綺麗じゃない
「嫌なんだ」。そう一言つぶやいて、男はあたしを抱きしめる。
あたしは、その男の酒臭い吐息とか、微妙にろれつが回ってない舌とかを、「あぁ酔ってるな」なんて思いのほか冷静に分析しながら、しかし、それらを拒絶することもなく従順だ。
空を見上げると、半紙を墨汁に浸したような闇が、始まりも終わりもなく漠然とあって、そこにぽっかりあいた穴。黄色っぽい光を放出する月が、とても不気味。
大体にして、月の満ち欠けがどう作用して潮の満ち引きに繋がるのか、あたしには全く理解ができない。理解できないからといってその存在がどうでもいいとは思えず、この世のあらゆる現象を左右している神々しい月の、目映い光に照らされていると、あたしの綺麗汚い関係なく全部を暴かれて、裸にされて、挙句の果てには浄化されてしまうのではないかと、そんな気がして、ただ怖くなる。
なのに、この男ときたら、午前様で帰ってくるなり玄関の向こうから大声出してあたしを呼びつけた。
寝ぼけ眼を擦り擦り「帰ってきたの」と問いながら玄関のドアを開けると、突然伸びてきた腕に引っ張られて、サンダルも引っかけないまま戸の外へ連れ出され、老朽化したアパートの、なにかよく分からないシミが点々と、こびりついて落ちないコンクリートの廊下の、丁度、中ほどで抱きすくめられた。
あたしは瞬時に「嫌な酔い方をしているのだ」と悟って、あとはもう、文句も言わずそのままでいる。
この男の大変に面倒くさいところは、酔い方に「いい」と「わるい」があるところで、「いい」酔い方をする日は大抵朗らかに笑って、あることないことを全部許せたりするのだけれど、ひとたび悪い酔い方をすると、ぐだぐだのべろべろになって誰かの支えなしでは立っていられなくなるところだ。
そしてその男に付き合う相手は、いつも、あたしと決まっている。
こんなときこそ「酔った夫の介抱は、後妻の務めでしょうお母さん」と言いたいが、その母は今日もまたどこかをほっつき歩いているがため、言うタイミングさえ見当たらない。
いいや、母というよりあれは多分、雌という名の生き物だ。こういうことになってしまっているのは、きっと、雌の対は雄であるから。
「怖いんだ。嫌なんだ」
一方のその男は、何が何やらわけの分からぬ言葉を吐き続け、それと同時に酒臭い息も吐き続け、こういうときは下手に相手をすると面倒になりかねないと知っているあたしは、適当に相槌を打ち、流したつもりでいる。「つもり」なのは、男が流してくれないからで、あたしは大分うんざりしているのだけれど、男の体温とか、広い胸板とか、きついアルコール臭とかが、「心地よい」の微妙な按配にピッタリなため、妥協を許す。
男はあたしの耳元で、「置いて行かれるのが嫌なんだ」、「お前がいなくなるのが怖いんだ」と囁いて、あたしを抱きしめる腕に一層の力を込めるが、一体その台詞は何処の誰に向かっているのだろう。
「あなたが本当に言うべき相手は、もしや、あたしのお母さんじゃないですか?」と、検討ついているくせに言わないのはやはり、これ以上面倒な事にならないためだ。つまりこれは、父のためではなく母のためではなく、ましてや雄のためでも雌のためでもなく、結局はあたしのため。
それはあたしの中で確かである筈なのに、「けれど、」「じゃあ、」と思う。腑に落ちない疑問が残る。
あたしが父でも母でも雄でも雌でもないとしたら、あたしは一体何なのだろう。あたしの存在が何でもないとしたら、父があたしを求めている理由はやはり、あたしが母の身代わりでしかないからだろうか。
そう思うと、気付かなくてもいいことまで見え始めて、知らなくてもいい感情まで溢れ出して、あたしは何故だか、こんな男を虜にしたくてたまらなくなる。嫌だ嫌だと喚く、健気でいて、情けない男を骨抜きにしたくてうずうずする。
そうすれば、あたしの居場所が一つ、明確化するし、父にとってのあたしが何者なのかもハッキリする。母の居場所を略奪できる。昔、母が、この男の先妻にそうしたように。
そんな不謹慎なことを考えている内、自身に全く意識が向いていないことを目敏く見抜いた男は、あたしの軀をすっぽり覆う長い両腕に渾身の力を込めて「ギュ」と強く締め上げ、あたしの背をえび反りにさせてひどく苦しめた挙句、「ぐ、」と詰まった声まで出させる。
肋骨が軋む音が耳朶を打ったかと思えばそれと共に、胃の積載物が変な具合に逆流し、あたしは男の腕から抜け出そうともがき、両手両足を掻くが効かないばかりか、男を見ると嫌らしくも薄笑いを浮かべており、あたしの全身はゾッとなって鳥肌を訴える。
あたしは色々な意味で涙目。
「分かった、分かったから」と潰れた声で男に哀願し、やっとで腕を緩めて貰って、仕方ない、こちら側から抱きとめる。
大きな男の胸回りは、到底あたしの両腕目一杯でも足りないが、それでも何とか腕を回し、包み込み、一息ついた瞬間、ぶわっと何者かがあたしの胸から噴き出し止まらなくなって、何故だか泣き出したいほどに嬉しくなった。
これは、この感情は、母に対する劣等な優越感で、あたしはとても母に似ている。
「おれはお前を失くしてしまうよ」と、あながち冗談でもない、いやむしろ本気に近い真面目な目を男から向けられ、あたしの肌にはやはりゾワワと鳥肌が走り、しかしそれも案外心地よいというか、嫌がっていない自分にまた仰天し、納得するより早く「うん」といった。「あたしもそうだよ。あなたを失くさせる」と、続けた。
男とあたしは互いに顔を見合わせ、虚ろに笑って、一対の、かけがえのない存在になった気でいる。
そんなあたしを随分向こうから冷静に観察する、もう一人のあたしが脳の何処かにいて、けれどそいつはあたしと同じように愚か者だから、けしてあたしを止めようとはしない。
本当の父親の姿が、まばたきした一瞬瞼の裏に垣間見えて、けれど自力で思い出すのが面倒くさいから途中でやめる。
次は唯一無二の母親が脳をチラつき、その仕草や猫なで声を想像して、吐き気がしたから、思考から追い出す。
あたしは結果、何も考えていないフリで、やはり目の前の男と見詰め合う。
そこには母に捨てられた、あたしの義父であるはずの男がいて、なにでもないこの人の「型」は、ちょうどあたしにピッタリな気がした。
顔と顔とが近付く一瞬、アルコールの匂いがふわりと漂う。おそらく、あたしはこれに毒されているのだ。
あたしたちは老朽化したアパートの、なにかよく分からないシミが点々と、こびりついて落ちないコンクリートの廊下の、丁度、中ほどで唇を重ねた。
月の光が、チリリと肌に痛い。