女房メルにより、粛清されるカイ。
なんとも微笑ましい光景だ。
「あはは♪紹介するね。この子はアナスタシア。ボクの街で、縫製の教師をして貰うことになったんだ」
「は、初めまして。アナスタシアです....」
オドオドするアナスタシア。
初対面なのだから、緊張するのは当然だろう。
「初めまして、アナスタシアさん。私はメル。隣にいるのはカイよ」
「カイだ。よろしくな」
「よ、よろしくお願いします....」
「カイとメルは、婚約してるのよ」
「べ、別に、いちいち説明しなくてもいいだろうが!!」
「はぁ!?あんたの事説明しておかないと、メルが困るでしょうが!!」
「どう困るっていうんだよ!!」
「あんたが色目使った時に、メルにすぐ言ってもらうのよ!!」
「エリー....ありがとう.....」
「何言ってるの....私達、幼馴染でしょ...」
「エリー....」
ガシッと握手を交わすエリーとメル。
カイは空を見ていた。
遠く遠く空の彼方を。
「面白い人達でしょ?」
「はい、仲良くなれそうです」
「よかった♪それで、この猫耳が可愛いのが、ボクの婚約者のエリー。
それと、昨日会ってるけど、カルアもボクの婚約者さん」
カオルに名前を呼ばれ、自慢気に胸を反らせるエリー。
カルアは、そんなエリーの頭を撫でていた。
「2人は義姉妹なんだよ?とっても仲が良いんだ♪」
嬉しそうに話すカオルだが、アナスタシアは震えていた。
カオルが婚約していたなんて、まったく知らなかったのだから。
「え、エリー婚約したのか!?カオルと!?」
「そ、そうなの!?エリーすごいじゃないの!!夢が叶ったのね!?」
そして、もう2人。
カオルとエリー達が婚約した事を知らない者がいた。
カイとメルだ。
「そ、そうよ!!私はカオルと婚約したの!!いいでしょー?」
「もう♪エリーちゃんったら♪おねぇちゃんも、カオルちゃんと婚約したのよ♪」
楽しげな会話の中、アナスタシアが震えている事に、カオルは気付いた。
「アーニャ大丈夫?寒いの?」
アイテム箱からカーディガンを取り出し、アナスタシアの肩に掛ける。
アナスタシアは俯き、目に涙を浮かべていた。
「わた....しは.....」
か細い声。
笑い合うエリー達の前では、意識していなければ消えてしまいそうなほどに弱い声。
「わたし....は.....」
アナスタシアの弱々しい声が。
心からの叫びが。
「わたしは.....かおる...さまのもの.....です」
消え入りそうな声だった。
耳を傾けていたカオルでなければ、聞こえなかっただろう。
心の、声を。
だが、カオル以外にもう1人。
アナスタシアの声を聞いた者がいる。
それは、エリー。
冒険者として練磨を続けているエリーは、猫耳族という才能に驕る事なく必死に修練を続けていた。
だからこそ、アナスタシアのか細い声が聞こえた。
「アナスタシアだったわね!!」
カイ達の話しの途中で、エリーは車椅子に座るアナスタシアに近づいた。
慌ててエリーを見上げる。
エリーの顔は少し寂しそうで、だけど目には力宿っていた。
「あんた、カオルが好きなの?」
突き付けられる言葉のナイフ。
アナスタシアには、なんと答えていいのかわからない。
「どうなの?ちがうの?あんたの想いは、その程度のものなの?」
今のエリーは、どこか普段と違っていた。
まるで、自分に言い聞かせているようだ。
「わた....しは.....」
「え!?聞こえないわ!?」
エリーは、アナスタシアに何かを言わせようとしている。
この、足の不自由で小さな子供の様なホビットの少女に。
「私は!!」
「何よ!!」
「私は!!カオル様が好きです!!!!」
はっきりと聞こえた。
エリーにも、カルアにも、カイにも、メルにも、そして、カオルにも。
「ちゃんと言えるんじゃない」
エリーは、満足気に頷いた。
エリーは、言わせたかったのだ。
自分の気持ちを。
カオルに命を救われた時に、エリーは同じ気持ちだったのだ。
助けられて、救われて、恩を返したい。
しかし、いつの頃からかエリーはカオルを好きになっていた。
人生で始めての恋。
エリーは、それを成就してみせた。
それなら、アナスタシアにも.....震えるアナスタシアにもできるはずだと。
カオルの婚約者が増えるのは嫌でも、心優しいエリーに、アナスタシアを見過ごすことはできなかった。
なぜなら、エリーはずっと劣等感を抱えていたのだから。
「私もカオルが好きだった。ずっと.......ずっとね。今でも好き。うぅん、愛してる。カオルも愛してるって言ってくれた。だから....アナスタシアも、ずっとカオルを好きでいなさい。そしたらいつか....叶うかもしれないわ」
激励のつもり...なのだろうか。
エリーは、アナスタシアを気に入ったのだろう。
あの日の自分と同じ、今のアナスタシアを。
「....うん.....うん。私、カオル様が好き!!ずっと、ずっと好き!!」
「そうね!!でも、渡さないから!!」
「私だって、負けないから!!」
涙を流すアナスタシアと握手を交わすエリー。
好敵手として認めたのだろう。
カオルを好きな者同士。
そんな2人を、カオルは嬉しく思った。
「アーニャ。とっても嬉しいよ...」
「カオルさ.....香月伯爵様......」
「カオルでいいんだよ?」
「カオル...さま....」
「うん。アーニャはボクのもの」
「は、はい.....」
「待ってるから」
「え!?」
「ボクが、アーニャを好きになるようにしてくれるんでしょ?」
「そ、それって.....」
「アーニャの可愛いところ、いっぱい見せてね?」
「ひゃ、ひゃい!!」
「あはは♪」
カオルは、アナスタシアが愛おしく思えた。
一生懸命必死に言葉を紡いだアナスタシア。
震える身体。
動かない足。
車椅子に座る小さな存在が、本音を叫んだ瞬間大きく見えた。
アナスタシアは、きっと強い子だ。
カオルなんかと比べられない程に。
意思の強い子なのだろう。
「エリー?」
「なによ」
「愛してる」
「ば、ばっかじゃないの....」
カオルに告白されて、頬を染めるエリーは、いつものエリーだった。
そんなエリーを、義姉のカルアは誇らしく思えた。
「なんか、すげぇもん見たな....」
「う、うん....エリーもすごいけど、やっぱりカオルが一番凄いね....」
「ああ。俺じゃ、ぜってぇ言えねぇ....」
「カイがあんなことしたら、首締めて殺すけどね」
「えっ!?」
「....本気だから」
「わ、わかってるよ....」
「私、本気だから」
「お、おう....」
「......」
メルの目は、本気だった。
カイ。
がんばれ。
ホントがんばれ。
「じゃぁ行こうか。ファルフ!!!」
カオルは召喚魔法を唱えた。
魔獣『グリフォン』の姿のファルフを呼び出す。
ズズンと地面が大きく歪み、現れたのは体躯10mを越える存在。
カイも、メルも驚き、なぜかアナスタシアは喜んでいた。
そんなアナスタシア達を乗せて、ファルフは向かう。
香月伯爵領へと向けて。
領地視察と名目の下、皇帝アーシェラを迎える為に。
ご意見・ご感想をいただけると嬉しいです。




