前編
本当は短編であげようと思ったんですが、全部で一万五千字を越えた時点で連載で投稿することに決めました。
なるべく話の流れを壊さないように分けましたが、本来は短編として書いた作品なので一気読み推奨です。
では、少しでも皆様の娯楽となることを祈って――。
本編をどうぞ。
寝台からゆっくりと降りる美しい背中を見つめながら、男は幾分緊張気味に口を開いた。尤も、常と変らぬ無表情の男からそれを読み取れる人間は少ないだろうが。
「……いつまで、こんな仕事を続けるつもりだね?」
聞きようによっては侮辱とも取れる言葉に、声を掛けられた女は小さく眉根を寄せて振り返った。薄暗い部屋の中、彼女の金の瞳が猫のようにキラリと光る。
「私の仕事が気に入らないなら、もう来て頂かなくても結構よ」
「……っ、ち、違う! そういう意味では……」
その冷ややかな声に男は焦ったように否定の言葉を口にするが、仕事のときには“相手に否を言わせない”とまで言われる弁舌は彼女を前にすると全く役に立たなくなってしまうらしく、まともな台詞が出て来ない。
無表情でダラダラと冷汗を流す男を暫しの間見つめてから、彼女は小さく息を吐いた。
そんな彼女の様子に動揺した男はさらに失言を重ねる。
「君ももう若いとは言えないだろう。だから、そろそろ仕事を辞めたらどうかね」
「…………」
「いつまでも続けられる仕事でもない。君が望むのなら、私の邸に部屋を用意することもできる」
要は彼女を身請けしたいという話なのだが、男の口は本人の意思を無視するかのように皮肉気な口調で言葉を紡いでいく。
無言で男の話を聞く彼女から怒っているような雰囲気は感じられない。
薄闇の中、一糸纏わぬ裸体を惜しげなく晒しその場に佇む彼女は美の化身のように美しいが、その内面は男以上に読めないものだった。
「……それで、旦那様が私を身請けしてくださると?」
彼女の方から話の核心を口にしてもらえ、男は情けなくもホッとする。ちなみに“旦那様”というのは客である男の便宜上の呼び名だ。
「何か不都合でもあるのかね? 私以上に条件の良い男はいないと思うが」
「いいえ。旦那様から愛を注がれる生活は、さぞ幸せで温かなものでしょうね」
優しげに微笑む彼女に幾分心が軽くなる。……彼女が男に見せる表情はほとんど演技なのだとしても。
――どの客からの身請け話も全てその場で断ってきた彼女から“少し考えさせて”と言われ、柄にもなく浮かれて帰った自分を男が呪いたくなるのはこの翌日のことだった。
◇◇◇
仕事柄変わった要求をされることは多々あるラヴィニア・ノットにとっても、その申し出は想定外のものだった。
――皇帝陛下に夜の手解きをして欲しい。
いくらラヴィニアが帝国一高い女だとしても、一介の娼婦に皇帝の相手をさせようなどと考える者はいない。
そんな、昼間なら口に出すだけで白い目を向けられそうなお願いをしに来たのは、色事には縁の薄そうな八の字眉の困り顔の男だった。初めに名乗ったイーノス・バーンズというのが本名であるならば、この気弱な雰囲気が滲み出ている彼は皇帝の側近のはずである。
「とっても面白そうなお願いだけど、どうして私に?」
「貴女が帝国一と名高い……そ、その……」
本人を前に“娼婦”とは言い難いのか、イーノスはもごもごと不明瞭な呟きを繰り返している。耳まで赤くなった顔を見るに、ただ恥ずかしいだけかもしれない。
ラヴィニアとしては、このままこの純情そうな男をイジめてみてもよかったのだが、先程の話の続きも気になるため、助け舟を出してやることにした。
「皇帝陛下の有能な側近であるイーノス様に帝国一と言って頂けるなんて、娼婦冥利に尽きるわね。でも、陛下には後宮がおありでしょう? 専属の者を手配すれば良いのではないの?」
ここでいう“専属の者”とは、後宮で管理されている性奴のことだ。普通の娼館では拒否されるような行為も受け入れ、一切の人権を持たない彼女達はまさに皇帝のための性具である。
複数の男と関係を持つ娼婦と皇帝のみを相手にする性奴、どちらがマシかは判断の難しいところだ。
「そ、それが……その、後宮は現在全く機能していませんので」
「あら、病でも流行ったの?」
「そのようなことはないのですが……」
イーノスは溜め息混じりに語ったのは、なんとも面倒臭そうなお子様の話だった。
二年前に前皇帝が亡くなり、その一人息子であるアシュリー・カルヴァートが19という若さで皇帝位に就いた。生来真面目で努力家だった彼は、特に大きな問題を起こすことなく順調に政をこなしていったらしい。実際、清廉な皇帝として市民からの支持も高い。
しかし、そんなアシュリーにも一つ欠点があった。
――女嫌い。
といっても、全ての女性が嫌いな訳でも、男色家な訳でもない。より正確にいうなら、恋愛(性行為含む)嫌悪症だろう。
アシュリーは皇帝に即位してすぐに後宮を解体し、専属の性奴達に手を付けることなく暇を出している。そして、彼には妻はおろか婚約者すらいない。
つまり……皇帝アシュリー・カルヴァートは21歳にして未だ清童なのである。
◇◇◇
イーノスに連れられ城を訪れたラヴィニアを出迎えたのは、皇帝の怒声だった。
「ふざけるなっ!!!」
「し、しかし、陛下……」
「誰がこんなくだらない気を回せと言った!」
どうやら当事者であるアシュリーに了解を得ていなかったようで、先程から彼の私室の入り口で押し問答が繰り広げられている。
そして、同じく当事者ではあるが現段階では全くすることのないラヴィニアは、相手がこちらに意識を向けていないのを良いことに件の皇帝のじっくりと観察していた。
(……ふぅん。噂通り、線の細い美青年ね)
けぶるような金髪と澄んだアイスブルーの瞳の持ち主たる彼は、一見すると皇帝にしては儚げに見える。しかし、その中性的な美貌に不釣り合いな意志の強そうな双眸が、彼がお飾りの皇帝ではないことを表しているようだった。
まあ、毎夜の如く一筋縄ではいかない男達を相手にしているラヴィニアにとっては、アシュリーなど気位の高いお子様にしか感じられないが。
「……おい。何を見ている」
そんな、ラヴィニアの不躾とも言える遠慮のない視線に耐えかねたのか、アシュリーがムッとした様子を隠すことなく問い掛けて来た。
「無作法で申し訳ありません。誉れ高き皇帝陛下のご尊顔を拝見でき、恥ずかしくも舞い上がってしまいました」
自分に全く怯むことなく艶やかな笑顔と共に言葉を返して来た彼女に、思わずアシュリーの方が気圧されてしまう。
「……っ、な、何を言われようと私は貴女と夜を共にするつもりはないっ!」
「へ、陛下……」
「イーノス、お前は黙っていろ!」
こちらを厳しい表情で睨みつけるアシュリーと、その横でオロオロと視線を彷徨わせるイーノスを見比べながら、ラヴィニアは内心苦笑する。
(可愛らしい人達。……これじゃあ、私の出る幕はなさそうね)
別に、ラヴィニアとて皇帝の貞操などという面倒臭そうなモノを奪いたい訳ではない。ただ珍しいお願いに興味を引かれて来ただけなのだ。
「では……」
――私は必要ないみたいなのでお暇します。
そう言おうとしたラヴィニアを遮るように、アシュリーが叫んだ。……普段の彼であれば決して口にしないであろう言葉を。
「娼婦などと汚らわしいっ!」
「…………」
「陛下っ!!」
「イーノス、早く彼女を追い出せ。……それと、お前もしばらく私の前に姿を見せるなよ」
「そ、そんな……」
アシュリーは自分の言葉に力無く肩を落とすイーノスを一瞥し、娼婦など見たくもないと言わんばかりにラヴィニアから視線を逸らす。
「……随分な嫌われようですね」
そんなアシュリーの態度にも、ラヴィニアは動じることなくそうポツリと言葉を返した。
「当たり前だろう。……自らの身体を売り物にする女など、最悪だ」
娼婦という仕事をしていると、この手の侮辱は日常茶飯事……とは言わないまでも、耳にタコができる程度には言われ慣れている。
アシュリーの吐き捨てるような台詞に傷付くような繊細な心を持っていたら、“夜の華”とまで謳われる高級娼婦は務まらないのだ。
だから、別に特別腹を立てるようなことではなかった。なかったのだが――。
「気が変ったわ。さあ、陛下。私が女の良さを優しく教えて差し上げましょう」
そう言って、ゾッとする程美しい笑みを浮かべてみせたラヴィニアは、身体一つで生きていく覚悟もない男に好き勝手言わせておく気もなかった。
◇◇◇
状況に付いて来られないらしいイーノスを笑顔で部屋から追い出したラヴィニアは、熟練の戦士も唸るであろう手管で華麗にアシュリーを近くにあった長椅子へと押し倒していた。
「なっ、何を!?」
さすがの皇帝も、白昼堂々自分の私室で襲われる(性的な意味で)とは思ってもいなかったのだろう。先程からも冷静とは言い難かったが、今は完全にパニックになっている。
自分の下で情けなく藻掻くアシュリーを見下ろしながら、ラヴィニアは獲物を甚振る猫のような顔で笑ってみせた。
「ハジメテが長椅子の上っていうのも、即物的で悪くないでしょう?」
「ふざけるな!! ……くっ、早く私の上から退いてくれ」
最高級と思われる長椅子は大きさもスプリングも申し分ない。押し倒すには十分だが抵抗するには狭い大きさは何かの悪意を感じるほどに絶妙だ。本来なら心地良く身体を沈み込ませてくれるであろうスプリングも、今はアシュリーを優しく受け止め彼の動きを封じるのに一役買っていた。
「やめろ! 脱がすな!!」
ラヴィニアは、一体どんな魔法かと思うような早業でアシュリーから服を剥ぎ取っていく。ただ、彼にとって幸運だったのは着ていたのが政務用の服だったことだろう。上着にベストにシャツに……と、着るのも脱ぐのも面倒な代物なのだ。
「本当に嫌なら全力で抵抗してみたら? 純粋な力なら陛下の方が強いはずよ」
「……っ、ち、力が入らない!?」
まともに力を込めることのできない状況に愕然とした表情を浮かべるアシュリーに、ラヴィニアはニッコリと微笑む。
「ごめんなさいね。私、寝技が得意なの」
15のときから娼婦として客を取ってきたラヴィニアにとっては、アシュリーの抵抗など問題にもならない。
「……衛兵を呼ぶぞ。外にはイーノスもいる」
「あら、私は構わないわよ? 皇帝陛下ともあろうお方が、娼婦如きに襲われて碌に抵抗もできない……なんて姿を見られたってね」
「……っ!」
この程度の脅しに顔を強張らせるあたり、まだまだ未熟だ。
彼は隠し持っている短剣をラヴィニアに向けることもできるし、彼女の言葉など気にせず大声を出すこともできる。仮に衛兵に事情を聞かれたところで、言い訳のしようは幾らでもあるのだから。
(こんなに単純……いや、素直で皇帝としてやっていけるのかしら)
襲っている張本人ながらアシュリーの今後に不安を抱いてしまう。まあ、彼からすれば大きなお世話だろうが。
「?」
ベストを脱がせたところで、ラヴィニアはふと違和感を感じた。
「おい! 本当にやめろ!!」
「…………」
「私に触るなっ!!」
往生際悪く暴れ続けるアシュリーからベルトを奪い、シャツのボタンを黙々と外していく。この段階で、すでにラヴィニアは先程の違和感の正体に気づいていたが、彼女がその手を止めることはなかった。
「……っ」
すべてのボタンを外され、完全に前が肌蹴てしまったアシュリーは苦しげに唇を噛む。彼の瞳が微かに潤んでいるように見えるのはラヴィニアの気のせいだろうか。
自分の下にある身体を見下ろし、ラヴィニアは彼女にしては珍しいことに一瞬その言葉を口にすることを躊躇った。しかし、今さら見なかったことにする訳にはいかない。
何より、当のアシュリー自身がラヴィニアが彼の秘密に気づいたことに気づいてしまっている。
(……ホント、予想外のことばかり起こるわね)
頑なに自分から顔を背けるアシュリーの耳元に、ラヴィニアは囁くような声で問い掛けた。……決して、他の誰にも聞こえないように。
「ねえ、陛下。アナタ……女なの?」