第百六十四話 ディアーヌの涙
エルヴィント城の一室で、褐色の肌の女性が机に向かっていた。
積み上げられた本の山。
彼女はその1つを開き、呻っていた。
「ぐぬぬ.....」
本の内容は多岐に渡る。
人心掌握術から、行儀作法。
近隣各国の歴史に、習慣。
俗に言う帝王学を彼女は学んでいた。
無理矢理に。
「うがぁああああああああああーーーーーー!!!!!」
ついに癇癪を起こした。
やってられないとばかりに、読んでいた本を地面へ投げつけ、足早に部屋を出て行く。
彼女はもう限界だった。
エルヴィント城に来てから、約10日。
大好きなクッキーを食べられず、辟易としていた彼女。
彼女の名前は、ディアーヌ・ド・ファム。
アルバシュタイン公国の女王である。
「いい加減うんざりだわ!!!」
向かう先は皇帝の私室。
こんなバカげた勉強に、文句を言うために....
日が傾きかける頃。
カオルはフロリアと共に、アーシェラの私室へ戻っていた。
そこでは、ヴァルカン達が苦虫を噛み潰した様な顔をして、待っていた。
「.....カオル。帰ったらお説教だ」
まったく身に覚えのない理不尽な事を言われ、カオルは首を傾げた。
そこへ、アーシェラが話す。
「気にするでない、カオルよ。ヴァルカンは、これから忙しくなるのでな。八つ当たりしておるのじゃろう」
楽しそうなアーシェラ。
カルア達を見ると、ヴァルカンに同情的な視線を送っていた。
カオルは心配になった。
疲れ果てたヴァルカンの顔。
今まで、怒る事は多々あったが、八つ当たりなどされたことはない。
本当に心配で、涙が溢れてしまった。
「か、カオル!?何も泣かなくても....」
エリーが驚いて叫ぶ。
すると、ヴァルカンが大慌てで謝罪した。
「す、すまないカオル!!そんなつもりはなかったんだ!!た、ただカオルがフロリア様と一緒にいなくなってしまったのと、陛下から厄介事を頼まれてだな!!」
しどろもどろになりながら、ヴァルカンは説明した。
カオルの前で両手を突いて、見事な土下座を披露しながら。
「グスッ...厄介事...ですか?」
「そうだ!!カムーン王国から、王女ティル様が親善訪問されるんだが、その受け入れを私がしなくてはいけなくてな!!ほ、ほら、私は一応親善大使だろう?だから、その仕事だ!!だからな?な、泣き止んでおくれよぉぉぉぉ」
カオルに縋り付き懇願するヴァルカン。
師匠の威厳なんて、へったくれも無い。
「グスッ....グスッ....そうだったんですか....グスッ....八つ当たりなんてされた事無かったから....心配したんですよ?」
泣きべそを掻いたカオル。
歳相応に見えるその姿は、愛くるしくまた、情欲を誘うものだった。
ヴァルカンの、カルアの、エリーの、エルミアの、アーシェラの、フロリアの、そしてなぜかアゥストリの、7人の瞳が妖しく光った。
一様に(カオルを欲望の赴くままに蹂躙したい)と、そう思ってしまった。
「グスッ....それじゃぁ、師匠はしばらくの間、街造りに協力出来無いんですね?」
カオルは涙を拭いながら話しを続ける。
忙しくなり、(構ってもらえなくなるのでは...)と不安に思いながら。
「う....そ、そうだな。だ、だがあれだぞ?ティル様が来るまでの間だからな?その後は知らん!!誰が何と言おうと、私はカオルの傍に居るからな?絶対だ!!」
そう言いカオルを抱き締める。
カオルはヴァルカンに抱き付き、泣き続けた。
(......師匠は絶対って言ってくれた。少しの間だけ一緒に居られないけど、ボク.....我慢する)
カオルは寂しかった。
エルフの里へ行ってから、カオルはヴァルカンと1週間会えなかった。
フムスの地下迷宮で、ヴァルカンに会えなくて何度も泣いた。
その度に、ファルフが心配そうな瞳でカオルの手に乗り、慰めてくれた。
1人は辛い。
両親を亡くし、1年半もたった1人で居たカオルは、その事を身に沁みてわかっている。
「...グスッ....約束....ですよ?」
カオルはヴァルカンを見上げた。
ヴァルカンの胸の中で、瞳を潤ませて。
「あ、ああ。約束だ」
2人は約束した。
傍に居ると。
だが、場所が問題だった。
ここはアーシェラの私室であり、回りには大勢の人が居る。
ということはつまり.....
「ちょっとヴァルカン!!私のカオルから離れなさいよ!!」
「ヴァルカン....カオルちゃんを独り占めなんて、おねぇちゃんは許しませんよぉ~....」
「カオル様を抱き締めていいのは、王女である私だけです!!」
「わ、私もカオル様を抱き締めたいです」
「わらわも良いかの?」
「ご、ごほん。ここは、男同士友情をですね....」
口々にヴァルカンを叱責するカルア達。
ちゃっかりアーシェラも参加し、アゥストリは奥さんに言い付けるべきだと思います。
「な、なんだ!?こ、これは師弟の問題だぞ!!部外者は黙っていろ!!」
「部外者って何よ!!わ、私だって、カオルの妹弟子なんだからね!!」
「私は、カオルちゃんのおねぇちゃんだもの♪抱き締める権利があるのよ~?」
「私は、既に両親にカオル様を紹介しています。何も問題ありません」
家族達の迫力に負けたフロリア。
思わず押し黙り、アーシェラが慰める。
出しゃばらなかったアゥストリは、一先ず許しておこう。
何かあったら奥さんに言うがな!
口論に発展しそうな状態。
そこへ、扉を叩く音が聞こえた。
「陛下。近衛騎士団長のレオンハルトです」
厄介な人物がやってきた。
ヴァルカン達は、鬼の形相のまま扉を睨み付ける。
「うむ。入れ」
「....失礼します」
メイドが扉を開け、レオンハルトは恐る恐る室内へ歩み入る。
どうやら、ヴァルカン達の言い合いを聞いていたようだ。
「して、何の用じゃ?」
アーシェラはレオンハルトを急かした。
おそらく、この言い合いを早く終わらせたかったのだろう。
レオンハルトは、チラリとカオルを見やりアーシェラの前に跪いた。
「ハッ!!城内にて、迷っておられたので連れてまいりました」
レオンハルトがそう告げると、おずおずと室内にディアーヌが入ってきた。
どこか落ち着かない様子で、縋るような目つきでチラチラとカオルを見ている。
「ふむ。もしや、部屋を抜け出したのではあるまいな?」
アーシェラの眉が吊り上がる。
カオルはこの時、初めてアーシェラが怒っているのを見た気がした。
「いえ、あの....その.....」
しどろもどろになり、言葉も話せずディアーヌは怯えていた。
部屋を出た時の毒気はすっかり抜けて、何と言おうか迷っている。
そんなディアーヌの様子を不思議に思い、カオルが助け舟を出した。
「久しぶりだね、ディアーヌ。元気だった?」
アーシェラの質問に、ディアーヌは答えられなかった。
それならばと、カオルは自身へと話題を変える。
きっとアーシェラは怒らない。
カオルには甘いのだから。
「う...うぅ....かおるぅううううう!!!」
突然、ディアーヌは泣き始めた。
堰を切った様に、大粒の涙が頬を伝う。
ディアーヌは涙を拭う事も忘れ、その場にしゃがみ込んだ。
「でぃ、ディアーヌ!?」
カオルは慌ててヴァルカンから離れ、ディアーヌの前へ移動する。
泣き続けるディアーヌの涙をハンカチで拭う。
ディアーヌはカオルの手に指を絡め、ハンカチで顔を隠した。
「アーシェラ様!!ディアーヌに何かしたんですか!?」
カオルが怒った。
ディアーヌは、先の戦争で家族を失い、孤独である。
そんな傷心のディアーヌに、(アーシェラは何かしたのではないか?)
そう思ったのだ。
「し、知らぬ!!わらわは、女王としての教育をしただけじゃぞ!?カオルも知っておるじゃろう!?」
確かに、カオルはアーシェラから聞いて知っている。
晩餐会の時にディアーヌの近況を聞いているのだから。
ならば、なぜディアーヌは泣き出したのか?
寂しかったからではないか?
たった1人でアルバシュタイン公国を復興させるために、エルヴィント帝国までやって来たのだ。
寂しくなるに違いない。
「ごめんね、ディアーヌ。寂しかったでしょ?ボクが傍に居てあげるから....だから泣かないで?」
慈悲深きカオル神が、またも降臨した。
ディアーヌを抱き締めて、共に咽び泣く。
「寂しかったよね。悲しかったよね。ボクにもわかるから....」と、涙声でディアーヌに語る。
カオルは知っている。
1人の辛さを。
「カオル......うわ~~ん!!!」
泣きながら抱き合う2人。
メロドラマの様なワンシーンがそこにある。
ヴァルカン達は、ただただ呆れていた。
「ボクが傍に居てあげる」というフレーズに、カチンときながら。
アーシェラの自室を辞した後、カオルは無理を言ってディアーヌを自宅へ招いた。
あのまま放って置くことなど、カオルには出来無い。
「しばらくの間だけ」という条件付で、アーシェラは認めた。
「ほら、ディアーヌ。ボクの隣に座って」
夕日が地平線へと姿を隠した頃。
夕食を食べる為に食堂へ集まったカオル達。
メイドのフランチェスカとアイナにディアーヌを紹介し、席に着こうとした時。
カオルが指定したのは、いつもヴァルカンが座っている席。
ディアーヌはカオルに従いそこへ座る。
反対側は、既に指定席となったアイナが座っていた。
(か、カオルきゅん.....)
ヴァルカンは、寂しそうにカオルを見詰める。
カオルは気付いていたが(今回は...)と、ヴァルカンに目配せをした。
「それじゃ、いただこうか」
カオルの挨拶で夕食は始まる。
いつもの様に、楽しい団欒が。
「ディアーヌ、どうかな?フランとアイナの料理は、とっても美味しいんだ♪」
得意げにカオルは話す。
家事の得意なメイドの2人を、我が事の様に自慢げに。
フランチェスカは照れていた。
カオルに褒められて恥ずかしくて。
(ご主人様に仕えられてよかった)と思いながら。
アイナはどや顔をしていたが。
「凄く美味しい....」
ディアーヌは、また涙を浮かべていた。
エルヴィント城では待遇も良く、毎日豪華な料理を出してくれた。
それでも、どこか味気無かった。
1人の食事には慣れているつもりだった。
でも、カオル達と出会い、一緒に食卓を囲む幸せを想い出してしまってからは、辛くなった。
幸せだった過去。
両親が健在だった頃、あの古城には笑顔が溢れていた。
ダークエルフとして生まれてしまった私を、両親は忌み子とは、けして言わなかった。
物心付くまでは兄もそうであった。
しかし、両親の死後、お兄様は変わってしまった。
豹変したのだ。
新たな城を築城し、大切な想い出の詰まった古城を捨てた。
それからは、ダークエルフである私を、あの古城に閉じ込めた。
私はそれで良いと思った。
お父様の後を継ぎ、大公となったお兄様の傍に、ダークエルフの私が居てはいけない。
私はこのまま消える。
忘れられた、あの古城の隠し部屋で。
一生を終えると思っていた。
でも、そうはならなかった。
突然現れたカオルが、私を連れ出してくれた。
薄暗い隠し部屋から、私を外へと誘ってくれた。
正直、呆れていた。
いっぱい酷い事を言った私を、ダークエルフである私を、カオルは忌み嫌う事無く接してくれた。
私も嫌じゃなかった。
小さなカオルの手は、とても暖かくて、どこか安心するものだった。
その時から、生まれて始めての恋をしたんだと思う。
胸が高鳴って、呼吸が苦しくて、カオルの事を考えると心が落ち着かない。
カオルが男だってわかって、私は興奮した。
もしかしたら、神様が不幸な私を不憫に思って、カオルと出会わせてくれたんじゃないかって。
そう思った。
ライバルは多いけど、私は負けない。
お父様の様な立派な大公になって、カオルに求婚するの。
だって、気落ちした私を心配してくれて、こんなに美味しい料理を振舞ってくれるんだもの。
きっとカオルだって、私に好意を寄せてくれているはず。
だから、頑張る。
でも....今だけは.....甘えさせて。
泣き出してしまったディアーヌの手に、カオルはそっと自分の手を乗せる。
カオルの頼りない小さな手は、なぜか安心するものだった。
「ディアーヌ。泣くほど美味しかったの?」
空気の読めないカオルは、ディアーヌの涙を歓喜の涙と勘違いした。
確かに、フランチェスカとアイナの料理は美味しい。
泣くほどではないと思うが。
(うぅ....カオルのばか....)
ディアーヌは暗く沈む。
乙女心を理解しないカオルを残念に思いながら。
「ご主人。これ食べる」
そこへ、小さな策士が割って入った。
アイナは、わざと大皿に盛られたムニエルを指差し、カオルに取り分けて貰おうと企んだのだ。
「えっと、アイナが食べるの?」
「うん」
「いいよ。ちょっとまってね」
思惑通りに事が運んだアイナ。
口端を吊り上げ、不敵な笑みを零した。
その姿を、ヴァルカン達は見逃さなかった。
((((この子....できる!!))))
そう思ったのは言うまでも無い。
(あ、アイナ....ご主人様の家族の前でそれは.....)
最近、アイナに女として負けているフランチェスカ。
アイナの心配をしつつ、(いつか自分もやってみよう)と心に誓った。
「はい。これくらいでいい?もっと食べる?」
「だいじょぶ。ありがと。ご主人」
「どういたしまして♪アイナは、ちゃんと勉強しているみたいだね♪言葉を覚えてくれて、ボクも嬉しいよ♪」
何も知らないカオルは、すくすくと育つアイナの成長が幸せだろう。
全てを知るフランチェスカは、戦々恐々としていたが。
カオルの手が離れ、ディアーヌは温もりを失った。
寂しそうにカオルを見詰めるが、アイナのお世話を甲斐甲斐しくするその姿に、怒りを覚えた。
(....この子はいつか強敵になる)
幼いアイナをジッと見据え、将来に一抹の不安を覚える。
夕食は続く。
事態を理解せず、能天気なカオルを中心として。
ヴァルカン達は必死にアイナを真似た。
(私も、カオルの手ずから料理を取り分けて貰おう)と。
何度もカオルに懇願して。
和気藹々とした家族の団欒は、丸い月が出ても終わらなかった。
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