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小さな世界の約束

作者: 秋澤 えで

七時五十分、いつものように少しだけ早く学校につき自転車を停めた。自転車置き場をぐるりと見渡すと一台としてほかに自転車は停まっていなかった。教師の乗ってくる車もなく、もしかしたら昇降口が開いていないかと危惧したが扉は何の抵抗もなく開き、少々拍子抜けするが開いているに越したことはない。


履きつぶされた運動靴を下駄箱に突っ込み上履きを履く。まだ春先のため上履きの冷たさに顔を顰めた。ぺたぺたと廊下を歩く音だけが響く。誰の声も物音もしない。気にせず二階の教室へ向かう。踊り場に飾られた美術部の大きな油絵をなんとなしに見た。


「勿体ないな……。」


誰に言うでもなく口の中でつぶやく。毎日学校に来るたびに見る絵でなかなか気に入っていた。画面いっぱいの緑。森に降り注ぐ光と手前に止められたバイク。そっちの方面については詳しくないから構図がどうとか画法がどうとかなんて分からないがなんとなく好きだった。

止めた足を再び動かし二階の端にある二年八組の教室へ向かう。白い床が少し黒くなっていてしっかり掃除しろよ、と思うが今月の廊下掃除の当番が自分だったことを思い出し見なかったことにする。


がらりと扉を開ける。どの机にもまだ鞄が置かれていない。時計の針は八時を指す。この時間なら吹奏楽部や弦楽部が朝練で来ているのだが今日はその様子が見られない。朝早くにきて勉強を始めている室長も今日はいないようだ。どさりと机の上に荷物をおろし、期待はしていないが携帯で今日の時間割をチェックし、教科書を机の中へ入れていく。時間になるまで、そう思い鞄から本を取り出す。先週までテスト週間だったため読んでいない本がたまってしまったためできるだけそれを消化してしまいたいのだ。


黙々と文庫を読み進める。耳に入る音は時計の秒針の音だけ。無意識に120のテンポを足でとっていた。

その限られた音だけで構成された空間に音が増えた。どこからか聞こえてくる階段を踏む音。だんだんとそれが大きくなる。どうやらこちらへ近づいてきたようだ。


「ぎりぎりセーフっ!遅刻じゃないよね!?」


後ろのドアが荒々しく開けられ女子生徒が飛び込んできた。それに促されるように時計の方へ眼をやると八時四十三分。STの時間が八時四十分からだから彼女は遅刻だろう。もっとも、もはやそれを記録する教師はいない。


「あー良かった!皆勤賞狙ってるんだもん!危なかったー。」


ね?と言ってこっちに話を振ってくる。

やたら大きな独り言だと思っていたが、どうやら僕に話しかけていたらしい。


「そう……。」

「えー?リアクション薄いなあ、もう。もうちょっと何か話してくれても良いんじゃない?」


僕の返事がお気に召さなかったらしく、文句を垂れながら僕の前の席の椅子に乱暴に腰をおろした。


「そこは山本の席だよ。」

「知ってるよ。あの野球部の坊主くんでしょ?でも今日は休みみたいだし、今日くらい山本君だって席を占拠されたことくらい許してくれるよ。」


ねー山本君?なんて彼女には見えているらしい山本に話しかける。山本が休み、ではなく、きっとこの高校で今日登校してきたのは僕とこの彼女だけだろう。


「ねえねえ聞いて!今日登校中にね、白い猫と黒い猫と茶色い猫が並んで日向ぼっこしてたんだよ!私が近づいたらみんな逃げちゃったんだ。」


写真見る?なんて僕にスマホの画面を突き付けてくるが、今僕のすべきことは鞄の中に入っている文庫四冊を十二時までに読み切ることなのだ。反応を返さずただページを捲った。

そんな僕の様子にも懲りることなく目の前の彼女はぺらぺらと取り留めもないことを話し続ける。昨日はドラマが時間通りに放送されなかったとか、登校中に車が通ってなかったから道路の真ん中を自転車で走ったとか。心底どうでも良いうえに集中できない。

ふと思い立ち、文庫を閉じて鞄を肩にかけ立ち上がる。


「ん?どうしたの?帰るのー?」

「帰らないよ。君がうるさいから移動するだけ。」

「えーヒッドーイ。釣れないなぁ。」



再び文句を言う彼女をそのままに教室からでる。


ぺたぺたという足音が廊下に反響するのをどこか心地よく思った。この世界で僕一人だけ、だなんて中二くさいことは言わないがなかなか悪くない。先ほどの油絵を横目に階段を上る。そういえば去年三階の踊り場に飾られてた海の絵もよかった。限りなく藍に近い青から白い光へのグラデーションがすごく好きだった。もしかしたら僕は原色と光の白が使われていたら何でもいいのかもしれないなんてひとりご散る。階段を上っていくと四階の階段から上へ続く階段を遮るように置かれたカラーコーンを見つける。カラーコーンがあるだけで抑止力があるんだからすごいよな、と思うが今の僕に抑止力なんて働かず赤いカラーコーンをスルーし屋上への扉に手を掛けようとした。が、また後ろから足音が響いてくる。


「……なんでついてくるの。」

「だって、一人じゃ暇なんだもん。」


先ほどの彼女がまた僕の目の前に現れ、僕は思わずため息を吐いた。彼女がうるさかったからここへ来たのにこれじゃあ何の意味もない。


「屋上に入るの?」

「ああ……。」

「でも屋上って確か鍵かかってるよね。」


金属のノブを回そうとするとガチャ、と途中で止まってしまう。おそらく職員室に行けば鍵があるだろうが職員室は二階の新館校舎。ここは旧館校舎の四階。取に行くのはいささか面倒くさい。携帯を取り出し時間を確認する。少しだけ目に痛い液晶は九時十四分と点滅させていた。十二時まであまり時間がない。

鍵を取りに行くにはちょっと時間が惜しい。

ふと鞄の中にいるガムテープの存在を思い出した。

鞄からガムテープを取り出し、屋上のドアの窓ガラスに貼り付けていく。


「……え、なにしてるの?」

「ガムテープを貼っている。」

「いや、まあ、うん……。」


後ろから困惑した声がするが知ったこっちゃない。全面にガムテープを張り付け終えるとなかなかの出来だった、隙間なく貼りつけられたことに満足感を覚えながら鞄から取り出した手袋を念のために右手にはめておく。


「邪魔だから下がって。」

「う、うん。」


後ろにいる彼女は不安そうだが好奇心に満ちた目でこちらを見ている。今から僕のすることが彼女の好奇心を満たすほど愉快なものかは僕には分からない。

右手を振りかぶり力任せに窓へ拳をぶつける。バキャ、と鈍い音を立てて割れたガラスが屋上の床に落ちる音が聞こえた。どうやらうまくいっているようだ。先ほどと同じ要領で全面に拳を叩きつけていく。背中から「うわっアグレッシブ……。」なんて声が聞こえたが気にしない。


すべて割り終わったと思われる頃に残ったガムテープを剥がしていく。うん、我ながら綺麗に割れたと思う。ただ叩きつけていた右手がじんじんした。明日には青黒くなってるかもな、なんて思考がよぎったので思わず苦笑いした。


残ったガラスをガムテープで除去してガラスのなくなった窓の桟に足を掛けて屋上の床に足をつけると足元でパキャ、という音を聞き今は温まった上靴に心の中で礼を言った。足元から周りへ視線を移す。


高校の屋上に上がるのは初めてだ。床は愛想のない灰色のコンクリート、意外にもフェンスなどはなかった。まあ誰もここへは来ないから当然だろう。まだ少し冷たい風が頬を撫でた。空は午前中だからかあまり蒼くなく、千切れ雲が浮かんでいた。雲があるが快晴といっても問題のない空模様だろう。


すこししんみりしていると後ろからがたがたと音がする。ドアに目を向けると上半身だけ窓から突っ込んだ女子生徒がいた。じたばたとあがいているので放っておこうかとも思ったが、彼女が頭から落ちた場合床のガラス片に突っ込むことになり、大変グロッキーかつスプラッターな光景が繰り広げられるのを想像しため息を吐いた。そして僕の予想通り頭から落ちそうになった。


「ちょ、ちょっと助けてメガネくん!」

「……はあ。」


流石にこんな日にそんなグロッキーなものを見たくないので片手をつかんで無理やり窓から引き摺り出し片手で体を支えてやった。


「いったたたた!ちょ、お腹が痛い、窓の桟がおなかにっ!」

「……。」

「なんとか言ってよう!」


やかましい荷物をなんとか回収したが一瞬後悔しそうになる。うるさい。


「……ねえ、女の子とこんな体密着してるんだから顔を赤らめるとかなんかリアクションないわけ?」


よくよく引き摺り出した今の状況を見ると左手は彼女の右手首に、右手は彼女の腰に回っていた。


…………。


「……ハンッ。」

「笑われたっ!?とりあえず馬鹿にされたことはわかったよ!」

「ていうよりなんで頭から窓に突っ込んだのさ。」


彼女の前に僕は足から窓にかけたのに彼女は何故が両手から入ろうとしてきた。


「だって私スカートだし。」

「安心したほうがいい。誰も君のスカートの中に興味なんてないから。」

「辛辣!そういう問題じゃないの!」


ぎゃあぎゃあと喚き散らす彼女にやはり放っておくべきだったと思った。やかましい。


相手をするのが面倒になり、給水塔の側面に背をもたれさせ鞄の中からさっきまで読んでいた本を取り出す。しまった、しおりを挟むのを忘れていた。パラパラと目を通し、読んでいたところを探す。


ほんの数秒前まで僕に対して何やら言っていたが、彼女は初めて来た屋上に大喜びで駆け回っている。うるさいのは変わらないが教室よりもましだろう。ちらりと右手に目を向けると中庭を見下ろすことができた。去年も今年の体育祭も中庭でサボっていたなと物思いに駆られる。中庭の中心には大きな木が立っていて、その木を取り囲むように低いベンチが設置されている。体育祭の時もクラスマッチの時もあのベンチで本を読んでた。イベントごとの時は校舎に鍵がかけられるうえに教師の見回りもないため最高のサボりスポットだ。図書館裏の垣根の元も悪くはなかったが如何せんベンチや階段がなく、地面に直接腰を下ろして本を読んでいたら腰と首が痛くなってしまったためそれからは専ら中庭だ。秋の体育祭のときの中庭はこの上なく居心地がいい。誰も来ないし残暑のじりつく日差しも大きな木の葉っぱたちが遮ってくれる。唯一の欠点といえば、何時間もいると太陽の位置が変わって日陰から日向へ強制移動されるため数時間おきに座る位置を変えなくてはいけないことだろう。

来年もそこでサボるつもりだったが、


「残念だ……。」


「何が?」



ほとんど無意識のうちに唇から転がり落ちた言葉に彼女が耳ざとく反応する。



「君には関係のないことだよ。」

「えー、なんか面白いこと話してくれない?」

「別に、何で僕が君を楽しませなきゃいけないの?……それから当然のことのように僕の隣に座らないでくれる?」



よっこいしょ、と女子高生らしからぬ声を出して僕の隣に腰掛けた。これじゃあわざわざ屋上まで来た意味がない。



「まあまあ、細かいこと気にしてると長生きできないよー?」

「笑えない冗談だね。」



へらへらと笑いながら背負っていたピンクのリュックサックから物を取り出し始める。ばかばかしいと思いながらも彼女のリュックサックに目がいってることに呆れた。



「じゃーん!スマフォ!それからお菓子!やっぱ板チョコは外せないよね?素材の味してこそだもん。あとはロープにサバイバルナイフ!」



前半の娯楽用品から一変して不穏なもの、むき身のサバイバルナイフが出てきてギョッとする。



「サバイバルナイフとロープなんて何に使うんだい?」

「あれれ、興味持っちゃった?」



途端に調子に乗り出す彼女に見なければよかったとほぞをかむ。再び僕は文字に視線を落とすが彼女は機嫌を損ねた風でもなく得意げに話す。



「逃げるんだ。いざとなったら脱出するために必要なんだよ。」

「逃げるって、どこに……。」

「ふふふ、それはいざというときのお楽しみだよ!」



けらけらと心底愉快そうに声を上げた。そして既にほとんど中身を失いペタンコになっているリュックサックを物色する。また気づかないうちに目を奪われた。



「さらに今日の主役!そう、このラジオ!!」



思わず目を見張る。黒くて可愛げのない武骨なラジオ。それはここ最近に買われた風ではなかった。



「それ、聞けるの?」

「うん!だーいじょーぶ!ちゃんと今日も放送してる根性のあるラジオ局もあるみたいだから!」



にやっと笑いそれを隣に置く。どうやらまだスイッチは入れないらしい。



「いつスイッチはいれるの?」

「今でしょ!って言いたいところだけど、これは十二字三十秒前に電源を入れようと思ってるよ!」

「君、顔に似合わず、なかなか乙なことをするね。」

「顔に似合わずっていうのは聞かなかったことにしておくよ!」



リュックサックから取り出したスナック菓子の包装をべりっと破り軽快な音を立てながらそれを食べる。それをしり目に僕はまた文庫に目を落とした。左下を見れば、あと二十ページほどで終わりそうだ。せっかくのクライマックスだがまったく読書に集中できなかった。こんなことなら今日は学校に来ないで家で本を読んでいればよかった。パラりとページを捲ると薬指が紙でスパッと切れてしまった。紙で切ると地味に痛いんだよなと、うんざりする。切った直後はよかったが、じっと切り口を見ていると血がにじんできた。するとさっきまでスナック菓子を隣で貪り食っていた彼女がばんそうこうを差し出してきた。



「痛いでしょ?使っていいよ!」

「……ありがとう。」



普段ならこの程度の傷は放っておくが僕は気まぐれにその手からばんそうこうを受け取った。薬指にそれを丁寧に張り付けると心なしか痛みが和らいだ気がした。



「いやあー、良いことをするって気持ちがいいね!」



傷をふさぎまた僕は黙々と本を読み進めた。しばらくして目の前にあとがきの文字が飛び込んできた。最後まで読み切ったがあまり印象に残らなかった。結構好きな作家の最新作だが、僕はやはりデビュー当時の方が好きかな、とひとりごちて本を鞄の中に戻す。


ポケットの中から携帯を取り出し時間を確認する。まぶしい光は十時二十二分を示している。十二時まであと二時間もない。すると隣の彼女は僕の方へ身を乗り出してきた。



「へえ!メガネ君はまだガラケーなんだね。」

「今更買い換えてもどうしようもないからね。」



彼女の視線から避けるようにパチンと携帯を閉じる。もう一度もたれかかった給水塔は少しだけ温かった。



「じゃあ僕も今から何か良いことでもしようか。」


すると彼女はきょとんとして僕を見る。


「何するの?砂漠に行って植樹でもする?アフリカの難民の子供たちのために募金でもする?」

「そんなたいそうなことはしないよ。それくらいで何か救えるわけじゃないからね。」



そういうと彼女はつまらなそうにふーん、と伸びをした。



「だから今から君のおしゃべりに付き合ってあげるよ。暇つぶしに。」



また彼女は心底不思議そうに僕の顔を覗き込む。



「え、それが良いこと?君との暇つぶしのおしゃべりが良いこと、に含まれるとでも?自意識過剰?」

「突き落とされたいの?」

「あははは、まっさかー!」



楽しげにじたばたと足を動かす。踵がコンクリートにぶつかって痛そうだがどうでも良いことなので特に何も言わなかった。


隣の彼女を倣うようにグッと背筋を反らして空を仰いだ。空に漂っていた浮浪雲は既に姿を消して、白っぽかった空は少しだけ青みを増していた。



「それで何を話してくれるのー?」

「さあ、何にしようか。」



離そうとは言ったものの全くと言って話すことがない。僕は生来人と話すことが苦手だし、そう愉快な性格をしているわけでもない。それにどう考えても僕と彼女の趣味は合わないだろう。友達の少ない僕に対し、、彼女はいつもクラスの中心で笑っているタイプだ。全く持って真逆、住む世界が違うとでもいうのだろうか。もっとも僕は僕が気に入っているから羨ましいとも思わない。



「ところでさ、さっきから気になってたんだけど、何でメガネくんは私のことを名前で呼ばないの?」



話題の見つけられなかった僕に対する気遣いかそれともあくまで自由を貫く彼女のスタンスかは分からないが、彼女から僕に話を振ってきた。おそらく後者だろう。



「それは君が君だからだ。別に君のことを君といっても支障はないだろう。」

「いやいやいや、そうじゃなくてさ。そうだとしても別に私のことを名前で呼んでも問題はないでしょ?」

「ある。僕は君の名前も苗字も知らないから。」

「ええっ!知らないの!?私たち一年間同じクラスだったよね!?」



身を乗り出して嘘でしょ!?、とでもいうように僕に詰め寄った。知らないものは、知らない。



「別にクラスメイトの名前を知らなくても大した支障はないから。」

「そういう問題!?……寂しすぎる青春だねー。」



驚愕したのち、まるでかわいそうなものを見るような目でこちらに視線を向けてきてちょっとムッとした。僕のことなのだから人にとやかく言われる筋合いはない。



「じゃあ君のいう青春ってのはいったいなんなんだい?」

「そうだねぇ……。」



ちょっと考え込むように右手を顎に当てる。まじめそうに見せたいのかは分からないが口元がゆるゆるなため全く格好がつかない。




「毎日部活で汗水たらして部員と仲を深めて、教室で友達とくだらないことを話して、たくさん遊んでたくさん恋して、やりたいことを考えなしにすること、それが青春だよ!」



言い切った、とでもいうように僕の方へ指を突き付けてくる。納得がいったような、いかないような……。



「とりあえず、僕には到底できそうになかったことだってことは理解したよ。」



後先考えずに楽しみに身を任せるだなんて僕にはできそうにない。きっと残りの高校生活一年を使ったとしても僕にはそんな『青春』は送れなかっただろう。



「君はその青春を満喫したの?」

「んーしたんじゃないのかな。たぶんメガネくんよりかは健常な青春を送れたと思ってるよ。」

「ところでさ、君は僕のことをメガネくんって呼ぶけど、僕の名前知ってる?」

「知らなーい。……ねえねえ、私の名前知りたいとは思わない?」


「別に。だって今更君の名前を覚えたところで何の意味もないし、君が僕の名前を覚えたところで何の意味もないでしょ。」

「もうちょっと興味持ってくれてもいいんじゃないの?」

「じゃあ、君は僕の名前を知りたいとか思うの?」

「思わないかな!」

「つまりはそういうことだよ。」



途端に妙な心地がした。


この屋上に二人だけという状況。それなりに広い屋上なのにあえて僕らは手を伸ばせば届く距離に座っている。この限られた世界には僕とこの彼女しかいない。


しかしこの彼女は全くの赤の他人だ。けっしてウマが合うだなんて言えないしタイプだって全然違う。一年間同じ空間で過ごして決して遠くない距離であるのに、名前も知らないというひどく遠い距離。きっと普段の生活を送っていれば関わりあいを持たないであろう赤の他人なのにお互いの興味もなくおしゃべりをしているのは今日が今日という日であるからだろう。



「ねえねえメガネくん、誕生日はいつ?」

「……興味なかったんじゃなかったの?」

「うん、全く興味はないよ?でもどうせ十二時までなんだからそんな話でいいんだよ。くだらない話から暴露話までさ!」



彼女は猫のキャラクターのカバーを付けたスマフォを僕に見せた。今の時間は十一時十分。ついに十二時まで一時間を切った。

なんでも来い!とでもいうように胸を張る彼女を適当に見やる。



「じゃあ十二時になるまでお互いに質問でもしようか。自分でした質問には自分も答えるってことで。」

「あはは、悪くないねぇ、それ。」


「誕生日は十二月十四日。」

「私は七月八日!」


「血液型は何?」

「O型!」

「見るからにそうだね。僕はA型。」

「それはメガネくんも一緒だよ。見るからに几帳面そう。」


「好きな食べ物は?」

「……カレーライス。」

「意外だね、和食かと思った。私は、んーアイスクリームかな。」


「趣味はある?」

「カラオケとあとはバスケかな?部活だから趣味じゃないかもだけど。」

「読書、くらいだね。」

「あー、メガネくんはいつ見ても本読んでるもんね。」


「彼女はいる?」

「いるように見える?」

「見えないかな!」



けたけた笑う彼女にはおそらく一切の悪気はないのだろう。まあ欲しいと思ったこともないので特に思うところもないのだが。



「君は?」

「いるよー。たぶんメガネくんも知ってる人!」

「へえ。」

「もうちょっと興味持とうよ……。同じ八組で前期の室長やってた八坂くん。」


頭の中で記憶をひっくり返して八坂君とやらを探してみる。名前は聞いたことがあるが残念ながら顔は思い出せなかった。ただ確かサッカー部だった気がする。彼の黒いエナメルバッグに**高校蹴球部という刺繍がされていたのを思い出した。


しかし不思議に思うことがある。



「じゃあなんで今日はその八坂くんと一緒にいないんだ?今日を過ごすなら学校へ来て名無しのクラスメイトと駄弁るよりも彼といる方が有意義じゃないの?」

「甘いなーメガネくん。砂糖とミルクを飽和状態になるまで入れたコーヒーよりも甘いよ。」

「いまいちピンとこない例えだね。」



コーヒーよりも紅茶派の僕にとってコーヒーはあまり馴染みのない飲み物だ。ゆえに彼女の指すコーヒーがどれほど甘いのか想像が及ばない。



「それだから彼女ができないんだよ。男女の関係はそんなに甘いもんじゃないよ!」

「余計な御世話だね。……でも普通今日くらい恋人同士で過ごしたいと思うものじゃないの?」



彼女の言う通り僕には男女の機微というものが全く分からないが、一般的にいって今日は家族や恋人とともに十二時を迎える人が多い気がする。



「甘ーい!現実はそんなに甘くないよ!私の愛しの八坂君は先週この美少女をフッて年上の女子大生と駆け落ちしちゃったんだから!」

「それはまた苦いね。ご愁傷様。」



いやはや苦いものだ。つい先週に彼氏に振られるだなんて。なお美少女を自称するのも相当苦い。



「自分で聞いといて適当な返しだなあ。ところでメガネくんは私と付き合う気ない?」

「ないかな。君もまさかあるとは思ってないでしょ。」

「まあね。私もお断りだよ。」



自分から言ったくせに随分と失礼な物言いだ。改めて顔をまじまじと見てみる。黒目がちの二重の目、スッと通った鼻筋。全体的にはっきりとした目鼻立ち。美少女というのは言い過ぎだが、割と整った顔なのかもしれない。



「なになに、じっと顔見ちゃって。何、惚れちゃった?」

「安心して。君の思ってるほど世の中の男性は君に興味ないよ。」

「はははは、きついなー。じゃあメガネくんの好みはどんな子?あ、好きになった子が好みとか、ぶりっ子みたいな答えは求めてないよ。」

「さあ……。しいて言うなら物静かで僕の邪魔をしない子。」

「邪魔しないって……それ別に彼女いらなくない?」

「僕がいつ彼女が欲しいなんて言った?」



適当に受け流してまた携帯を開いて時間を確認する。


十一時二十九分。目の前で数字は十一時三十分に変わった。一日にこれだけ携帯を触るのは初めてかもしれない。



「十二時まであと三十分だよ。」



念のため彼女にも時間を伝えておく。



「これまでの十七年間は結構長く感じたけど、今日の時間の流れは一段と早く感じるね。」



彼女の感慨深げな言葉に無言で同意する。



「楽しいときは時間が早く進むっていうけど、これから嫌なことが起こるときも早く感じるものだね。」

「ね、メガネくんにとってこれから起こることは嫌なことなの?」

「少なくとも楽しいことではないね。家にはまだ読んでない本があるし、来月は好きな作家が新作を発表する予定だった。」



僕の本棚で置き去りになった本と、持ってきたものの読まないことを決定した鞄の中の本を思い浮かべる。結局僕の頭の中の八割は本でできているのだろう。



「僕だけじゃない。たぶん世界中の人間のほとんどが嫌なことだと考えてるんじゃない?今日という日が来るってことが決まってから世界中で自殺者が出たってニュースを聞いたし、せっかくだからってことで革命をおこしてる国民だっているくらいなんだから。」

「だねー、それに比べると割と日本は平和だよね。友達の家族とかは逃げるって言って北海道やアメリカに行ったりしてたけど。」



それを聞いて呆れると反面羨ましく思う。それは随分と平和でかつ楽しそうだ。



「逃げるってそんなの意味ないのに。」

「さあ、逃げたかったのは今日っていう日じゃなくて現実だから別に良いんじゃない?」



思ったより乾いた返答にクスリと笑う。どうやらこの女子生徒は当初、今朝僕が思っていたよりずっとおもしろく興味深いのかもしれない、なんて。



「君は逃げないんだね。怖くはないの?」

「怖くは、ないかな。諦めてるのかもしれないね、私は。」



ポツリと呟かれた言葉は僕のへの返事のようでもあり、独り言のようでもあった。



「どうせ逃げられないし。」

「どうして今日学校へ来たんだい?家で家族と過ごしてもよかったんじゃない?」

「父親は小さいころに死んだし、母親は先月失踪した。」

「君のこの一か月はどうにもツイてないみたいだね。」

「ねー、全くだよ。一人家で十二時を迎えるよりも、逆にいつも通りの生活をした方が面白そうじゃない?日常のはずなのに抗いがたい非日常を体験するなんてなかなかない経験だよ。」

「確かに、それは乙だね。一生かかっても体験できないかもしれないレアな経験だよ。」



お互いに興味も何もないことをしゃべっていると、少し日が陰った。ほぼ天辺に存在する光は、少しづつ輝きを失っていくようだ。



「噂では聞いてたけど、本当に今日なんだね。」

「信じてなかったの?」

「そういう訳じゃないけど……。」



彼女はわきに置いてあった空のスナック菓子のゴミを丸めてリュックサックの中にしまい、手にスマフォを握っていた。



「十一時四十一分。あと少しだよ。」


「ラジオの電源、暗くなっても付けられるように確認しておいてね。」

「オッケーオッケー。ばっちしよ!」



黒いラジオのアンテナを空に向けて立てた。



「ねえねえ。今からオセロしない?」



突然の誘いにぽかんとする。



「オセロって……ボードも駒もないだろ?」

「ちっちっち、最近のアプリはすごいんだよー?二人でオセロのできるアプリを取り込んでありマース!」



僕の返事も聞かぬまま器用に画面を弄ってオセロの緑色のボードを表示させた。暗くなり始めたここで、スマフォの光はひどく浮いていた。


特に断る理由もないので、コンクリートに置かれた彼女のスマフォの目の前に座り、彼女と向き合った。



「私が黒ね!先攻いただきまーす。」



無音で緑のボードの上で黒い駒が置かれる。白い駒は二つ、黒に色を変えた。僕も白い駒を置くと黒が白に色を変えた。ほとんど光を失ったこの世界で、オセロの白はあまりにまぶしかった。



「あのさ、日本は今すごく暗いけど、地球の裏側の国じゃあいつもと変わらない夜なんだよね。」

「ああ、そうだね。」

「それはすごく幸せなことだと思わない?」

「……どうして?」



少しずつ、緑色のマスが埋まっていくのと同じように十二時までの時間も減っていく。



「だってさ、昼間の日本だとこうやって暗くなったりする兆候があるけど、地球の裏側はいつもと変わらない一日なんだよ?何も知らないで眠りにつくんだから。」

「それは幸せなのかな……。逆に聞くけど、君は今不幸せなの?」



真っ暗のこの世界で今光を持つのは僕らに挟まれた小さく薄い箱だけ。それがひどく世界を小さく感じさせた。



「んー、難しいね。幸せっていうほどじゃないけど不幸せってほどでもないよ。思ったより怖くも悲しくもないかな。みんなが泣き叫ぶからどんなものかと思ったけど。」

「……今の気分は?」

「そうだねー。悪くはないかな?なんか良いと思わない?名前も知らないクラスメイトと一緒にこの大切な?重大な日を迎えるなんてさ!」



けらけら笑い、黒の駒を置く。ああ、そんなところに置いたら僕に角を取られるのに。



「ああ、それには同意するかもしれない。甲とも乙ともいえないけど。大切な人と過ごすのが甲で、一人で過ごすのが乙とするなら、今の僕らはさしずめ丙なのかもね。」



角に白い駒を置くとぱたぱたと裏返りボードが白に侵されていく。


ボードの端に表示されたままの時計に目をやると白い文字で11:58と表示していた。



「ねえ、あと一分だよ。ラジオの準備しなよ。」

「ああ!ありがと、危うく忘れちゃうところだけだった!」



隣に置いてあったはずの黒いラジオに手を伸ばしているが、闇にとけきったそれは目で確認することができなかった。ようやくそれを手探りで見つけたようでガチャガチャとそれを弄り始める。


彼女の動きを空気で感じながら僕はポケットに手を突っ込み携帯を取り出し秒数を確認する。



「十一時五十九分二秒。」

「準備できたよ!三十秒になったら言ってね!」



携帯を左手に持ちながら片手間でスマフォの画面に指をタッチさせ駒を置いていく。



「今この世界で笑ってる人はどれくらいいると思う?」

「少なくとも僕の目の前にいる人は笑ってるね。」

「じゃあ泣いてる人は?」

「さあ……でも大概の人は泣いてるんじゃない?」



十一時五十九分二十四秒。



「あと五秒、四、三、二、一……。」

「とりゃあ!」



バチッ!と低い音をが電源が入れられたことを告げた。しばらく、ほんの数秒だがガガッ、ガリ、バリ……と音を立てたが無事に目当ての局へつながったらしくホッと息をつく。これで結局繋がらなかったなんていったら格好がつかない。ラジオから流れる声に耳を傾ける。そのメインパーソナリティの声に僕も聞き覚えがあった。しかしいつもの陽気な声ではなく、震えるような、それでいて堅い声がただ数字だけを告げていた。



『二十七……二十六……うぅ二十五……』


「なんか辛気臭いねぇ。」

「仕方ないさ。ここまで仕事をしてくれてるんだからすごいと思うよ。」



パーソナリティのカウントダウンの声の後ろでは、洟をすする音や嗚咽が微かに聞こえてくる。



「これが世間一般の反応じゃないか?絶望しながら涙を流す。」

「うーん、じゃあ私たちが世間一般じゃないのかな?」

「違うんじゃない?僕らは丙なんだから。」



『二十二……二十一……』



スマフォに表示されたボードにはもうほとんど緑は確認できなくなっている。



「あーあ、負けっちゃったぁ。」

「まあこんなものじゃない?」

「馬鹿にしてるでしょ。」



『十九……十八』



勝負がつき、彼女はスマフォを手に取ってカチッとスイッチを切った。この世界に唯一存在する光が、今消えた。



「ねえこれで最後なんだからさ、名前教えてくれない?」



『十七……』



「これで終わりなんだから教えない方がいいよ。僕らは赤の他人なんだから。名前を知ったら知り合いになっちゃうよ。」



『十六……』



「それもそうだねー。私たちは丙だもんね!」



『十五……』



「嬉しそうにいうけど、丙ってあんまいい意味じゃないからね。」



『十四……』



「でも(てい)より良いからいいでしょ!」



『十三……十二……』



「……あと少しだけど、思ったほどの感慨はないね。」



『十一……』



「現実はそんなものだよ。」



『十ッ……!』



「何かの売り文句で『最後まで人類は愛し合っていた』なんて言葉を聞いたことがあるけど、とんだ偏見だとは思わないかい?」



『九……ぅ……』



「あっははは、言えてるかもね。愛し合ってるのは個人であって人類じゃないもんねー!」



『八……』



「さあ、これで終わりだね。」



『七ぁ……』



「ねえねえ、もう一回オセロしない?」



『六……っふぅ』



「普通に考えて間に合わないでしょ。」



『五……』



「じゃあさ、今度会うときに。次は私が絶対勝つからさ!」



真っ暗でもう数センチ先にいる彼女の表情すら分からなかったけど、彼女はきっと笑っていた。



『四……』



「……そうだね。次も僕が勝つよ。でも楽しみにしておく。」



『三っ……!』



「ははっ。次に会うときがあったらさ、」



『二ぃっ……』




「知り合いになってくれる?」




『一っ……ああああああああぁぁああっ!!』





「良いよ。次に会うとき、僕らは知り合いだ。」




静かにカウントダウンをしていたパーソナリティが絶叫する。音質の悪い声が空気を揺らす。


僕の言葉が彼女のもとに届いたかは、僕には分からない。でも届いてるといいな、と思った。


僕が最後に感じた空気の揺れは、僕の発した言葉の所為か、ラジオ越しの叫びか、全人類の嘆きか、僕らに終わりを与えたそれだったのか。


僕らは知らない。


最後の瞬間まで人類が愛し合ってたのかなんて知らない。



愛し合ってる人もいただろうが、運命を呪った人も腐るほどいただろう。

笑ってる人もいただろうし、叫んでいる人も、泣いている人もいただろう。


それぞれがどういう割合だったのかを僕は知らないし興味もない。


ただ僕が知ってるのは最後の時間を迎えた甲でも乙でもない二人の人間は、一つ未来に約束をしたことだけだ。



次に会うとき、次は僕が黒の駒を使おう。そう思った。




日本時間十二時零分、一つの小さな世界が、音もなく消失した。

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