中編
――太陽の下で見る彼女はどれほど美しいことだろう。
暖かな日差しの下を彼女とゆっくりと歩くのが、男の幾つかある望みの一つだった。男の想像していた通り、いや、それ以上に明るい中で見る彼女は美しかった。金糸混じりの燃えるような紅い髪と金の瞳をした彼女は神話の女神よりも輝いている。
ただ、男の想像と違うところがあるとすれば、それは彼女の隣を歩く人間が自分ではないところだろう。
「…………っ」
男の目の前を一組の男女が親しげに腕を組み通り過ぎて行く。皇帝・アシュリー・カルヴァートとその寵妃・ラヴィニア・ノットだ。今、この城内で最も話題を集めている二人は、他人の視線など気にならないとでもいうように仲睦まじく微笑み合っている。
「まったく、イーノスも余計なことをしてくれたものだ。あのような女に相手をさせれば、初心な陛下が夢中になるのは誰にでも想像がつくだろうに」
男と同じように二人を見ていたらしい伯爵が忌々しげに呟いた。なんとか自分の娘を皇帝の妃にしようと手を尽くしていた彼からすれば、今の状況は全く以て面白くないことだろう。
「……あのような?」
伯爵の口調にラヴィニアへの侮蔑の色を感じ、男は微かに眉を寄せて聞き返した。しかし、当の伯爵は男の表情の変化に気づかなかったのか、吐き捨てるように言葉を続ける。
「ええ。アシュクロフト侯はご存じないでしょうが、あの女は汚らわしい娼婦なのですよ」
「…………」
「陛下はずいぶん入れ込んでいるようですが……まさか、正妃にしたいなどとは言い出さんでしょうな。あんな女が城にいること自体腹立たしいというのに」
「…………」
「ふんっ、確かに多少見目が良いのは認めますが。所詮、娼婦ですよ。なんの教養もない礼儀知らずでしょう。あの品のない身体で一体何人の男を……」
「ハドリー・フォーガス」
それまで黙って話を聞いていた男から突然温度のない声で名前を呼ばれ、伯爵はびくりと身体を震わせた。そろそろと男の方へ顔を向け、伯爵は蛇に睨まれた蛙の如く硬直する。男の表情は常と同じくなんの感情も浮かべてはいなかったが、伯爵に向ける視線は今まで見たことがないほど冷ややかなものだった。
「二度と私の前に姿を見せないで頂きたい」
「……っ」
「ああ、私の領地への滞在もご遠慮願えますかね。貴方と同じ空気を吸っている……というのは辛いのでね」
男は皮肉気に口元を歪めて見せる。
この帝都・ロザの管理を任されている男の不興を買った伯爵は、その場に崩れ落ちるように蹲り必死に謝罪の言葉を繰り返すが、男はそんな彼を一瞥することすらなかった。
(……ラヴィニア)
男は皇帝の横で微笑む愛しい“華”だけをじっと見つめていた。
◇◇◇
シンプルだが品の良い調度で整えられた皇帝の私室が、最近少し華やかになったと噂になっている。それには、部屋に飾られるようになった花やどこか女性らしい雰囲気の小物、繊細なレースをあしらった寝具など幾つもの要因があるだろうが、一番の理由は一人の女の存在だった。
ラヴィニア・ノット。
金糸混じりの燃えるような紅い髪と金の瞳の肉感的な美女は“夜の華”と謳われる高級娼婦にして、今まで妻はおろか愛妾さえ持たなかった皇帝にできた初めての寵妃。
初めは誰もが彼女の娼婦という仕事を聞き、嫌悪や侮蔑といった感情を露にするが、すぐに彼女自身の美しさに目を奪われた。
どんな宝石であろうと、ラヴィニアの前ではその輝きも霞む。
それが、ラヴィニアという女だった。
「どう? この作戦、案外悪くなかったでしょう?」
皇帝の私室で我が物顔で寛ぐのは、現在城中の注目を一身に集めるラヴィニアだ。その言葉に、数日前自分が押し倒された長椅子を居心地悪げに眺めていたアシュリーは、自らの協力者に感謝の言葉を伝える。
「ラヴィ。……ありがとう」
「どういたしまして」
「貴女には本当に感謝しているんだ。だから、その……あのときは貴女の仕事を貶めるようなことを言ってしまって……」
「別に気にしてないわ。言われ慣れてるしね」
「…………」
「どうして、アナタが辛そうな顔するのよ」
悲しげな顔で目を伏せるアシュリーに、ラヴィニアは内心溜め息を吐く。
(うーん。これは、懐かれたわね)
まあ、彼女の今までの境遇を考えると仕方のないことかもしれないが。
身近に心を許せる相手のいなかったアシュリーにとっては、秘密を知り協力者となったラヴィニアは初めてできた友人であり、頼れる姉のような存在なのだろう。
「ねえ、アシュリー。アナタはこれからどうするつもりなの?」
「……どう、とは?」
「だって、ずっと男のフリをし続ける訳にはいかないじゃない。今は私が寵妃ってことになってるから良いけど、この先世継ぎだって必要でしょう?」
「世継ぎは……叔父上の、オースティン公の一族から選ぶつもりだ。あそこの家は皇家の血が濃いから反対もあまり出ないだろうし」
庶民の母を持つアシュリーには明確な後ろ盾となる存在がいない。それは彼女の地位を酷く危ういものにしていた。
今の帝国は大きく分けて、アシュリーを傀儡として権力を手に入れたいと願う一派と前皇帝の弟であるオースティン公爵について甘い汁を啜りたいと願う一派がいる。オースティン公爵自身は争いを嫌う温厚な人物なので、アシュリーが直接危険な目に遭う可能性は高くない。しかし、どこの世界にも馬鹿な過激派というのは存在するのだ。
(でも、アシュリーはたぶん中継ぎの皇帝だわ)
本人は気づいていないようだが、ここ数日彼女と一緒に城を歩き回ったラヴィニアは彼女の周囲の思惑に気づいていた。
アシュリーは次の皇帝が決まるまでの一時的な皇帝だ。
仮にも前皇帝の一人息子――本当は娘だが――を何の理由もなく廃嫡することはできない。そこで、帝位に就くことを断り続けているオースティン公爵を説得する間の中継ぎとしてアシュリーを立てたのだ。
ただ、オースティン公爵派にとって誤算だったのはアシュリーが優秀な皇帝であったことだろう。
(このままアシュリーが皇帝を続けるのは色んな意味で大変なのよね)
アシュリーが女であると公爵派が知れば、挙って彼女の退位を要求してくるはずだ。何せ、現在の帝国の法では女は帝位に就くことができないのだから。
しかし、だからといってアシュリー派に知られるのもマズい。下手に弱みを見せれば、それに付け込み皇帝の権力を我が物にしようと脅してくることは確実だ。
(自分で提案しといてなんだけど……この作戦って、一時凌ぎなのよね)
ラヴィニアが考えた作戦は実に簡単なものだ。女であるとバレないように寵妃を持つこと、たったそれだけである。
性別を偽っているが故に、アシュリーは妃を持つことができない。
そして、そんな事情を知らない周囲の人間は彼女のもとに刺客を送り込むことに余念がなかった。これではいつアシュリーの秘密がバレてもおかしくない。
そこで、“皇帝に夜の手解きをして欲しい”と頼まれやって来たラヴィニアがそのままアシュリーの寵愛を受けるという筋書きを考えたのだ。
では、なぜラヴィニアがアシュリーに協力することになったかというと――。
話は数日前に遡る。
◇◇◇
――アナタ、女なの?
そう問い掛けたラヴィニアに、アシュリーはただ唇を噛み締めるだけで何も答えない。先程までの抵抗が嘘のように大人しくなった彼女の上から退いたラヴィニアは、周りを見回し部屋の隅に用意されたティーセットを見つけると勝手にお茶の支度を始めた。
「……何をしてるんだ?」
「何って、お茶の支度よ。今のアナタに必要なのは温かくて美味しいお茶でしょう? こう見えてもお茶を淹れるの上手いのよ、私」
「…………」
「お茶が入ったら、アナタの事情を聞かせて欲しいわ。尤も、ただの好奇心からの質問だから、別に話したくなければ話さなくても良いけど」
手早く淹れたお茶をテーブルに置き、アシュリーの方を窺うと、彼女はどこか途方に暮れたような顔でラヴィニアを見つめていた。
アシュリーの父親である前皇帝・ジェロームは恋に生きる男だった。その妻・エミリアも。
ジェロームがお忍びで出掛けた先で出会った二人はお互いに一目で恋に落ちた。そして、ジェロームは酒場の娘でしかなかった庶民のエミリアを、周りの反対を押し切って召し上げた。……他に一切の妃を持つことを拒否して。
二人の婚姻の条件は、エミリアが男児を産むこと。それができなければ他の妃を持つようにと家臣に迫られ、ジェロームは渋々承諾した。
しかし、二人の間にできたのは女の子だった。しかも、エミリアはそのときに体調を崩し、子どもの作れない身体となった。
このままでは、他の女と結婚させられる。
そう考えたジェロームは、生まれた子を男として育てることを決める。娘の将来を一顧だにすることなく、自分達の愛を取ったのだ。
愛しい妻と自分が幸せに生きるために。
アシュリーの話を聞き終えたラヴィニアは、正直何を言ったら良いのか分からなかった。
(……ご愁傷様? まあ、馬鹿な親を持つと苦労するわね)
アシュリーにも、彼女なりの辛い思いがあるのだろうし、性別を偽って過ごさねばならない状況は不幸かもしれない。秘密を知る両親が死に、協力者一人もいない現状では、心休まることもないだろう。
しかし、ラヴィニアはもっと酷い境遇の子どもを知っている。……焼きつくような飢えも、凍えるような寒さも、狂いそうになるほどの孤独も。
「ねえ、陛下。アナタが不幸なのはアナタが不幸に甘んじているからよ」
「…………」
「自ら状況を打破しようとしなければ、現状は変わらないと思うわ」
普段のラヴィニアなら、こんな説教染みたことは言わなかっただろう。適当に相手にとって心地良い言葉を口にして、その場を収めたはずだ。
(でも、私達の国を治める皇帝がこんな可哀想ぶったお子様じゃ困るのよ)
帝国は平和だ。
それでも、ラヴィニアの知る不幸な子どもは決して減ってはいないのだから。
「……私は、あんな親を持ったことを不幸だとは思っているが、今の状況を不幸だとは思っていない」
娼婦ではない、ただの一帝国民としてラヴィニアは自らの皇帝を見つめる。
はっきりとした口調で言葉を紡ぐアシュリーからは嘘や強がりを言っているような雰囲気は感じられなかった。
「私の父、ジェロームは暗愚な皇帝だった。あの男が帝位に就いたことで少なくない数の民が苦しむことになったはずだ」
暗愚というのは少々言い過ぎかもしれない。ただ、前皇帝は良くも悪くも何もしない君主だったことは確かだ。
嫌悪に歪むアシュリーの顔を見るに、彼は父親としてだけでなく、皇帝としても娘から認められていないらしい。
「だが、あの男が私を男と偽ってくれたおかげで、私は女の身でありながら帝位に就くことができた」
「皇帝になりたかったの?」
「……ああ」
民はこんな偽りの皇帝など望んでいないかもしれないが――。
そう言ったアシュリーを見て、ラヴィニアは何となく悟った。
両親に女であることを望まれなかった彼女は、誰かから必要とされたいのだろう。彼女にとっては望まれることは、愛されることと同義なのだ。
「私は皇帝が女だって気にならないわ。それよりも日々の生活が楽になることの方が余程重要だもの」
お世辞ではない。
日々を生きることに精一杯の民の本音だ。
まあ、高級娼婦としてすでにそこらの貴族よりも多くのお金を貯め込んでいるラヴィニアにとっては、それは過去の感覚に過ぎないが。
「私が皇帝でも、民は許してくれるだろうか……」
「まあ、騙されたって怒る人もいるかもね」
「……っ」
「でも、ほとんどの人にとっては皇帝の性別なんて関係ないと思うわよ」
第一、人生で皇帝を直接目にする機会がある民の方が圧倒的に少ないのだ。皇帝などという雲の上の人物が男か女かなんて普通は考えたこともないだろう。
(それに……要はバレなければ良いんじゃない)
そして、ラヴィニアにはアシュリーの秘密を守るための考えがある。
(どうしようかしら?)
悩んだのは一瞬だった。
どうやらラヴィニアは自分で思う以上に、このどこか痛々しい頑張り屋の皇帝を気に入っていたようだ。
「ねえ、私に一つ提案があるんだけど……」
こうして、ラヴィニアは皇帝のただ一人の寵妃となった。